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バグはゲーテルの定理のせい?

伊東 乾の「常識の源流探訪」

 ところがゲーデルの定理は、プログラムは必ず矛盾を含むことを主張する。

つまり「バグがないソフトはあり得ない」ということが、数学的に証明されているのが、ゲーデルの定理の別の表現法になります。こうなると、一見難解に見える数学の定理も、私たちの生活にグンと身近になってきます。

これは噴飯物でしょ。誰かつっこんでください。(ぼくは今それどころではないので(^^))。

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粋に感じる?

 大阪府知事の橋下さんが女性職員に「あんた」呼ばわりされたという例のニュースを YouTube で見ていて気になったのだが、橋下さんがその女性について「ぼくはいきにかんじましたね」とか言っているのを、その番組では「彼女は粋に感じましたね」とテロップを当てていた。これはどーみても「意気に感じましたね」の間違いだろ(^^)。ひょっとして、今の子は「意気に感じる」という表現を知らないのかな。

 これは類語辞典だけど、「意気に感じる」というのは、

http://thesaurus.weblio.jp/content/%E6%84%8F%E6%B0%97

意気に感じる:
(~に)熱く共感する ・
肝胆相照らす ・ (~の志に接して)燃える ハッスルする ・ (いたく)刺激される やる気になる ・ (演説を聴いて)しびれる

 一方、「粋」というのは、

http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%BF%E8&kind=jn&mode=0&base=1&row=0

(1)気性・態度・身なりがあか抜けしていて、自然な色気の感じられる・こと(さま)。粋(すい)
野暮(やぼ)
「―な格好」「―な作り」
(2)人情・世情に通じているさま。
野暮
「―な計らい」
(3)遊里・遊興に精通していること。また、遊里・花柳界のこと。
「―筋」
(4)いろごとに関すること。

という意味であるが、文脈から考えて、橋下さんはあの女性に自然な色気を感じて「粋だねぇ~」と言いたかったわけではないと思う。たぶん(^^)。

(追記: ただ、上の辞書にもあるように、「粋」は「意気」から転じた言葉らしいので、それを知っててわざと書いている逆の意味で教養のある人もいるのかも知れない(^^)。)

 それにしても、昔はこういう言葉遣いにしてもなんにしても、テレビでやってるんだから正しいのだろう、などと鵜呑みにしていたものだが、最近はうっかり聞き流しているととんでもない間違いが混じっていたりするので油断がならない。また、ぼくのような一般人よりはるかに教養がおありになるはずのコメンテータの方々も同じビデオを見てるはずなのだが、何もツッコミを入れていなかったのも不思議。

 ところで、実を言うと、会社員時代はぼくもこういうことにうるさかった。ある会社では、就業時間後に社外から講師を呼んで研修みたいなことをすることが多かったのだが、出席しろとうるさく言われるわりには残業代は出ない。それを理不尽だと感じたぼくは「残業代が出ないなら出席する義務はないでしょう」とか社長に直談判してみた。すると社長の返事は「確かに義務ではないけど、出たほうがためになると思うぞ」みたいな感じ。じゃあいいやと思って問答無用で帰ってしまったことが何度かある。まだ 20 代の若造のぺーぺーのころからそんなクソ生意気な人間だったのである(^^)。 橋下さんが上司だったら、粋に、じゃなかった、意気に感じてくれるかな(^^)。

 これは前にも書いたような気がするが、ある会社の入社試験の面接で「デートの予定がある日に突然残業を頼まれたらどうしますか」と言われて「ケースバイケースです」と答えてしまったこともある。これも自分としてはかなり妥協した答えのつもりだったのだが、後で調べえると、やっぱり言ってはいけないことらしかった(^^)。

 まあでも、一応言い訳しとくと、仕事はちゃんとしてたんですよ。残業月 100 時間オーバーなんてしょっちゅうだったし。もっとも、残業代もきっちり貰ってましたが(^^)。


追記: これは、「武勇伝」をひけらかしているように感じる人もいるかもしれないが、本人の意識としては、むしろオリエンタルラジオ的な意味での「武勇伝」として書いてるつもりである(^^)。わかる人にはわかると思うが、ぼくは勇気があるというよりも、むしろ、空気や力関係を読む能力に重大な欠損があるのである。こういうことが平気でできてしまうのはそのせいであって、本人としては、別に勇気をふりしぼってる意識はないのである。いわば、SF に出てくる痛覚を麻痺させられた兵士みたいなもんで、見方によっては危なっかしいことこの上ない存在だと言えよう(^^)。

 あと、ぼくは社会的に地位のある人や目上の人には平気できついことを言えるのだが、そうでない人が相手になるととたんに弱気になる傾向がある。これもいいように言いすぎかもしれないが、それはたぶん、自分が傷つくことよりも相手を傷つけてしまうことを怖れる傾向があるせいだと思う。また、女性や子供にも弱いが、これは小学生の頃に同級生の女の子を泣かせてしまったことによるトラウマだと思う(^^)。そんなわけで、ぼくは基本的には気のよわーい人間なので、勘違いしてあんまりイジメないでほしい(^^)。

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幸せになる曲

 ちょっとおめでたいことがあったので、ぼくがテンションを上げたいときに聴いているとっておきのプレイリストを公開。

For Real Amel Larrieux
にちよ待ち コトリンゴ
Life Pudding 遊佐未森
たしかな偶然 遊佐未森
tiey tiey tea コトリンゴ
ふわふわsong (original) コトリンゴ
バロンの歌 野見祐二
子猫物語(インスト・ヴァージョン) 坂本龍一
ASSEMBLY 矢野顕子
夢のヒヨコ 矢野顕子
遊佐未森
パンパース「赤ちゃんのおしり」-Vocal /1983 坂本龍一
0の丘∞の空 遊佐未森
風のプリズム 広末涼子
空耳の丘 [Full Scale Version] 遊佐未森

 

 みんな、幸せになろうね(^^)。(遂行文の例)

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日本は食糧戦争に勝てるか

 サンプロを見ていたら、これからは資源戦争の時代で、日本ももっと食料自給率を上げないと資源戦争に勝てないというお話をしていたので、日本が手持ちの資源で食料戦争に勝てる可能性を探ってみた。

 まず、国民一人当たりの耕地面積と食料自給率の関係を調べてみた。

クニ 人口ジンコウニン 陸地リクチ面積メンセキ(km2) 耕地コウチ割合ワリアイ(%) 耕地コウチ面積メンセキ(km2) 一人ヒトリたり耕地コウチ面積メンセキ(m2/ニン 食料ショクリョウ自給率ジキュウリツ(%)
オーストラリア 20,434,176 7,617,930 6.15 468,503 22,927 237
カ ナ ダ 33,390,141 9,093,507 4.57 415,573 12,446 145
フランス 64,057,790 640,053 33.46 214,162 3,343 122
ド イ ツ 82,400,996 349,223 33.13 115,698 1,404 84
イタリア 58,147,733 294,020 26.41 77,651 1,335 62
オランダ 16,570,613 33,883 21.96 7,441 449 58
スペイン 40,448,191 499,542 27.18 135,776 3,357 89
スウェーデン 9,031,088 410,934 5.93 24,368 2,698 84
ス イ ス 7,554,661 39,770 9.91 3,941 522 49
エイ  コク 60,776,238 241,590 23.23 56,121 923 70
アメリカ 301,139,947 9,161,923 18.01 1,650,062 5,479 128
日  本 127,433,494 374,744 11.64 43,620 342 40


 人口、陸地面積、耕地割合に関しては、CIA で出してる The World Factbook、食料自給率については、農林水産省の「食料自給率資料室」 からデータを取得した。これらはウェブ上で公開されているので、誰でも検証が可能である。ただし、前者のデータは 2007 年頃のもので、後者のデータは 2003 年のものだが、これは他に資料が見つからなかったためなので勘弁いただきたい。耕地面積と一人当たり耕地面積は、これらのデータから単純に計算したものである。

 このデータを見ただけでも、一人当たり耕地面積と食料自給率にはかなりの相関がありそうに見えるが、実際に横軸に一人当たりの耕地面積、縦軸に食料自給率をとって、グラフにしてみるとこうなる。

arable-area-and-food-self-sufficiency.jpg

 この直線は回帰直線といって、仮にこの両者が正比例の関係にある(つまりグラフ上では直線で表される)と仮定した場合に、実際のデータとの誤差が最も小さくなるような位置と傾きで引かれた直線である。青い点の方は実際の各国のデータなのだが、どの点もかなり回帰直線の近くにある。つまり、各国の食料自給率の差は、かなりの部分耕地面積の差で説明できるということである。

 統計の知識のある人のために書いておくと、この両者の相関係数は 0.95 (有意水準 1% 以下で有意)であり、この回帰式の決定係数(寄与率)は  0.90 である。言い換えれば、 食料自給率の 9 割は一人当たり耕地面積で説明できると言うことだ。

 もっとも、回帰式が原点を通らないところはかなり気になる(耕地面積ゼロでも食料自給率がゼロにならないということだから(^^)。でも、水産資源まで考えれば辻褄合うのかも)。ひょっとすると、グラフの右の方にあるオーストラリアやカナダは、まだまだ生産効率を上げる余地があって、各国が生産効率限界まで生産すると、もっと食料自給率が上がるのかもしれない。たぶん、オーストラリアやカナダを外れ値として除外して直線を当てはめれば、傾きはもっと急になって、原点近くを通るようになるだろう。(あるいは、直線よりも限界生産性が逓減するような曲線を当てはめた方が本当はいいのかもしれない)。

 言うまでもないが、日本は一番左下にある青い点である。この点は回帰直線より下にあるので、日本は確かに耕地面積が狭いことを割り引いても食料自給率が低いということは言えそうである。ただし、逆にこの回帰直線から予想される日本の食料自給率は、約 64% でしかない。

 このままではどう見てもわが国には勝ち目がないので、仮に日本の国土すべてを耕作地にしたらどこまで食料自給率が上げられるかを計算してみた。つまり、一人当たり耕地面積の代わりに、一人当たり陸地面積を横軸にとって、それがこの回帰直線とぶつかる点から食料自給率を予想するわけである。もちろんこれは、山も都市もすべてつぶして農地にするということを意味するが、国家存亡の非常時であるからそんなことはかまっていられない。

クニ 人口ジンコウニン 陸地リクチ面積メンセキ(km2) 一人ヒトリたり陸地リクチ面積メンセキ(m2/ニン 予想ヨソウ食料ショクリョウ自給率ジキュウリツ(%)
オーストラリア 20,434,176 7,617,930 372,803 2,966
カ ナ ダ 33,390,141 9,093,507 272,341 2,184
フランス 64,057,790 640,053 9,992 139
ド イ ツ 82,400,996 349,223 4,238 94
イタリア 58,147,733 294,020 5,056 101
オランダ 16,570,613 33,883 2,045 77
スペイン 40,448,191 499,542 12,350 158
スウェーデン 9,031,088 410,934 45,502 416
ス イ ス 7,554,661 39,770 5,264 102
エイ  コク 60,776,238 241,590 3,975 92
アメリカ 301,139,947 9,161,923 30,424 299
日  本 127,433,494 374,744 2,941 84

 これをグラフにするとこうなる。

self-sufficiency-projected.jpg

 どうだろう。来るべき食料戦争に勝てそうな気になれたであろうか。  


 とまあ、少し思わせぶりに書いてみたが、私の本音は、だから日本は近隣アジア諸国を侵略して領土と資源を増やすべし、というのではもちろんなくて(^^)、そもそもこんな戦争勝てるわけねーだろー! やれ経済大国だのジャパン・アズ・ナンバーワンだのと言われ続けた記憶がいまだに忘れられないのかもしれないが、何を勘違いしとんじゃ、目を覚ませー! ということである(^^)。

 どうも日本人は、自分たちの国がいかに資源の少ない狭い国土にたくさんの人が住んでいる特異な国かということを、しばしば忘れがちであるように思える。こんな国が資源戦争に乗り出そうというのは、思想をどうこう言う前に戦略として間違っており、将棋で言うところの「筋悪」な手そのものではないだろうか。

 思えば、「あの戦争」も、資源のない日本が無理矢理領土を広げて資源を確保しようとしたのが始まりではなかったか。戦後その過ちに気づいた日本人は、資源を増やすことを諦め、貿易によって富を増やすという戦略に転換することによって、奇跡の復活をとげた。なのに日本人は、かつての教訓を忘れ、ふたたび資源戦争に乗り出そうというのだろうか。

 最近、サヨク系の人たちが反グローバリズムのあまりウヨク系の人たちと同じ主張をしだすという傾向が見られるが、思えば、大東亜共栄圏とかなんとかいうのだって、実質はともかく、名目上は反グローバリズムの主張だったわけで、だからこそ多くの国民が騙されたわけであろう。どうもそういうことを思い出して嫌な感じがしてしまうのはぼくだけだろうか。

 これはぼくの勝手な歴史観だが、多分、冷戦が崩壊したのは、米ソがにらみ合ってるのを尻目に、アメリカの核の傘を利用して無駄な軍事費を使わず平和な商売に専念して大儲けした日本を見て、米ソがバカバカしくなってしまった(あくまで比喩的にだが)のが一因じゃないかと思っている(^^)。そういう意味で、グローバリズムこそが日本の生み出した世界に誇るべき思想なのであって、日本はこの思想に賭けるしかないと思う。

 そもそも、資源のある国が資源を囲い込もうとしたり資源戦争だとか言い出したりするのはわかるが、日本のような資源のない国は、あくまでそれをさせないような外交努力をし、グローバリズムこそが世界を平和にするのだと世界に訴え、実際にグローバリズムを通じて世界の人を幸せにする努力をしていくのが本筋であろう。

 仮に、そういう努力も虚しく実際に資源の囲い込みが起こったとしても、そうなれば自然に農産物の価格が上昇するはずだから、国内農業の利益率も上昇して、市場原理によって自然に国内農業生産量も増えるだろう。だからいずれにせよ、先回りして先行投資することにそれほど意味があるとも思えないのだが。

 あるいは逆に、少子化対策などやめて、日本の人口を今の半分ぐらいに減らし、名実ともに小国として暮らす道を選ぶという手もあるかもね。まあ、どれぐらいの日本人がそれに賛成するかよくわかりませんが(^^)。

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運命に対し謙虚であるということ

 山田太一氏の「頑張れば夢かなうは幻想、傲慢」という記事や、小飼弾氏の「自己責任から自己権利へ」という記事が、最近ネット界でちょっとした話題となった。この議論をなんとなく追っかけていて、一つだけ大きな違和感を感じた。それは、彼らの議論には、人間の生がはらむ避けがたい「不確実性」に対する感受性が足りないのではないかということだ。

 山田氏が言うまでもなく、努力すれば必ず成功するというのはウソである。人間の知や能力は有限であるがゆえに、努力はせいぜい成功の確率を高めることしかできない。こう言われると首を傾げる人だって、予測不能の自然災害や、原因不明の重病にかかった人を見れば、それは自己責任だとか本人の努力が足りないせいだとは、決して言わないはずである。

 にもかかわらず、なぜ人はしばしばこのような不確実性の存在を忘れがちなのであろうか 。それはたぶん、人間がしばしば確率的現象と因果律的現象を取り違え、確率の中に勝手に因果律を読み込む癖があるからだと思われる 。

 たとえば、サイコロで6を10回出し続ける確率は約6千万分の1だが、6千万人がサイコロをふれば、一人ぐらいはそういう人がいてもおかしくはない。その結果は、他の6千万人にとってはあくまで6千万分の1だが、出した当人にとってはまるで1分の1であるかのようにも感じられるわけで、その瞬間、自分にはサイコロを操る奇跡の力があると思いこんでも不思議はないだろう。

(サイコロの目だって究極的には決定論で決まるんだろう、という「ラプラスの悪魔」的な考え方をする人には、決定論的でありながら予測不可能な現象の存在を証明した「カオス理論」をご紹介しておく。)

 競馬のような予想ギャンブルをやったことのある人なら、たいてい一度は経験したことがあると思う。新しい予想法を編み出したら、とたんに馬券がズバズバ当たり続けるので、自分はひょっとして競馬の天才かもしれないと有頂天になるのだが、しばらくしたらちっとも当たらなくなって、単なる偶然だったと悟ることが。

 もちろん、こういうのは努力と無関係にほとんど偶然だけで決まる例であるが、そのような場合ですら、当人は努力の産物であると錯覚することはままあるのである。

(ちなみに、競馬は期待値が1以下だから絶対に儲からない、という俗説は必ずしも正しいとは言えない。なぜかというと、競馬のオッズというのは、あくまで人間が予想した馬の人気に過ぎず、実際に馬が勝利する確率ではないからだ。オッズが勝率と一致するというのは、金融工学でいうところの効率的市場仮説に相当する仮説であるが、おそらくこれを立証した人は誰もいないだろう。ということは、他人より予想能力のある人にとっては、競馬で儲かる可能性は否定されていないのである。閑話休題。)

 同じように、人生というものは一回きりであるから、成功者の「成功」のどこまでが努力の産物で、どこまでが単なる幸運の産物であるかを、統計的に厳密に検証することはかなり難しい。したがって、実際に努力して成功した本人は、努力が必然的に生み出した結果であると思い込みやすいし、それに文句をつけることは原理的に難しい。逆に失敗した人についても、他の人はすべてが当人の努力の欠如と思いやすいし、それに対して本人が反論することも難しいのである。

 これは前にも書いたことがあるが、たとえば、長寿世界一でギネスブックにのっていた泉重千代さんは、かなりの愛煙家だったが、もちろんこれは、タバコが身体にいいことを保証しない。 困った同僚とどうつきあうべきかという問題にしてもそうである。人間は話せばわかるというのは、統計的な一般論としては正しい。しかし、個別のケースにおいて、そこに登場する同僚が、例外的な極悪人間でないということが、なぜ簡単に断定できるのだろうか。

 山田太一氏が、成功者の伝記だけでなく、失敗者の伝記も若者に読ませたほうがよいといっているのは、そういう意味である。 それに対する批判として、失敗者の伝記には、必ず何か失敗した原因が書かれているはずだから、「可能性のよき断念」にはつながらないはず、と主張している人がいたが、これこそが人生の不確実性を無視してすべてを決定論でとらえようとする発想なのである。

  実際、世の中には、できる限りの努力をしたにもかかわらず成功できなかった人がたくさんいるはずなのだが、今の世の中では、そういう人たちの経験談が若者の目に触れやすい場所に出てくる機会が少ない。したがって、そういう人たちの経験を知らしめた方が、若者も将来についてバランスのとれた判断ができるはず、というのが山田氏の言いたいことであろう。

 小飼弾氏の主張に違和感を感じたのもそこである。他人の不幸に対して、必ず本人に原因があるはずだという決め付けには、不確実性に対する感受性が欠けている(これは実は、本人より社会や国家が原因だと決め付けている批判者も同様なのであるが)。 もちろん、原因や責任をきっちり究明した上で誰かを批判するのはかまわない。しかし、ちょっと話を聞いたぐらいで、アプリオリに本人に原因を帰するのは、傲慢の謗りを免れないと思うのだ。

 ぼくがこのような不確実性に対する感受性の欠如を感じるのは、実はこの2つの例だけではない。経済一般についての議論でも感じることがある。

 そもそも、努力や能力があれば必ず経済的に成功するのであれば、資本など不要であるとすら言えるかもしれない。金融工学の教えるところによれば、リスクとリターンは比例する。つまり、付加価値の大きい生産をしようとすれば、必然的にリスクをとらなくてはならない。言うまでもなく、リスクというのも不確実性の一種である。

 実は、努力を必要とするようなことは、たいていハイリスクである。 なぜなら、努力というのは基本的に、目先の利益を放棄するかわりに、将来により大きな利益を得ようとする行為だからだ。利益を時間的に先送りすれば、その間には不確実性が入り込むことはほとんど自明である。同じように考えれば、たぶん、目的のはっきりしている応用研究より、目的のわからない基礎研究の方がハイリスクだと思われる。こういう行為が何か「堅実」なことであるように思われているのは、社会がそういう仕組みをつくってリスクヘッジしているからなのであって、行為そのものはハイリスクなのである。

 われわれは、リスクをとらなければ社会全体のパイを大きくすることはできない。これは、成熟社会になればなるほどそうなると思われる。そこで個人はある意味、自分のためだけではなく、社会のためにリスクをとらされているのだ。

 あえて極論を言えば、不確実性のある生産というのは、1回の1の目を出すために、6人でサイコロを振るようなものだと言える。 そう考えれば、因果律的に1の目を出したのは一人だけだったとしても、確率的な意味では6人の共同作業であるとみなすこともできるだろう。

 もちろん、これは偶然性を極端に誇張した例であって、実際には、努力によって成功確率を上げられる部分もある。したがって、大きな付加価値のある生産に成功した人は、社会から一定の敬意を受けてもよい。しかし、先に述べたように、人生において努力が100%で偶然が0%ということがほとんどあり得ないとするなら、社会は、失敗した者に対しても、同じ社会で生きる者としての一定の敬意を払えるはずである。

 ぼくは、収入格差はあってもよいが、セーフティネットやベーシックインカムにはわりと賛成、という立場だが、それは、人間にとって、多少の収入の差よりも、同じ社会に生きる人間として認め合えることの方がはるかに大切だと信じているからだ。

 おそらく、昔の社会では、人生に運不運があるのは当たり前だったろう。人類は、そういう不確実性を少しでも減らし、個人が自分の意思で人生をコントロールできるような社会を目指してきた。その目標は、現代においてある程度が実現されたと言えるし、そのこと自体はよいことだったろう。しかし、その副作用として、人々は、人生のすべてを意志の力でコントロールできると過信するようになり、その結果として、不幸な人々を必要以上に蔑むようになっていないだろうか。昔の社会は、ろくな社会福祉もなく、貧乏な人もたくさんいただろうが、そういう人たちに対する人々の視線は、むしろ現代より優しかったかもしれない。

 そういう意味で、ぼくは経済的な成功者の方々がいくらフェラーリを乗り回そうと女子アナと鍋パーティをやろうとかまわないが、運命に対する謙虚さだけは持ち続けてただきたいと思うのである。

 "There, but for the grace of God, goes Sherlock Holmes."

- The Boscombe Valley Mystery by Arthur Conan Doyle.

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ウ○コは美しいか?

ある保健団体にて

  • 保健団体職員 A: あーっ、すっきりした。今日も快便快便。
  • 保健団体職員 B: ぼくらがこうやって健康に暮らせるのも、老廃物を毎日規則正しくウ○コとして排泄しているおかげだよな。
  • 保健団体職員 A: そうそう。それにしては、ウ○コってなぜか軽んじられているよな。
  • 保健団体職員 B: その通りだな。なにかというと汚いとか臭いとか。
  • 保健団体職員 A: そうだ、この現状を変えるために、ウ○コの大切さを大々的にキャンペーンしようじゃないか。

ある鉄道会社の広告担当部署にて

  • 保健団体職員: すいません。電車内に広告を出したいんですが。
  • 鉄道会社職員: はいはい。どんな広告でございましょうか。
  • 保健団体職員: 一応、デザインはもうできてるんです。これなんですが。
  • 鉄道会社職員: ええー? なんですかこれ? ウ○コのドアップじゃないですか。
  • 保健団体職員: そうです。ウ○コの大切さを世の中に広くアピールしようというキャンペーンなんです。どうです、美しいでしょう。
  • 鉄道会社職員: ってあなた、こんなもん電車内に貼れるわけないじゃないですか。
  • 保健団体職員: え、なぜですか?
  • 鉄道会社職員: なぜってあなた。こんなもんを見たら、乗客が不快に思うじゃないですか。
  • 保健団体職員: ウ○コが不快? じゃああなたはウ○コをしないんですか。私に明日からウ○コをするなとでも言うんですか。人類はもう何百万年もウ○コをし続けてきた。その歴史と伝統を否定するのか。
  • 鉄道会社職員: いや、誰もそんなこと言ってませんよ。ウ○コをする人が不快なんじゃなくて、ウ○コの写真を公の場所に掲示することが不快だと言ってるんです。
  • 保健団体職員: 同じことだろう。あなたは自分以外の価値観を認められない保守的な人間に違いない。だから、心の中でウ○コをする人を差別しているのだ。これは、ウ○コをする全人類に対する差別であり、リベラルな価値観に対する挑戦だ。
  • 鉄道会社職員: えーっ? (さっきは歴史と伝統とか言ったくせに…)困ったなあ。あなたちょっと落ち着いてくださいよ。
  • 保健団体職員: いや、許せない。このことはマスコミ各社にリークしてやる。覚悟しておけ。

あるリベラル系のニュース番組にて

  •  ニュースキャスター: 某鉄道会社がウ○コのポスターを拒否したことは大変な騒ぎになっています。このことに対する抗議の意を示すために、広告主の保健団体は、この地で公開ウ○コ排泄イベントを開くことになっており、多くの人が見物に詰め掛けています。
  • リポーター: あなたはなぜこのイベントを見に来たんですか?
  • 見物客: ホントのこと言うと、わたしは、今までずっとウ○コを汚いものだと思い続けてきたんです。でも、よく考えたら、それってなんの根拠もないことじゃないですか。あの、よくわからないけど、きょ、きょーどーげんそーとか、ば、ばいお・ぽりてぃっくすとかゆーのに、そう思い込まされていただけじゃないかと思うんです。だから今日は、本当にウ○コが汚いかどうか、この目で確かめにきたんです。

(保健団体職員が一斉に排便する映像。一応モザイク付き)

  • リポーター: 実際に見てどう思いましたか?
  • 見物客: ぜんぜん汚くなかったです。みんなの前で堂々としてるのはむしろ美しかった。今までコソコソしてたから汚らしく見えたんですね。わたしは間違ってました。明日からウ○コを身体中にくっつけて歩きます。

あるふつーの家庭にて

  • 夫: あーっ、すっきりした。今日も快便快便。
  • 妻: あなたはホントにウ○コするの好きねえ。いっそ家中にウ○コの写真でも飾ったらどうかしら。
  • 夫: 何をバカなことを言ってるんだよ。あははははは…。
  • 妻: やーだ、冗談だってば。ほほほほほ…。

 あまり野暮な解説はしたくないのだが、この話の肝は要するに、何が快か不快かは、特に性的な行為に関しては、社会的文脈によって大きく変わるというところにある。ぼくは女子校生の短すぎるミニスカートが不快だ不快だといい続けているが、もちろん、ベットの中でぼくだけに見せてくれるのであれば、大歓迎なのである。そんなのは、矛盾でもなんでもなく当たり前のことである。くだんの祭りの人だって、年がら年中裸でいるわけでもあるまい。

 確かに、なぜそうなるのか、というメカニズムを説明することは簡単ではない(そういう理屈は、哲学者が「性の両義性」とか言って研究してるので、興味のある人は調べて欲しい)。しかし、多くの人は、説明はできなくても、性的にふるまうべき場所とそうでない場所を自然に区別することができる。

 もちろん、その区別が永遠普遍の真理ではなく、時代や社会によって変わりうるのも確かだ。しかし、くだんの祭りについて言えば、地元だけで合意の上でやっている分には、誰も文句を言う人もいなかったはずである。それをよその場所でも宣伝しようとすれば、地元以外の価値観と衝突する可能性がでてくるのは当然である。それを無条件に受け入れろというのは、むしろ、宣伝する側がよそ様に自分の価値観を押し付けているということになってしまうだろう。

 あの祭りの宣伝に問題がないと思う人は、たとえば、川崎のかなまら祭りのような祭りの写真を、鉄道構内に貼れると考えるだろうか。もしそれがダメだとするなら、いったいどこでその線引きをするのか。考えてみてもらいたい。

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