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芸術は理学、娯楽は工学

 芸術とは何か、という議論は、文明発祥のころからあるふる~い議論で、しかもいまだに万人を納得させるような結論が出ていない問題である(らしい)。今から、そういう万古普遍の問題に、ぼくみたいな凡人がこの場で結論を出してしまうという蛮勇芸をやるので、仕上げをごろうじろ(^^)。

 ぼくらの若い頃の芸術観は、基本的に、権威主義から相対主義という流れだった。その反動からか、最近の若い人たちの芸術に対する考え方は、相対主義から芸術的価値論に戻りつつあるような気配がある。

 もちろん、そのこと自体はまったく悪いとは思わないのだが、彼らの議論を見ていると、芸術的価値論を語るために必要な、美学理論の歴史や概念に対する知識が、少々不足している人が多いように感じられる。

 先日取り上げたケータイ小説の話なんかでもそうで、こんなのは小説・芸術ではないという意見を言うことはべつにいいのだが、それを根拠付けるのが、結局は、過去の名作とされる作品との比較だったりする。

 しかし、言うまでもないことだが、芸術の歴史は芸術的価値観の変化の歴史でもあるので、過去の名作に似ていないことが、単純に駄作の証明になるわけではない。だから、そういう人は、これは新しい時代の芸術であって、それが理解できない奴の方が時代遅れだという、太古の昔からある主張にすらうまく反論できなかったりする。

 したがって、芸術もエンターテイメントも同じだというような一種の相対主義を排しつつ、積極的に芸術的な価値を主張するためには、過去の一流の芸術作品との類似性などという安易な考え方ではない、もっと本質的な芸術の定義を考えなければならないのである。

 実は、これから披露するぼくの芸術に対する考え方の基本は、前にも書いたことがあるけど、山崎正和氏が「芸術・変身・遊戯」などでしている主張や、 山形浩生氏が「アート・カウンターパンチ」 でしている主張と(たぶん)だいたい同じ。もちろん、両氏はぼくのようにズボラではなく、ちゃんと美学理論の歴史を踏まえた議論をしているので、詳しく知りたい人はそちらを参照して欲しいが、両氏の主張をぼく流に大雑把にまとめれば、「芸術とは発見である」ということになる。

 発見する対象は、知覚を通じて人間に影響を与えるものなら、なんでもよい。感動するもの、美しいもの、泣けるもの、笑えるもの、怖いもの、そのどれにも分類しにくい不思議な感情を与えるもの、すべてが芸術でありうる。(したがって、人生の意味をマジメに考えるのが文学で、冒険活劇がエンターテイメント、みたいな分け方ももちろん間違い。)

 たとえば、「人を感動させるものが芸術である」、というありがちな主張があるが、これは、ぼくに言わせれば間違いである。ぼくの定義では、芸術と言えるのは、あくまでも、何が人を感動させるかを「発見する」行為の方であって、「感動」の方は、あくまでその発見の副産物にすぎないのだ。

 もちろん、何が人を感動させるかを発見すれば、その知見を利用して人を感動させることもできるようになる。したがって、そのように、芸術的行為によって発見した方法を使って、人を感動させることを目的に作られた作品がエンターテイメントである、と定義することができよう。

 この関係を科学分野に置き換えれば、芸術は理学、エンターテイメントは工学に相当するということになる。理学というのは、科学的な方法で自然界の法則を「発見」することを目的とする学問であるし、工学というのは、理学によって発見した法則を利用して、人の役に立つものを作ることを目的とする学問だからだ。

 ただ、同じ「発見」が目的と言っても、理学と芸術では方法が違う。たとえば、「感動」の原因を発見するにしても、理学では、ニューロンがどうのシナプスがこうのと、要素に還元して説明しようとするのに対し、芸術では、実際に人を感動させる作品を創作して鑑賞させるという、一種の人体実験を行うわけだ。

 ここで注意すべきは、エンターテイメントの方も、実際に人を感動させる作品を作るという点においては芸術と同じだということ。芸術とエンターテイメントの区別が、理学と工学などの区別に比べて難しいのは、これが理由であると考えられる。

 また、このたとえでもわかるように、芸術とエンターテイメントは、必ずしも価値的に上下の関係にあるわけではなく、むしろ、それぞれ別個の価値基準によって評価されるべきものだと言える。これは決して単なる価値相対主義ではない。なぜなら、どちらの価値基準でも高く評価できる作品もあれば、どちらの基準でも低くしか評価できない作品もあるのだから。

 ここまで読んで、そりゃお前が勝手に決めた定義だろう、と思う人もいるかもしれないが、この定義は、芸術やエンターテイメントに対する常識的な共通認識を整合的に理論化したものにすぎない。その証拠に、一般に芸術とエンターテイメントの違いとして認識されていることのほとんどが、この定義から導き出せる。以下それを少しやってみせよう。

 このような前提から必然的に導かれるのは、芸術作品は歴史的に一回性のものであるということだ。つまり、結果としてまったく同じ作品であっても、芸術的行為と言えるのは、歴史上初めてその作品を創作する行為だけであって、二回目以降の模倣はすべて娯楽作品になる。逆に、エンターテイメントは、現在の鑑賞者を感動させることが目的なのだから、歴史性よりも同時代性で評価される。つまり、芸術としては模倣にすぎなくても、同時代のエンターテイメントとしの価値は上ということがありうるのだ。

 例としてぼくがよく挙げるのはヒッチコックの映画。ぼくより上の世代では、ヒッチコックの映画は名作ということになっているらしいのだが、ぼくはどうしても、ヒッチコックの映画でそれほど感動することができない。なぜなら、どうしてもテレビでやっているなんとかサスペンス劇場と同じじゃん、と感じてしまうからだ(^^)。

 もちろん、ヒッチコック映画とその手のテレビドラマでは、お金や労力の掛け方がかなり違うので、ヒッチコックの方が映像が美しく、脚本もよくできている、ということぐらいはわかるのだが、それはあくまで頭で理解しているだけであって、純粋に作品を鑑賞しただけで感動することはできないのである。この話をぼくと近い世代の人にすると、たいてい同意してくれるので、これは決してぼくの独りよがりや感受性の貧困のせいではないと思う。

 この現象を、ぼくの理論で説明するとこうなる。ヒッチコックの映画は、最初に創作された時点では、新たな感動の発見であると同時に、人を感動させる方法でもあった。つまり、芸術でもありエンターテイメントでもあった。ところが、後の世になって、ヒッチコックが発見した「感動の方法」を利用したエンターテイメント作品が大量に製作された結果、多くの人がその感動に飽きてしまった。その結果、ヒッチコックの映画は、現代のエンターテイメントとしては成立しなくなってしまったというわけだ。

 またこの理論から、一般に、芸術はハイリスクであり、エンターテイメントはローリスクであるということも言える。なぜなら、芸術はまず作者を対象とした人体実験として行われるので、仮に作者自身を感動させたとしても、必ずしも万人を感動させる保証はない。それに対し、多くの人を感動させることが確認済みの技術で製作されるエンターテイメント作品は、史上初めての感動を提供する芸術作品に比べて感動の鮮度は低いかもしれないが、感動させることに失敗するリスクは低いからだ。

 したがって、先ほど、芸術とエンターテイメントに上下はないと言ったが、少なくとも、現代のような商業芸術の時代においては、芸術家よりエンターテイナーの方が安定した収入を得やすい、ということは言えそうである。たぶん、芸術家よりエンターテイナーの方が社会的地位が低いのは、その裏返しなのだろう。逆に、現代の芸術家がハイリスクに見合ったハイリターンを得るには、リスクをヘッジしてくれる資本家が必要なはずで、これで一時よく言われたパトロン待望論も説明できるわけだ。お後がよろしいようで(^^)。

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