もちろん自殺した本人が一番悪い
自殺で誰が一番悪いかと言ったら、自殺した本人が一番悪い。尊敬する松本人志大先生に怒られたからというわけでは勿論ないが(^^)、最近の自殺事件に対するネット界の反応を見て、やっぱりこれは書いとくべきだと思った。これが大原則であって、前に書いたあれやこれやも、すべてこの前提を踏まえた先の話だ。それを忘れないでほしい。
どうも最近は他人の文章を読んでもあまり想像力を働かせてくれない人が多いようなので、少しくどいたとえ話をする。たとえば、前回恥を忍んで自分の同僚が自殺した話を告白した。ひょっとして自分が彼女を助けられたかも、と考えてしまうということも書いた。
しかし、冷静に考えれば、たとえタイムマシンで自殺の前の時間に戻れたとしても、おそらくぼくには彼女の自殺は防げないだろう。もちろん、自殺の現場で待ち伏せをしていて止めれば止められるだろうが、それはそういうタイミングを利用しているだけであって、単にいつか自殺するかもしれないことしか知らなければ、おそらく止めるのは難しいだろう。
話の都合上ここから突然フィクションになるが(^^)、仮に、彼女がぼくに好意を持っていたとしよう。そしてなおかつ、ぼくには彼女が自殺するという予感があったとしよう。あなただったら、彼女の自殺を止めるためだけに彼女と付き合うだろうか? もちろん、まっとうな人間だったら、そんな不誠実なことできないだろうし、本当に好きでなかったら、そんなことしたって無駄だよね。かと言って、別に冷たくしてるわけでもないとすれば、好きでもないのに、突然過剰に優しくするのも変だよね(^^)。
あるいは、あなたが誰かにお金を貸していたとする。そいつが期日になっても金を返さないので、きつく取立てようとしたら、そいつが「金を返せないので自殺します」とか言ったとしよう。あなたは、じゃあ返さなくていいよ、と言うだろうか?
もちろんその答えは、貸した金の金額、あなた自身の経済的余裕、その相手との関係、いろんなものに依存するだろう。しかし、一般論としては、そう言われたからって簡単に借金の返済を免除する人はあまりいないだろうし、それで本当に相手が自殺したとしても、(違法な取立てとかをしていない限り)自分が悪いと真剣に思う人もそんなにいないだろう。
結局、マトモな人間なら、わざわざ他人を自殺させようとして行動しているはずはないのであって、相手が自殺しようとしまいと、もともとその人なりのルールや倫理の範囲で行動しているはずなのである。したがって、常識的に考えれば、行動をそう簡単に大きく「改善」できるはずがないのだ。ああしておけばよかった、というのは、多くの場合結果論なのである。
もちろん、可能性だけで言うなら、もっと影響力のある人間になれとか、借金を踏み倒されてもいいぐらいの経済力や度量を持てとか、そもそも貧乏人のいない社会を作ればいいんだとか、いくらでも言えるだろう。身近な人の自殺を経験した人が、自分の意思でそういう道を志すのもいいことだ。でも、それを万人に対して要求できるだろうか。他人に対してそういう過大な要求をする資格のある人間がどれほどいるか。冷静に考えればわかるはずである。
つまるところ、自殺をしないということは、社会の基本ルールに組み込まれていて、多くの人はそれを前提にして生きている。自殺というのは、第一義的には、そのルールに対する裏切りという意味で罪なのだ。
自殺の責任は、特に犯罪行為とか極端にアンモラルな行為とかがない限りは、まず本人。周囲の人や社会の責任はその次である。仮に自殺した人が誰かにイジメられていたとしても、それは自殺したから悪なのではなくて、イジメという行為自体がもともと悪なのであり、自殺したかしないかは結果論にすぎない。でなかったら、自殺しない奴はイジメてもいいことになってしまうではないか。
前に社会全体に責任があるともとれるようなことを書いたのは、あくまで、この原則を踏まえた上で、それを超越したレベルの話として書いたことだ。その動機としては、最近の世の中が、あまりにも「悪者探し」や「悪者叩き」に急ぎすぎることに対する警戒心があった。安易に他人のせいにして安心するよりも、まず自分にできることは何かと考えて、自分の向上心の動機付けにした方が、世の中よくなるんじゃないの、と言いたかったわけだ。
(これを書いていて突然思いついたのだが、もっと現実的な「対策」として、成人に健康診断を義務付けるように、年に1回ぐらいメンタルヘルスの診断を義務付けるという方法もあるのではないかと思った。(^^))
だから、ああいう言説が逆に、自殺した人の周囲を安易に叩くための言説として利用されたりするのは、ぼくにとっては不本意だ。もちろん、自分の周辺の人間が自殺したのに、そのことに何の思いも馳せないような人間は好きになれない。しかし、そういうことは、一人一人が自分の倫理観に照らして考えればよいのであって、赤の他人が安易に言うことではないと思う。
自殺の話に限らず、最近のネット上の文章は、一見すると正義感で書いてるように見えて、実は、自分の自尊心を満たしたいとか、他人をバッシングしてカタルシスを得たいとか、そういう動機で書かれているものが多いような気がする。もちろん、別にどんな動機で書いても、書かれている内容が正論であればよいのだが、そういう文章は、強引な断定をテンションで無理やり押し切るような文章になりがちである。それが当たり前だと思うのは、ある種の倫理的退廃だと思う。
もちろん、ぼくだって半分以上は自分のために書いているわけだが(^^)、だからこそ、あんまり偉そうになったり断定的になったりしすぎないように、一応工夫して書いているつもりである。でも、最近の若い子には、あんまりそういう配慮とかも全然伝わっていないような気がしてきて、ちょっと気持ちが萎えているところなんである(^^)。
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