« 2008年5月 | トップページ | 2008年7月 »

これぞ阪神好調の秘密?

 検索してて偶然見つけただけなんだけど、野球を統計的に科学するというセイバーメトリクスの提唱者の一人で、「ベースボール革命―21世紀への野球理論」という本の著者でもあるクレイグ・R. ライトという人が、阪神タイガースに協力しているって Wikipedia の英語版になにげなく書いてあるんだけど、ホントなんすか?(^^)

 もっとも、他の場所を探しても、この Wikipedia のページ(とそれをそのまま引用しているページ)以外のどこにもそんなことは見当たらないので、イマイチ怪しいところもあるんだけど。でも、岡田監督が顔に似合わず(^^)セイバーメトリクスの支持者の一人であるという噂はちらほらあるようだし、本当なのかもね。

 あのバレンタイン監督もセイバーメトリクスの支持者らしいし、これからの野球監督は数学もできないとダメ、みたいな時代になってくのかも知れないね(^^)。まあ、野球マンガとかだと、こういうのは最終的に根性論や精神論に負けることになってるんだけど(^^)。

 そうそう。これはさらに余談ですが、「リスクと期待値のトレードオフ」というのは、実は野球の世界にも存在します。こないだ Excel でいろいろ数字をいじくりまわしているうちに典型的な例を見つけたんで、今度ヒマがあったらご紹介しますね。

| | トラックバック (0)

ちょっと補足

 ログを見て発見したんですけど、珍しく、ぼくなんかの文章を批評してくれた人がいたようで(^^)。(突然ですます調に戻る)

 ぼくの「芸術におけるアマチュアリズムの意義」という拙文に同意してくださってます。うれしいです。手品の種明かしの意義もそれと同じだというのには気づきませんでした。確かにそうだと思います。

(もっとも、これは以前にちょっと調べて知ったのだけれども、種明かし番組自体は、マジシャンの間でかなり問題になっているみたいで、そこには普通の芸術とは少々異なる微妙な問題があるようです。)

 でも、「「文章読本さん江」さん江」についてはちょっとだけ誤解があるような気がするので、そこだけ補足しときます。

「珍プレイ(好プレイ)集」のような形で、現に1980~90年代のにおいては、その「プロの凡プレイ」の方をこそ、あら探しされ、消費されていた。「せねばならなかった」ではなく、「すでにされていたこと」であった。著者に対してツッコミを入れるならば、その部分であろう。

 この方の論旨を正しく理解している自信は必ずしもないのですが、ぼくの想像では、この方はたぶん、斉藤さんの批判をプロの技術に対する批判ととらえ、ぼくの批判を、それに対する反批判として捕らえたんだろうと思うんです。

 この方が批評対象の「文章読本さん江」を読んだのかどうか、この文章だけではわかりませんが、たぶん読んでいないのではないかと思います。というのも、斉藤氏はあの本の中で、プロの文章技術そのものを批判しているわけでは必ずしもありません。氏が批判しているのは、むしろ、文章読本の著者がプロとアマを分けてヒエラルキーを作るという姿勢そのものなのです

 ぼくが批判したかったのは、このヒエラルキー自体を否定する主張であって、個別のプロに対する批評を批判したわけではありません。個別の作者に対する批評は、当然、プロ・アマ問わずやるべきだと考えています。そうでなければ、どう考えたって矛盾してますものね(^^)。その程度のことにぼくが気づいてないと思われたとすれば少々不本意であります。

 ぼくが言いたかったのは、別にプロを盲目的に神格化しなくたって権威のヒエラルキーというものは自然にできるし、その現象自体を否定する必要もないという、常識的に考えれば、ごく当たり前の話です(当たり前だと思うから少々きつい書き方をしているわけです)。もちろん、「芸術におけるアマチュアリズムの意義」でも、プロとアマの差は厳然としてある、にもかかわらずアマチュアリズムは重要であると言っているわけで、その点で主張は完全に一貫しています。

 だから、

青年期に確信した社会問題が、現に改善のために実践され、行われ、広く受け容れられている現状には鈍感であり、あたかも自分だけ(自分を含めた少数派だけ)が気付いている問題だと強く言いすぎてしまうこと。

というように、時代状況に相対的な批判をしているつもりは、本人的にはありません。もちろん、いまどき権威批判を得々としてやるのもアナクロだなあ、みたいな気持ちもまったくないわけではありませんが(でも、それにしてはこの本って若い子にも評判いいよね(^^))、批判の仕方自体が妥当であれば、それはそれでありだと思っています。

 もっとも、ぼく自身若い頃ポストモダンにかぶれて、そこからモダンに回帰したことは事実ですが(これもどっかに書いてます(^^))、だからこそ、そのへんには気を使って書いてるつもりなんで、そこんとこ一応よろしくお願いいたします。

(でも多分、ぼくの書き方も下手なんでしょうね(^^)。努力はしてるんですけど、まだまだ文章力も足りないし推敲する時間もないんで、生暖かい目で見逃してただきたいところではあります(^^)。)

| | トラックバック (0)

子供のころに好きだった絵本

ぐりとぐら [ぐりとぐらの絵本] (こどものとも傑作集)
なかがわ りえこ
福音館書店
売り上げランキング: 672

 
いやいやえん―童話
いやいやえん―童話
posted with amazlet at 08.06.13
中川 李枝子 大村 百合子 子どもの本研究会
福音館書店
売り上げランキング: 7690
しろいうさぎとくろいうさぎ
ガース・ウイリアムズ まつおか きょうこ
福音館書店
売り上げランキング: 6326

これは子供の本のクセに、ちょっと恋愛物みたいな感じで、子供心になんかドキドキした。


 なんで突然こんなレビューを始めたかというと、実は例の秋葉原通り魔事件のせい。こんなこと書くと、明日から誰もまわりに寄ってこなくなるかもしれないけど(^^)、あの犯人のプロフィールって、なんか結構自分と共通するものがあるんだよね。中学までは優等生だったけど、高校で進学校に入ったとたん落ちこぼれたとか、親と仲が悪かったとか、人付き合いが下手だとか、女性にもてないとか(^^)。

 でも、ぼく自身はどう考えてもそんなに世の中を恨んでいるわけじゃなくて、結構人生を楽しんで暮らしている。その違いはいったいどこにあるのかなあ、と考えてしまったんだよね。すると、どう考えても、自分が上等な人間だからとか人格的に立派だからではなくて、結局いろんな意味で幸運だったからとしか思えなかったんだ。

 特に、子供の頃にいろんな人の愛情を受けて育ったことが、結局はいまだに自分を世の中につなぎとめているような気がする。色川武大さんの「うらおもて人生録」には、子供の頃に人に愛されたり愛したりする経験をすることが重要だと書いてある。これは何も統計的な根拠があるわけではなくて、純粋な経験論なんだろうけど、今になって自分の内面を省みてみると、その意味がわかるような気がするのである。

 ぼくの通っていた幼稚園は、キリスト教の教会が経営していた幼稚園だった。もちろん、露骨な宗教教育を受けたわけではないんだけど、今考えると間接的な影響は大きかったのだろうと思う。その幼稚園には絵本がたくさんあって、その大部分が福音館の絵本だった(これも今考えると、キリスト教の幼稚園だったからなのだろう)。上で紹介した絵本に福音館の本が多いのはそのせいである。

 もちろん、だからと言って、幼稚園をみんなキリスト教の経営にしろとか、絵本普及運動をしろとか、国の予算で日本中に絵本を配れとか言いたいわけではない。いや、すぐにそういう安易な「対策」をしてお茶を濁そうとする最近の風潮には、むしろかなり批判的だ。もちろん、不幸な幼児期を送った人間の犯罪は許してやれと言ってるわけでもない。

 世の中の善悪を誰かの責任にして解決するのは、世の理であって絶対に必要なことではあるんだけど、同時に、善悪だけにこだわっているとかえって見えにくくなってしまうもう一つの理の世界がある。ぼくは今むしろ、そちらの方に目を向けたい気分になっているのである。

追記: ただ、ぼくは雇用の流動化には賛成だし、派遣は自分も昔やってたからなおさらそう思うけど、単に日雇い派遣をやめればいいとかいう問題じゃないと思ってる。まあでも、しばらくこういう短絡的な政治が続くんでしょう。それも歴史的に仕方のないことだとは思ってるけど(^^)。

| | トラックバック (0)

mixi コミュのレベル低下がひどい

 よっぽど mixi に直接書こうかと思ったのだが、熟慮の末こっちに書くことにする(このブログはどうせ mixi にも自動的に引用されるし)。実は、mixi では、翻訳関係のコミュニティにいくつか加入しているのだが、久しぶりにチェックしたら、投稿の質が呆れるほど低下していたのでちょっと驚いた。

 もちろん、こういう英文がわかりませんというような質問をするのは全然かまわない。誰にだってわからないことはあるし、誰だって昔は無知だった。ぼくだって、そういう人たちがお互いに助け合うことこそがああいうコミュニティの存在意義だと思う。

 ただ問題は、その質問の仕方だ。と言っても、もちろん、敬語を使えとかそんなくだらないことを言いたいわけでもない。いや、そういう質問は概して、言葉遣いだけはバカ丁寧だ。

 そうではなくて、最近の質問には、「教えてください」という以外の説明がなにもないのだ。そもそも、どこから採集した英文なのか、なぜその英文を訳さなくてはならないのか、具体的にどこがわからないのか、そういう情報を一切提示しないのである。

 あなたなら、こういう質問によろこんで回答する気になりますか?

 まず、どこから採集した英文なのかがわからなければ、文脈がわからないから適切な訳文を提示しにくい。翻訳関係のコミュに加入している者が、なぜそのくらいのことに気づかないのか?

 また、なぜその英文を訳さなくてはならないのかがわからなければ、協力すべきなのかどうかの判断ができない。極端な話、学校の課題みたいなものだったら、協力すること自体が悪事に加担していることになってしまう。それでなくったって、普通の日本人は英文を訳せないからといって生活に困ることなどないのだから、他人様に助けてほしいのだったら、その理由を説明するのが当然であろう。

 だいたい、翻訳家が集まっているコミュに来て、英文をタダで訳してくれと頼むというのは、商売物をタダでくれと言ってるのと一緒なのである。そういう望みが受け入れられるためには、何か特別な理由が必要だ。たとえば、本人が例外的な窮状にあるとか、公共性の高い目的があるとか。そうでなければ、普段ぼくらの翻訳に対して高い金を払ってくれているクライアントに対する裏切りになってしまうではないか。

 質問者が翻訳家同士の場合には、相互扶助になるからこそ対価を払わないことが許されるのである。ここで相手を助けておけば、将来自分が困ったときには相手に助けてもらえるかもしれない。そういう「困ったときはお互い様」という互恵的な関係にあるからこそ、タダで教えあうという関係が成立するのだ。

 そして、この話にも関係してくるが、具体的にどこがわからないのかの説明がなければ、相手にどの程度の熱意と知識があるのか判定できない。極端な話、英語の知識もなければ今後勉強する気すらなくて、インターネット上の翻訳ソフトで翻訳してうまく訳せなかったところだけを質問している可能性すらある。そんな人に答えだけ教えたって、相互扶助の関係になりますか? 一方的に利用されるだけで終わりですよね。だったら、正当な対価を払ってくださいという話になるんじゃないですか?

 先日も、この手の質問に遭遇したぼくは、試しにヒントだけコメントしてみた。それだって、非常にレベルの低いヒントで、このヒントでわからないんだったら、翻訳家志望なんてやめなさいぐらいのレベルの低いヒントだし、こっちからすれば、ヒントをもらえるだけありがたく思えという感じなのだが、返ってきたのは、「もっと完全に訳せないと困るんです」(何が困るの?)というような答え。

 もうこの時点ですでにぼくは嫌な予感がしていたのだが、ひょっとすると、極めて表現能力が貧困なだけで根はいい人なのかもしれないと精一杯善意に解釈して、「具体的にどこがわからないんですか?」と聞いてみた。すると返ってきたのは「全体的によくわかりません。やばいです」(だから何がヤバイの?)という呆れた答え。

 はっきり言うが、少しでも英語に興味があってわからないなりにも自分で努力した人だったら、「全体的にわかりません」なんていう答えはあり得ない。ぼくは他人の無知には相当甘い方の人間だと思うが、ここまでやる気のなさをあからさまに表すのが当然のように言われたんではお話にならない。

 ここで完全に相手を見放したぼくは、「ぼくは普段ワード単価○○円で翻訳を引き受けています。この英文は○○ワードなので、○○円前払いで送ってくれれば、翻訳を納品します。」(「前払いで」と書いたのはもちろんワザとである。本当に注文が来たりしたらうっとおしいもんね(^^))とコメントしておいた。それに対する返事はなかったが、さらに呆れたことに、数日すると、このトピック自体が消えていた。

 だいたい、コミュにコメントが書き込まれるのは、必ずしもトピ主だけのためではない。いろんな回答も含めた議論がコミュ全体の財産になるだろうと思うからこそ、みんな貴重な時間を割いて回答しているのである。それを本人だけの都合で勝手に消したりするというのも、コミュニティの存在意義自体を理解していないとしか思えない。

(もっとも、コミュ上で商売の勧誘をしていると思われて、規約違反で消されてしまった可能性もあるが、だとすれば、コミュの管理人もあまりにもレベルが低いと思う。こんなに明々白々にイヤミであることがわかるように書いているのにさ(^^)。現に、そのコメントを読んだ人から「私がずっと言いたかったことを言ってくれてありがとうございます!」という共感のお便りまで来たので、ぼくの独りよがりではないと思う(^^)。)

 久しぶりに戻って来たコミュで、そういうことを立て続けに経験したぼくは、はじめて、なぜ他の人がちっともコメントをしなくなったのかに気づいたのだった。おそらく、あまりにもこういう人が多いために、マトモな人はバカバカしくなってみんなコメントするのをやめてしまったのだろう。

 これはある意味、ロングテールの搾取であって、確信犯的にやっている可能性もあると思う。昔雑誌とかによく載っていた、通信販売と同じ手口だ。ああいうのは、騙される率は低くても、非常にたくさんの人の目に触れさせて、分母を極端に大きくすれば、それでも利益を出すために十分の人が騙されるという手法だろう。

 昔は、そういう手法は、マスメディアを利用しなければできなかったのだが、インターネット時代の今では普通の個人がほとんどコストをかけずにできてしまう。つまり、たとえどんなずうずうしい要求でも、非常にたくさんの人に要求すれば、一人くらいはお人好しがいて答えてくれるかもしれないというわけだ。

 もちろん、ぼくだって他人のことをそういう風に決め付けるのは決して好きではないし、中にはマトモな人もいるに違いないと思う。だからこそ、本気で勉強する気のある人や同情すべき事情のある人は、自分からもっとちゃんと状況を説明してほしいと思うのだ。でなければ、上に書いたようなことを疑われても仕方がないよ。本人が説明しないのに自分からいちいち事情を聞きだそうとしてくれるほどヒマな人はそうそう多くはないのだから。

(っていうか、なんでこんなことイチイチ説明せにゃならんのですか。。。)

| | トラックバック (1)

成果主義と雇用流動化は正反対の思想

 ある人のブログを読んでいたら、成果主義が失敗したのに(解雇規制の撤廃による)雇用の流動化が成功するわけない、みたいなことが書いてあって、ちょっとひっかかった。というのは、ぼく的には、成果主義と雇用の流動化は、ほとんど正反対の哲学だと思っているからだ。

 そもそも、「成果主義」とうい言葉の定義自体があいまいで、字義通りの完全な成果主義なんておそらく成立しないと思うのだが、仮に思考実験として、できるだけ文字通りの意味に近い成果主義というのを考えてみよう。

 成果というのは最終的には企業の利益であるから、まず、社員全員の給与の合計が、完全に企業の利益に連動するとしよう。もちろん、生産に必要な生産要素というものは労働だけではないので、生産要素間でどう利益が分配されるかも、労働・資本それぞれの寄与度や、労働市場・資本市場それぞれの需給関係によって決まってくるはずだが、ここでは話をわかりやすくするために、労働分配率は常に固定としてみよう。

 言い換えれば、資本家への配当や税金を除いた利益を、すべて労働者で山分けすると考える(もちろん、通常「利益」からは人件費を除いて考えるが、ここではあえて確信犯的にそうしないのである)。そして労働者間の給与の配分は、各人の貢献度(これも厳密な定義にはいろんな議論があると思うが)に応じて重み付けするとしよう。面倒なので、年金や健康保険などの社会保障費負担などもすべて捨象して考える。

 さて、こういう理想的な「成果主義」の会社がもしあったとしたら、何がおこるだろうか。ちょっと考えればわかるが、社員を解雇する必要がまったくなくなるのである。なぜかというと、このシステムでは、利益が出なければ給与を払う必要はないし、利益が少なければその分給料も少なくできるのだから、企業が社員をかかえておくリスクがほとんどないからだ。だから、企業は、必要のあるなしにかかわらずできるだけたくさん社員を雇って、抱え込んででおこうとするだろう。

 逆に社員側から見ると、いくら長時間真面目に働いても、企業の業績が悪ければまったく給料がもらえないということになる。つまり、資本家が負っている業績リスクと同じものを労働者も負担することになるわけだ。だから、もし企業の業績が悪化して給料が下がったら、労働者はむしろ自分から辞めようとするだろう。

(おそらく、このことがワーキングプアの増加にも関係しているのではないか。)

 ここまで説明すれば気づいた人も多いと思うが、解雇規制の撤廃による雇用の流動化というのは、この「成果主義」のように、企業の利益と給与が連動していないからこそ必要な制度なのである。ここで仮に、この「成果主義」とは逆に、企業の利益にかかわらず、労働者には常に一定の賃金が払われるという制度を「固定賃金主義」と呼んでみよう。

 固定賃金主義の企業では、利益の多少にかかわらず一定の賃金を支払わなくてはならないので、必要最小限の労働者しか雇わないようにするだろう。そして、利益が減ったり増えたりした場合には、給与額で調整することができないのだから、その分労働者の数で調節しなくてはならなくなるだろう。したがって、解雇が必要になってくる。

 逆に社員側から見ると、企業の業績がよかろうが悪かろうが、長時間真面目に働けば、働いた分だけの給料を必ずもらえるということになる。つまり、労働者は、資本家が背負っている業績リスクから切り離されている。したがって、労働者は、いくら企業の業績が悪くても、あまり会社を辞めたがらないということになる。

 と書くと、でも、企業が倒産すればやっぱり社員も損害を受けるじゃないか、と思う人もいるかもしれない。しかし、統計・確率的に考えると、世の中、起業したり倒産したりする会社は数々あれど、世の中全体で必要とされる労働者の量はほぼ一定のはずである。もちろん、社会全体の雇用の数が減る「不景気」という現象は厳然として存在するが、その幅は、個別の会社の業績の変化や倒産の数に比べれば、相対的に狭いはずである。したがってやはり、倒産時のことまで考えても、「固定賃金主義」の方が、労働者は個別企業の業績のリスクから切り離されている、と言えるだろう。

 ここまで論じてきたことを一覧表にすると、こんな感じになる。

成果主義 固定賃金主義
資本家 労働者 資本家 労働者
業績リスク 負う 負う 負う 負わない
解雇・退社 したがらない したがる したがる したがらない


 このように、「成果主義」と「固定賃金主義」は、業績リスクを誰が負うかという点で、ほとんど正反対の思想である。そして、雇用の流動化というのも、「固定賃金主義」のためにこそ必要な制度なのだから、やはり成果主義とは正反対の思想だと思うのだ。

 では、冒頭に書いたブログの著者は、なぜこのような正反対のものを同列に見なしたのだろう。それはおそらく、いわゆる「日本的雇用慣行」からの距離で考えたからだと思われる。だからむしろ、なぜ「日本的雇用慣行」では、「固定賃金主義」と「解雇規制」というたがいに矛盾する思想からくる制度が両立していたかを考える必要があるのだろう。

 この問題をあまり深入りしている余裕はないが、大雑把に言えば、これは業績リスクの相対的に小さい右肩上りの時代のおいてのみ存続可能な制度であり、資本家に対しては付加価値の創造よりも企業自体の存続を目標とすることを強制し、労働者に対しては、必要以上に企業に依存する性質を植えつける、奥村某や佐高某の言う「会社主義」や「社畜」を生み出した制度そのものなのだと思う。そして、そこから脱却するには、「成果主義」と「雇用の流動化」という正反対の方向性がある、と考えるのが正しい歴史観ではないだろうか。

 ぼく自身は、かなり前から何度か言っているように、成果主義には反対で、雇用の流動化には賛成なのだが、その理由を説明しだすと長くなるので今回は割愛する。ただ、少なくとも、企業別組合の害悪を言いながら、雇用の流動化には反対するような立場はおかしいと思うし、むしろ、雇用の流動化こそが労働者の自立につながると考えるべきだと思っている。これも詳細はまた時間のあるときに書きたい。とりあえず読者のみなさんには、「成果主義」と「雇用の流動化」は正反対の思想なのかもしれない、ということをちらっとでも思っていただければ幸いである。

・もっとちゃんと勉強したい方へ

 これも必ずしも完全に勝手な与太を飛ばしているわけではなく、一応、経済学で言うところの「インセンティブとリスク・シェアリングのトレード・オフ」という話を下敷きにしてはいる。要するに、資本家と労働者では効用関数が違い、資本家はリスク愛好的なので期待値基準で動くが、労働者はリスク回避的で期待効用基準で動く。そのため、資本家にはハイリスクハイリターン、労働者はローリスクローリターンという分配が最適解になるというような理論が実際にある。この話は、それをちょっと大げさに誇張してマクロにつなげただけと思ってもらってもいいんじゃないかと思う。 得に、「成果」とインセンティブは違うということ、リスクを考慮すると期待値だけを考慮したときとは結果が異なってくることなどは、知っておいて損はない。

参考文献:

MBAミクロ経済学」小島寛之著(p171-179)。これ以上わかりやすくするのは無理、というほどわかりやすい(^^)。題名の軽薄さに騙されてはなりませぬ。

経済システムの比較制度分析 」青木昌彦、奥野正寛編著(p106-108)。ぱっと見難しそうだが、よく読むとそれほどでもない(^^)。

| | トラックバック (0)

« 2008年5月 | トップページ | 2008年7月 »