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芸術におけるアマチュアリズムの意義

 柄にもなく初音ミクの記事など書いたところ、各所でリンクしていただいたらしく、突然トラフィックが増えてしまい、たくさんの方に読んでいただけるのは誠にありがたいことですと建前的にお礼を書きつつ、心の中ではややプレッシャーを感じている Studio RAIN です(^^)。

 もっとも、あの記事は必ずしも意をつくしたものとは言いがたく、特に、アマチュアリズムの意義については、一般に意義があると思われている例をあげただけで、なぜ意義があるのかについての価値論な説明を省いているので、あれだけではアマチュアリズムの意義について納得できない読者も多かろうと思う。そこで、芸術一般におけるアマチュアリズムの意義について、少し補足しておきたい。

 初音ミクがらみの CGM に関する議論を眺めてみると、CGM の存在意義の判定基準として、CGM はプロの商業作品に匹敵するような芸術的価値を生み出せるか否か、ということをなんの疑いもなく尺度にしている方が多いように思われる。また、これより多少 CGM の意義を積極的に評価している人でも、それはあくまである種の遊びとしての価値であって、プロの芸術とはまったく無関係である、と認識している方が多いように思われる。

 しかし、ぼくが認識する、芸術におけるアマチュアリズムの意義というのは、このどちらでもない。 アマチュアリズムの意義は、アマチュアが自ら芸術作品の製作に携わるというその行為自体にあり、結果として生まれてくる作品の質には関係がない(あえてわざわざ「下手糞な」と書いたのはそのためだ)。

 また、アマチュアが芸術作品の製作に携わるという行為は、アマチュアの鑑賞力を高めることにつながり、その結果、プロの芸術家がより質の高い作品を生み出す誘引になるはずである。したがって、アマチュアリズムは決してプロの芸術と無関係ではなく、プロの芸術を含む芸術文化全体に貢献するはずだ。これがぼくの主張である。

 たとえば、厳密な意味では芸術とは違うが、スポーツについて考えてみよう。プロ野球の商業的価値が、観客の存在によって生み出されていることは言うまでもないが、観客が試合をどれだけ楽しめるかが、観客が持つ野球の知識に依存していることは明らかだろう。もし、遅い球より速い球の方が打ちにくいとか、ど真ん中の球よりコーナーぎりぎりいっぱいの球の方が打ちにくいという知識がなければ、投手と打者の間のかけひきを楽しめないのはほとんど自明だ。

 しかし、実はこのような知識も、単に知識として知っているだけでは十分とは言えないのである。実際のスポーツはすべて応用問題であって、真ん中の速い球とコーナーの遅い球ではどっちが有効か、といった複雑な問題の集合体だ。このような問題に答えを与えるのは、実際に試合の中で体験しているプレーヤーの肉体感覚以外にない。

 したがって、そのような技術的な問題を観客が本当に理解しようと思ったら、たとえバッティングセンターでもよいから、120 km の球を打ってみるといった経験が必要なのである。そのような経験があってはじめて、それより 30 km も速い球を打つのがどれだけ難しいかということが、実感としてわかってくるはずだ。

 つまり、プロ野球というのは、あくまでも、草野球やバッティングセンターで下手なプレーを続けているアマチュア・プレーヤーの延長線上にあり、そのようなアマチュアリズムが存在するからこそ、存在意義を失われずにいられるのだと考えられる。したがって、プロスポーツの価値も、アマチュアスポーツの価値も、スポーツ文化全体の中で考えてこそ、初めて適切に位置づけられるのである。

 芸術を鑑賞するという行為の意味は、スポーツよりは少し説明が難しいが、ぼくはやはり、作り手の製作過程を追体験することが鍵だと考えている。たとえば、音楽にしてもそうだ。ぼく自身も子供の頃はそうだったが、今では音楽に一家言あって、オーケストラのどのパートでもきちんと聞き分けられる人でも、かつては、パートの聞き分けができない時期もあったはずである。

 ところが、そのような段階で認識されている楽音というのは、単なるフーリエ変換のスペクトルのようなものにすぎないので、対位法やコードとメロディの絡み合いの面白さなどわかるはずもない。そのようなスペクトルからさまざまなパートを聞き分けることによって、初めて音楽の面白さがわかってくるわけだ。つまり、音楽を鑑賞するということは、音楽が製作される過程を逆算して追体験することと同じなのである。

(直接スペクトルを操作して創作を行うという、スペクトル楽派のような方法論が存在することも知っているが、たとえこのような音楽であっても、鑑賞者にとっては、やはり製作者がロジカルに行っている製作過程を追体験することが重要であるとぼくは考えている。)

 だからこそ、音楽の鑑賞力を高めるためには、楽器を操ってみたり、作曲の真似事をしてみたりして、自ら製作の過程に携わってみることが決定的に重要なのである。 ぼく自身も、(最近は忙しくてやっていないが)キーボード演奏や DTM を趣味にしていたことがある。もちろん、他人様にお聞かせできるような水準の作品はほとんど生まれなかったが、このような経験によって、芸術を見る眼は明らかに変わったことを実感している。

 このように考えると、芸術におけるアマチュアリズムの重要性というのは、ほとんど自明なようにも思えるのだが、なぜその重要性が多くの人から忘れられてしまったのだろうか。それはおそらく、産業革命以降の社会の分業化に理由があると考えられる。

 もともと、中世以前の社会では、生産者と消費者の区別は、それほど明確ではなかったはずである。王侯貴族はともかく、一般庶民にとっては生活必需品のほとんどが自家製でまかなわれ、市場で購入されるのは、一部の特殊な商品だけであったに違いない。

 「大草原の小さな家」シリーズの前半なども、時代的には中世とは言えないが、生活必需品のほとんどがが自家製であったことがうかがえる。中でも印象深いのは、この家のお父さんがバイオリンの演奏を愛好し、その演奏を一家で楽しんでいることであり、この頃には、芸術もまさに自家製であったことがうかがえるのである。

 その後、産業革命や分業化により、生産者と消費者は商品ごとにはっきりと分かれることになったが、芸術分野においてプロとアマチュアが明確に分化したのも、おそらくこのときではなかっただろうか。さらに決定的な出来事は、複製芸術の普及である。これにより、少数の天才芸術家が作り出した作品を、多くの一般大衆が購入して鑑賞するということが可能になり、芸術作品が市場で他の商品と同じように流通するようになったわけだ。それとともに、自家製芸術に対するニーズも失われていったのだろう。

 しかし、勘のいい人はすでにお気づきのように、芸術作品と他の商品では、その効用の認識過程に決定的な違いがある。芸術作品では、先に述べたように、製作の過程を追体験することによって効用が生み出されるが、一般の商品はそうではない。たとえば、歯ブラシの価値を知るために、歯ブラシの製造工程を知る必要があるかと言ったら、そんなことはまるでないわけで、歯ブラシの価値は使ってみて便利かどうかだけでほぼ決まる。

 それが証拠に、歯ブラシ界には、下手糞だけれども趣味で歯ブラシを作り続けるアマチュア歯ブラシ職人などほとんどいないし、そのようなアマチュアの存在に業界が依存しているなどという話も聞いたことがない。つまり、歯ブラシ業界は、実用的な歯ブラシの使用価値だけで十分存続しうるのであって、そこが、スポーツや芸術と根本的に異なるところなのである。 

 もちろん、工芸品などになると、生産過程を知ることによってさらなる付加価値がわかってくるということもあるのだが、それはむしろ、使う側の見方の問題で、使う側があえて、商品を単なる道具ではなく芸術作品として認識しているということになるわけだ。

 つまり、芸術活動は本来、完全には生産側と消費側に分離できないはずなのだが、近代以降、擬似的に一般商品と同じように扱われるようになった。その結果として、芸術におけるアマチュアリズムの意義が、軽視されるようになったのではないかと考えられるわけである。

 このことにはもちろん功罪があって、だからこそ、多くの庶民が天才芸術家の作品に直接触れることができるようになったわけだが、その一方で、鑑賞力の低下による商業芸術の通俗化を招くことにもなった。たとえば、家元制をとっているような伝統芸能では、現在でも製作と鑑賞が分業化されていないところが多々ある。もちろん、それが商業的な成功をもたらしているとは言いがたいかもしれないが、だからこそ通俗に堕することが防がれているとも言える。

 ぼくは必ずしも Web2.0 マンセー派ではないのだが、CGM というものを、近代以降軽視されていたアマチュアリズムの復権として位置づけることは可能ではないかと思うのだ。おそらく、多くの人が指摘するように、CGM で生み出される作品のほとんどはくだらない作品であるに違いない。しかし、それを恐れる必要はないのであって、くだらない作品を生み出すという活動の集積こそが、芸術文化全体を下支えし、結果としてより高度な芸術作品の誕生に貢献するのはずなのである。

 ちなみに、初音ミクを開発したクリプトン・フューチャー・メディア社長の伊藤博之氏もぼくと同じような歴史観をお持ちのようなので、最後に引用させてもらうことにする。

 人間はそもそもプロシューマだと思うんです。原始時代から、自分たちでモノを作り、消費しているわけですから。しかし、個人ですべてを行うのは効率が悪いので、分業が進み、都市が形成され、経済システムが構築されました。

  ただ、この一連の人間社会の発展は、CGM(消費者生成メディア)の登場で折れ曲がったような印象を持っています。そもそもプロシューマだった人間が、生産者と消費者に分かれ、なぜかそこには大きな溝までできてしまっています。

 その違和感が顕在化し始めており、CGMの登場をきっかけとして、人類の歴史をさかのぼるというような動きが生まれているのではないでしょうか。例えば、著作権というテーマで考えれば、「クリエイティブコモンズ」のようなものができ、生産者と消費者の切り分けを気にせずに著作物を活用していこうというような流れです。

 こうした流れは都市の見直し、さらには経済システムの見直しというところまで進むのではないでしょうか。おそらくCGMの本質は、「みんなで何かを作って楽しいよね」というところにあるのではなく、社会全体の在り方を変えていくというところにあると、わたしは思っています。

(追記: 以前に斉藤美奈子氏の「文章読本さん江」を批判したときにも同じような論法でアマチュアリズムを擁護していたのを思い出したのでリンクしておく。歯切れが悪く見えるかもしれないけど、このように、意外としつこく首尾一貫してるのである(^^)。)

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