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emo を騙せるかな?

 昨日紹介した emo のプロフィール、たった一日で「議論が好きなエモエモしたボス」に変わっていた(^^)。

 このシステムはたぶん、形態素解析はしていると思うが、その上の構文解析やセマンティクスまではやっていないと思うので(そんな技術があったら、もっと他のことに生かしているハズ(^^))、語尾の「するように」とかに反応しているだけじゃないかと思う。

 だから、よくわかんないけど、たとえばこういう文体に変えてみたら、emo を騙せるんじゃないかしら? とかおもうんだけど、どうかなあ?(^^) 実はあんまり自信ないんだけど。

 どうかなあ。どうかしら。わかんない。なんつったりして。あれかな。こうかな。どうかな。(^^)

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emo に登録してみた

 ブログの文章を勝手に分析して、書き手のプロフィールを作ってくれる emo というサービス。 早速登録してみました。結果を知りたい物好きな人は、この下のアイコンをクリック。

 本人の感想としては、まあまだ 1 日分くらいしか分析していないにしては、意外とマトモなこと言ってるかなと思いました(^^)。

 特に、

他人のことよりも自分の感情を優先するので、ときには冷酷な人だと思われることもあるでしょう。また内向的で、ココロにあるものをなかなかコトバにしないので、周りがフラストレーションを感じることも。

この部分はかなり当たっているかも知れない。自分でもちょっとドキッとしてしまいました(^^)。逆に、

他人の心理や感情を汲み取るのが得意で、どんな些細な変化も
敏感に察知します。

というのはどうなんかなと。私を個人的に知っている方々に聞いてみたいような気もします(聞きたくないような気もします)。

 特筆したいのは「ココロの傾向」。ほら、やっぱりこんなに直感派じゃないですか! ぼくのこと理屈っぽいとか思っている人、認識を改めるように(^^)。 

 まあでも、こういう心理分析っぽい文章を考えるのにも、いろんなテクニックが入りそうですね。なんとなく誰もが気にしてそうな欠点をオブラートにくるんでゆるく指摘しつつ、決定的に相手の機嫌を悪くしないように適度なほめ言葉を付け加える。みたいな(^^)。

 占い師とかも、当たるとか当たらないとかより、ホントはそういうテクニックの方が重要なんでしょうね。

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Google がまた勝手に仕様を変えやがったらしい

 フィードリーダーとしては、かなり前から Google Reader を愛用しているのだが、このリーダーには一つ大きな問題がある。それは、FireFox のフィード管理機能と連携していないことだ。

 FireFox には、表示中のページの中にある [RSS] のようなフィードアイコンをクリックすると、そのフィードを自動的にユーザーの好きなフィードリーダーに登録してくれる機能がある。しかし、登録できるリーダーの選択肢はあらかじめ決まっていて、Yahoo! や Blogline などは選べるのだが、その中に Google Reader は含まれていなかった。一応 Google という選択肢もあるのだが、ここから登録できるのは、iGoogle の方で、なぜか Google Reader には登録できなかったのだ。

 しかし、こんな有名なリーダーが FireFox で使えないはずはない。なんとかなるはずだと検索してみたところ、このえむもじらさんの公開している記事を発見した。この記事によると、about:config 経由で直接選択肢を書き換えれば Google Reader を選択肢に入れることができるらしい。

 「about:config」というのは、擬似 URL みたいなもので、この文字列を URL の代わりに FireFox のロケーションバーに入力すると、Firefox の内部設定が表示されるようになっていて、その中には、[オプション] などの GUI からは変更できない隠し設定のようなものも含まれているというわけだ。

 フィードリーダーの選択肢を設定しているのは、browser.contentHandlers という名前の設定で、browser.contentHandlers.types.N.title が [オプション] に表示されるリーダーの名前、browser.contentHandlers.types.N.uri が、登録を行ったときに呼び出されるリーダーの URL になっている。(ただし、N は選択肢の番号になる。)

 iGoogle だったら、この URL が、「http://www.google.co.jp/ig/add?feedurl=%s」になっているので、これを「http://www.google.com/reader/finder?q=%s」に書き換えれば、iGoogle の代わりに Google Reader に登録できるようになるというわけだ。

 やってみると、この方法は見事に成功。そこでしばらくはこれを利用していたのだが、ある時から、この方法ではまた Google Reader に登録できなくなってしまった。どうやら、Google の方で、「http://www.google.com/reader/finder」という CGI を廃止してしまったらしい。

 仕方がないので、試しに「http://www.google.co.jp/ig/add?feedurl=%s」の方に戻してみたところ、いつの間にか選択画面が表示されるようになっていて、そこからリーダーとして iGoogle と Google Reader の好きな方を選べるようになっていたので、しばらくはこの方法を利用していた。

 ところが昨日になって、久しぶりに新しいフィードを登録しようとして驚いた。なんと、またしてもこの選択画面が表示されなくなっていて、iGoogle しか選べないようになっているではないか!

 これで八方塞か? しかしそんなはずはないと思い、再び検索して調べてみたところ、Google Reader にする登録するための CGI には、「http://www.google.com/reader/finder?q=%s」のほかに「http://www.google.com/reader/view/feed/%s」というのがあるということがわかった。

 そこで、祈るような気持ちでこの方法を試したところ、見事成功。なんとかふたたび、FireFox から Google Reader に直接フィードを登録できるようになったというわけだ。まったく手間をかけさせやがるぜ(^^)。

 まあ、この CGI は、Google が公式に API として公開しているわけではないようなので、勝手に使っている奴が悪いという論法も成り立つのであるが、それにしても、これほど影響範囲の広いインターフェースをあまり頻繁に変更するのもどうかと思う。Google も大企業になって少し天狗になってるのではないか?

 そもそも、この Google Reader というソフトは、得に出来が悪いわけではないのに、なぜか当の Google からもマイナー扱いされている嫌いがある。ひょっとすると、開発部隊が Google 社内で傍流だとか嫌われ者だとか、なんかそういう事情があるのではないかと勘ぐりたくなってしまうのだが(^^)。

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ゴロ寝 de スク購入

サンコ- ゴロ寝 de スク アルミ GORODE51  PC 関係の王様のアイデアとも言うべきサンコーレアモノショップから、「サンコ- ゴロ寝 de スク アルミ」を購入。ノートパソコンを寝ながら操作できるという、ジダラクなわたくしにピッタリの商品である(^^)。どこかのブログで「ダメ人間養成ギブス」とか言っていたが、言いえて妙である。

(関係ないけど、王様のアイデアっていつの間にか閉店してたんですね。この Wikipedia の記事を見るまでしらなかったよ。まあ、ネットショッピングでいろいろ手に入る時代だから、無理もないか。)

 使い方は、このページの写真を見た方がわかりやすいと思うが、仰向けになって寝そべった自分の身体の上にこの机をまたがらせて、その上にノートパソコンを置くという方式。机の手前側の縁にはゴムの滑り止めが付いているので、机の上面を 45 度程度まで傾けても、ノートパソコンは落下しないですむようになっている。

 これまでも、寝転んだままノートパソコンで作業することはあったのだが、そのときには、ノートパソコンを床に置いて、うつ伏せになって操作する形をとっていた。やったことのある人にはわかると思うが、このやり方だと、肘の血行が悪くなって、だんだん肘がしびれてくる。だから、ときどき肘を床から解放して休ませなくてはならず、そんなに長時間は作業を続けられない。

 この商品を使うと、仰向けになって作業ができるので、そのような問題は確かに解消される。逆にこの姿勢に問題があるとすれば、むしろ首の位置で、この写真のように、かなり大きめの枕を置いて首を持ち上げておかないと疲れる。幸い我が家にはテンピュールの枕があるので、これをベットの板にたてかけるような感じで置くと、ちょうどよいことがわかった。

 予想外だったのは、ご覧のように、脚の可動箇所が左右に3箇所ずつもあるので、最適な形を決めるまでに結構手間がかかることだ。しかも、左右の脚が連動していないので、左右の形を合わせるのにも気を使う。一応、折りたたむと一枚の板になって、どこにでも収納できることになっているのだが、いったん折りたたんでしまうと、形を元に戻すのが面倒なので、結局、自分の気に入った形のまま置いてある。これだと、使っていないときには結構邪魔である(^^)。

 と多少の不満はあるものの、寝たままパソコンで作業できるという謳い文句に偽りはないし、値段もたいしたことがないし、他にあまり類似の商品もないので、買ったことは後悔していない。特に、病気がちで起きるのが辛い在宅ワーカーの人なんかは、ダメモトで買ってみてもよいのではないだろうか。

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芸術は理学、娯楽は工学

 芸術とは何か、という議論は、文明発祥のころからあるふる~い議論で、しかもいまだに万人を納得させるような結論が出ていない問題である(らしい)。今から、そういう万古普遍の問題に、ぼくみたいな凡人がこの場で結論を出してしまうという蛮勇芸をやるので、仕上げをごろうじろ(^^)。

 ぼくらの若い頃の芸術観は、基本的に、権威主義から相対主義という流れだった。その反動からか、最近の若い人たちの芸術に対する考え方は、相対主義から芸術的価値論に戻りつつあるような気配がある。

 もちろん、そのこと自体はまったく悪いとは思わないのだが、彼らの議論を見ていると、芸術的価値論を語るために必要な、美学理論の歴史や概念に対する知識が、少々不足している人が多いように感じられる。

 先日取り上げたケータイ小説の話なんかでもそうで、こんなのは小説・芸術ではないという意見を言うことはべつにいいのだが、それを根拠付けるのが、結局は、過去の名作とされる作品との比較だったりする。

 しかし、言うまでもないことだが、芸術の歴史は芸術的価値観の変化の歴史でもあるので、過去の名作に似ていないことが、単純に駄作の証明になるわけではない。だから、そういう人は、これは新しい時代の芸術であって、それが理解できない奴の方が時代遅れだという、太古の昔からある主張にすらうまく反論できなかったりする。

 したがって、芸術もエンターテイメントも同じだというような一種の相対主義を排しつつ、積極的に芸術的な価値を主張するためには、過去の一流の芸術作品との類似性などという安易な考え方ではない、もっと本質的な芸術の定義を考えなければならないのである。

 実は、これから披露するぼくの芸術に対する考え方の基本は、前にも書いたことがあるけど、山崎正和氏が「芸術・変身・遊戯」などでしている主張や、 山形浩生氏が「アート・カウンターパンチ」 でしている主張と(たぶん)だいたい同じ。もちろん、両氏はぼくのようにズボラではなく、ちゃんと美学理論の歴史を踏まえた議論をしているので、詳しく知りたい人はそちらを参照して欲しいが、両氏の主張をぼく流に大雑把にまとめれば、「芸術とは発見である」ということになる。

 発見する対象は、知覚を通じて人間に影響を与えるものなら、なんでもよい。感動するもの、美しいもの、泣けるもの、笑えるもの、怖いもの、そのどれにも分類しにくい不思議な感情を与えるもの、すべてが芸術でありうる。(したがって、人生の意味をマジメに考えるのが文学で、冒険活劇がエンターテイメント、みたいな分け方ももちろん間違い。)

 たとえば、「人を感動させるものが芸術である」、というありがちな主張があるが、これは、ぼくに言わせれば間違いである。ぼくの定義では、芸術と言えるのは、あくまでも、何が人を感動させるかを「発見する」行為の方であって、「感動」の方は、あくまでその発見の副産物にすぎないのだ。

 もちろん、何が人を感動させるかを発見すれば、その知見を利用して人を感動させることもできるようになる。したがって、そのように、芸術的行為によって発見した方法を使って、人を感動させることを目的に作られた作品がエンターテイメントである、と定義することができよう。

 この関係を科学分野に置き換えれば、芸術は理学、エンターテイメントは工学に相当するということになる。理学というのは、科学的な方法で自然界の法則を「発見」することを目的とする学問であるし、工学というのは、理学によって発見した法則を利用して、人の役に立つものを作ることを目的とする学問だからだ。

 ただ、同じ「発見」が目的と言っても、理学と芸術では方法が違う。たとえば、「感動」の原因を発見するにしても、理学では、ニューロンがどうのシナプスがこうのと、要素に還元して説明しようとするのに対し、芸術では、実際に人を感動させる作品を創作して鑑賞させるという、一種の人体実験を行うわけだ。

 ここで注意すべきは、エンターテイメントの方も、実際に人を感動させる作品を作るという点においては芸術と同じだということ。芸術とエンターテイメントの区別が、理学と工学などの区別に比べて難しいのは、これが理由であると考えられる。

 また、このたとえでもわかるように、芸術とエンターテイメントは、必ずしも価値的に上下の関係にあるわけではなく、むしろ、それぞれ別個の価値基準によって評価されるべきものだと言える。これは決して単なる価値相対主義ではない。なぜなら、どちらの価値基準でも高く評価できる作品もあれば、どちらの基準でも低くしか評価できない作品もあるのだから。

 ここまで読んで、そりゃお前が勝手に決めた定義だろう、と思う人もいるかもしれないが、この定義は、芸術やエンターテイメントに対する常識的な共通認識を整合的に理論化したものにすぎない。その証拠に、一般に芸術とエンターテイメントの違いとして認識されていることのほとんどが、この定義から導き出せる。以下それを少しやってみせよう。

 このような前提から必然的に導かれるのは、芸術作品は歴史的に一回性のものであるということだ。つまり、結果としてまったく同じ作品であっても、芸術的行為と言えるのは、歴史上初めてその作品を創作する行為だけであって、二回目以降の模倣はすべて娯楽作品になる。逆に、エンターテイメントは、現在の鑑賞者を感動させることが目的なのだから、歴史性よりも同時代性で評価される。つまり、芸術としては模倣にすぎなくても、同時代のエンターテイメントとしの価値は上ということがありうるのだ。

 例としてぼくがよく挙げるのはヒッチコックの映画。ぼくより上の世代では、ヒッチコックの映画は名作ということになっているらしいのだが、ぼくはどうしても、ヒッチコックの映画でそれほど感動することができない。なぜなら、どうしてもテレビでやっているなんとかサスペンス劇場と同じじゃん、と感じてしまうからだ(^^)。

 もちろん、ヒッチコック映画とその手のテレビドラマでは、お金や労力の掛け方がかなり違うので、ヒッチコックの方が映像が美しく、脚本もよくできている、ということぐらいはわかるのだが、それはあくまで頭で理解しているだけであって、純粋に作品を鑑賞しただけで感動することはできないのである。この話をぼくと近い世代の人にすると、たいてい同意してくれるので、これは決してぼくの独りよがりや感受性の貧困のせいではないと思う。

 この現象を、ぼくの理論で説明するとこうなる。ヒッチコックの映画は、最初に創作された時点では、新たな感動の発見であると同時に、人を感動させる方法でもあった。つまり、芸術でもありエンターテイメントでもあった。ところが、後の世になって、ヒッチコックが発見した「感動の方法」を利用したエンターテイメント作品が大量に製作された結果、多くの人がその感動に飽きてしまった。その結果、ヒッチコックの映画は、現代のエンターテイメントとしては成立しなくなってしまったというわけだ。

 またこの理論から、一般に、芸術はハイリスクであり、エンターテイメントはローリスクであるということも言える。なぜなら、芸術はまず作者を対象とした人体実験として行われるので、仮に作者自身を感動させたとしても、必ずしも万人を感動させる保証はない。それに対し、多くの人を感動させることが確認済みの技術で製作されるエンターテイメント作品は、史上初めての感動を提供する芸術作品に比べて感動の鮮度は低いかもしれないが、感動させることに失敗するリスクは低いからだ。

 したがって、先ほど、芸術とエンターテイメントに上下はないと言ったが、少なくとも、現代のような商業芸術の時代においては、芸術家よりエンターテイナーの方が安定した収入を得やすい、ということは言えそうである。たぶん、芸術家よりエンターテイナーの方が社会的地位が低いのは、その裏返しなのだろう。逆に、現代の芸術家がハイリスクに見合ったハイリターンを得るには、リスクをヘッジしてくれる資本家が必要なはずで、これで一時よく言われたパトロン待望論も説明できるわけだ。お後がよろしいようで(^^)。

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PLUTO 5

PLUTO 5―鉄腕アトム「地上最大のロボット」より (5) (ビッグコミックス) 「PLUTO 5」を購入。なんと、セブンイレブンの棚一段を完全占拠していたので、最近のマンガの中でも売れている方なのだろう。 ゲジヒトが○○○○したというネタでしばらくひっぱるのかと思ったら、そのネタは前フリにすぎなかったらしい。手塚原作キャラとしては、新たに○○○○○も登場するが、まだ登場しただけで、たいした見せ場はなし。

 この作品の成功の鍵は、「ロボットの心」をどれだけリアリティを持って描けるかだと思っているのだが、その関連で新たに出てきたキーワードが、「偏った感情の注入」。

 実はこれ、たまたま最近読んだベルクソンの自我論とか、それを批判的に引用している山崎正和氏の自我論とかに、ちょっと似てるんだよね。あと、「ほぼ日」で最近、脳科学者の池谷裕二さんの睡眠論連載してるんだけど、そこで知った「起きているときに活性化しているニューロンは 30% ぐらいなのだが、睡眠中で意識がないときには 100% 活性化している」という話も思い出した。

 そんなこともあって、これまで読んだ限りでは、浦沢氏の「ロボットの心」の描き方には、現代の哲学や AI 理論の水準を踏まえてもリアリティを感じさせるものがあるという気がしている。ぼくは、最近あまり SF を読んでいないので、ひょっとしたら先行作品があるのかもしれないし、誰か専門家のブレーンがついているのかもしれないが、ご自身で考えているとしたら、たいしたものだと思う。

 もちろん、まだ 5 巻目なので、今後の展開次第で駄作になってしまう可能性もあるのだが、5 巻読了時点でのぼくの期待値は堅調に推移、買い推奨である(^^)。

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