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個性とはおおむね平凡なものです

 秋葉原の事件がらみで、はてな界隈では「承認欲求」の議論が盛り上がっていた。まあ、あの事件の犯人が本当に承認欲求に飢えていて、それが理由で事件を起こしたのかどうかはさておき、現代社会において承認欲求の問題が重要なことは間違いないと思う。でも、議論をちらちら横目で見ていると、ぼくなんかにはどうもいろいろと違和感を感じる部分があった。

 そもそも、承認という概念自体の定義がはっきりしないことが問題で、多くの人はマズローの欲求段階説を下敷きにしてるみたいなんだけど、この説自体が経験知を図式的に整理しただけで、それほど実存哲学的な深みがあるわけではない。だから、承認の欲求と呼べるものが人間にあるのは確かだと思うが、その細かい心理的なメカニズムや行動への現れ方については、必ずしもマズローが正しいとは思っていない。

 承認の欲求というのが、個として認められたい欲求だというのはその通りだと思うが、問題は、その「個」とは何かということ。ここで思ったのは、厳密には個性と個別性は別物なのに、その区別がついてないことが混乱の元になっているのではないかということである。

 個性という日本語は、現在では、他の人と比べて「変わって」いるとか、統計的な平均値からの偏差が大きいというニュアンスで使われることが多い。しかし、人間は一人一人みな違うというときの「個性」は、かならずしもそのような偏差が大きいことを意味しない。

 たとえば、真っ白い紙にランダムに点を打ち、それを碁盤目状に切り分けて、正方形の紙片をたくさん作ったとしよう。この紙片を1枚1枚仔細に比較すれば、おそらく、どれ1枚としてまったく同じ模様の紙はないだろう。しかし、遠くからぱっと見ただけだったら、どの紙片もほとんど同じように見えるはずである。

 この例でもわかるように、日常用語としての「個性」は、「個」の性質ではない。黒い紙片は白い背景の上に置けば目立つが、黒い背景の上に置けばまったく目立たなくなる。そういう意味で、黒い紙片が「個性的」なのは、白い背景という「全体性」に依存しているのであって、それ単体ではちっとも「個性的」ではない。しかし、後者の意味での「個性」は、全体がどうであろうと「個性」でありつづけるのである。

 実は、心理学用語としての個性(individuality)は、必ずしも日本語の日常用語のようなニュアンスではなく、むしろぼくが例で説明した意味に近いらしいのだが、ここでは混乱を避けるために、前者を「個性」、後者を「個別性」と呼ぶことにしよう。

 この分け方を前提としたとき、ぼくが考える承認欲求の承認の対象は、個性ではなく個別性なのである。言い換えれば、ほとんどの人は平凡な人間にすぎないのだが、にもかかわらず、まったく同じ人間は一人もおらず、一人一人が個別性を持っている。その個別性を愛でることが「承認」なのである。

 わかりやすい例で言えば、昔からよい家族を形容する「苦楽をともにする」という表現がある。最近では、「共に笑い共に誓い共に感じ共に選び共に泣き…」なんてヒット曲もありましたね。

 言うまでもないが、別に誰かが共に笑ったり泣いたりしてくれたからといって、経済的利益があるわけでもなければ、生理的欲求が満たされるわけでもない。しかし、多くの人は、自分が悲しんでいるときに一緒に悲しんでいくれ、喜んでいるときに一緒に喜んでくれる人がいるだけで、ある種の充実感を感じるのである。それはおそらく、自分の感情が「承認」されたと感じ、ひいては、ある意味自分の存在自体が「承認」されたと感じるからであろう。そしてそのためには、「個性的」に泣いたり笑ったりする必要などこれっぽっちもないのだ。

 あるいは、赤ん坊をかわいがるというのもそうだ。赤ん坊なんてのは、育てたからといって経済的な利益があるわけでもなければ、生理的な欲求が満たされるわけでもない。にもかかわらず、多くの親は赤ん坊の一挙手一投足を見て大喜びする。笑ったと言っては騒ぎ、泣いたと言っては騒ぐ。それはこれっぽっちも「個性的」なことではない。むしろ平凡極まりないことだ。にもかかわらず、人はそれを見て幸福感を味わうのである。これもある意味、親と子供が互いに「承認」し合うということであろう。

 「苦楽をともにする」という言い方に先人の知恵を感じるのは、「共通の目的のために協力する」というようなニュアンスとは微妙にずれた言い方をしているところである。実際、婚姻関係や家族関係は、わかりやすい目的を持ち目的合理的に行動するような機能集団ではない。もちろん、家族の「幸福」が目的だと言えないこともないのだが、じゃあ「幸福」ってなんだと言われたら、その正体は必ずしもはっきりしない。その正体が互いの「承認」にあることを見抜いた先人の知恵が「苦楽をともにする」という表現に現れているのではないだろうか。

 ぼくが最も違和感を感じたのは、結局、多くの人が市場価値や狭い意味での功利主義の枠組みで考えていて、承認される対象には市場価値に還元できるような価値がなければならないと思っているらしいことである。確かに、市場というのは本質的に普遍性を指向するので、一般に市場価値を生み出すのは「個性」であるか、そうでなければむしろ画一的な平凡さである。しかし、ある種の関係においては、「個性」ではなくむしろ平凡な「個別性」同士の共振が価値を生み出すことがあるのだ。

 逆に言うと、市場がこういう個別性の承認を提供するのは、おそらく原理的に難しいのではないかと思う。たとえば、金を払うとその人といっしょに泣いたり笑ったりして承認してくれる「有料承認サービス」みたいなものを作ったとしよう。でもよく考えると、そのサービスの「承認」は、金という普遍的価値に対してなされているだけなので、ちっとも個別性の承認にはなっていないのだ。もちろん、擬似的にそういう体験を提供する風俗店のようなものは星の数ほどあるが、ホステスに本気で惚れてしまえば幻滅するのは世の常だろう。逆に言えば、そのこと自体が人間にとっていかに個別性の承認が重要なものであるかを示しているとも言える。

 だから、市場で承認を得ようとすれば、むしろ個の方が普遍性に近づかなくてはならない。もちろん、それに挑戦して名声や権力を得ている人もたくさんいるわけで、そのこと自体を否定する気はない。しかし、それが可能なのは一部の人だけで、万人に心の平安をもたらす仕組みにはなり得ないと思う。現在の日本社会では、そういう「個性尊重」という名の下で行われる普遍化だけが「承認」だと思われすぎたために、本来の個別性の承認が軽視されすぎているのではないだろうか。

 ぼくは、市場経済を否定する気はまったくないが、個人がそういう個別性の承認をえる場は、市場以外の場所に確保すべきであると考える。もちろん、そういう「個別性」が価値を生み出す場というのは、家族関係や婚姻関係だけではないだろう。学生時代の利害関係のない友人関係などもそうだろうし、「あぶさん」的な飲み屋の人間関係だってそうだろうし、おそらく、「社交」と呼ばれるような関係の多くがそうなのではないだろうか。ただ、婚姻関係や家族関係には、そういう場を作るための仕掛けが伝統的に用意されているが、それ以外の場所では、そういう場を作る作法がひょっとしたら失われつつあるのかもしれない。

 実は、ぼくがこういうことを考える際に最も参考にしているのは、前にも言ったような気がするが、山崎正和氏の「社交する人間」である。山崎氏はなぜか一般に保守派と思われてるようなので、この本についても、どうせ伝統的な共同体に回帰することを勧めているんだろうと思う人もいるかもしれないが、まったく違う。むしろ、権力によって支配される組織でもなく、伝統的・情緒的な共同体でもない、第三の人間関係原理として「社交」というものを位置づけることにより、そういう反動を防ごうとしているとさえ言える。

 また、保守派の論客にありがちなひとりよがりなオレ様議論をしているわけでもなく、ちゃんとゲオルグ・ジンメル、フランシス・フクヤマ、マルセル・モース、ヨハン・ホイジンガ、クリフォード・ギアツ、ジェイン・ジェイコブス、アルバート・ハーシュマンなどの著作に依拠した議論をしているので、こういう問題に興味のある方には、ぜひ一読をお勧めする次第。その方が、ぼくの駄文なんかを読んでるより、よっぽど参考になるでしょう(^^)。

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