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手のひら返しの構造

 お祭り騒ぎもようやく一息ついたようなので、封印していた亀田問題をもう一度だけ語ってみようかと思う(^^)。

 大毅 vs 内藤戦後の世論の動向に関しては、一応 YouTube なんかでフォローしていたのだが、今回は、自分の気持ちと世論との間にそれほど乖離はなかった。そこに乖離が生じたのは、興毅がやった謝罪会見のときだった。

 ぼくから見ると、あれでは謝罪になってないだろうと思えるのだが、なんと、世論の半分ぐらいはあれで亀田同情派に回ったらしく、しつこく質問していた記者のことを、やりすぎだとか何様だと思っているんだというような意見もあったという。

 謝罪という行為の社会的機能や意味については、前にも書いたので繰り返さないが、ぼくから見ればやはり、なぜ反則を指示したかという説明は最低限必要なように思える。「興奮していたから」みたいな説明をしていたが、そんなのはお話にならない。試合中なんてほとんど興奮しているはずなのだから、じゃあお前は、また試合になったら同じ反則をするんだろう、と思われても仕方ないではないか。

 そんなわけで、ぼくはどうも世論の変化に納得がいかなかった。これで納得する人というのは、いったい何を怒っていたのだろう。いままでとあの会見とで、興毅が変わったところと言えば、背広を着てやや丁寧な言葉遣い(それでも細かいところはタメ口だったが)をしたということだけだ。

 つまり、世の中の大多数は、亀田家の態度が生意気だったから怒っていただけで、もう逆らいませんと世間様に対して恭順の意を表せば、それで十分に溜飲が下がるということらしいのである(^^)。 もしそうだとすると、結局、世間にとってもこれは勝ち負けの問題だということで、亀田家の勝てば官軍主義を笑えないと思うのだが。。。(^^)

 まあ、この問題についてはこれ以上深入りしないが、この現象は、最近のいわゆる世論の「手のひら返し」の構造をよく示しているように思う。

 もともと、亀田家に対する批判というのは、以下のような複数の論点を孕んでいた。

  1. 亀田家の人間の態度の悪さに対する倫理的な批判(モラル問題)
  2. 恣意的なマッチメイク、八百長、偏った報道などによる作られたヒーロー批判(虚像問題)
  3. 反則行為やその指示に対する批判(ルール違反問題)

 メディアに出始めのころは、もっぱら1の批判が中心だった。それが戦績を重ねるにつれ、2の批判が徐々に高まってゆく。最後に、大毅 vs 内藤戦に到って3の批判が加わることにより、批判派の数が臨界点を超え、最初の「手のひら返し」が起こった。逆に、謝罪会見ではたぶん、1を批判していた人をある程度納得させることに成功した。そのため、二度目の「手のひら返し」が起こった。

 このような現象を、1の論点から批判派だった人から見ると、あいつらが悪い奴だなんてことは最初からわかってたことじゃないか、という風に見えるので、大毅 vs 内藤戦後に世論が手のひらを返したように見える。逆に、ぼくのように、2や3の論点の方を重視している人間からみると、反則で世論が反転するのは当然であり、謝罪会見で再度反転する方が「手のひら返し」に見えるわけである。

 つまり、マスコミなんかでは世論が移り気だみたいなことを安直に言うけど、たぶん、一人一人の一般庶民から見れば、自分のプリンシプルや倫理感覚にしたがって、首尾一貫した判断をしているだけなのである。ところが、そのプリンシプル自体がかなり多様化しているため、結果的に、ある臨界点を越えるような出来事があったときに、世論が一気に反転するように見えるだけなのだ。

 むしろ、かつてはあまりこういう現象が起こらなかったこと自体が、かつての世論が、マスコミや識者の誘導に流されていたことを示しているのだろう。そういう意味で、このような「手のひら返し」現象は、マスコミや識者がしたり顔で言っているような、世論の衆愚化を示しているわけでは決してなく、むしろ、世論の多様化やメディア・リテラシーの向上を示しているのだと、ぼくは思っている。

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EX MACHINA ORIGINAL SOUNDTRACK

EX MACHINA ORIGINAL SOUNDTRACK(DVD付)  士郎正宗原作、ジョン・ウープロデュース、ミウッチャ・プラダ衣装デザインのアニメーション映画「EX MACHNA」のサウンドトラック(「EX MACHINA ORIGINAL SOUNDTRACK」)を購入。

 と言っても、ぼくは映画の方は観てなくて、今のところそれほど観る気もないのであるが(^^)、このサントラ、参加アーティストがハンパでなくすごいのである。

 細野晴臣(監修)、HASYMO(≒YMO)、半野喜弘、Rei Harakami、Tei Towa、Cornelius、Aoki Takamasa、m-flo、etc.

 ぼくなどは、このメンバーを見ただけでワクワクしてしまうのであるが、実際の音も、期待を裏切らないできであった。特に、HASYMO や細野さん名義の作品は、Sketch Show などに比べると、基本線は同じエレクトロニカでありながら、かつてのトロピカル三部作時代を髣髴とさせるようなエスニック風味のリズムが導入されているのが、彼らの今後の方向性を占う上でも興味深い。

 ちょっと面白いのは、このアルバム、エレクトロニカのファン層にはおおむね好評のようなのだが、あくまでアニメが好きでそのサントラとして買った層には、必ずしも評価が高くないらしいことである(^^)。

 もちろん、音だけ聴くとよくても映像に合っていない、というような理由も考えられないではないが、このメンバーのほとんどが単独でも映画音楽を手がけている方々で、中には映画音楽で賞をとっている方までいるので、あまりそういうことも考えにくいのだが。。。

 まあ、映像を見てもいないのにアニメファンの音楽嗜好の問題に触れることはあえて避けるが(^^)、単体のアルバムとして聴けば、上記アーティストのファンやエレクトロニカのファンには安心してお勧めできる作品だろうと思う。

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バイオ燃料批判本格化か

 以前、アメリカの ABC で放送したエタノール懐疑論を紹介したことがあったが、バイオ燃料批判もやや本格化してきた模様。

バイオ燃料は世界中で飢餓を増長、国連専門家が警告(CNN)

ジュネーブ大学とソルボンヌ大学で教授を務めるジーグラー氏は25日、国連人権委員会で、食料ではなく農業副産物から燃料を作り出せる技術が確立するまで、バイオ燃料の生産に猶予期間を設けるよう主張。翌26日に開いた記者会見で、「農地をバイオ燃料のために捧げることは、人類に対する犯罪だと言える。一刻も早く、世界中で起こっている飢餓による大量虐殺を阻止しなければならない」と述べた。

食糧をエネルギーに、この転換は正しいのか(東洋経済)

 論者は、かのジェフリー・サックス氏。

 世界の食糧需要の増加、トウモロコシなどの食糧用から燃料用への転換、大きな気候変動という“三つの脅威”がそれぞれ重なり合って、数年前に予想されていた以上に世界の食糧の需給は逼迫し、価格上昇を招いている。

  しかし残念なことに、今までのところ、こうした農業の変化に取り組むため、積極的に指導力を発揮した国はない。むしろ逆に、そうした動きを加速する政策が見られるのだ。たとえばアメリカでは、トウモロコシや大豆を燃料生産に転換させるために巨額の補助金を出しているが、こうした政策は方向が間違っているといわざるをえない。

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マル激・岡田斗司夫編

 今週の「マル激トーク・オン・ディマンド」のゲストは、渦中の人、岡田斗司夫さんであった。と言っても、収録したのは先週らしく、「いいめも」事件についてはなんの言及もなかったが、お話自体はなかなか面白かった。

 もっとも、後半の「見た目主義社会」の話は、申し訳ないけど、表層的であまり深みがないように感じた。面白かったのはやはり、前半のレコーディング・ダイエットの話である。実は、ぼくはまだ「いつまでもデブと思うなよ」という本自体を読んでいないのであるが、自分の禁煙体験と照らし合わせてみても、ハタと手を打つような発言がいろいろとあった。

 そこで以下、岡田式レコーディング・ダイエットについてぼく流の解釈を書こうと思うが、その前に、やはり一言書いておかねばなるまい。ここに書いてある岡田式レコーディング・ダイエットに関する説明は、あくまでぼくの勝手な解釈であって、岡田氏の提唱するレコーディング・ダイエットを正しく伝えているとは限りません。と、これでいいよね(^^)?

 ぼくは、30 代になってからタバコを吸い始め、5 年間ぐらい吸い続けてから禁煙に成功したという、少し珍しい喫煙歴を歩んだ人間なのだが、そのときに考えたのは、岡田氏と同じく、やはり人間の欲望の構造だった。

 そもそも、禁煙したい人間というのは、意識的・理性的にはタバコを止めたいと思っているのだが、無意識的・感性的にはタバコを吸いたいと思っているものだ。この状態を俯瞰して見ると、二つの矛盾する欲望を同時に抱いているということになる。

 この状態は、理性偏重の近代主義的な考え方からすれば、理性的な欲望の方が正しく、感性的な欲望の方は間違っているということになるのだろうが、ポストモダン的な考え方からすれば、どちらが正しいとも言えないはずである。

 したがって、徹底して近代主義的な人間の場合には、理性によって感性をねじ伏せるという形で禁煙に成功することもあるのだが、ポストモダン的な人間の場合には、タバコが吸えないのに長生きしてもつまらない、どうせ人間いつかは死ぬんだし、みたいな考え方に抵抗しきれないわけである。

 しかし、よくよく考えると、そもそも同じ人間が矛盾する欲望を同時に持っているということが論理矛盾なのであって、これは、意識と無意識を別の自己として認識していることによって擬似的に発生する現象にすぎないのである。

 元をたどれば、理性的な欲望も、感性的な欲望をより深く満足させるためにあるはずだし、感性的な欲望も、理性によって誘導できるはずなのだから、問題は、両者のフィードバック関係がうまく機能していないことなのである。したがって、このような矛盾は、無意識的な欲望と意識的な欲望の関係をよく整理して正しく捉えなおせば、解消できる可能性がある。

 たとえば、禁煙について言えば、そもそも、タバコを止める人はなぜみんな完全に「スパッ」と止めなくてはいけないと考えていて、一日一本だけなら吸っていいみたいな止め方をする人がいないのかが不思議である。

 実際には、無意識的な喫煙欲は、たまにはタバコを吸いたいという欲望かもしれないし、意識的な禁煙欲も、肺癌にならない程度にタバコを減らしたいという欲望かもしれない。だとすれば、完全に禁煙するかわりに、喫煙量を減らすことによって、意識的な欲望と無意識的欲望の両方を満たせる可能性があるはずだ。

 もちろん、タバコの場合には習慣性があるという事実も見逃せないが、これはおそらく、理性によって感性をねじ伏せるという近代的な自己モデルに囚われすぎているがゆえの勘違いだと思う。

 現にぼく自身も、禁煙成功後は、普段はまったくタバコを吸っていないが、たまに飲み会に行くときだけはタバコと 100 円ライターを買っていくことがある。これは前にもどこかで書いたけど、ぼくはあまり社交的な人間ではないため、同席した人と話が盛り上がらないことがあって、そういうときにも、タバコをぷかーっと吹かしているとなんとなくカッコがつくからである。(実は、これこそが、ぼくが喫煙時代に発見した、喫煙の最大の効用である(^^)。)

 もちろん、だからと言って、その日を境にタバコを吸いだしてしまうようなことはなくて、翌日からは何事もなかったように禁煙生活を続けられている。これこそ、自分の中の無意識的な欲望と意識的欲望の間の整理がついている証拠であろう。

 岡田氏の話の中でも、ぼくが最も感心したアイデアは、食事を残せばよいという話である。ぼく自身もダイエット中によく経験するのだが、たとえば、コンビニに弁当を買いに行って、カツ丼を発見し、一瞬食べたいと思ったものの、カロリー表示を見て諦めて、代わりにもっとカロリーの少ないソバ弁当にしたりすることがある。

 これも先ほどの禁煙の話と同じことで、カツ丼を食べたいというのが無意識的な欲望、ダイエットしたいというのが意識的な欲望なのだが、よくよく考えると、カツ丼を食べたいということと、コンビニで売っているカツ丼を一個全部食べたいということはイコールではない。実は、無意識は、ちょっとでもカツ丼の味を味わえれば満足するかもしれないし、そのちょっとは、実はソバ弁当一個よりカロリーが少ないかもしれないのである。

 そう考えると、カツ丼を一部だけ食べて後は捨ててしまえば、意識的な欲望と無意識的な欲望の両方が満足する可能性があるわけで、この発想はさすがに鋭いと思った。

 誰でも気がつくことだと思うが、このような考え方は、最近流行りの procrastination 対策にも応用できる。ここでも、仕事をサボってダラダラしたいという感性的な欲望と、早めに仕事を終わらせないと後でヒドイ目に合うよという理性的な欲望が対立しているように見えるわけだが、だからといって理性で感性をねじ伏せようとするから、長続きしないのであろう。最近流行のライフハックで提唱している ToDo リストの作成なども、要するに、自分の真の欲望を整理して正しく認識しなおすための技法であると考えられる。

 そういう意味で、理性的な欲望と感性的な欲望の関係を整理して、正しく自己認識し直すという手法自体は、いろんな分野に応用できるスキルであると思われる。こう考えると、このような方法が最近まで普及しなかったのはむしろ不思議なぐらいだが、おそらく、理性と感性を分けて考え、理性で感性をねじふせられる奴が偉いとする、近代的なパラダイムが発想の邪魔をしていたのだろうとぼくは思っている。

(読み直してみると、実はフロイト理論とあんまり言ってること変わらんような気も(^^)。)

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「メロンパンのうた」について

 コンビニの有線でかわいい女の子がメロンパンの不条理について切々と歌っていたのが気になって、早速検索してみたところ、こういうことらしい。この中で言及している、YouTube にアップされたプロモーションビデオというのが下の動画。このビデオ自体も、「みんなの歌」や「ポンキッキ」みたいな子供番組風で、なかなかよくできてるよね。

 ところで、このビデオを検索してる途中で偶然見つけてしまったんだけど、早速この歌詞が嘉門達夫の何かのパクリだみたいに言ってる人がいて、うんざりしてしまった。

 この手の安易なパクリ指摘については、以前にもくだくだ書いたので繰り返さないけど、そもそも、こんなものはアイデアというほどの話じゃなくて、誰でも思いつくようなことでしょ? それをいちいちパクリだとかっていうのは、「パンダは何食ってんだ、パンだ」という洒落は林家三平のパクリだから絶対に言ってはいけない、とか言うようなもんであって、そんなもんぜんぜん意味ないんですよ。

 著作権を絶対化するな、という話は、いろんな人がもっと理論的に精緻に述べているので、興味のある人は調べて欲しいけど、こんなの、そういう理屈以前に、直感的におかしいと思わんか? そういうイジワルな風紀委員みたいな行動パターン、いい加減やめてくれよな~。ホントに息苦しくて窒息しそうになる。

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いいメモダイエット事件について

  知っている人は知っていると思うが、いいメモダイエット事件というのがあった。詳細は検索でもして調べていただきたい(ぼくもそれ以上のことは知らない)のだが、簡単にまとめれば、岡田斗司夫氏が「いつまでもデブと思うなよ」という本で説いたレコーディング・ダイエットという手法を勝手に利用した「いいメモ」というウェブサイト(ちなみに、このサイトに利用は無料だったらしい)ができたことに対し、岡田氏が著作権の侵害を主張したという事件だ。

 それに対し、ネット上では、アイデアは著作権で保護されないのではないか、といった批判が出ていたわけだが、今日になって、岡田氏のウェブサイトに、そういう批判に対する回答とも思われる記事がアップされていた。

 部分引用は禁じられているようなので、詳細は読んでいただくしかないが、岡田氏が防ぎたいと思っているのは、権利の侵害というよりも、自分の主張がねじまげられて伝えられることらしい、ということはわかったような気がした。もちろん、それはこの記事を額面どおり受け取った解釈で、本当は自分だけで利益を独占したいだけだろ、みたいな解釈をする人は当然いるだろうけど、議論を拡散させないために、ここではあえて額面通り受け取ることにする。

 ただ、その手段として、著作権侵害を主張することが妥当であるかどうかは、やっぱり別の話だと思う。それだったらまず、「あなたがたは私の意図を間違って伝えていますよ」ということを伝えて、訂正を依頼したほうがよかったのではないだろうか。もちろん、それはあくまで依頼であって法的な強制力があるわけではないから、相手が無視すればそれまでだが。

 でも、法的な強制力がなくてもできる、もっと現実的な方法だっていろいろあるはずで、たとえば、「岡田式レコーディング・ダイエット認定証」みたいなものを勝手に作って発行してしまうという手もある。この方法なら、公権力や相手の協力がなくても自分だけの責任で行え、なおかつ、相手が自分の考えを意図通り伝えているかどうかを明確にアピールできると思うのだが、いかがであろうか(^^)。

 もちろん、これはぼくの独創でもなんでもなくて、フランスのワインとか松坂牛とかでもさんざんやっている使い古された方法にすぎないから、岡田さんともあろう人が、それに気づいていないとも思えない。ぼくがこの事件に一番違和感を感じるのもそこで、きわどいパクリや便乗商品の歴史などさんざん知り尽くしているはずの岡田さんが、まるで「純粋まっすぐ君」のような主張をしていることである。だからやっぱり、体重が減ると思考回路にも影響があるのかしら、なんて思ったりもしてしまうのだが(^^)。

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芸術におけるアマチュアリズムの意義

 柄にもなく初音ミクの記事など書いたところ、各所でリンクしていただいたらしく、突然トラフィックが増えてしまい、たくさんの方に読んでいただけるのは誠にありがたいことですと建前的にお礼を書きつつ、心の中ではややプレッシャーを感じている Studio RAIN です(^^)。

 もっとも、あの記事は必ずしも意をつくしたものとは言いがたく、特に、アマチュアリズムの意義については、一般に意義があると思われている例をあげただけで、なぜ意義があるのかについての価値論な説明を省いているので、あれだけではアマチュアリズムの意義について納得できない読者も多かろうと思う。そこで、芸術一般におけるアマチュアリズムの意義について、少し補足しておきたい。

 初音ミクがらみの CGM に関する議論を眺めてみると、CGM の存在意義の判定基準として、CGM はプロの商業作品に匹敵するような芸術的価値を生み出せるか否か、ということをなんの疑いもなく尺度にしている方が多いように思われる。また、これより多少 CGM の意義を積極的に評価している人でも、それはあくまである種の遊びとしての価値であって、プロの芸術とはまったく無関係である、と認識している方が多いように思われる。

 しかし、ぼくが認識する、芸術におけるアマチュアリズムの意義というのは、このどちらでもない。 アマチュアリズムの意義は、アマチュアが自ら芸術作品の製作に携わるというその行為自体にあり、結果として生まれてくる作品の質には関係がない(あえてわざわざ「下手糞な」と書いたのはそのためだ)。

 また、アマチュアが芸術作品の製作に携わるという行為は、アマチュアの鑑賞力を高めることにつながり、その結果、プロの芸術家がより質の高い作品を生み出す誘引になるはずである。したがって、アマチュアリズムは決してプロの芸術と無関係ではなく、プロの芸術を含む芸術文化全体に貢献するはずだ。これがぼくの主張である。

 たとえば、厳密な意味では芸術とは違うが、スポーツについて考えてみよう。プロ野球の商業的価値が、観客の存在によって生み出されていることは言うまでもないが、観客が試合をどれだけ楽しめるかが、観客が持つ野球の知識に依存していることは明らかだろう。もし、遅い球より速い球の方が打ちにくいとか、ど真ん中の球よりコーナーぎりぎりいっぱいの球の方が打ちにくいという知識がなければ、投手と打者の間のかけひきを楽しめないのはほとんど自明だ。

 しかし、実はこのような知識も、単に知識として知っているだけでは十分とは言えないのである。実際のスポーツはすべて応用問題であって、真ん中の速い球とコーナーの遅い球ではどっちが有効か、といった複雑な問題の集合体だ。このような問題に答えを与えるのは、実際に試合の中で体験しているプレーヤーの肉体感覚以外にない。

 したがって、そのような技術的な問題を観客が本当に理解しようと思ったら、たとえバッティングセンターでもよいから、120 km の球を打ってみるといった経験が必要なのである。そのような経験があってはじめて、それより 30 km も速い球を打つのがどれだけ難しいかということが、実感としてわかってくるはずだ。

 つまり、プロ野球というのは、あくまでも、草野球やバッティングセンターで下手なプレーを続けているアマチュア・プレーヤーの延長線上にあり、そのようなアマチュアリズムが存在するからこそ、存在意義を失われずにいられるのだと考えられる。したがって、プロスポーツの価値も、アマチュアスポーツの価値も、スポーツ文化全体の中で考えてこそ、初めて適切に位置づけられるのである。

 芸術を鑑賞するという行為の意味は、スポーツよりは少し説明が難しいが、ぼくはやはり、作り手の製作過程を追体験することが鍵だと考えている。たとえば、音楽にしてもそうだ。ぼく自身も子供の頃はそうだったが、今では音楽に一家言あって、オーケストラのどのパートでもきちんと聞き分けられる人でも、かつては、パートの聞き分けができない時期もあったはずである。

 ところが、そのような段階で認識されている楽音というのは、単なるフーリエ変換のスペクトルのようなものにすぎないので、対位法やコードとメロディの絡み合いの面白さなどわかるはずもない。そのようなスペクトルからさまざまなパートを聞き分けることによって、初めて音楽の面白さがわかってくるわけだ。つまり、音楽を鑑賞するということは、音楽が製作される過程を逆算して追体験することと同じなのである。

(直接スペクトルを操作して創作を行うという、スペクトル楽派のような方法論が存在することも知っているが、たとえこのような音楽であっても、鑑賞者にとっては、やはり製作者がロジカルに行っている製作過程を追体験することが重要であるとぼくは考えている。)

 だからこそ、音楽の鑑賞力を高めるためには、楽器を操ってみたり、作曲の真似事をしてみたりして、自ら製作の過程に携わってみることが決定的に重要なのである。 ぼく自身も、(最近は忙しくてやっていないが)キーボード演奏や DTM を趣味にしていたことがある。もちろん、他人様にお聞かせできるような水準の作品はほとんど生まれなかったが、このような経験によって、芸術を見る眼は明らかに変わったことを実感している。

 このように考えると、芸術におけるアマチュアリズムの重要性というのは、ほとんど自明なようにも思えるのだが、なぜその重要性が多くの人から忘れられてしまったのだろうか。それはおそらく、産業革命以降の社会の分業化に理由があると考えられる。

 もともと、中世以前の社会では、生産者と消費者の区別は、それほど明確ではなかったはずである。王侯貴族はともかく、一般庶民にとっては生活必需品のほとんどが自家製でまかなわれ、市場で購入されるのは、一部の特殊な商品だけであったに違いない。

 「大草原の小さな家」シリーズの前半なども、時代的には中世とは言えないが、生活必需品のほとんどがが自家製であったことがうかがえる。中でも印象深いのは、この家のお父さんがバイオリンの演奏を愛好し、その演奏を一家で楽しんでいることであり、この頃には、芸術もまさに自家製であったことがうかがえるのである。

 その後、産業革命や分業化により、生産者と消費者は商品ごとにはっきりと分かれることになったが、芸術分野においてプロとアマチュアが明確に分化したのも、おそらくこのときではなかっただろうか。さらに決定的な出来事は、複製芸術の普及である。これにより、少数の天才芸術家が作り出した作品を、多くの一般大衆が購入して鑑賞するということが可能になり、芸術作品が市場で他の商品と同じように流通するようになったわけだ。それとともに、自家製芸術に対するニーズも失われていったのだろう。

 しかし、勘のいい人はすでにお気づきのように、芸術作品と他の商品では、その効用の認識過程に決定的な違いがある。芸術作品では、先に述べたように、製作の過程を追体験することによって効用が生み出されるが、一般の商品はそうではない。たとえば、歯ブラシの価値を知るために、歯ブラシの製造工程を知る必要があるかと言ったら、そんなことはまるでないわけで、歯ブラシの価値は使ってみて便利かどうかだけでほぼ決まる。

 それが証拠に、歯ブラシ界には、下手糞だけれども趣味で歯ブラシを作り続けるアマチュア歯ブラシ職人などほとんどいないし、そのようなアマチュアの存在に業界が依存しているなどという話も聞いたことがない。つまり、歯ブラシ業界は、実用的な歯ブラシの使用価値だけで十分存続しうるのであって、そこが、スポーツや芸術と根本的に異なるところなのである。 

 もちろん、工芸品などになると、生産過程を知ることによってさらなる付加価値がわかってくるということもあるのだが、それはむしろ、使う側の見方の問題で、使う側があえて、商品を単なる道具ではなく芸術作品として認識しているということになるわけだ。

 つまり、芸術活動は本来、完全には生産側と消費側に分離できないはずなのだが、近代以降、擬似的に一般商品と同じように扱われるようになった。その結果として、芸術におけるアマチュアリズムの意義が、軽視されるようになったのではないかと考えられるわけである。

 このことにはもちろん功罪があって、だからこそ、多くの庶民が天才芸術家の作品に直接触れることができるようになったわけだが、その一方で、鑑賞力の低下による商業芸術の通俗化を招くことにもなった。たとえば、家元制をとっているような伝統芸能では、現在でも製作と鑑賞が分業化されていないところが多々ある。もちろん、それが商業的な成功をもたらしているとは言いがたいかもしれないが、だからこそ通俗に堕することが防がれているとも言える。

 ぼくは必ずしも Web2.0 マンセー派ではないのだが、CGM というものを、近代以降軽視されていたアマチュアリズムの復権として位置づけることは可能ではないかと思うのだ。おそらく、多くの人が指摘するように、CGM で生み出される作品のほとんどはくだらない作品であるに違いない。しかし、それを恐れる必要はないのであって、くだらない作品を生み出すという活動の集積こそが、芸術文化全体を下支えし、結果としてより高度な芸術作品の誕生に貢献するのはずなのである。

 ちなみに、初音ミクを開発したクリプトン・フューチャー・メディア社長の伊藤博之氏もぼくと同じような歴史観をお持ちのようなので、最後に引用させてもらうことにする。

 人間はそもそもプロシューマだと思うんです。原始時代から、自分たちでモノを作り、消費しているわけですから。しかし、個人ですべてを行うのは効率が悪いので、分業が進み、都市が形成され、経済システムが構築されました。

  ただ、この一連の人間社会の発展は、CGM(消費者生成メディア)の登場で折れ曲がったような印象を持っています。そもそもプロシューマだった人間が、生産者と消費者に分かれ、なぜかそこには大きな溝までできてしまっています。

 その違和感が顕在化し始めており、CGMの登場をきっかけとして、人類の歴史をさかのぼるというような動きが生まれているのではないでしょうか。例えば、著作権というテーマで考えれば、「クリエイティブコモンズ」のようなものができ、生産者と消費者の切り分けを気にせずに著作物を活用していこうというような流れです。

 こうした流れは都市の見直し、さらには経済システムの見直しというところまで進むのではないでしょうか。おそらくCGMの本質は、「みんなで何かを作って楽しいよね」というところにあるのではなく、社会全体の在り方を変えていくというところにあると、わたしは思っています。

(追記: 以前に斉藤美奈子氏の「文章読本さん江」を批判したときにも同じような論法でアマチュアリズムを擁護していたのを思い出したのでリンクしておく。歯切れが悪く見えるかもしれないけど、このように、意外としつこく首尾一貫してるのである(^^)。)

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ジャンクSPORTSの美学

 「ジャンクSPORTS」というのは、ご存知の方も多いと思うが、ダウンタウンの浜田雅功がメイン MC をつとめ、ゲストに迎えたトップアスリート達をヒナ壇芸人よろしくいじり倒すという番組である。

 ダウンタウンファンのぼくはもちろん、この番組自体好きでよく観ているのだが、中でも前から気になっているコーナーが一つある。それは、「スポーツ・ファンタスティック」の中の「ジャンクスポーツPR大作戦」 というコーナーである。

 これは、たとえばビーチバレーの浅尾・西堀ペアとか、F1 の鈴木亜久里のチームとかに、 ジャンクSPORTSの番組のロゴの入ったものを着用してもらったり、F1 のマシンにステッカーを貼らせてもらったりして、ジャンクSPORTSという番組をタダで宣伝してもらおうという、超ずーずーしい企画、のはずなのだが…(^^)。

 でも、冷静に考えると、平均視聴率 10% 程度を稼ぐジャンクSPORTSの方が、ビーチバレーや F1 レースの試合より、メディアとしてのリーチは大きいはずである。普通、広告というものは、リーチの小さいメディアがリーチの大きいメディアに出すものだが、この企画では、それが逆になっているのである。

 つまり、見かけ上は、ジャンクSPORTSが他のスポーツに宣伝してもらっているように見えるが、実質的には明らかに、ジャンクSPORTSの方が他のスポーツを宣伝することになっているのである。深読みかもしれないが、それをあえて、「宣伝してもらっている」と表現するところに、ぼくは番組スタッフの美学のようなものを感じて、心の中でニヤリとしてしまうのだ。

 もっと深読みすれば、このやり方は、いつも宣伝「してやって」いるのだから、という事実を免罪符にして、いざとなると芸能人やアスリートのプライバシーを暴き立てて食い物にしている、他の芸能マスコミやスポーツ・ジャーナリズムに対する批評にもなっていると思うのだ。

 このようなイエロージャーナリズムの問題点は、ルールというよりむしろ美学の欠如にあるので、論理的な言語では批判しにくいところがある。したがって、そのような美学のなさを批判するには、より美学のあるモデルと対比することが最も効果的なのである。

 そういう意味で、ジャンクSPORTSのスタッフの方々には、今後もぼくの深読みを裏切らないようにがんばっていただきたいものである(^^)。

(ダウンタウンのことを下品な芸人だと思っている人もいるようだが、この例でもわかるように、ぼくは、彼らには強い美学的なこだわりがあると思う。もちろん、それを美しいと感じられるかどうかは、人それぞれだと思うが(^^)。)

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初音ミクの意義について

 久しぶりにはてなを除いてみたら、初音ミク現象を批判して叩かれてる人を見つけた。文章の妙なところに力が入っていたり、オタク嫌いが露骨に表明されていたりするところは、華麗にスルーするにしても(^^)、ぼくもやはり、論旨にいろいろと納得がいかないところがあるので、なるべく他の意見と重複しないように指摘してみたい。

 まず気づくのは、この人のツールの評価基準というのが、あまりに「芸術的意義」に偏りすぎていることだ。端的にそれが現れているのは、「想定外の使用法が生まれなければだめだ」という発言だ。

 しかし、ちょっと冷静に考えてみればわかるはずだが、直接的に芸術的価値を生み出すツールだけが芸術的価値に貢献するとは限らない。たとえば、デジタル音楽の最も基本的なツールであるシーケンサーにしろハードディスクレコーダーにしろ、基本的にはメーカーの想定内の使い方しかされていないが、それで十分に製作の効率化や低コスト化に役立っている。

 この人は、効率化や低コスト化なんて芸術的価値とは関係ないと考えているのかもしれないが、実際には、効率化や低コスト化による無駄な負担の減少は、間接的に芸術家のクリエイティビティを向上させ、結果としてより優れた芸術の誕生に貢献しているはずであり、その比率はおそらく、この人が挙げているようなギミック的な使い方の貢献度よりよっぽど大きいはずなのである。

 たとえば、写真家の荒木経惟氏はコンパクトカメラを愛用していたそうだが、その理由は、画質がいいとか面白い効果があるとかいうものではなく、単に気軽に撮れるからということだったはずだ。しかし、その気軽に撮れるということが、間接的に芸術的価値を生み出したのだろう。

 同じように、人件費もかからず生身の人間では耐えられないような酷使にも耐えられるボーカロイドは、習作やプリプロダクションの低コスト化によって技術を向上させることに役立つだろうし、実作品においても、ボーカルを低コスト化した分他のパートに金をかけることによって作品全体の質を向上させるといった柔軟性をも可能にするだろう。

 次に気づくのは、この人のアマチュアリズムの軽視である。そもそも、芸術という文化は、製作・鑑賞・批評の三つがあってはじめて成立するのであって、その意味で、下手糞なアマチュアが作品を作るという行為にも、十分な芸術的な意義がある。なぜなら、自ら作るという過程を経ることで、はじめて見えてくるものがあるからだ。

 でなければ、小中学生に下手糞な絵や作文を書かせることになんの意味があるというのだ。教育ではなく、単に才能のない人間を振り落とすためだけのシステムだ、ということになってしまうではないか? あるいは、年寄り連中が下手糞な俳句や川柳を作って楽しんでいるのは何の意味があるというのだ。単なる自己満足でしかないとでも言うのかな?

 このように、プロの商業芸術だけでなく芸術文化全体を視野に入れれば、アマチュアでも手軽にボーカルの入った DTM を製作することを可能にするボーカロイドは、芸術文化に対して十分な貢献ができると言えよう。

 最後に、この人が言ってるような芸術的価値を生み出す可能性だって、まったくないとは言えないんじゃないかな。技術の詳細を調べていないのでアレなんだが(^^)。

 たとえば、「Last Emperor」のサントラに収録されていて、いまや坂本龍一の代表曲にもなっている Rain という曲があって、これはわりと有名な話だと思うけど、教授はよくこの曲について、「最初はシンセ(Proteus かなんか)のストリングスが入っていたんだけど、ベルトルッチが嫌だというんで生のストリングスに差し替えた。でも、絶対にシンセの方がよかった」みたいなことを言っていた。

 これは、シンセの音が個性的だからというような理由ではなく、シンセの方が下手なオーケストラよりもアタックやリリースを自由に調節できてリズム感が出るからだ、というような理由だったはず。もちろん、生で録音した素材をサウンド・エディットで修正することも可能だろうけど、ボーカロイドの方がずっと効率的に同じようなことができる可能性はあるだろう。

(ご存じない方もいるかもしれないが、映画音楽なんかでは、プロが本格的にシンセ・ストリングスを使った作品は結構いろいろある。PSY・S の松浦雅也氏が手がけた「スウィート・ホーム」のサントラなんかも、すべてフェアライトで作ったらしい。これなんかも、よく聴くと生でないことはわかるが、必ずしもそのせいで質が低下しているという気はしない。「Shadow's Trap」なんていう曲では、むしろ、機械ならではのアタックの早さが効果的に生かされている。あるいは、野見祐二氏の手がけた「耳をすませば」なんかも、サントラの方は生だが、イメージアルバム の方はたぶん基本的にシンセ・ストリングスである(「地球屋にて」などは除く)。久石譲氏も「Kids Return」とか「NHKスペシャル 驚異の小宇宙・人体」なんかは多分ほとんどシンセ。細野晴臣氏の「銀河鉄道の夜」もおそらくほとんどシンセだろう。)

 この人は CGM に懐疑的なようだが、たとえそこからシリアスな芸術は生まれなかったとしても、「帰って来たヨッパライ」みたいな一種の冗談音楽ができてヒットするなんていう可能性はあながちないとは言えないのではないだろうか。それだって、ある種の芸術的成果だと思うのだが。

 そんなわけで、ボーカロイドは、オタク的なコンテキストを離れても、十分に技術的・芸術的意義があるのではないかとぼくは思うのだが、いかがであろうか(^^)。

(追記: アクセスが多かったので、補足記事を書きました。「芸術におけるアマチュアリズムの意義」参照。)

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God's Christian Warriors

     先日紹介した、CNN の God's Warriors シリーズの一つ。今度のテーマは、まさにど真ん中の直球で、アメリカの宗教右派である(^^)。

     盛りだくさんな内容で、例によって観ているだけで疲れてしまうような話も多かったが、政治に宗教を持ち込むなと訴えて支持を得ている牧師とか、環境問題でリベラル側に立つ神学者とか、少しは希望の持てそうな話もあった。

     森孝一先生なんかの本を読んでいればわかるようなことも多いが、その後のかなり過激な展開もいろいろ描かれているので、アメリカ社会とキリスト教の関係に興味のある人には観ることをお勧めしておく。

     CNN International では、この土日にあと 3 回ぐらい再放送があるはず。CNNj でも「神の戦士:キリスト教編」という題で、だいたい同じ時間にやってるみたい。

     改めて思ったけど、この問題は日本の文化保守の問題とも似てるよね。公の場所に十戒を掲載しよう運動は日の君運動みたいだし、進化論を教えるな運動は教科書問題みたいだし、過激な性教育に反対みたいなのも同じですよね。まあ、ある意味当たり前だけど(^^)。

     時間があれば、あとでもっと詳しく紹介するつもり。今日はとりあえず疲れた。。。 (番組を観てくれれば、疲れる気持ちもわかってもらえるでしょう(^^))

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白田秀彰さんが立ち上がったらしい

 かねてから敬愛する白田秀彰さんがついに立ち上がったらしいです。

 先生自らお書きになられたらしい、「インターネット時代の政治参加について」というのが名文なので、ちょっと引用しときます。

私は、ネットワークに集う皆さんや私たちが、民主主義を新しい形態で先に進めることができると信じています。現実世界の偉い人たちが言うように、ネットが「危険で」「犯罪の巣窟で」「悪意に満ちた場」であるなら、ミャウの活動は、ただちに敗北するでしょう。しかし、それは擁護すべきでないものを支えようとした愚かさの代償だと、私は覚悟します。

 もし君たちが、自分自身の自由のために戦うこともできないというのなら ...君たちはその自由に値しない。── というのは、スタンフォード大学教授ローレンス・レッシグ先生の演説の一節です。

レッシグ先生は、我々にうったえ、我々を鼓舞し、我々を動かそうとし ...そして今、身を引いています。レッシグ先生ほどの人物であっても、EFFほど知られた組織であっても、やはり世の中を動かすことは難しかった。だから、私は、このミャウでなにか変化が起こせるか...については楽観していません。ただ、私は、この組織で、今の若い世代に、続く世代に、「ああ、こういうことをしてもいいんだ」という姿を見せたい。そして、彼らが、私の屍の上を越えていければいいのだと思っています。

 白田先生はこういう文章も書けるんですねえ(^^)。

 MIAU の活動についての個人的意見は、もうちょっと考えてから書いてみたい。。。と言いつつほったらかしのネタが他にもたくさんたまっているので、いつになるかあてにはならないけど(^^)。とりあえず、ささやかながら紹介スペースのみ提供させていただきます(^^)。

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臓器の印刷

 YouTube で見つけた、PBS の Wired Science という番組のビデオ(合法(^^))を観てビックリ。

 前半は、どっかで観たことがあるような、再生医療の話なのだが、後半になると、なんとプリンターを使って臓器を「印刷」するとかいうすごい話が出てくる。

 調べてみると、これは organ printing という最新の医療技術らしい。

 なんか、リュック・ベッソンの「フィフス・エレメント」でミラ・ジョボビッチが誕生するシーンを思い出してしまった。初めてこの映画を観たときには、あんまりリアリティがないような気がしたのだが、実は結構 SF 考証センスがよかったのかも(^^)。使われてるのが、パソコンで使ってるような普通のインクジェット・プリンタなのもおかしいよね(^^)。

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金儲けの福音

    あなたはできる 運命が変わる7つのステップ  昨日の「ラリー・キング・ライブ」のゲストは、ジョエル・オスティーン(Joel Osteen)という宗教家。ぼくは不勉強にして知らなかったのだが、毎週 5 万人もの信者が集まる全米でも最大級のメガチャーチを運営し、処女作の「Your Best Life Now: 7 Steps to Living at Your Full Potential あなたはできる 運命が変わる7つのステップ)」は 500 万部を売り上げ、バーバラ・ウォルタースからも「2006 年の最も魅力的な人物ベスト 10」に選ばれた人物だという。そう聞けば、かねてからキリスト教とアメリカ社会の関係に興味があった私としては、調べてみないわけにはいかない(^^)。

     聞いていてひっかかったのは、この本のタイトルからもわかるように、彼の教義が宗教というより自己啓発セミナー的であることだ。調べてみると、このような教義は、「ワード・オブ・フェイス(Word of Faith)」運動の流れを汲んでいるらしい。

     ワード・オブ・フェイス運動については、検索してみてもほとんど日本語の資料が見当たらないのだが、唯一、映画秘宝という雑誌の「高橋ヨシキの悪魔の映画史」という連載の中にわかりやすい説明がある。 (この連載は、バックナンバーも非常に興味深く、キリスト教とアメリカ社会の関係に興味がある人は必読である。)

     この運動の特徴的な教義の一つとして、"Prosperity Gospel" というのがあるらしい。これは、直訳すれば「繁栄の福音」ということになるが、特に "financial prosperity" を強調しているということなので、表題のように「金儲けの福音」と訳してもあながち間違いではあるまい。要するに、信仰すれば、健康になって社会的にも成功するよ、という話で、完全に現世利益的なのである。

     上記の高橋ヨシキ氏も書いているように、これは、キリスト教本来の教義とはかなりかけ離れているように見える。もっとも、キリスト教の教義というのは、別にイエス・キリストがすべて考えたわけではなくて、キリストの死後に弟子たちがよってたかってでっちあげたようなものだし、キリスト教の歴史自体が、宗教改革をはじめとした派閥争いの歴史と言ってもよいくらいだから、何が本来の教義だかなんだかわかりゃしないという話もある(^^)。

     しかし、キリスト教の根幹に近い部分には、現世利益を無視し、死後の救済を求めるという教義があるということは、大方の一致するところではないだろうか。「予定説」などはその典型的な例で、誰が救済されるかはあらかじめ決まっていて、現世で何を努力しようが「そんなの関係ねえ!」というある意味ぶっとんだ話だ(^^)。また、金儲けを擁護しているともとれる、あの有名なウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理」ですら、資本主義を生み出したエートスは、現世で金を使って楽しむことを考えず、ひたすら勤勉に働いて資本を蓄積する精神である、ということだったはずだ。

     そういう意味で、この教派は、同じキリスト教内部からもいろんな批判を受けているらしい。また、この教派は、「原罪」みたいなキリスト教のおもたい部分はあまり教えず、軽くて口当たりのいいことばっかりいうので、"Gospel lite" とか "Christianity lite" とか揶揄されているらしい(この lite はマルボロライトとかのライトで、要するに「軽いキリスト教」という意味らしい)。しかし、そんな宗教がこれだけ多くの人を動かしているということは、今後のアメリカ社会の行方を占う意味でも注視すべき現象であろう。

     まあ、ぼくは金儲け自体は別に悪いことだとは思ってないのだが(^^)、それが宗教の目的だと言われると、さすがにちょっと違うのではないかと言いたくなる。宗教の目的の一つは、ある次元で幸せになる方法を教えることだと思うが、お金というのは、幸せになる手段としては使えるけど、幸せになる方法は教えてくれない。いくらお金が儲かっても、それをどう使えば幸せになれるかを教えてくれなければ、本末転倒だと思うのだが(^^)。

    (追記:言葉足らずでわかりにくかったかもしればいが、別に、単なる処世術なら処世術でよいのである。ぼくが言いたいのは、単なる処世術に過ぎないものを、神の名において絶対化することの危険性なのである(^^)。それは、疑似科学と同じで、「擬似処世術」「擬似自己啓発」みたいなものにすぎないのではないだろうか。)

     ぼく自身は無神論者なのだが、必ずしも社会に宗教が不要だとは思っていない。今みたいに科学全盛の時代に宗教を信じている人は単純に頭が悪いみたいに思っている人もいるようだが、もともと近代以前には、科学も哲学も宗教の一部だった。それが近代になって、科学や哲学が宗教から分かれて、独自の文化として自立したわけだが、じゃあ、科学や哲学が完全に宗教の代わりを果たしているかと言えば、必ずしもそうは思えない。なにかとりこぼされたものがあるような気がするのである。頭のいい人は、その隙間を自分の考えで埋めていくこともできるのだが、誰もがそれほど頭がいいわけではない。だからこそ、いつまでたってもカルトみたいなものがなくならないのではないだろうか。

     そう考えると、現代に求められている宗教というのは、民主主義や科学のような近代市民社会の原理と決して対立せず、なおかつ、科学や哲学が取りこぼしたものだけを扱うような宗教(というより宗教性と言ったほうがいいかもしれないが)ではないかと思うのだが、肝心の宗教家は、相変わらず科学に対抗し否定することばかりを考えているように見える。そんな考え方では、いつまでたっても二流の科学(疑似科学)や処世術を垂れ流して世の中を混乱させるだけではないかと、ぼくなんかには思えてしまうのだが。。。

    余談:この話とは別に、ちょっと面白かったのは、ブリトニー・スピアーズやパリス・ヒルトンに言及した部分(トランスクリプトを参照)。

   

        KING: Yes. That's what many think, that this whole group, these youngsters, are basically good.
       
        V. OSTEEN: Oh, yes.
       
        J. OSTEEN: Oh, yes.
       
        KING: They've just had too much, too soon.
   

    ぼくはこの部分を読んで、ついカメダさんやサワジリさんのことを思い出してしまい、"They've just had too much, too soon." というのは、まったくその通りだと、宗教とは無関係に共感したのでありました(^^)。ある意味、日本でもアメリカでも同じことが起こっているんだろうなあ(^^)。

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songs in the birdcage

songs in the birdcage

  もう3ヶ月も前から出てたのに、紹介するのが遅くなってすいません。以前からプッシュしていたコトリンゴさんのファースト・アルバム「songs in the birdcage」、予想通り傑作でした。捨て曲は一曲もないし、全体的な統一感も高いです。

 ぼくはいまだに、この人の音楽をうまく表現する言葉を見つけられないでいるのですが、今回は、100 円ショップで見つけた掘り出し物のコップや茶碗みたいな感じかもしれない、と言ってみます(^^)。

 なんか、でっかいハートマークがついてたりして、一見気やすい雰囲気が漂っているんだけど、よくよく見ると、そのハートマークがなんとか焼きとかのすごい職人芸の賜物だったりするの(^^)。

 でも、普段使っていると、そんなもったいぶった感じはちっともしなくて、日常生活の中にしっかり溶け込んでしまうんだけど、そういうコップや茶碗で食事をしているだけで、いつの間にか生活の幸福レベルが一段階上がっている、みたいな(^^)。

 使われてる技術はすごいんだけど、桐の箱に入れてしまっておきたい、みたいな感じはぜんぜんしなくて、見てると、赤ちゃんとかにも使わせたくてたまらなくなるの。われちゃったらわれちゃったでかまわないよ。また作るから、みたいに言ってくれそうな感じがして。そこがいいんだよね(^^)。

 「rattlebox」なんて、ドビュッシーの前奏曲集に入っててもおかしくないような曲なんだけど、不思議なことに、ぜんぜんそういうかしこまった感じがしないんだよね。なんか、幼稚園でピアノを弾いてるおねえさんをよくよく見たらビル・エバンスだった、みたいな(^^)。そんな感じ。

 まあ、芸術を人格に結びつけるのはあまり好きではないんだけど、やっぱりこのへんは、彼女の人格の賜物ではないんでしょうか。いっぺん会ってみたい感じのする人ですね(^^)。

 うーん、やっぱりあんまりうまく伝わらんかったかな(^^)。とにかく、お金のある人は、ぜひ一度どこかできいてみてくださいな(^^)。

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ゴアさんとブッシュさんは大差ない

 ゴアさんがノーベル平和賞を受賞したというので、日本のマスコミもなんとなくゴアさんえらいえらいという雰囲気になっているようだが、ぼくはそういう現象をどうしてもあまり素直な眼で見ることができない。というのは、ゴアさんがブッシュさんに負けた 2001 年の大統領選のときのことを思い出してしまうからだ。

 あのとき、日本のマスコミはなんと言っていたか。ほとんどが、ゴアもブッシュも政策には大差ないと言っていたのだ。信じられない人は、新聞の縮刷版でもひっくりかえしてみるといい。その後、この二人がどのような道を歩んだかは、みなさんご存知の通りだ。

(もちろんそこには、冷戦の終了による共産主義の衰退とか、ネオコン/ネオリベの台頭とかにより、保守とリベラルの違いが見えにくくなっていたという背景があるのは確かなのだが)

 念のために言っておくが、ブッシュさんもゴアさんも、当選してから、あるいは、落選してから豹変したというわけでは必ずしもない。ぼくは、当時まだ若くてマジメだったから(というより、不健全な懐疑の精神に満ち満ちていたから(^^))、選挙中に両者の公約をチェックしてみたことがあるのだが、京都議定書の離脱だとか同性愛者に対するなんちゃらであるとか、その後ブッシュさんが物議をかもすことになる政策の多くは、当時からちゃんと公約に書いてあった。だからぼくは、後になって京都議定書の離脱とかで大騒ぎしているマスコミを見るたびに、「けっ、何を今頃騒いでやんでえ」とせせら笑っていたものである(性格悪くてすいません)。

 そういうわけで、以来ぼくは、日本のマスコミの海外報道というものを、あまり信用しなくなった。また、ぼくは当時からゴアさん支持だったのだが、今頃になって、ゴアはえらい、ブッシュは○○、みたいなステロタイプなイメージを喧伝している日本のマスコミの尻馬に乗る気にもあまりなれないのである(^^)。

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God's Jewish Warriors

 CNN International で "God's Jewish Warriors" というパレスチナ紛争の歴史を振り返った番組を観たのだが、あまりになんの救いもない話ばかりなので、くらーい気分になってしまった。

 ちょっと興味深かったのは、ユダヤ人とアメリカの福音派(Evangelicals)のクリスチャン・シオニストとの結びつきを描いた部分。まあ、よく言われる話ではあるのだが、知らない人のために説明すると、福音派というのは、ヨハネの黙示録とかをわりと字義通りに解釈する人たちで、その解釈によると、イスラエルの建国は最後の審判の前兆なのだそうだ。

 だから彼らはイスラエルを熱烈に支持しているのだが、おかしいのは、彼らの解釈どおりに最後の審判が実現すると、ユダヤ人は異教徒だから、最終的には地獄に落ちることになるというのだ。なんじゃそりゃ(^^)。

ここにスクリプトが書いてありますね。"It's controversial in part because in the judgment day scenario embraced by some evangelicals, Jews who don't convert to Christianity burn in hell." だそうですよ。)

 ぼくはいろんな宗教には寛容な方だと思っているのだが、もうね、このエバンジェリカルのクリスチャン・シオニストだけは、はっきり言ってキ○○イではないのか、と言いたくなることがある。キ○○イでなければ、カルトだよね。ためいき(チャーリーブラウン風に)。

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アルメニア人大虐殺

 恥ずかしながらぼくも知らなかったのだが、第一次世界大戦の頃にトルコ人によるアルメニア人虐殺という事件があったそうな。しかし、トルコ政府はこれを認めておらず、「歴史認識」に関する論争が長いこと続いているんだとか。

 で、これも日本ではあまり報道されてないから書くけど、先日、アメリカの下院が、この事件を「大虐殺(genocide)」と認定する決議案を承認したんだそうだ。

(特に、朝日が完全に無視してるのは不思議だ。読売や日経には一応出てるのに。こういうことするから、変に勘繰られるんじゃないのか)

 トルコという国は、イスラム教徒の多い国家であるにもかかわらず、イラク戦争でアメリカ軍に飛行場を提供したりして、多大な協力をしている。なのにそのアメリカにこういう決議を出されたんで、大激怒しているらしい。さらに、イラク北部に住むクルド人に対する迫害の問題もからんだりして、なんだかややこしいことになっているらしい。

 日本人なら誰でも、どっかで聞いたような話だな~、と思うだろうね(^^)。いろいろ考えさせられるけど、面倒だからここには書かない(^^)。

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妊娠はしていない

 今日、さる有名人が結婚したというニュースを見ていて気づいたんだけど、最近の有名人の結婚を報じる記事って、たいてい「妊娠はしていない」って書いてあると思わない(^^)? あれって多分、「できちゃった婚」が流行ったせいで、逆にできちゃった婚でないときにはそれを明示する、みたいな習慣ができたんだろうけど、ひいて見るとなんか変だよねえ(^^)。別に、赤の他人が妊娠してようがしてまいが、別にどーでもいいし、そんなの全国に報道しなきゃならないような大問題か(^^)?

 と思って、「妊娠はしていない」で検索してみたら、やっぱり同じようなことを思っている人がいましたね(^^)。

 まあ、こんなに他人の私生活に興味がないのは、ぼくが冷酷すぎるだけなのかもしれないけどさ(^^)、やっぱ、俗情との結託をあんまり大手をふって正当化してほしくないのよね~。報道する方も、少しは慎みを持ったらいかがでしょう。

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別に…

 そうそう、高橋幸宏さんの「A Day In The Next Life」に収録されてる「BETSUNI」っていう曲があってさー、ってそんなことが言いたいのではなかった(^^)。例の若手女優さんの話だった。

 ぼくは「パッチギ」も見てないし、この人のことほとんど何も知らなくて、YouTube で会見の動画とかを見ただけなのだが、正直なんか可愛そうになってしまった。

 たとえば、もしあの MC が浜田雅功だったら、「お前何やその態度は~!」と言いながら彼女につっかかって行って、どつき回していたであろう。さらに、どつきながら放送禁止用語を叫びまくって、ビデオが録画されていても放送できないようにするぐらいのことはしたかもしれない。その結果として、逆に彼女の名誉は守られたであろう。ところが、実際にはほとんど放置プレーだったわけだ。

 つまり、そういう気配りのできる本当のオトナというものが少なくなった結果として、若者は社会に出てすぐのときから成熟したオトナとして振舞うことを求められるようになっているわけだ。

 これはおそらく、世の中から年功序列の文化が薄れた結果、若者と年寄りがほとんど平等な条件で競争することを強いられるようになった結果なんだろうね。昔だったら、二十歳過ぎればオトナだとは言いつつも、実際にはまだまだ子供だからというんで甘えることが許される部分があった。

 それは、年寄りが無条件に尊敬されていたことの裏返しだ。だって、今のように、自分より年下の奴が上司で給料もたくさん貰っていることも珍しくない、というような社会では、若者だからといって、そんなに甘やかす気持ちになれないのも無理ないではないか。

 だけどさあ、オトナぶって偉そうにコメントしてる連中を見ると、お前ら自分が二十歳のころとか思い出して見ろよ、そんなにオトナだったか? 二十歳かそこらで、日本中で女王様だのなんとか会だの言われて、街を歩いていても当然「あ、○○会だ、クスクス…」みたいなことを言われたりしてただろうし、それでそんなに平然としてられるのか、と聞いてみたい気もするんだよね(^^)。少なくとも、ぼくにはとうてい無理だったろうね(^^)。

 それから、これはこの事件に限ったことではないが、芸能マスコミという奴はどうしてあんなに偽善的なんだろうね。誰かの飲酒事件のときにも書いたけど、「社会的な影響が大きい」とか言うのやめてくれよ~。お前らが面白がって報道するから影響が大きくなるんだろーが。ホントに影響が広がるのが嫌なら、報道しなけりゃいいんだからさあ(^^)。

 まあ、あんた方もそれでオマンマ食べてるんだろうから、報道するなとまでは言わないけど、せめて、「わたしらも、本当は視聴率がとれておいしいから報道してるだけですけどね」ぐらいの自虐ネタをかましてみたらどうだ(^^)。まるで自分たちは純粋に善意で行動してるんです、みたいな顔されると、正直ムカムカするんだよ。

 もちろん、ファンの人や映画を見に来た人、あるいは、同じ映画のスタッフが怒るのは当然だけどね。でもそれは、頑固な職人がやってる無愛想な寿司屋みたいなもんで、客が怒って二度と行かないとかいうのはわかるけど、客でもなんでもない奴が「あたしがあの職人シメてやるよ」とかいう話じゃねーだろ? そんな店、行かなきゃいいだけの話なんだからさ。もっとも、ぼく自身は、もったいぶった頑固職人の店より、誰にでもわけへだてなくスマイルしてくれるファミレスとかの方が好きだけどね(^^)。

 まあ、結論としては、怒るのはいいけど、怒る方ももっとオトナになれば? でないとみっともないよ、ってことだね。


 なんか最近の世の中って、近視眼的に見ると理屈は通ってるんだけど、ひいて見るとバランスがおかしい、みたいなことが多いよね。。。でも、そういうのを理屈で批判しようとすると、やろうと思えばできることはできるんだけど、すごく手間がかかるんで、ちょっとアイロニカルなレトリックでごまかしてみましたって感じなんだけど、ぼくはもともと理屈の人なんで、あんましうまくなかったかも(^^)。

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