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運命に対し謙虚であるということ

 山田太一氏の「頑張れば夢かなうは幻想、傲慢」という記事や、小飼弾氏の「自己責任から自己権利へ」という記事が、最近ネット界でちょっとした話題となった。この議論をなんとなく追っかけていて、一つだけ大きな違和感を感じた。それは、彼らの議論には、人間の生がはらむ避けがたい「不確実性」に対する感受性が足りないのではないかということだ。

 山田氏が言うまでもなく、努力すれば必ず成功するというのはウソである。人間の知や能力は有限であるがゆえに、努力はせいぜい成功の確率を高めることしかできない。こう言われると首を傾げる人だって、予測不能の自然災害や、原因不明の重病にかかった人を見れば、それは自己責任だとか本人の努力が足りないせいだとは、決して言わないはずである。

 にもかかわらず、なぜ人はしばしばこのような不確実性の存在を忘れがちなのであろうか 。それはたぶん、人間がしばしば確率的現象と因果律的現象を取り違え、確率の中に勝手に因果律を読み込む癖があるからだと思われる 。

 たとえば、サイコロで6を10回出し続ける確率は約6千万分の1だが、6千万人がサイコロをふれば、一人ぐらいはそういう人がいてもおかしくはない。その結果は、他の6千万人にとってはあくまで6千万分の1だが、出した当人にとってはまるで1分の1であるかのようにも感じられるわけで、その瞬間、自分にはサイコロを操る奇跡の力があると思いこんでも不思議はないだろう。

(サイコロの目だって究極的には決定論で決まるんだろう、という「ラプラスの悪魔」的な考え方をする人には、決定論的でありながら予測不可能な現象の存在を証明した「カオス理論」をご紹介しておく。)

 競馬のような予想ギャンブルをやったことのある人なら、たいてい一度は経験したことがあると思う。新しい予想法を編み出したら、とたんに馬券がズバズバ当たり続けるので、自分はひょっとして競馬の天才かもしれないと有頂天になるのだが、しばらくしたらちっとも当たらなくなって、単なる偶然だったと悟ることが。

 もちろん、こういうのは努力と無関係にほとんど偶然だけで決まる例であるが、そのような場合ですら、当人は努力の産物であると錯覚することはままあるのである。

(ちなみに、競馬は期待値が1以下だから絶対に儲からない、という俗説は必ずしも正しいとは言えない。なぜかというと、競馬のオッズというのは、あくまで人間が予想した馬の人気に過ぎず、実際に馬が勝利する確率ではないからだ。オッズが勝率と一致するというのは、金融工学でいうところの効率的市場仮説に相当する仮説であるが、おそらくこれを立証した人は誰もいないだろう。ということは、他人より予想能力のある人にとっては、競馬で儲かる可能性は否定されていないのである。閑話休題。)

 同じように、人生というものは一回きりであるから、成功者の「成功」のどこまでが努力の産物で、どこまでが単なる幸運の産物であるかを、統計的に厳密に検証することはかなり難しい。したがって、実際に努力して成功した本人は、努力が必然的に生み出した結果であると思い込みやすいし、それに文句をつけることは原理的に難しい。逆に失敗した人についても、他の人はすべてが当人の努力の欠如と思いやすいし、それに対して本人が反論することも難しいのである。

 これは前にも書いたことがあるが、たとえば、長寿世界一でギネスブックにのっていた泉重千代さんは、かなりの愛煙家だったが、もちろんこれは、タバコが身体にいいことを保証しない。 困った同僚とどうつきあうべきかという問題にしてもそうである。人間は話せばわかるというのは、統計的な一般論としては正しい。しかし、個別のケースにおいて、そこに登場する同僚が、例外的な極悪人間でないということが、なぜ簡単に断定できるのだろうか。

 山田太一氏が、成功者の伝記だけでなく、失敗者の伝記も若者に読ませたほうがよいといっているのは、そういう意味である。 それに対する批判として、失敗者の伝記には、必ず何か失敗した原因が書かれているはずだから、「可能性のよき断念」にはつながらないはず、と主張している人がいたが、これこそが人生の不確実性を無視してすべてを決定論でとらえようとする発想なのである。

  実際、世の中には、できる限りの努力をしたにもかかわらず成功できなかった人がたくさんいるはずなのだが、今の世の中では、そういう人たちの経験談が若者の目に触れやすい場所に出てくる機会が少ない。したがって、そういう人たちの経験を知らしめた方が、若者も将来についてバランスのとれた判断ができるはず、というのが山田氏の言いたいことであろう。

 小飼弾氏の主張に違和感を感じたのもそこである。他人の不幸に対して、必ず本人に原因があるはずだという決め付けには、不確実性に対する感受性が欠けている(これは実は、本人より社会や国家が原因だと決め付けている批判者も同様なのであるが)。 もちろん、原因や責任をきっちり究明した上で誰かを批判するのはかまわない。しかし、ちょっと話を聞いたぐらいで、アプリオリに本人に原因を帰するのは、傲慢の謗りを免れないと思うのだ。

 ぼくがこのような不確実性に対する感受性の欠如を感じるのは、実はこの2つの例だけではない。経済一般についての議論でも感じることがある。

 そもそも、努力や能力があれば必ず経済的に成功するのであれば、資本など不要であるとすら言えるかもしれない。金融工学の教えるところによれば、リスクとリターンは比例する。つまり、付加価値の大きい生産をしようとすれば、必然的にリスクをとらなくてはならない。言うまでもなく、リスクというのも不確実性の一種である。

 実は、努力を必要とするようなことは、たいていハイリスクである。 なぜなら、努力というのは基本的に、目先の利益を放棄するかわりに、将来により大きな利益を得ようとする行為だからだ。利益を時間的に先送りすれば、その間には不確実性が入り込むことはほとんど自明である。同じように考えれば、たぶん、目的のはっきりしている応用研究より、目的のわからない基礎研究の方がハイリスクだと思われる。こういう行為が何か「堅実」なことであるように思われているのは、社会がそういう仕組みをつくってリスクヘッジしているからなのであって、行為そのものはハイリスクなのである。

 われわれは、リスクをとらなければ社会全体のパイを大きくすることはできない。これは、成熟社会になればなるほどそうなると思われる。そこで個人はある意味、自分のためだけではなく、社会のためにリスクをとらされているのだ。

 あえて極論を言えば、不確実性のある生産というのは、1回の1の目を出すために、6人でサイコロを振るようなものだと言える。 そう考えれば、因果律的に1の目を出したのは一人だけだったとしても、確率的な意味では6人の共同作業であるとみなすこともできるだろう。

 もちろん、これは偶然性を極端に誇張した例であって、実際には、努力によって成功確率を上げられる部分もある。したがって、大きな付加価値のある生産に成功した人は、社会から一定の敬意を受けてもよい。しかし、先に述べたように、人生において努力が100%で偶然が0%ということがほとんどあり得ないとするなら、社会は、失敗した者に対しても、同じ社会で生きる者としての一定の敬意を払えるはずである。

 ぼくは、収入格差はあってもよいが、セーフティネットやベーシックインカムにはわりと賛成、という立場だが、それは、人間にとって、多少の収入の差よりも、同じ社会に生きる人間として認め合えることの方がはるかに大切だと信じているからだ。

 おそらく、昔の社会では、人生に運不運があるのは当たり前だったろう。人類は、そういう不確実性を少しでも減らし、個人が自分の意思で人生をコントロールできるような社会を目指してきた。その目標は、現代においてある程度が実現されたと言えるし、そのこと自体はよいことだったろう。しかし、その副作用として、人々は、人生のすべてを意志の力でコントロールできると過信するようになり、その結果として、不幸な人々を必要以上に蔑むようになっていないだろうか。昔の社会は、ろくな社会福祉もなく、貧乏な人もたくさんいただろうが、そういう人たちに対する人々の視線は、むしろ現代より優しかったかもしれない。

 そういう意味で、ぼくは経済的な成功者の方々がいくらフェラーリを乗り回そうと女子アナと鍋パーティをやろうとかまわないが、運命に対する謙虚さだけは持ち続けてただきたいと思うのである。

 "There, but for the grace of God, goes Sherlock Holmes."

- The Boscombe Valley Mystery by Arthur Conan Doyle.

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受信: 2008.03.04 16:53

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