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横文字の多用について

 せっかく地デジの工事の人が来てくれたのに、部屋の片づけが間に合わなくて、一日延期してもらった不届き者の studio-rain です (^^)。

 歳のせいかもしれないが、最近のネット上の議論を見ると、そんなの昔から言われていることじゃん、みたいに感じることが多い。しかも、昔の議論よりも少しでも進んでいればまだよいが、そこからさらに一歩後退したところから議論が始まっていたりするのでイライラする。

 もっとも、自分の若い頃を考えても、昔の哲学者がさんざやっていたような議論を何倍にも劣化させたような議論を、さも深遠で本質的な議論であるかのように思い込んで友達同士でやっていたりしたのだから、人のことは言えないのだろう (^^)。

 ただ、今の時代には、そういう友達同士レベルの議論までがネット上に公表されてしまったりするから、昔の自分のことを忘れてしまったおじさんたちが勝手にそれを覗き見て、「今の若者ってひょっとして○○なのでは?」みたいに思ったりするというすれ違いが起こりやすい、ということは言えるのかもしれない (^^)。

 この「横文字多用はコミュニケーション下手? 「ひろゆき」ブログに賛同者多数」という記事もそうで、ぼくのようなおじさんからすると、今更という感じのする議論だし、この四條さんという方の言っているように、そんなことは一律に言える話じゃないという結論につきるのであるが、いくつか思いついた論点を補足しておきたい。

 一つは、横文字の多用というのは、必ずしも自慢したくてしているとは限らない、ということ。これは、ぼく自身が洋書を読むようになってはじめて気づいたことだが、洋書から直接専門知識を吸収する機会が増えると、いちいち専門用語の日本語訳を調べるということが、だんだん面倒になってくるのである。また、新しい述語には、定訳の定まっていないものも多く、そういう述語にわかり易い日本語訳を与えるというのも、それほど簡単なことではない。

 もちろん、ちゃんと日本語訳を調べて(あるいは考えて)書いた方がわかりやすいのは事実なので、横文字の残る文章を書く人は不親切だとは言えるが、必ずしもそこに自慢するという意図があるとは限らないのである (^^)。

 ぼくも昔は、横文字を多用する学者の文章とかを読むと、「なんで日本語で書かねえんだよ。英語を知ってることを自慢しやがって。けっ」とか思っていたクチなのであるが (^^)、今では、この「自慢しやがって」というのは偏見である可能性もあると思っている。そのへん、洋書をあまり読まない人は気がつきにくいのではないかと思う。

 もう一つは、横文字に対する意識過剰という問題は、聞く側にもあるのではないか、ということ。これは、ぼくの身の回り数メートルの経験論にすぎないので、どこまで一般化できるかわからないが、ぼく個人はむしろ、最近の子は、自分が知らない言葉を聞かされても、さも知っているかのようにフンフンとうなずいて聞く子が多くて困るというイメージを持っている。

  ばく自身は、知識の多寡に重きをおく人間ではまったくないので、ぼくが横文字を使っているときには、単に専門用語を知っている同士なら専門用語を使ったほうが効率的に伝達ができるからか、あるいは、単により適切な言い回しを思いつかないからか、あるいは、専門用語を無意味に多用する人間に対するイヤミとしてわざと使っているか (^^)、ぐらいのことが多い。

 知っていることを自慢したくて使うということもないではないが、それはむしろ、知っている人間同士が「おお同士! あなたもあの本読みましたね?」みたいに共感し合うことが目的なのであって、知らない人間を馬鹿にしたいということではあまりない。

 だから、聞いててわからない言葉があれば、素直にそういってくれれば、わかりやすく言い直したり説明したりする気は人並み以上にあるつもりなのである。そういう相手に対しても、わからなくても質問しないというのはなぜなのか。この場合、横文字を知ってるとか知らないとかいうことに、過剰な意識を持ってるのは、むしろ聞いている側の人間ではないのか。

 もちろん、先輩同士のミーティングに一人だけ参加している新人とかだったら、進行を妨げないために、質問を控えるという配慮をするのもわかる。でも、ぼく一人が講師役で、若い人数人に対して何かを教える、というような場でもそうなのである。これはおかしいのではないか?

 話す側が相手の知識に合わせるという努力も大事だけれども、これだけ世代ギャップの大きい時代に、相手が何を知っていて何を知らないかを完全に予測することなど不可能である。ぼくらの世代から見ると、いまの若い子は、ある面では驚くほど知識があり、またある面では驚くほど知識がないと感じる。そのパターンも人それぞれで予測がつかない。

 上の話とはまったく逆だが、若者に対して何かを一生懸命説明したら、そのときはフンフンと感心して聞いていたのに、後で聞いたら、そんなのは全部最初から知ってました、みたいに言われてズッコケたこともある (^^)。こっちからすると、わかってんならそう言えよ、そうすれば、もっとレベルの高い話をしたのに、と思うのであるが、若者的思考だと、せっかくこっちが一生懸命しゃべっているのだから、知っていても知らないフリをして感心して聞いてあげるのが気配りだ、ということになるらしい。ぼく的には、なんかずれた気配りだとしか思えないのだが (^^)。

 言うまでもないことだが、コミュニケーションというのは共同作業であり、報酬をもらって話をする教師や塾の講師とかならともかく、同僚同士の話とかだったら、聞く側だって少しは努力した方がいいのではないだろうか。その方が、結局は全体のコストの節約になるのだから。

 実は、ぼくの本業の翻訳論においても、カタカナ言葉をどう使うかというのは大きなテーマの一つなのであるが、ここでも、必ずしも使わなければ使わないほどいい、とは言えないのである。

 一例を挙げれば、マーケティング系の文章がある。広告用のリーフレットなどの場合、原文自体にバズワードを多用してあって、バズワードで眼晦ましをかけようという意図がみえみえの文章がある。異論もあると思うが、ぼくは、このような文章の場合、カタカナ言葉を多用してなんか新しそうに見せるという翻訳こそが、原文の意図を正しく反映した翻訳だと思っている。

 だから、ぼくがそういう文章を訳すときには、必要以上にカタカナ言葉を多用するようにしている。もっとも、やっていてなんかむなしくなるので、ぼく個人の嗜好からすれば、そういう仕事はあまり好きではない (^^)。しかし、だからと言って、そういう文章をカタカナ言葉を使わずに意訳するというのは、職業倫理として正しいとは思えないので、我慢して軽薄な広告文を意図的に真似て訳すようにしている。

 ぼくは、弁護士にとって、たとえどんなに共感しがたい凶悪犯でも、全力で弁護するのが職業倫理であるように、翻訳者も、どんなに自分の思想信条に合わない文章であっても、著者の意図を全力で汲み取ってそれを反映して訳すのが職業倫理だと思っている。文章が正しいか間違っているかを判断するのは、翻訳者ではなく、読者の役目なのである。もっとも、出版翻訳で訳者も印税をとっている場合には、ちょっと事情が違うような気もするが。

 ちなみに、SF 翻訳の大家であった故矢野徹氏は、「悪文は悪文に訳すべきである」と言っていた。ぼくも今になってその意味がよくわかる気がする。

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