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マザーボード燃える

 びっくり。ノートパソコンをいじくりまわしていたら、マザーボードが燃え出した。結局、マザーボードの電源周りがどっかショートしていたらしい。ひょっとしたら、エアダスターを吹きかけたせいもあるかもしれん。エアダスターって可燃性なんだね。知らなかったよ。また失敗と引き換えにささやかな知識を身につけたぞ (^^)。

 なんていってる場合ではなくて、結局そんなこんなでマザーボードがおしゃかになってしまった。マザーボードだけを交換することも可能だが、4 万円ぐらいかかる。一方、同じ機種の中古が 5 万円ぐらいで出てるので、どうせならそっちを買った方が得かなあと思う。そっから、マザーボードを引っこ抜いてきて修理することもできるし、逆に HDD を差し替えれば、簡単に以前の環境が復活するだろうし。

 というようなことを確認するだけで、ずいぶん時間を食ってしまいました。もちろん、その間並行してデスクトップ環境への以降も行っていたので、しばらくはこっちで仕事をします。でも、ノートになれてしまうと、デスクトップの画面は眼が疲れるんだよな~(^^)。

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客がいつも一番好きなものを注文すると思ったら大間違いよ!

 ノートパソコンのことだが、完全におしゃかになったわけではなくて、状況によって起動したりしなかったりするので始末が悪い。何か部品を交換すれば復活しそうなのだが、どれが故障部品なのかがなかなか特定できないのだ。あまり特定に時間がかかるようなら、早々に見切りをつけて別マシンを調達したほうがよいだろうし。とりあえず、ファン・アセンブリあたりが怪しいので、一応注文だけはしてみたが、どうなることやら。

 ところで、前から思っていたけど、うまく言えなかったことを、うまく表現する方法を、また思いついたので書いておく。ほら、選挙では自分の考えに近い政党や政治家を選んで投票すべきだっていうでしょ。あれは必ずしも正しくないとぼくは思うのだ。

 もちろん、民主主義国家では、国民に主権があり、国会議員は主権者たる国民の代理人に過ぎない、という考え方があるのは、無知なぼくでもよーく知っている(^^)。でも、こういうきれいな話が成り立つのは、選好と能力のギャップがまったくない場合だけだ。いくら国民が主権者だっていったって、国際政治の問題なんかは、どっちにしろ日本の都合だけでは決められない。

 たとえば、こう考えてみてほしい。あなたが一番好きな料理がカレーだったとする。そのあなたが、最高級すし屋に行ったとしよう。あなたはカレーを注文するか? しないよね。すし屋に行ったら、すし屋が自信をもって作れるメニューの中から、もっとも好きなものを選ぶべきだ。このような場合、すし屋の能力が制約条件になるので、自分の選好だけにしたがって選択することは、必ずしも最善の解ではないのである。

 何が言いたいかわかるだろうか。ぼくは、今の日本の政治家に、「対米追従」という以外のメニューを注文しても、ろくな料理が出てくるとは思えないのだ。だから、ぼく個人としては、決してそんなに好きな料理ではないんだけど、現実的な選択しては、「対米追従」を注文せざるおえないのだ。おそらく、このような選択をしている有権者は、ぼくだけではないはずである。

 「対米追従」は、昔からあるありふれた料理だから、誰でもそこそこの味のものを作れる。しかし、それ以外の料理はそうではない。多大な能力と努力が必要だ。自分はそういう料理を作れる、と自称している政治家はいくらでもいる。しかし、本当に作れそうなヤツがいるか。。。?

 ぼくはホントは、このようなぼくの認識を覆してくれる料理屋、もとい、政治家の登場を心待ちにしているのだ。ただし、それが松岡洋右のような身の程知らずでなければよいがとも思っているが(^^)。

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またノートパソコンが壊れた

 ひえ~、またノートパソコンが壊れた~(T_T)

 なんで忙しいときに限って壊れるのか。。。(;_:)

 もう泣けてくるよ~(涙)

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結局はバランス

 こういう問題って、製造者責任 VS 自己責任みたいな構図で語られがちだけど、結局はバランスの問題だと思うんですよね。

 極端な話、コンビニの誰もが手の届く棚で「食べれば即死の青酸カリキャンデー」みたいなのを売って、間違ってそれ買って食べて死んだ人がいたとしたら、いくらパッケージに毒だって書いてあるじゃないかって言ったって、自己責任ってわけにはいかないだろうと誰でも思いますわな (^^)。

 前にも書いたけど、「法と経済学」という分野には、「最安価損害回避者」という考え方があります。これは要するに、最も低コストで損害を回避できるのは誰かということ。

 こんにゃくゼリーの問題なら、国、製造業者、保育園、親などの中で、最も低コストで窒息事故を回避できるのは誰かを考えるわけです。

 そして、その人の責任ということにすれば、その人には損害を回避するインセンティブが生じるので、社会全体として最も低コストで損害を回避でき、結果的にみんなが得するだろうというわけ。

 だからたとえば、製造業者がちょっとこんにゃくゼリーの形を変えただけで死亡率を大幅に下げられるというのだったら、それはやったほうがいいだろうし、逆に親の躾とか言ったって、毎日 8 時間ずつの訓練を 3 年間続けないとこんにゃくゼリーを安全に食べられるようにはなりませんとかいうんだったら、コストがかかりすぎてバカバカしいからやめたほうがいいわけ (^^)。

 ただし、厳密には「コースの定理」というのがあって、「取引費用」がゼロだったら、結局だれの責任にしてもいっしょです、という話もあります (^^)。

 たとえば、とにかくなにがなんでも製造者責任で、裁判になれば必ず製造者が賠償金をとられるとします。そして、実際には、親がしつけをした方が安上がりだったとします。

 そうすると、製造業者は、裁判に負けるのは最初からわかっているわけだからから、損害を最小化しようと考えたら、問題が起こる前に、事前に親に金を出して親に躾をしてもらうはずなんだよね。だから、誰の責任にしても結局同じだっていう話になるわけ。

 これが、親がイジワルで、自分で自主的に躾をするのにかかる人件費より、はるかに高い金額を製造業者に要求したりすると、この話は成立しないんだよね。取引費用がゼロってのは、要するにそういうことです。

 まあそんなわけで、なんでも自己責任にしてとか企業側の言いなりになってとか怒ってるインテリさんもいるようですが、ぼくは、この話に素直に憤慨する人たちの感覚のほうが、バランス感覚があって健全な気がするんですけどね (^^)。

 こんにゃくゼリーの改良が簡単にできるならやればいい。危険性を告知するのもいいでしょ。でも、完全禁止は行きすぎだろう、みたいな線が平均的ですよね。たぶん、コストを厳密に計算しても、そんな感じになるんじゃないですか?

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アダルト・フード・コーナーを作ろう!

 困るんだよね~。ぼく、こんにゃくゼリー大好きなんだよね~。なんですぐ規制しようとすんのかな~。正月になると、毎年のように餅を咽喉に詰まらせて亡くなる人がいるけど、なんで餅禁止運動とか起こらないのかな~。やっぱ、伝統の力ってやつですかあ? 不公平だな~。

 こうなったらいっそ、死んでも文句言いませんという一筆を客からとってから売ったらどうかね。あるいは、ソフトウェアみたいに、このパッケージを開くと、免責条項に同意したとみなします、みたいにしちゃうとか。

 それとも、ビデオ屋みたいに、「アダルト・フード・コーナー」とか作って、「ここで売ってる食品を食べると死ぬ可能性があります」ってでかでかと書いちゃうとかしたらどうかね。(^^)

 ここまで妥協してるんだからさ~、こんにゃくゼリーぐらい食べさせてよ。ねっ? ねっ?(^^)

追記: 日本人は、アメリカの牛肉にはあれだけ大騒ぎするのに、なんで中国の食品その他にはこんなに甘いんだろう。(^^)

追記: mixi のこのニュースに対するコメント見てたら、ほとんどの人が規制に反対してたので安心した (^^)。 こんにゃくゼリーは、美容にいいとかだけではなく、普通のゼリーや寒天のゼリーとかと食感が違っていておいしいのである。この食品は日本が世界に誇るべき素晴らしい発明だと思う。開発者の方々には最大限の敬意を表したい。

追記: こんなの見つけた。「気道異物に対する救急隊員並びに市民による異物除去の検討

これによると、

気道異物による推定死亡者数(全国総数/年) 約2,700

気道異物のうちの餅の割合 18.5%

ということは、餅で死ぬ人は、500/年くらいかな? こんにゃくゼリーによる死亡数よりずっと多いんじゃない?

 このような由々しき事態に対し、餅が発明されて以来何百年もの間、行政当局はなんら有効な対策を打てていない。

 なぜかというと、日本の保守派政治家は、農村地帯を支持層としているので、日本の代表的な農作物である米を原料とした食品の消費を妨げるような政策をとることができないのである。

 また、文化的保守主義を標榜する彼らにとって、日本の伝統食品である餅を否定することは、日本文化を否定することにもなるため、彼ら独特の非論理的な思考によって感情的に反発している面もある。

 また、平均的な消費者も、弱者である老人の視点に立てない自己中心的な人間が多いため、自分にとってはおいしく、なおかつさしたる危険は無い、というエゴイスティックな理由により、行政の不作為を追認してしまう人間が多いのである。そのような人間には、いわゆるネット右翼が多いとも言われている。なんという嘆かわしい世情であろうか。

 餅に対する、老人の危険/効用比と若者の危険/効用比はまったく異なっており、老人にとって、餅は百害合って一利なしの食品だと言うべきなのに。

 たとえ老人が、自分の意思で餅を食べることを選んだとしても、それは真の意味で老人の意思とは言えない。なぜなら、現代人はみなマスメディアによって洗脳されているからである。もちろん、日本のマスメディアも、利権集団たる農協などの支配下にあるため、日本人はみな、たいして美味しくもなく健康にもよくない餅を、さも素晴らしい食品のように思い込まされているだけなのである。

 したがって、少なくとも老人に対しては、餅は毒物と同等に扱われるべきであり、老人に餅を与えた人間、老人がいる家庭に餅を売った小売店、老人が存在する可能性のある国で餅を製造した製造業者などは、すべて殺人罪に問われるべきであろう。

 パッケージに警告を入れるなどというのはごまかしであり、抜本的な対策とは言いがたい。老人が認知症になって警告を理解できない可能性もあるし、パッケージから取り出した餅を、第三者が本人に知らせず食べさせてしまう可能性もある。このような政策でことたれりとするのは、真に弱者たる老人の立場を理解していない証拠である。

 真に老人を救うための抜本的な対策としては、餅の製造・販売の全面禁止と、それに違反したものに対する厳罰しかありえない。このような自明な結論が理解できないのは、人間性か知性に根本的な欠陥がある人間だけであろう。

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雑弁亜目の昆虫被害の件について

  さて今回は、動物界節足動物門昆虫綱直翅目雑弁亜目のある昆虫の話である。この昆虫がいかに恐ろしいか、ぼくは子供の頃「大草原の小さな家」シリーズで読んだから知っているのだが、確かインガルス一家はこの昆虫のせいで家を引越す羽目になってしまうのである。もっとも、単にこのお父さんが堪え性がなくて引越し魔なだけだという人もいるが。

 先日も、ある大学の先生が丹精込めて作っている畑に、この昆虫が大量に襲来して荒らしまわったからさあ大変。激怒した先生は、昆虫の産地と思われる「疑問符」という農園に、ちょっとこの昆虫は品位がなさすぎるからなんとかしろと苦情を出した。それに対して、団子屋の団子会さんとか、餅屋の梅田餅さんとかがコメントを出して、町はちょっとした騒ぎになっている。

 この話は何度も書いたのでいい加減飽きているのだが、自分の立場を確認するために、言い方を変えてもう一度だけ書く。私は、リベラリストであり、かつモラリストである。リベラリズムとモラリズムが矛盾するとは思っていない。リベラリズムと矛盾するのは、リーガル・モラリズムであって、リーガル・モラリズムとモラリズムは違うのだ。これ以上説明するのは面倒なので、以上、立場説明終わり。

 で、この立場からすると、先生が昆虫の一匹一匹に、もっと行儀よくしなさい、と苦情を言うのは当然だと思うのだが、その苦情を「疑問符」に持ち込むのはどうかと思う。むしろ問題は、昆虫がどこでも好きなところに飛んでいけることにある。リベラリズムの立場にたてば、昆虫の品位や行儀などというものは、法律で規制するのではなく、ローカル・ルールや昆虫同士の相互監視によって守るべきものである。そのようなメカニズムが働くためには、ある程度閉じた空間が必要なのである。

(だいたい、この先生は確か、農場で発生した昆虫などについて、農場主にかかる責任は、なるべく軽くしたほうがいいという立場だったと思ったのだが。)

 このへんは、人間界だって同じことだろう。この先生は、こんな昆虫がいるのでは、真面目に畑を耕す人などいなくなるというが、人間界でだって、学術的に高度な話を駅前で不特定多数の人に向かって話している人などいない。そういう話をする人は、学会であるとか、なんとかシンポジウムであるとか、それなりの場を選ぶものであるし、そういう場にはそれぞれローカル・ルールがあって、そのルールにしたがう聴衆だけが集まる仕組みになっている。こういう仕組みは、リベラリズムとなんら矛盾しない。

 現在の網の仕組みに問題があるとすれば、そういう多様なローカル・ルールを作れる仕組みが、まだまだ未発達なことであろう。理想を言えば、「疑問符」は「疑問符」なりのローカル・ルールを設定すればよいし、他の農場は他の農場で別のローカル・ルールを設定すればいい。そして、どの農場がより栄えるか、自然の淘汰にまかせればよいのである。そうすれば、行儀のいい昆虫だけが集まる農場と、下品だけど活気のある農場との棲み分けなども自然にできていくだろう。下品な昆虫の嫌いな人は、そういう農場に行けばいいだけの話だ。

 一方、団子会さんや梅田餅さんは、たかが昆虫に大騒ぎするな、もっと強くなれ、みたいなことを言っているが、これもなんだかスポ根マンガみたいでついていけない。まあ、企業の新人研修とか芸人の罰ゲームとかだったら、わざわざ駅前で恥をかかせるような訓練もありかもしれないが、網の中にいる昆虫の大多数が、必要も無いのにわざわざ不快さに耐えながら暮らすことを選ぶなんてことがあるはずもない。そういうのが嫌な人は、上品な昆虫だけが集まる農場に流れるか、さもなければ、最初から網の中になんて入ってこないだろう。

 もし、そんな昆虫がたくさんいるなら、人間界にも、街頭ライブや辻説法をやって、「ヘタクソー」「うるさいぞー」とか言われて、「一般庶民の声が直接聞けてよかったです」とか言って喜んでいる人がもっとたくさんいるはずである。しかし、実際には、そういう人はごく一部の、特殊な目的をもった人たちだけにすぎない。大多数の人にとって、それは、不効用が効用を上回る、単純に損な行為でしかないのである。したがって、「みんな強くなれ」というのは、昆虫問題の解決策としては意味が無い。

 もっとも彼らは、みんな強くなれと言いたいのではなく、自分はこんなに強いんだぞと自慢したいだけなのかもしれない (^^)。それならそれで、別にどんどん自慢なさってくれてかまわないわけだが、私は、必要も無いのにそんなに強くなりたくないし、多分、今後そうなる必要に迫られることも一生ないと思う (^^)。

追記: 戦争になれば平気で人を殺せる人間の方が有利だ、っていうのと、戦争と平和とどっちがいいか、っていうのはぜんぜん違う問題だと思うんだけどね。人を殺せる人間を正当化するために、これからは必ず戦争になるって言ってるんじゃなきゃいいけど。まあ、自分で言ってるほどスルー力ないじゃん、みたいなことは言わないけどね(あ、言ってるか(^^))。ぼくはホントは、戦争になってもわりと死なない自身あるけどね (^^)。

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断言しない勇気

 仕事の関係で入手した、某外資系大企業のスタイルガイドを読んでいたら、こんなことが書いてあったので目の玉が飛び出そうになった。

The following shows ~(の訳)

は次のとおりです、次に~、次の~

注: 「以下」は、基本的に使用しない (ページの構成により、対象が「以下」の位置ではなくなることがあるため)

いやいやいやいや、ちょっと待てよ(松っちゃん風)。「以下」ってそういう意味じゃないだろう?  じゃあなにか? お前は縦書きの本に「以下」って書いてあるのを見たことないのか? 横書きの本は「以下」で、縦書きの本は「以左」になってたとでも言うのか? そんなわけないだろ!(^^)

 念のために辞書を引いてみると、やっぱりこう書いてある。

(文書などで)そこからあとに述べること。そこからあと。

(大辞林 第二版)

それ(そこ)よりあと. 

(三省堂 デイリーコンサイス国語辞典)

 つまり、以下というのは、あくまで前後関係であって、物理的・空間的に上か下かという意味ではないのである。普通はページの構成を変えたって前後関係までは変わらないから、「次」と「以下」の間にそういう意味での差があるわけもない。

 ところが、こういうのが困りもので、ぼくのような一下請け業者がいくらこれは間違っていると言っても、その声が某外資系大企業にまで伝わって、彼らがスタイルガイドを書き直すという確率は決して高くない。そして、これほどの大企業がスタイルガイドにそう書いてあれば、それを鵜呑みにして本当だと信じてしまう奴が必ず出てくる。あげくのはてに、オレの方が間違ってると言われて仕事切られたりするのである (^^)。

 コピペ文化全盛時代になってからというもの、こういう現象はちょくちょく目にするが、なんとかしてほしいものだ。何、そういうバカにならない方法なんて簡単なのである。このブログでも何度も書いているけど、確信のないことは断言しなければいいのだ。逆にもし断言したいならば、それなりに二重三重にチェックして調べればいいのだ。要は、自分の確信度に合わせて、表現の確信度も変えればいいだけのことである。

 こっから先は印象批評になるが、だから真の問題は、なぜ今の世の中、確信もないことを断言したがるヤツがこんなに多いのか、ということだろう。先日書いた、質問をしない若者という話にも共通するが、今の人は無知だと思われることを恐れすぎじゃないかという気がするのだが、いかがであろうか。まあ、ぼくみたいに露悪的なヤツも別の意味で問題だとは思うけど (^^)。

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