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「感動」は数字の中にあるわけではない

 亀田問題が一段落したかと思ったら、落合監督がタイミングよく燃料を投下してくれたみたいで、いろんな方が舌なめずりする音が聞こえるようである(^^)。さっそく落合批判を大々的にぶち上げた評論家の方もいるようだが、ぼくは基本的に落合采配支持である。

 ぼくのスポーツ観についても何度も書いてるけど、スポーツは基本的に勝ち負け最優先の文化だと思う。人類の作った文化の中には、仕事とか芸術とか遊びとか恋愛とかいろいろあるけど、どれも必ずしも何が勝ちで何が負けなのかよくわからない世界だ。もちろん、だからこそ味わいがあるとも言えるのだけれども、不完全燃焼になりやすいところがあるのも事実である。

 そのような人類のさまざまな文化に対して、あえて人工的に勝ち負けをはっきりさせ、勝ち負けだけを目指すところにスポーツの特色があり、それが他の文化にないものを補っているからこそ、独自の存在価値を持ち続けているのである。というのは、実はほとんど山崎正和氏の受け売りなんであるが(^^)。

 この話はプロスポーツになると多少変わってきて、勝ち負けだけでなく興行収入というもう一つの目的にも配慮しなければならなくなるのは事実だ。しかし、前にも書いたように、興行に配慮しすぎた結果として、強くなくても人気がある方が儲かるようになってしまえば、スポーツは文化としては堕落し、プロレス的な娯楽になるしかないのである。

(玉木正之氏なんかは、また例によってホリエモンなんかにたとえているようだが、亀田問題でもわかるように、スポーツではむしろ、勝負より興行を優先させることが堕落につながるのであって、その堕落を防ぐためには、意識的に勝負を最優先にしなければならないのである。少なくとも、その程度は区別して論じてもらいたいものだ。)

 したがって、プロスポーツがプロレス的な娯楽に変質しないためには、まずは勝つと言うことを最優先の目的にし、それに邪魔にならない範囲で興行面にも配慮するというバランスを維持する必要がある。これがぼくが落合采配を支持する基本的な理由である。

 もちろん、これは原則論でしかないので、これだけでは納得しない人もいるだろう。そこで、落合采配を批判する方々にもう一つ言っておきたいことがある。それは、あんたら結局数字しか見てないんですか? ということだ。

 パーフェクト・ゲームというのは、記録である。もちろん、スポーツにとって記録は重要だ。しかし、それはスポーツを観戦した結果を測定して一般化する一つの方法でしかない。スポーツを観戦するという行為の本来の意味は、必ずしも記録には残らない細部にこそあるはずではなかったのか。

 これがもし、山井の球威の変化、岩瀬の調子、試合の流れなどすべてを考慮に入れた上で、交代してもそれほど勝率に変化があったとは言えないのではないか、だからあの継投策は間違いである、というならまだわかる。ところが、批判する人のほとんどは、結局、勝負と感動とどっちが大事か的なことしか言っていないのである。

 感動感動と言うけれど、一言で「感動」と言ってもいろいろあるはずだ。娯楽にたとえれば、単に記録をつぶされたと言って怒るのは、いわば、水戸黄門が印籠を出さないとか、ウルトラマンがスペシウム光線を出さないとか言って怒っているようなものにすぎない。

 もちろん、ぼくだってそういうステレオタイプな感動を全否定する気はない。しかし、いやしくもスポーツ評論家を名乗る方々であれば、仮に批判するにしても、テーマやストーリー展開などすべて分析した上で、印籠やスペシウム光線のような定番を崩してまでやる必然性はなかった、と言うべきじゃないのか。その程度のこともできない「プロ」に、偉そうに他人の仕事にケチをつける資格があるのだろうか。

 はっきり言うけど、ぼく自身は、あの落合監督のギリギリの采配を見て「感動」したし、チームのためにそれを素直に受け入れた山井を見て「感動」したし、プレッシャーの中きっちりパーフェクト・リレーを達成して見せた岩瀬に対しても「感動」した。「感動」は記録や数字の中だけにあるわけではないのだ。

 そもそも、スポーツ・ジャーナリズムの役割というのは、勝つことだけを考えて全力でプレーする選手を観察して、そこから「感動」を「発見」することにあるのであって、選手にお約束のステロタイプな感動芝居を強制することには断じてない。そんなのでいいのだったら、何もわざわざスポーツなんかやらせずに、あらかじめシナリオのある芝居でもやらせときゃいいのだから。

 だから、ぼくなんかにはむしろ、このような安易な批判が起こること自体が、スポーツ・ジャーナリズムの堕落を示していて、亀田問題なんかもその延長線上にあるように思えてしまうのだが、いかがであろうか。

(野村監督のコメントを「批判派」として紹介しているメディアが多いのだが、彼は、他の監督ならやらない采配だという趣旨のことを言っただけで、だから落合がすごいとも言っていないが、だからと言って落合はダメだとも言っていないのである。もちろん、本音では批判したいのかもしれないが、少なくとも、それを明言することは避けている。それを安直に「批判派」として引用してしまうところにも、スポーツマスコミの低劣さを感じる。だいたい、野村克也は、オールスターでイチローがピッチャーで出てきたときに松井に代打を出したぐらいで、空気読まない派の代表格のはずなのである(^^))

(追記:ぼくは野村さんの「敵は我に在り」も落合さんの「落合博満の超野球学」も読んでいるので、お二人の考え方はわりと知っているつもり。)

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