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ケータイ小説初体験

 ケータイ小説「恋空」を読んでみた(^^)。

 ケータイ小説について、賛否両論あることは知っていた。中高生には圧倒的な人気がある。しかし、従来の小説を読んできた人たちは、否定的な評価の人が多いらしい。その一方、新しい世代による新しい時代の小説として評価する人もいるようだ。どの評価が正しいのかは、つまるところ、読んで見なければわからない。それを確かめたくなったのだ。

 読了後、山田太一氏の「『オーケストラの少女』はひどい映画か?」というエッセイを思い出した。それは、指揮者の岩城宏之氏のエピソードに関するエッセイだ。岩城氏は、少年時代に「オーケストラの少女」を観て感動し、その影響で指揮者になったそうだ。ところが、大人になってからもう一度「オーケストラの少女」を観たところ、子供のときの記憶とは違って、どうしようもなくひどい映画としか思えなかった。それで氏はおおいに落ち込んでしまったという。

 このエピソードについて、山田氏はこう言う(このエッセイを収録した本は処分してしまったので、細部はうろ覚え)。おそらく、「オーケストラの少女」は、たいていの大人にとってはひどい映画なのだろう。しかし、ひどい映画だからと言って、子供に見せない方がいいとは思わない。子供というものは、大人が名作だと思うような作品で成長することはあまりなく、むしろ、俗悪な作品こそが子供を成長させることが多いからだ。現に、「オーケストラの少女」は岩城氏を指揮者にしたではないか…。(念のために補足すると、このエッセイのポイントは、名作・俗悪という価値基準自体を変更せず、にもかかわらず子供にとって俗悪は必要だ、という論法になっていることである。)

 ぼく自身も人並み以上にそうだったが、子供というのは、実にくだらないことに熱中する生き物である。マンガやテレビ番組だけのことではない。サケブタやスーパーカー消しゴムのようなよくわからないグッズ収集もそう。ぼくなんかアホだから、もっともっとくだらないこともたくさんしている。チョークを食べる。舌を三つ折にする。消しゴムのかすをまるめて練り消しゴム状にする。牛乳瓶のフタについているセロハンに穴をあけ、その穴を徐々に広げていって、しまいにはその穴をくぐる。道に落ちている刀の形をした鉄片を拾い集める…。

 どれも、文化や芸術とはなんの関係もないし、社会的な影響力もない。でもおそらく、理由はよくわからないけど、当時のぼくにとっては必要なことだったのだろう。

 「恋空」も、確かに傑作とはいいがたい。ぼく自身もそれほど感動しなかったし、客観的に観ても、後の世になって名作として再評価されるということも、おそらくないだろう。

 ただぼくは、だからと言って、この小説をそんなにムキになって批判する気にもなれないのだ。別に誰も芥川賞や直木賞をやれと言ってるわけじゃない。書きたい子が書いて、読みたい子が読んでるだけのことではないか。やれ間違った知識が書いてあるとか揚げ足とりみたいなことを言ってる人もいるけど、そんなのは大した問題とは思えない。子供を騙して金を儲けているという批判もあるが、そういう人たちだって、子供達のやることについて行けない年寄りに受けそうなことを言って金を儲けているとも言える。

 また、文学的に新しい手法とまではいかないものの、現代的な感覚を感じるところはいくつかあった。たとえば、あのリズム感を重視した行間の空け方や改行の仕方などはなかなか面白い。恋愛や友達関係の大部分がメールやケータイの会話で進行するのも、伝統的な小説ではなかったことだろう。友達同士がすぐ裏切ったりウソをついたりするのも、その後わりとあっさり仲直りするのも、ぼくの世代の感覚からするとかなり違和感があるのだが、今の子にはそれなりにリアリティを感じられるらしい。だから、これがミヤダイ先生のよくおっしゃるカジョーリュードーセーってやつなのかなあ、なんて思ったりした(^^)。

 このような点から考えても、どちらが文学的にすぐれているかという話とは別にして、ケータイ小説が、従来の小説からは得られないなにかを、今の若い子たちに与えている、ということはありそうである。

もちろん、

ぼくだって、この小説ですごく感動したとは言えない…。

でも、

だからといって、やたらムキになって悪口を言う人も、

なんだかキモいと思ってしまったんだ…。

ただ…

ひとつだけ気になること。

それは、ぼくみたいなオヤジがこんなことを書くと、

若い子にモテたいという下心がミエミエだ、

と思われそうなことなんだ…。

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veena!

 veena という音楽情報サービスに登録してみた。iTunes のライブラリ・データをアップロードすると、それを自動で解析して、その人の好きなアーティストに関する情報を、インターネット上から自動で収集してくれるサービス。

 収集できる情報も、普通の CD の新譜情報だけでなく、iTMS や Yahoo! オークションの新着情報も表示してくれるし、アーティスト関連のニュース、アーティスト自身のサイトなども表示してくれる。

 ちょっと面白いのは、YouTube の関連クリップを表示する機能で、自分の好きなアーティストに関連するビデオクリップをランダムで再生してくれる、veena! ジュークボックスというサービスもある。

 これまで新譜情報に関しては、amazon、HMV、iTMS などもろもろのサイトに登録してお知らせメールを受け取るようにしていたのだが、これからはこのサイトだけで済むかもしれない。しばらく使ってみるつもり。 

 ちなみに、ぼくのメンバーページはこちら

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菊地成孔にはまり中

大停電の夜に オリジナル・サウンドトラック  「cure jazz」が気に入ったので、菊地成孔氏の作品を(iTunesで)立て続けに購入。購入したのは現在のところ「大停電の夜に オリジナル・サウンドトラック」、「パビリオン山椒魚 オリジナル・サウンドトラック」、「南米のエリザベス・テーラー」の 3 枚。 「大停電の…」だけはワリと普通で今一つ物足りなかったが、「山椒魚」と「南米」はどちらもかなり気に入った。

 とにかく引き出しの多い人で、ジャズっぽい作品、細野晴臣的とも言えるエスニックなエキゾティシズムを感じさせる作品、フレンチポップス風の作品など、どれもそれなりによいのだが、個人的に特に気に入ったのは、ジャズと現代音楽の中間的な手法を使った作品群。

 たとえば、「南米」収録の「ホルヘ・ルイス・ボルヘス」は、初期の武満徹みたいな作風で、途中で入ってくるリズムセクションがなかったら、武満徹の作品ですよと言ってもバレないんじゃないかと思うぐらい(^^)。と言っても、決して猿マネではなく、きちんと手法として咀嚼した上で独自の作品として成立させている。

(Enigma がオルフの「カルミナ・ブラーナ」をネタにしたとき、日本でも誰か武満徹リミックスとかやればいいのに、とか思ったんだけど、ようやくそういう人が出てきたとも言えますね(^^))

 また、「山椒魚」収録の「映画女優は体操服の夢を見る」は、新ウィーン楽派のアルバン・ベルク、あるいは、その遠い継承者である(とぼくが勝手に思っている(^^))半野喜弘を彷彿とさせるような作風で、これもかなり完成度が高い。

 ちなみに、「山椒魚」には、エレクトロニカ風の音作りをした作品も何作かあるので、そういう意味でも半野氏と共通点があるなと思って調べてみたら、菊地氏と半野氏は実際に競演したこともあるらしい。さもあらんという感じである。

 ぼくは正直、ジャズという音楽ジャンルはもう袋小路なんではないかと思っていたのですが、こんな人がいるんだったら、認識を改めねばならないと思いました(^^)。 この人はたぶん、ジャズをスタイルとしてではなく、あくまで手法として捉えているんでしょう。だから、純粋にジャズをやる場合でも、惰性でやってる感じがしないように新鮮に響かせることもできるし、ジャズ的な手法を自由に他の手法と組み合わせることもできるんでしょう。そういう知的な距離感があるところがいいですね。

 菊池さんといい半野さんといい、こういう現代音楽的な手法をポップス的な手法と組み合わせて使いこなせる人がどんどん出てきたようで、頼もしい限りです。しかも彼ら新世代のアーティストには、これはゲンダイオンガク的な手法なんだぜぇ~すごいだろ~控えおろう、というようなカッコつけや権威主義がなく、単にこの手法が自分の表現に必要だから使うんだ、という率直さを保っているところがいい。今後の音楽シーンがますます楽しみになってきました。

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政党コンビニ論

 サンデープロジェクトを見ていたら、田中康夫さんが、自民党と民主党は、高島屋とイトーヨーカ堂(固有名詞はうろ覚えです)みたいになるべきなのに、実際にはそうなってないと批判していた。

 なかなかうまい例えだとは思うが、ぼくに言わせれば、氏の認識はまだ甘い(^^)。ぼくはむしろ、二大政党は、セブンイレブンとローソンぐらいの差になっていくだろうし、そうなるべきだと思っている。

 高島屋とイトーヨーカ堂というのは、高級デパートと庶民向けデパートという意味で、有権者にわかり易い選択肢を示せという主張だろうが、今の時代、平均的な有権者の政治に対する要求にそんなに差があるはずがない。それを無理に差別化しようとすれば、結局、有権者は常に同じ政党を選ばざるおえなくなって、競争にはならないだろう。一方がシェアを独占し、もう一方がニッチ政党になるだけのことだ。

 したがって、常に競争が成立するためには、コンビニのように、どの店に行っても品揃えはだいたい一緒でなければダメなのだ。一方では弁当を売っているが、もう一方では売ってないというほど大きな差があってはならない。 そのように、基本的な前提条件はだいたい一致させた上で、ちょっとだけ駅に近いとか、牛丼の肉の量がちょっとだけ多いとか、ボールペンがちょっとだけ安いとか、店員の接客マナーがちょっとだけいいとか、もっと細かいこまかーいところで争うべきなのである(^^)。

 逆に、共産党や社民党などは、それこそ、CD や DVD 専門店のような、ニッチ政党を目指せばよろしい。CD や DVD しか売ってなくても、コンビニに勝てるはずだというような変な勘違いをせず、あくまでニッチであることを自覚した戦略をとっていれば、二大政党の間でも、それなりの存在意義を維持できるはずである。

 もっとも、昔の政治家や評論家だったら、もっと八百屋と魚屋とか言っていたはずで、田中氏はそう言わなかっただけ、まだ時代を読めている方だとは思うのだが、ぼくなんかから見ると、まだまだ政党制に対するある種の幻想というか固定観念を捨てきれてないのではないかと思ってしまう(^^)。みなさんは、どちらの歴史観が当たっているとお思いになるだろうか。

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cure jazz

cure jazz  「cure jazz」というのは、1 年ぐらい前にちょっと評判になった作品で、個性派ボーカリストとして知られる UA を、ジャズ畑のサックス・プレーヤーにして音楽評論家でもある菊池成孔氏がプロデュースしたという話題作。リリース直後からショッピング・カートに放り込んであったのだが、実際に購入したのは数日前。きっかけになったのは、「爆笑問題の日本の教養」の音楽を菊池氏が担当していることを知ったからであった(そんなんばっか(^^))。

 そんなわけなので、正直ぼくは、これまであまり菊池氏の音楽を聴いたこともなかったのだが、一聴して感心したのは、ポピュラー音楽プロデューサーとしての氏のバランス感覚のよさである。

 これはぼくの偏見もおおいに含まれていると思って読んで欲しいのだが(^^)、ジャズ畑の人というのは、だいたいロックやフォークのようなポップスを馬鹿にしていて、ジャズはそういうポップスより一段高級な音楽だというプライドを持っている人が多い。だから、他人のプロデュースをする際にも、ジャズというスタイルに固執するか、逆に開き直って、売れているポップスを真似したりするのだが、それが心からいいと思ってやっていないので、ポップスとしては二級品になってしまうことが多い。

 ところがこの作品の場合、 スタイルとしては完全なコンボジャズそのものだし、取り上げている曲も半分ぐらいがジャズのスタンダードだったりするのだが、プロディースの方法論としては、一般的なポップスの方法論が踏襲されているのである。

 そのため、作品全体としては、いわゆる「どジャズ」や「どブルース」になっていないし、もちろん、手垢の付いた「フュージョン」にもなっていない。つまり、あくまでジャズでありながら、ジャズというスタイルに安易に寄りかかることなく、幅広いリスナーに対して希求力を持つような、自立した表現になっているのである。そこに、ポップス全般を幅広く批評してきた菊池氏のバランス感覚を感じる。

 たとえば、ありがちなジャズの録音では、ライブ感覚を重視するので、(たとえ実際には同録ではないとしても)同録に聴こえるようなとり方をすることが多い。しかし、この作品では、売れ線のポップスと同じような、マルチトラック・レコーディングとその後の編集による音作りが行われている。それはたとえば、「Ordinary fool」という曲のピアノにかかっているロング・ディレイなどを聴けばよくわかるだろう。

 もちろん、そのようなプロデュース・ワークを成立させているのが、UA の半端でない歌唱力であることも忘れてはならない。彼女のような、本来ジャズ畑出身ではないシンガーがスタンダードなどを歌うと、下手糞なジャズになってしまうか、自分のスタイルに引き付けすぎてしまってジャズでなくなってしまうことが多いのだが、彼女の場合、ジャズシンガーのスタイルを真似ようとするわけでもなく、自分の得意なスタイルで誤魔化そうとするのでもなく、歌が本来表現したかったものを忠実に表現しようとしているように見える。そのような姿勢が、このような奇跡的な瑞々しさを生み出す原動力になっているのであろう。

 スタイルに安易に寄りかかることが、いかに芸術をダメにするか、逆に、スタイルに依存しない自立した表現を志すことが、いかに瑞々しい作品を生み出すかということを、これほど端的に表している作品もあまりないと思う。幅広いリスナーに一聴をお勧めしたい。

 ちなみに、ぼくが一番気に入った曲は、「Music on the planet where dawn never breaks」で、こういう曲がもっと多かったら、ぼく個人の評価はもっと高くなっていたと思うが、それではやっぱり、セールス的に問題なのかもしれない(^^)。

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Ballads for the Atomic Age

BALLADS FOR THE ATOMIC AGE Radiq こと半野喜弘氏のニューアルバム「BALLADS FOR THE ATOMIC AGE」、これも遅まきながら入手。

 これはたぶん、半野氏の Radiq 名義の作品の中では、もっとも出来がよいのではないだろうか。半野氏が Radiq というプロジェクトで追求してきたスタイルが、かなり完成に近づいているのではないかという印象を受けた。

 Radiq 名義の作品が他の半野作品と最も違うところは、リズム隊である。半野氏は、確かにヒップホップやドラムンベースも手がけているのだが、これまでの作品では、ドラムやベースをあまり前面には出していなかった。特に、ブラック・ミュージック的なベースラインへのこだわりは、ほとんど感じられなかったと言ってよい。

 その半野さんが、この Radiq というプロジェクトでは、ブラック・ミュージック的なヒップなリズム隊に、律儀なまでに固執している。当初はそれが、半野さん独特のデカンダンスな和声感覚や官能的な音色と、いまひとつ噛み合っていないようにも思えたのだが、ここに来て、それがいわば半野式ブラック・ミュージックともいうべき、一つのスタイルとして結晶しつつあるようだ。

 これまで、半野氏の Rqdiq 名義の作品に関しては、中途半端なほめ方をしてきたぼくだが(それはあくまで、ぼくの半野氏に対する期待水準が半端でなく高いからであって、そんなことを言いつつも、どの作品もちゃんと購入して愛聴しているのであるが(^^))、この作品については、「Lido 」と「Angelus」の次ぐらいにはお勧めできるのではないかと思う。

 ただ、一つだけ後悔していのは、他の作品はすべて CD で購入しているのに、この作品だけ iTMS で購入してしまったこと(忙しかったんです(^^))。エレクトロニカ作品は一般にそうなのだが、特に半野さんの作品では、音色の官能性が芸術的な強度を支えており、その美しさは、iTMS の 128kbps のビットレートでは必ずしも十分に再現できないのである。

 ビットレート 128 kbps と 200 kbps 超では、女性にたとえて言えば、ティーンエイジャーの肌と 30 代の熟女の肌ぐらいの質感の差がある(^^)。その差は、普通のロックなんかではあまり問題にならないのだが、半野氏のような音楽では、ほとんど致命的な差となって感じられてしまうのである。

(ちなみに、前回とりあげたレイ・ハラカミ氏なんかは、エレクトロニカ・アーティストでありながら、あまり音色にこだわりのない珍しい人で、彼の作品は、128 kbps で聴いてもそれほど音楽の強度が低下する感じはしない。ただ、「EX MACHINA ORIGINAL SOUNDTRACK」のように、他のアーティストのトラックと並べて聴くと、彼のトラックだけなんとなく浮いて聴こえるのも確かなのだが(^^))

 だから、これから半野氏の作品を購入しようと思っている方は、なるべく iTMS で買わずに、CD を買うようにして欲しいと思う。ぼく自身も、もう一度 CD を買い直そうと思ってるぐらいで(^^)、そうでないと、彼の真価は理解できないと思う。

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yanokami

yanokami  エレクトロニカの鬼才レイ・ハラカミが、御大矢野顕子と組んで作ったユニット yanokami のアルバム「yanokami 」を、遅まきながら入手。

 もともとぼくがハラカミさんに注目したのは、日立の CM でかかっていた小坂明子の「あなた」の斬新なアレンジからだった。だから、彼が、エレクトロニカだけでなく、歌モノをアレンジする際にも特異なセンスを発揮することは知っていた。

 一方の矢野アッコちゃんも、ジャズの素養をベースにしたピアノで、既存のポップスを再解釈することを得意としているので、この二人が協力すればどんなものができるか、想像するだけで期待に胸が高鳴るというものだ。

 聴いてみた結果は、ほぼ期待通りだった。曲自体は、基本的に、アッコちゃん自身の曲や、アッコちゃんが好んでカバーする細野(晴臣)さんなんかの曲のカバーで、バッキングトラックをハラカミさんが作って、そこにアッコちゃんが唄とピアノをのっけるという形。

 したがって、どれもよく知っている曲ばかりのはずなのだが、驚いたことに、まったく違う曲に聴こえてしまうのである。つまり、それほどユニークな和声感覚によるリハーモナイズが成されているということで、鬼才レイ・ハラカミの面目躍如だと言える。

 しかもすごいのは、 それが難解な前衛作品になっているわけではなく、ポップスとして成立しているところである。もちろん、そんなコードに合わせて平然とピアノを弾き唄を歌うというのも、アッコちゃんだからこそできる技であることも忘れてはならないが。

 ぼくもそれなりにたくさんポップスを聴いてきた人間なのだが、少なくともぼくは、こんな歌モノのポップスを今まで聴いたことがなくて、これはある意味革命的な作品だと思うのだが、エレクトロニカから音楽に入ったような最近の子だと、ワリとふつーに聴けてしまって、あろうことか物足りなく思う子すらいるらしい(まあ、別段に悪いことではないが(^^))。

 確かに、ハラカミさんの仕事をずっと追ってきた人間から見れば、それほど突出した作品ではなく、想定の範囲内とも言えるのだが、歌モノポップスの歴史というものも考え合わせると、やはり見逃せないエポック・メーキングな作品だと言えるのではないだろうか。

 そんなわけで、このアルバムは、エレクトロニカが好きな人よりも、歌モノのポップスが好きで、しかも、最近個性的な作品に出会えなくて物足りないと思っている人にお勧めした方がよいかもしれない。歌モノポップスという概念が確実に進化しつつあることを実感できる一枚になるはずである。

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Top albums music quilt

 

Last.fm に scrobble されたアルバムのジャケットをキルト状に表示するウジェット。

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野球は純文学化するかも?

 実は、ここ数年あまり熱心に野球を見ていなかったのだが、今年のクライマックス・シリーズからアジア・シリーズまで久しぶりにちゃんと野球を見てみたら、いろいろと感じるものがあった。

 ずっと見てきた人からすれば何を今更という感じだろうが、たとえば、荒木・井端の一二番コンビ。この二人は、往年の福本・蓑田とか柴田・高田とかに匹敵する、あるいは、ひょっとするとそれ以上の一二番コンビではなかろうか。また、マリーンズやファイターズにしても、長打力なんてほとんどないのに、しぶく小技を使って得点してくるし、野手の守備範囲もめっちゃ広い。

 こういうのを見ていると、なんか、自分が長年見てきて少し飽きかけていた野球というものが、いつの間にか異質のゲームに進化しているような気がするんだよね。

 たとえば、昔は、あんなにヒットエンドランなんて決まらなかったよね。ヒットエンドランという名前だけはあったけど、サイン出てもたいてい失敗で、何回に一回はライナーでダブルプレーだったでしょ。あと、昔は、外野手が間を抜かれて打球の処理にモタモタする間にランナー三塁なんてこと日常茶飯事だったけど、今はほとんどないでしょう。打者の足が遅いと、下手すりゃ外野の頭を越してもシングルヒットだったりするし。

 ひょっとすると、日本の野球は、今までマンガやポップスみたいだったのが、だんだん純文学や現代音楽みたいなものになっていくのかもしれないね。そうすると、一般受けはしなくなるだろうけど、逆にコアなファンは増えるのかもしれない、という気もする。思いつきで書いてるだけだけど(^^)。

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「アーティストを並べ替え」の困った仕様

     ぼくは、iTune に曲をとりこんだ時に、iTune 上でその曲のアーティスト名を勝手に編集してしまうことがよくあるのだが、最近、これが原因で問題が発生して、少し困っている。

     ご存知のように、iTunes では、CD を挿入すると、曲名やアーティスト名などの情報をインターネットから自動的に取得するようになっていて、その曲を iTunes 上で mp3 化しても、その情報はそのまま引き継がれようになっている。また、iTMS からダウンロードした曲には、曲名やアーティスト名などの情報が最初からファイルに設定されている。

     したがって、本来 iTunes では、ユーザーがわざわざ曲名やアーティスト名を入力する必要はほとんどない。ただ、このように自動で設定された情報をそのまま使っていると、iTunes のブラウザで特定のアーティストの曲だけを選択したときや、スマートプレイリストなどを作成したときに、必ずしも自分の意図どおりの曲が入ってこないことがある。

     たとえば、安田成美の「風の谷のナウシカ」は、ぼくにとっては細野晴臣の曲なので、「[アーティスト] が [である] [細野晴臣]」というスマートプレイリストに入ってほしい。また、HASYMO と YMO とか、半野喜弘と Radiq のように、実質的には同じアーティストなのに、別の名前で曲を出していることもあるし、レイハラカミと Rei Harakami のように、表記上のゆらぎもある。だから、ぼくにとって、こういうアーティスト名の変更は、ほとんど当たり前のように行っていた作業だった。

     ところが、最近になって、このようにアーティスト名を変更すると、iTunes のブラウザの中の [アーティスト名] の欄で、同じアーティストの曲が別項目として表示されるという現象が頻発するようになった。

     当初は、なぜこのような現象が起こるのかさっぱりわからなかったのだが、いろいろ調べているうちに、iTunes 7.1 で追加された、「アーティストを並べ替え」という機能が原因であることがわかった。

     これは、アーティスト名に一種の「ふりがな」を設定する機能で、iTunes 7.1 以降では、[アーティスト] 欄の並べ替えは、アーティスト名そのものではなく、このふりがなの方を基準にして行うようになったらしい。したがって、ユーザーが自分でアーティスト名を変更して同じにしても、この「アーティストを並べ替え」の方を変更しない限り、iTunes のブラウザでは別アーティストとして表示されてしまうらしいのである。

     もちろん、この機能自体は、ユーザー側の表示の自由度を高めるという意味で、基本的にはよい機能だと思う。この機能があれば、たとえば、これまでは漢字のコード順に並べ替えられていた曲を、正しく読み仮名の順で並べ替えることも可能になる。

     ただ問題は、このデータを編集する際に、アーティスト名とは違って、複数のトラックをまとめて変更できないことである。そのため、10 曲の「アーティストを並べ替え」を統一しようと思ったら、トラックを右クリックしてプロパティを選択してふりがなを記入してOKをクリックする、という作業を 10 回繰り返さなくてはならないのだ! これはさすがにシンドイ。

     さらに困ったことに、この並べ替え情報は、iTunes 以外の汎用の mp3 エディタでは編集できない。ちゃんと調べたわけではないが、おそらくこの情報は、mp3 ファイル側ではなく、iTunes 側のデータベースで独自に管理しているのではないだろうか。

     おそらく、このままずっと一括編集ができないままということはなく、将来のバージョンでは改善されるのだとは思うのだが、逆に、そもそもなぜ最初から一括編集ができる仕様にしなかったのかが不思議だ。アーティスト名や曲名は一括編集ができているのだから、そういう機能を実装するためのオブジェクトみたいなものは、すでに用意されているはずだと思うのだが(^^)。

     とにかく、アップルには、はやくこの仕様を改善していただくことを望みたいが、それを待つまでもなく、何かこの問題を回避する方法をご存知の方がいたら、ぜひ教えてください(^^)。

追記: 実は、「アーティストを並べ替え」を一括で入力する方法があるそうです。原田伸二さんという方からメールでご教授いただきました。ありがとうございます。

 たとえば、特定のアーティストの「アーティストを並べ替え」を統一しようと思ったら、まず、そのアーティストのどれか1曲だけを選択して、「アーティストを並べ替え」を入力します。

 それから、再度その曲を選択して右クリックします。すると、コンテキストメニューの中に「並べ替えフィールドを適用」というサブメニューが表示されるので、ここから「同じアーティスト」を選択すれば、そのアーティストの「アーティストを並べ替え」が統一されるというわけです。

 通常のコンテキストメニューを使ったやり方とはまるで違うので気づかなかったわけですが、これでも一応複数の曲を一括で変更することはできるわけですね(^^)。なぜ複数選択では入力できないのか、という疑問は、依然として残るわけですが(^^)。

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KAOSSILATOR

 コルグの新製品 KAOSSILATOR。「いままでなかった手のひらサイズの超コンパクト・サイズ・シンセサイザー」とか言ってるけど、この手のアナログ入力デバイスなんて昔からあったじゃん。シンセには何十年も前からホイールやジョイスティックとか付いていて、ビブラートやピッチベンドなんかに使えたし、テルミンなんて雑誌の付録にまでなっちゃうような時代に、タッチパネルで演奏ができるぐらいで、何を大騒ぎしてるのかな~、と最初に目にしたときは思っていた(^^)。

 ところが、YouTube にアップロードされていたデモを見て、思いっきり認識を改めた。

 何よりもやられたっ!と思ったのは、スケールが設定できること。見ればわかるように、そのおかげで、たいして音楽の知識がない人でも、適当に指を左右に動かしているだけで、それっぽいソロのアドリブができてしまうのである。

 確かに、これはデジタルのタッチパネルでしかできない機能だ。コルグさん、ごめんなさい。私があさはかでした<(_ _)>。

 昔は、即興的なアドリブというのは、高度な音楽センスを必要とする技術だったのだが、ジャズ畑からバークリーメソッドという方法論がでてきて、コードに合わせて決まるアヴェイラブル・ノート・スケールというスケールを上がったり下がったりしていれば、誰でもそれっぽいアドリブができるようになったという歴史がある。

 もっとも、誰でもできると言っても、この理論はそれなりに複雑なので、使いこなすためには、スケールを構成する音程を覚え、スケールとコードの関係を覚え、それを瞬時に思い出して弾く練習をしという具合に、かなり「お勉強」をしなくてはならない。だからこそ、バークリー帰りのジャズ・ミュージシャンがもてはやされたりしたわけだが、一方で、あまりにもバークリーの権威が強くなりすぎて、ジャズというと誰がやっても同じようなアドリブになってしまうという弊害も出た。

 だが、こういう製品があれば、そういうスケールを憶えて弾けるようになる必要すらなくなるわけだ。もっとも、コードとスケールの関係だけは憶える必要がありそうだが、伴奏を MIDI で同期しているような場合だったら、MIDI 信号で自動的にプログラム・チェンジしてしまえばよいのだから、それすら憶える必要がなくなるだろう。

(でも、写真で見ると、MIDI 端子が見当たらないな~(^^)。MIDI でのスケールやキーの変更は絶対できた方がいいと思うけど、どうなのかな。)

 ぼくなんかは、理論を「お勉強」するだけで創造性がなくてもできるようなことは、どんどん機械にやらせてしまえばいいと思っているので、こういう製品は大歓迎である。もちろん、こんなものでそれほど高級な音楽ができるとも思えないが、こういう製品のおかげで、素人でもそれっぽいアドリブができるようになれば、今まで単に理論を憶えて演奏していただけの音楽家は、いやでも理論だけではできない創造性を発揮せざるおえなくなるであろう。それは、結果的に、音楽全体のレベル向上につながると思うのだ。

 それに、高級な音楽ができないと言っても、ダンス・パフォーマンスなんかと組み合わせれば、それなりに面白いことができそうなきはする。ただ、この形だと、動きながらでは演奏しにくいだろうから、Wii のリモコンなんかで演奏できればもっと使い勝手がよくなるのではないだろうか。っていうか、これってそのまま Wii のソフトにはできないのかな? Wii のスペックをよく知らないのでわからないけど(^^)。

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「感動」は数字の中にあるわけではない

 亀田問題が一段落したかと思ったら、落合監督がタイミングよく燃料を投下してくれたみたいで、いろんな方が舌なめずりする音が聞こえるようである(^^)。さっそく落合批判を大々的にぶち上げた評論家の方もいるようだが、ぼくは基本的に落合采配支持である。

 ぼくのスポーツ観についても何度も書いてるけど、スポーツは基本的に勝ち負け最優先の文化だと思う。人類の作った文化の中には、仕事とか芸術とか遊びとか恋愛とかいろいろあるけど、どれも必ずしも何が勝ちで何が負けなのかよくわからない世界だ。もちろん、だからこそ味わいがあるとも言えるのだけれども、不完全燃焼になりやすいところがあるのも事実である。

 そのような人類のさまざまな文化に対して、あえて人工的に勝ち負けをはっきりさせ、勝ち負けだけを目指すところにスポーツの特色があり、それが他の文化にないものを補っているからこそ、独自の存在価値を持ち続けているのである。というのは、実はほとんど山崎正和氏の受け売りなんであるが(^^)。

 この話はプロスポーツになると多少変わってきて、勝ち負けだけでなく興行収入というもう一つの目的にも配慮しなければならなくなるのは事実だ。しかし、前にも書いたように、興行に配慮しすぎた結果として、強くなくても人気がある方が儲かるようになってしまえば、スポーツは文化としては堕落し、プロレス的な娯楽になるしかないのである。

(玉木正之氏なんかは、また例によってホリエモンなんかにたとえているようだが、亀田問題でもわかるように、スポーツではむしろ、勝負より興行を優先させることが堕落につながるのであって、その堕落を防ぐためには、意識的に勝負を最優先にしなければならないのである。少なくとも、その程度は区別して論じてもらいたいものだ。)

 したがって、プロスポーツがプロレス的な娯楽に変質しないためには、まずは勝つと言うことを最優先の目的にし、それに邪魔にならない範囲で興行面にも配慮するというバランスを維持する必要がある。これがぼくが落合采配を支持する基本的な理由である。

 もちろん、これは原則論でしかないので、これだけでは納得しない人もいるだろう。そこで、落合采配を批判する方々にもう一つ言っておきたいことがある。それは、あんたら結局数字しか見てないんですか? ということだ。

 パーフェクト・ゲームというのは、記録である。もちろん、スポーツにとって記録は重要だ。しかし、それはスポーツを観戦した結果を測定して一般化する一つの方法でしかない。スポーツを観戦するという行為の本来の意味は、必ずしも記録には残らない細部にこそあるはずではなかったのか。

 これがもし、山井の球威の変化、岩瀬の調子、試合の流れなどすべてを考慮に入れた上で、交代してもそれほど勝率に変化があったとは言えないのではないか、だからあの継投策は間違いである、というならまだわかる。ところが、批判する人のほとんどは、結局、勝負と感動とどっちが大事か的なことしか言っていないのである。

 感動感動と言うけれど、一言で「感動」と言ってもいろいろあるはずだ。娯楽にたとえれば、単に記録をつぶされたと言って怒るのは、いわば、水戸黄門が印籠を出さないとか、ウルトラマンがスペシウム光線を出さないとか言って怒っているようなものにすぎない。

 もちろん、ぼくだってそういうステレオタイプな感動を全否定する気はない。しかし、いやしくもスポーツ評論家を名乗る方々であれば、仮に批判するにしても、テーマやストーリー展開などすべて分析した上で、印籠やスペシウム光線のような定番を崩してまでやる必然性はなかった、と言うべきじゃないのか。その程度のこともできない「プロ」に、偉そうに他人の仕事にケチをつける資格があるのだろうか。

 はっきり言うけど、ぼく自身は、あの落合監督のギリギリの采配を見て「感動」したし、チームのためにそれを素直に受け入れた山井を見て「感動」したし、プレッシャーの中きっちりパーフェクト・リレーを達成して見せた岩瀬に対しても「感動」した。「感動」は記録や数字の中だけにあるわけではないのだ。

 そもそも、スポーツ・ジャーナリズムの役割というのは、勝つことだけを考えて全力でプレーする選手を観察して、そこから「感動」を「発見」することにあるのであって、選手にお約束のステロタイプな感動芝居を強制することには断じてない。そんなのでいいのだったら、何もわざわざスポーツなんかやらせずに、あらかじめシナリオのある芝居でもやらせときゃいいのだから。

 だから、ぼくなんかにはむしろ、このような安易な批判が起こること自体が、スポーツ・ジャーナリズムの堕落を示していて、亀田問題なんかもその延長線上にあるように思えてしまうのだが、いかがであろうか。

(野村監督のコメントを「批判派」として紹介しているメディアが多いのだが、彼は、他の監督ならやらない采配だという趣旨のことを言っただけで、だから落合がすごいとも言っていないが、だからと言って落合はダメだとも言っていないのである。もちろん、本音では批判したいのかもしれないが、少なくとも、それを明言することは避けている。それを安直に「批判派」として引用してしまうところにも、スポーツマスコミの低劣さを感じる。だいたい、野村克也は、オールスターでイチローがピッチャーで出てきたときに松井に代打を出したぐらいで、空気読まない派の代表格のはずなのである(^^))

(追記:ぼくは野村さんの「敵は我に在り」も落合さんの「落合博満の超野球学」も読んでいるので、お二人の考え方はわりと知っているつもり。)

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