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ちょっと補足

 ログを見て発見したんですけど、珍しく、ぼくなんかの文章を批評してくれた人がいたようで(^^)。(突然ですます調に戻る)

 ぼくの「芸術におけるアマチュアリズムの意義」という拙文に同意してくださってます。うれしいです。手品の種明かしの意義もそれと同じだというのには気づきませんでした。確かにそうだと思います。

(もっとも、これは以前にちょっと調べて知ったのだけれども、種明かし番組自体は、マジシャンの間でかなり問題になっているみたいで、そこには普通の芸術とは少々異なる微妙な問題があるようです。)

 でも、「「文章読本さん江」さん江」についてはちょっとだけ誤解があるような気がするので、そこだけ補足しときます。

「珍プレイ(好プレイ)集」のような形で、現に1980~90年代のにおいては、その「プロの凡プレイ」の方をこそ、あら探しされ、消費されていた。「せねばならなかった」ではなく、「すでにされていたこと」であった。著者に対してツッコミを入れるならば、その部分であろう。

 この方の論旨を正しく理解している自信は必ずしもないのですが、ぼくの想像では、この方はたぶん、斉藤さんの批判をプロの技術に対する批判ととらえ、ぼくの批判を、それに対する反批判として捕らえたんだろうと思うんです。

 この方が批評対象の「文章読本さん江」を読んだのかどうか、この文章だけではわかりませんが、たぶん読んでいないのではないかと思います。というのも、斉藤氏はあの本の中で、プロの文章技術そのものを批判しているわけでは必ずしもありません。氏が批判しているのは、むしろ、文章読本の著者がプロとアマを分けてヒエラルキーを作るという姿勢そのものなのです

 ぼくが批判したかったのは、このヒエラルキー自体を否定する主張であって、個別のプロに対する批評を批判したわけではありません。個別の作者に対する批評は、当然、プロ・アマ問わずやるべきだと考えています。そうでなければ、どう考えたって矛盾してますものね(^^)。その程度のことにぼくが気づいてないと思われたとすれば少々不本意であります。

 ぼくが言いたかったのは、別にプロを盲目的に神格化しなくたって権威のヒエラルキーというものは自然にできるし、その現象自体を否定する必要もないという、常識的に考えれば、ごく当たり前の話です(当たり前だと思うから少々きつい書き方をしているわけです)。もちろん、「芸術におけるアマチュアリズムの意義」でも、プロとアマの差は厳然としてある、にもかかわらずアマチュアリズムは重要であると言っているわけで、その点で主張は完全に一貫しています。

 だから、

青年期に確信した社会問題が、現に改善のために実践され、行われ、広く受け容れられている現状には鈍感であり、あたかも自分だけ(自分を含めた少数派だけ)が気付いている問題だと強く言いすぎてしまうこと。

というように、時代状況に相対的な批判をしているつもりは、本人的にはありません。もちろん、いまどき権威批判を得々としてやるのもアナクロだなあ、みたいな気持ちもまったくないわけではありませんが(でも、それにしてはこの本って若い子にも評判いいよね(^^))、批判の仕方自体が妥当であれば、それはそれでありだと思っています。

 もっとも、ぼく自身若い頃ポストモダンにかぶれて、そこからモダンに回帰したことは事実ですが(これもどっかに書いてます(^^))、だからこそ、そのへんには気を使って書いてるつもりなんで、そこんとこ一応よろしくお願いいたします。

(でも多分、ぼくの書き方も下手なんでしょうね(^^)。努力はしてるんですけど、まだまだ文章力も足りないし推敲する時間もないんで、生暖かい目で見逃してただきたいところではあります(^^)。)

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