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「大日本人」予告映像

 いつのまにか、松本人志さん初監督の映画「大日本人」のウェブサイトができてますね。この予告編、気になりますねえ~(^^)。最後のシーンは石丸電気の裏ですよね。

 でも正直言うと、今回は、映画の出来よりも興行さえ成功してくれれば、という感じですね。また興行ですべって、「ごっつうええ感じ」のスペシャルの時みたいに、松っちゃんがすねちゃったら困るもんね (^^)。

 あんときも、番組の内容がどうこういうより、事前の告知が少なすぎたと思うんですよ。だって、けっこうなダウンタウンファンであるぼくですら、放送当日までそんな番組をやっているという事実に気づかなかったんですから。時間帯も普段テレビ観てる時間帯と違うし。たまたまザッピングしてたら、「あれ、ダウンタウンがコントをやっているぞ。しかもこれ、昔ごっつうええ感じでやってたやつじゃん。でも、よくよく観るとこんなの観た覚えないぞ。ひょっとして新作?」みたいな感じだったもんね (^^)。

 たけしさんの場合、最初の頃はたいして評価が高くなかったのに、しつこく撮り続けてあそこまで行ったわけだけど、松っちゃんの場合、性格からして、あんまり受けなかったらスネてやめちゃう可能性あるもんね。

 もちろん、誰が観ても傑作だったらいうことはないけど、とりあえず興行だけはそこそこうまく言って欲しい。こんな言い方は失礼かもしれないけど、正直な気持ち。

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朝生・日中同時生放送編

 今日の朝生は、日中同時生放送ということで、日中双方の論客が日中問題について論じたのだが、一番強く感じたのは、

中国人は話が長い!

ということでした (^^)。

 なんていうか、余計な前置きや形容詞が多くて、そのくせ、核心部分ははぐらかすから、正直言って、聴いててイライラしてしまうんだよね~(^^)。それが、スタジオに来ていた論客だけじゃなくて、北京に集まっていた中国の学生さんたちもそうなんだからなあ (^^)。

 まあでも、田原さん自身はわりといつもの調子だったのでよかった。この企画の話を最初に聴いたときには、田原さんも日中関係を気にしてビビってしまうんじゃないかという心配もあったけど。

 正直言うと、筑紫さんのクリントン番組のときみたいに、何かハプニングが起こらないかと、心配半分、いけない期待半分で観てたところもあったんだけど、特にそういうこともなかったですね。

 一番おかしかったのは、番組中に、中国の視聴者から、司会者は中立であるべきだ、みたいな文句が何度も来ていたこと。そりゃくるだろうね~。でも、おかしなもので、普段は田原さんに批判的なこともあるぼくまでが、

これこそが田原総一朗なんだ。まいったか!

などとつい自慢したい気持ちになってしまった (^^)。これは一種の「愛国心」なのだろうか? ぼくは自分では愛国心なんてほとんどないと思ってたんだけどなあ (^^)。

 まあでも、こういう企画を実現したこと自体は、やっぱり高く評価すべきであろうと思う。田原先生、もうあんたは死ぬまでその路線で行け! その路線をやめるときは死ぬときだ!(^^)  骨はぼくらが拾います (^^)。

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けんてーごっこで遊ぶ

金貨何枚とかはマグレだけどね (^^)。

これはけっこう悔しいぞ (^^)。

これもマグレあり (^^)。

こう見えて一応理科系 (^^)。でも、ケプラー予想とか知らんかった (^^)。オイラー定数とか忘れてるし (^^)。

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追悼・植木等

 あの植木等さんが亡くなった。と言っても、ぼくなんか本当はリアルタイムで植木さんの仕事に触れた世代ではない。特に、植木さんの映画やシャボン玉ホリデーとかについては、小林信彦さんの本とかで読んだぐらいで、自分ではほとんど見たことがない。

 ただ、植木さんの音楽ついては、代表的な曲はほとんど知っていて、実際に愛聴してもていた。ぼくの音楽についての知識はかなりの部分坂本教授経由なのだが、これも実はそうで、さらに言えば大瀧詠一経由である。

 前にも書いたけど、ぼくは 10 代の頃、NHK FM でやっていた坂本龍一のサウンドストリート、通称サンストという番組を毎週欠かさずエアチェックしていた。その番組の中で、クレージーキャッツ・フリークとして有名な大瀧詠一さんをゲストに呼んで、クレージーキャッツ特集をやったことがあるのだ。これはかなりインパクトがあって、その時にエアチェックしたテープは繰り返し擦り切れるまで聴いた。

 中でも特に気に入ったのは、「だまって俺について来い」という曲。これはナンセンス・ソングとしてもきわめて完成度が高く、なおかつ、高度成長期の日本のある種の雰囲気をも現代に伝える名曲だと思うので、若いみなさんも、機会があればぜひ一度聴いてみていただきたい。歌詞だけなら、「だまって俺について来い ハナ肇とクレイジーキャッツ 歌詞情報」とかで読むことができる。この歌詞を読んだだけでも、いかに偉大な曲かがわかっていただけると思う (^^)。

(実際のレコードを聴くと、「み~ろよ~」のところで突然声楽的な歌い方になっているが、植木氏が実際に声楽を習っていたのも有名な話。初期のヒット曲「はいそれまでよ」のイントロなんかにもその素養が生かされている。)

 ちなみに、同じくクレージーキャッツ・フリークであるマンガ家のとり・みき氏は、この曲をネタにして丸々マンガ一本書いていて、曲題をそのまま単行本のタイトルにまでしている(なぜか amazon.co.jp には登録されていないが)。このマンガも曲に負けず劣らずバカバカしくて面白いので、ヒマな人は古本屋で探してみてください。

 そう言えば、ここでは触れなかったが、クレージーキャッツのほとんどの曲に詩を提供している青島幸男氏も昨年末に亡くなっている。宮崎駿氏は、手塚治虫が亡くなった時に「昭和が終わったと感じた」と言っていたが、ぼくは今日、今さらながら改めて昭和が終わったと感じた。それくらい、昭和の一時代の空気を体現していた人たちだったんじゃないかという気がする。

 合掌。

 余談になるが、ナンセンス・ソングと言えば、ぼくが最近気に入っているのは、言うまでもなく、ムーディ勝山の「右から来たものを左へ受け流すの歌」である (^^)。この曲なんかも、「だまって俺について来い」などと比較してみると、なかなか興味深いものがある。

 どちらも、なんだか得体の知れないものについて唄っているという点では共通している。しかし、「右から来たものを左へ受け流すの歌」の場合、右からきたものがなんなのかという答えは最初から用意されていなくて、その空虚なオチを生かすように全体が計算ずくで構成されているように思える。それに対し、「だまって俺について来い」の場合、計算なのか本気なのかわからないところがあって、本当にそんな人間がいてもいいじゃないか、というような真面目な主張のように聞こえないこともない (^^)。そこがいい意味である種の深みになっている。

 どうもぼくには、ここらへんに時代の差が現れているような気がするのだが、緻密な分析をするには、もう少し時間が必要なようだ (^^)。

追記: 

 なんかまた、植木さんをネタにして、高度成長時代は今よりよかったみたいな話を書いてる人たちがいるけど、あの時代を極端に美化するのはいい加減やめてほしい。ほんと、そんなバラ色の時代ちゃうぞ (^^)。

 ぼくのこの小文もそうだけど、昔を美化して懐かしむのが好きだというのは、たぶん歳をとった人間に共通する習性にすぎなくて、それは、客観的な評価とは別物ですから。だから、そろそろ、高度成長時代の負の側面もちゃんと語った方がいいと思うぞ。

 たとえば戦争。当時はもちろん冷戦真っ只中で、もちろん核軍縮なんかもなくて、いつ核戦争が起きて人類が滅びてもおかしくないと言われながら暮らしてたことを知ってるか? 実際、キューバ危機みたいに核戦争寸前まで行ったこともあった。今は 9.11 やイラク戦争程度(あえて程度と言うが)で大騒ぎしているけど、当時は、中東やアフリカでは日常茶飯事のようにホンモノの戦争が行われていたんだ。ベトナム戦争はもちろん、第四次まであった中東戦争、イラン・イラク戦争、第三次まであった印パ戦争。

 たとえば公害。水俣病・カネミ油症・イタイイタイ病・四日市喘息なんてムチャクチャな公害がかなりの長期間放置されていた。国や企業の対応だって、今よりはるかにひどかったんだぞ。そもそも、環境基準そのものが今よりぜんぜん低レベルで、今みたいに晴れてる日に東京から富士山が見えるなんて考えられないほど空気も汚かったんだ。

 たとえば差別。男女差別も学歴差別も当たり前。部落差別だって今みたいになんちゃって差別じゃなかった。今の子は、実力さえあれば、低学歴でも女性でもやっていけると思ってる人も多いだろうけど、そんなのは夢のまた夢みたいな時代。今みたいな再チャレンジどころか、大学入試で一生が決まると言われていたんだよ。

 誰もが夢を見れる時代とか言ってる人がいたけど、そりゃテレビや洗濯機や冷蔵庫を買って、マイホームを持ってみたいなのが「夢」だというならそうだろうけどね。自分の好きな職業についてやりがいのある仕事をするという意味で言えば、今の方がずっと自由だよ。信じられない人は、「ふぞろいの林檎たち」でも観てくれ (^^)。

 たとえば情報。国や大企業が情報を隠すなんて日常茶飯事。今みたいにそれをインターネットで告発するなんてできなかったんだからね。今みたいに、一市民の告発で国や企業が動くなんて考えられない。多くの一般庶民は国や大企業やマスコミの言うなりで、騙されていることに気づく機会すらなかったんだ。

 もちろん、今よりいいところだって少しはあったでしょうよ。でも、今の若い子がタイムマシンであの時代に戻ったら、やっぱり今の方がいいと思う人も多いと思うよ。そういうことを、もうちょっと宣伝した方がいいんじゃないか (^^)。

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コルベア・リポート:ピンカーの巻

 コルベア・リポートにスティーブン・ピンカー登場。脳の仕組みを単語 5 個で説明しろとか、例によってムチャクチャなこと言われてます (^^)。

 最後のオチは、「F○○K」ですね (^^)。

 もし、赤ん坊をずっとバーチャルな世界で育てても、やっぱりピンカー氏が言ってるような生得的な認知フレームは破壊されないのかなあ。アリストテレス的な力学法則の成り立つ世界とかを無理矢理作ってしまって、その中で育てても、認知フレームがそれに適応してしまうことはないのだろうか。まあ、本当にそんな実験をしたら、幼児虐待になってしまうから無理だろうけど (^^)。

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もういまはいないぼくへ

 アイドル海川ひとみさんが「ハッスル」でプロレスをやっているビデオを発見。

 まあ、正直言って、キャットファイトを見るときのような、スケベな好奇心半分で見始めたわけなんですが (^^)、予想に反して、見てるうちにイライラしてきて、最後まで観るのがつらかった。

 と言っても、女の子を慰み者にして、なおかつそれを見世物にするのはよくないとか、そういうイイ子ちゃんブリっ子なことが言いたいわけではなくて (^^)、そもそも、こういう芝居にもはやまったく感情移入できない自分というのを発見してしまったのだ。

 つまり、海川とか眞鍋とかが本気で怒って、アナウンサーとかもそれに同調しているのを聞いていても、「えー、だって海川だって売れないアイドルの自分が少しでも名前を売りたいからわざわざプロレスの試合なんかに出たわけだろうし、ハッスルのほうだって話題性があるから出しただけでしょ? 眞鍋だってそれ知ってるくせに、なんで本気で怒ってるフリしてんの?」みたいな、そーゆー感想しか出てこないんだよね (^^)。

 でも、考えてみたら、子供の頃猪木とか馬場を見てた自分はそうじゃなかった。タイガー・ジェット・シンアブドーラ・ザ・ブッチャーは本当にルールを守らない悪い奴だなあと思っていたし、ベビーフェイスである猪木や馬場が、出せば反則をするのをわかっていながら、自分を引き立てるために、わざわざ彼等を呼んでいるなんてことにも、まったく思いがいたらなかった。それで、善玉が悪玉に勝つというドラマを、けっこう喜んで見てたんだよね。

(まあ、立花隆さんのような頭のいい人から見れば、ああいうものを楽しめるのは、頭の悪い証拠(注:出典が見あたらないので、正確な引用ではありません。二次引用は避けてください)なのだそうですが。。。(^^))

 まあ、そんなことはどうでもいいんだけど、ぼくがちょっと考えてしまったのは、こういう感受性の変化というのは、時代の変化のせいなのか、それとも、自分個人の成熟(老化と言うべきかもしれないが)なのか、ということなんだよね。 

 もちろん、「ハッスル」の興行が成立しているということは、これを楽しんでみている人も一定数いるということなんだろうけど、その人たちはいったいどういう見方をしているのか、というのがぼくにはよくわからないわけ。

 ぼくにも、かなり熱狂的なプロレスファンの友人がいるので、彼らが単純にそういう芝居に騙されている知性の低い人たちではなくて、むしろ、相当知性がないとできないような二重三重にひねくれた鑑賞の仕方をして楽しんでいる、ということはよく知っているつもりだが、彼らにとって、あれは「あり」なのか「なし」なのか、今度会ったら聞いてみたい。

(ひょっとしたら、あのどう見ても勝ち目のなさそうな海川が無理矢理勝ってしまう、というのが、プロレスとしては正統派の展開であって、負けてしまうのは邪道である、というような見方をするのかも。。。(^^))

 一方で、北田暁大さんが言うように、現代がどんどんベタなものを嫌う方向に向かっているのも確かなので、自分がああいうベタな芝居にはついていけなくなっているのはそのせいではないか、という気もするのである。

 ぼくがこのビデオを見てると、どうしても、「だって自分最初から出たくてでてるやん」「出れば負けるのわかってるやん」見たいな(浜ちゃんの)ツッコミの声が、どこかから幻聴のように聞こえてきてしまうんだよね (^^)。こういう芝居は、そういうツッコミ付きで見ないと、なんだか気持ち悪くて仕方がない。

 繰り返すが、それは感性が老化したせいなのか、それとも、正しい鑑賞の仕方がわかっていないせいなのか、それとも、やっぱりあれに感情移入しろということ自体に最初から無理があるのか、ぼくにはよくわからないのである。今後の研究課題としたい (^^)。

おまけ

 今のと微妙に関係があるようなないような話だが、サイゾー 4 月号の山形道場に「人類の大規模な宇宙進出はありえない」という原稿が載っていて、正直かなり意表をつかれた。(でも、意表をつかれたということは、すでに半分ぐらいその主張に説得されかけているということなんだよね。)

 山形さんは、「ポスト・ヒューマン誕生」という本を読んだ感想として書いているので、この文だけでは正確な真意はわからないのだが、読んでわかる範囲だと、1.人類の人口がこのまま増え続けるということはない。いずれ頭打ちになる、2.地球の環境も、多くの人が地球を捨てたくなるほど悪くなりそうもない、というような理由らしい。 (これは、そう「悟った」山形さん自身にも多少意外なことであったらしく、最後は「つまんないの。」と結んでいる (^^)。)

 前にも書いたけど、ぼくら子供の頃に「未知との遭遇 」 とか「E.T.」とか観ちゃった世代だし、その頃は、カール・セーガンみたいな学者までが、宇宙人のいる可能性について真面目に議論して SETI だのドレークの式だの言ってわけだからね。だから、ぼくらも、そういうのに影響を受けすぎている可能性はあって、一歩引いてみると、なんでそんなことを信じこんだりしたんだろう、という気もしないでもない (^^)。

 でも、やっぱり「宇宙人」がいるかどうかで、かなり結論は違ってくるような気がするんだけどなあ。もっとも、最近は、宇宙にいる知的生命は人間だけのようだ、というような議論もちらほらされているみたいだからなあ。つまんないの (^^)。

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ホリエモン実刑

 テレビ屋さんのオフィスの壁には、

ホリエモンとラーメンは視聴率をとるんだよな~

と相田みつを(or みつお)風に書いた掛け軸がかかっているに違いない(ガキ使ネタです (^^))。

 サンプロにも堀江さんが出てるし、マル激トーク・オン・ディマンドでも「ライブドア事件にみる検察資本主義の到来」 という題で、「特捜検察vs.金融権力」を書いた村山治さんと対談してますね。

 ぼくも何かコメントしようかと思ったけど、堀江さん個人にはもうあまり関心がなくて、どっちかというとこれからの時代の金融行政や司法みたいな話に興味が移っているんだけど、そのネタだと話が大きくなりすぎて、今の忙しさでは書いてるヒマがないんです (^^)。

 ひょっとして期待して来た人、ごめんなさい <m(__)m>。いずれヒマができたら、なんか書きますから、許してください。

追記: 保険会社向けのソフトウェア関連の文献を訳しているのだけれど、application の意味が、ソフトウェアの「アプリケーション」だったり、保険契約の「申込み」だったり、ソリューションの「適用」だったり、その「応用範囲」だったりするので、いい加減な読み方では誤訳しそうなので、いつも以上に気を入れて読んでいます。あ、もちろん、いつもは手を抜いてるわけじゃないですからね (^^)。

追記:切込隊長BLOG(ブログ)より

堀江さんは控訴したようだけれども、直接関係のない私たちからすれば、そこからささやかながらの教訓を得るために考えるべきことは、問題の結果をあれこれ論じることよりも問題が起きているときにどういう振る舞いをしていたか、そのことを点検することじゃないでしょうかね。

 相変わらず、「聖★おじさん」風に「誰目線?」と言いたくなるような文章だけれども (^^)、前にも書いたように、個人的にはあまり反省する必要は感じないし、世の中の大多数の人とってもそうだと思うんだけど (^^)。

 断言するけど、またああいう人が出てきたら、ぼくはやっぱり応援しちゃうと思うよ (^^)。もちろん、自分が一緒に仕事をするとか、投資をするとかいう話だったら、もっとちゃんと調べるだろうし、その結果ダメだと思えばダメと言うかもしれないけれど。マスコミ経由で見てる程度の距離感で、そこまでする必要は感じないですね。

 まあ、ぼくは幸いにも、文筆で食っているわけではないので (^^)、自分に「見識」があることを示すために、無理に他人を疑いの目で見るようなことはしなくてすむポジションにあるわけだから、これからもその特権は存分に活用させていただきます (^^)。

 ぼくの場合、いい加減なことは、ちゃんといい加減な文体で書くようにしているし、誰かさんみたいに、知りもしないことを断言するようなこともしてないはずだしね (^^)。

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あなたは「リベラルかつ大きな政府を目指すタイプ」です!

 Yahoo! みんなの政治政治ポジションテストの結果。

(クリックすると、ぼくの結果が見れるようです)

 「リベラル」はその通りだと思うけど(ぼくみたいなヤツが「保守」なわきゃーないのだよ (^^))、必ずしも「大きな政府」を志向しているわけではないのだが、セーフティネットの充実にはまったく反対ではないので、そうなったのかな。でも、セーフティネットの充実なんて、竹中さんですら言ってたことだし (^^)、格差はあっていいとか公言してるのに、大きな政府派に分類してくれちゃっていいのかな (^^)。別にチャべス氏だって好きじゃないし (^^)。

 まあいいや。ホントはこんなことしてる場合じゃないのだ (^^)。仕事仕事ー!

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「ライフ・イズ・ビューティフル」の正しい泣き所

 自分のプロフィール・ページが作れるという iddy というサービスに登録してみました。ちなみに、ぼくのプロフィールへのリンクはこれ。 My Profile by iddy

 このサービスにどのようなメリットがあるのか、まだいまいちピンときませんが (^^)、まあ、使っているうちにわかるでしょうということで (^^)、しばらく使ってみようと思います。

ライフ・イズ・ビューティフル ところで、この中の好きな映画という欄を書いていて思いだしたのが、「ライフ・イズ・ビューティフル」という映画。ぼくはこの映画大好きなのだが、他のみなさんはどういうご感想をお持ちだろうと思って例によって検索してみた。

  まあ、いろんな意見があるのは予想していたのだが、一番以外だったのは、お父さんが物陰に連れてかれて…、というシーンで泣いたとか泣けないとかいう意見があったこと。

 いや、あの映画の泣き所はそこじゃないでしょう! お母さんが「私たちは勝ったのよ!」(だったっけ?)とかって言うところじゃないの? ぼくはあそこで涙ぼろぼろになったんですけど。違うかなあ (^^)。

 まあでも、この映画がつっこまれやすいところは、なまじナチスとか強制収容所とかいう、いろんな先入観を与えやすいキーワードを出してしまったとこだろうね。

 たぶん、この映画のテーマからすれば、必ずしもナチスや強制収容所を出す必要はなかったんだ。この映画が描きたかったのは、戦争の悲惨さとかではなくて、「美しい人生」なのだもの。極論すれば、この映画にとって、戦争だのなんだのは、「美しい人生」を描くための小道具にすぎないんだ。そこにあざとさを感じる人は感じるんだろう。

 でも、戦争をとりあげる以上は戦争の悲惨さを描かなくてはいけないというのも、ある意味、戦争にセンシティブな現代人の勝手な固定観念にすぎないんだよね。本来、作品が何を舞台や小道具にするかは、作り手側の自由であって、批評する人間が問うべきなのは、何のどこを描くかではなく、その描き方の巧拙なんだ。

 たとえば、同じ日本の戦国時代を舞台にした映画やドラマだって、そのテーマは、戦争の悲惨さ、時代の流れ、政治政略、友情や家族愛などそれぞれ異なっている。ぼくらは、そのことを別に不自然だとも思ってないし、特に意識もせず、作品によって柔軟に姿勢を変えながら観ているはずなんだ。

 この映画は確かに、戦争の悲惨さを小道具として「利用」しているが、その感動が戦争の悲惨さに頼って成立しているわけじゃない。むしろ、一部の人が指摘するように、この映画の強制収容所の描き方は、実態よりも控え目なぐらいなんだ。そこにぼくはむしろ、作り手のある種の潔癖さを見る。

 ぼくに言わせれば、この作品の真のすごさは、これまで誰も描かなかったような、新しい人生の「美しさ」を発見したことにある。実際、多くの人は、この映画を観るまで、こんなストーリーで人が感動できるということにすら気づかなかっただろう。そして、実際に多くの人が感動したことこそが、その「美しさ」に普遍性があることの証しなんだ。

 そのような意味で、この映画は、戦争の悲惨さというステロタイプなイメージに頼って人を泣かすような映画よりも、芸術としてはるかに高級であるとすら、ぼくは思うのだ。

 などと言うと、イデオロギー好きの人は、これは国家に対する愛じゃなくて、家族に対する愛だからこそ美しいんだとか、家族に対する愛を貫くことが戦争に対する抑止力になるんだみたいなこと言うのかもしれない。でも、ぼくはそういう見方もこの映画の本質をはずしてると思う。

 だって、単に家族愛を描きたいだけなら、わざわざこんな変な人間を出す必要なんかないし、そういう映画ならこれまでもいくらでもあったはずなんだもの。それに、この人のやったことは、戦争の流れを何一つ変えたわけじゃないでしょう。戦争に対する抵抗なら、組織的なレジスタンスやサボタージュの方が、はるかに有効だったかもしれないわけだし。

 この映画で描きたかったのは、家族愛そのものではなければ、戦争に抵抗する方法でもない。あくまで愛の「かたち」であり、その美しさなんだ。もちろん、そのような愛し方を国家に対してできるかと言えばできないだろう。しかしそういう論法は、この絵は水彩絵の具でなければ描けなかった、とかいうのと同じであって、だからといって作者が描きたかったのが水彩絵の具であるとは言えないんだ。

 そういう、なんでも反戦と好戦に分けて考える考え方が、この映画に対する評価をゆがめている部分は確かにありそうなので、先に書いたように、この映画にとって、ナチスとか強制収容所を出したことは功罪半ばするのかもしれない。(ぼくのこのつまんない文章だって、「作者の反戦の志を歪めて、保守主義にひきつけて解釈している」みたいな、トンチンカンな読みをする人もきっといるんだろう。やれやれ。)

 でも、そういう偏見にとらわれず素直に観れば、この映画は、「個人の美学が戦争をすら超克した」という映画なのだから、「反戦」などという小さな(というと語弊があるかもしれないが)枠組みを超えていることは明らかである。もちろん、それはある意味美しいおとぎ話にすぎないが、おとぎ話だからダメだということにはならない。問題は、そのおとぎ話に人を動かす力があるかどうかなのである。

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佐藤信夫再読

レトリック感覚 思うところあって、故佐藤信夫氏の「レトリック感覚」「レトリック認識」「わざとらしさのレトリック 」「レトリックの記号論」を再読。なぜこの四冊かというと、たまたま以前からウチの本棚にあったからである。最初に買った「レトリック感覚」は講談社文庫版で、奥付を見ると「昭和 61 年 3 月 15 日の第一刷」となっている。だから、最初に読んだのはかれこれ 20 年も前だということになる。

 そんなわけで、20 年ぶりの再読だったわけだが、改めて名著だと再認識した。もちろん、当時読んだときもよい本だと思ったのだが、今になってみると、当時はまだまだ全然ちゃんと読めてなかったなあと感じるところが多々ある。

 特に感じたのは、佐藤氏のレトリック論は、実はきわめてポストモダン的だったんだなあということである。まあ、佐藤氏はバルトの「モードの体系」などを訳した人でもあるのだから、ポストモダンの影響を受けているのは、ある意味当たり前といえば当たり前なのだが、当時のぼくは、まったくそういうふうに捉えていなかったのだ。

 これは、ぼくが幼くてそういう論壇の事情などといったものに疎かったということもあるが、佐藤氏自身の文章のスタイルが、そういうことを匂わせなかったことも大きい。実際、佐藤氏の持つ学識からすれば、バルトその他を引用したり、デノテーション、コノテーション、ディスクールなどといったポストモダン/ニューアカ・ジャーゴンをちりばめたりして読者を煙に巻くといったことは、いとも容易だったはずである。

 にもかかわらず、佐藤氏は、用語系も伝統的な修辞学のものを踏襲し、表現もできるだけ平易なものを使い、考え方としてのみ、ポストモダン的なエッセンスをもりこむようにしている。「記号論」所収の「金で買えると言う意味」などというエッセイもそうで、ここでも佐藤氏は、お金を記号とみなすという、当時流行のソシュールの主張を紹介しつつも、それとは一線を画す独自の論を張っている。

レトリック認識 佐藤氏がそのようなスタイルをとらなかった理由が、学者としての美学なのか処世術なのかは定かでないが、そのおかげで、この本は、ぼくのようなど素人でも気軽に読めるような間口の広さと、20 年たっても古びない普遍性を持つことができたことは間違いないだろう。

 だから、このような本を読んでつくづく感じるのは、たとえモダンであろうとポストモダンであろうと、単に流行にのって踊っていただけではなく、佐藤氏のように自分の頭できちんとものを考えていた人の仕事は、やっぱり時代を超えて残るのだなあということである。

  ぼくは普段、ポストモダン的な思想に対して批判的であることが多いが、その態度は、世代的な経験からくるところが大きい。ぼくらの世代は、10 代の多感な時期にニューアカ/ポストモダン・ブームを経験し、20 代でオウム事件や「ゴー宣」ブームを経験した、つまり、ポストモダンから入ってモダンに回帰した世代である。

 そのため、ポストモダン的なものに対しては、いい意味でも悪い意味でも思い入れが強すぎるところがあって、実は他のどの世代よりもポストモダンの影響を強く受けているくせに、単に「モダンはダメダメ」とか言うだけで、何の対案も示せないような人たちには、反射的に反発してしまう傾向があるのだ。

(ちなみに、これはぼくと同年代の思想家・評論家の多くに共通する特徴でもあると思う。ご本人にとっては不本意かもしれないから、名前を挙げるのはやめておくが)。

レトリックの記号論 しかし、素直になってよく思い返してみれば、ポストモダン的な仕事の中にも、佐藤氏の仕事のように、単にモダンを否定するなどというレベルを超えた、ぼくらの思考の血肉となって残ったものもたくさんあったはずなのである。そういう意味で、ぼくは、誰かさんのように、「80 年代はカスだった」というふうに切り捨てる気には、必ずしもなれない。

 最近の若い子を見ると、そういうポストモダン的な素養がほとんどなくて、単にベタにモダンな人が多いように見えて、それはそれで問題だなあという気もするのである。その一方で、ポストモダンの劣化コピーみたいなスピリチュアルなんちゃらとかオカルトとかに惹かれる人も多いようで、なんか両極端に二分されてるような印象がある。これは、前の世代に対する過剰な順応と反発の現われなのかもしれないけれど。

 まあ、若者なんていつの時代もそうかもしれなくて、ポストモダン・ブームにはまっていたころのぼくらだって、年長世代から見たら、きっとすごく危うく見えたに違いないんだよね (^^)。だからまあ、これはそれこそ、坂道で踏むブレーキみたいなもので、大多数の若い子には無視されることを覚悟で言っているわけだけど、そういう若い子には、こういう良質なポストモダンの成果というものを、少し味わってみてほしいなあと、最近ちょっと思うようになってきたのだ (^^)。

 ちなみに、「感覚」と「認識」は、レトリック全般について体系的にのべた本で、「わざとらしさ」はレトリックを多用する作家数人についての作家論、「記号論」はすこしくだけたエッセイ集(と言っても、作家の書くエッセイよりはもちろん理論的だが)という感じ。だから、言葉の仕事に関わる人は、「感覚」と「認識」だけでも読んでおくといいんじゃないかな。

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裏返しの友だち観

 「タイトルの「無駄」の部分に、苦み走った気分で反応。が、帯に目をやれば「その無駄がいいのよ」。」

 というのは、佐野洋子さんの「友だちは無駄である」に対する温水ゆかりさんの書評の冒頭部分なのだが、これを読んで改めて思った。ぼくの友だち観は、おそらく、世の中の標準的な友だち観とは正反対なのだと。

 おそらく、温水さんは、基本的に友だちと言うものは価値あるものだと思っているのだけれど、実際には、必ずしもいいことばかりじゃないとも思っている。だから、 「「無駄」の部分に、苦み走った気分で反応」したのだろうし、その後の「その無駄がいいのよ」でほっとしたのであろう。

 ぼくは、この本自体読んでいないのでアレなのだが、おそらく、著者の佐野さんも、わざわざ「その無駄がいいのよ」と書くぐらいだから、「友だち→役に立つ→価値がある」という価値観を前提にしており、それに対するアンチテーゼとしてこう書いているように思われる。

 でも、ぼくの場合、そもそも「「無駄」の部分に、苦み走った気分で反応」などしない。なぜなら、そんなの最初から当たり前だと思っているから (^^)。もちろん、「その無駄がいいのよ」を読んでほっとしたりもしない。それも当たり前だから (^^)。

  つまり、ぼくの場合、最初から「友だち→役に立たない→価値がある」というのが大前提であり、役に立たない友人関係こそを理想としているのだ。ぼくに言わせれば、友だちに対して、役に立つとかたたないとかいう概念を適用すること自体が「不純」なのである。ところが実際には、不本意ながら役に立つことを求められたり求めたりしてしまうことが多くて、むしろそこが、現実の薄汚さだよなあ、とか思っているわけである。

 だから、ぼくはこの温水さんの書評を読んで、自分の友だち観と世の中の友だち観の根本的なズレがわかったような気がしたのだった。

 一応、理論武装しておくと、友人関係というのは、山崎正和氏の「柔らかい個人主義の誕生」や「社交する人間 」風に言えば、生産のための人間関係ではなく、消費のための人間関係であるべきだと、ぼくは思っているわけですね。実際、子供の頃の友だち関係って、みんなそうだったと思うんだよね。でも、大人になるとだんだん、友達同士で仕事上の便宜をはかったりするようになって、それができない奴は「使えない奴」とかいうことになったりするでしょ。それがイヤでイヤでたまらないわけ。わかるかなあ (^^)。

 そういうことを言うと、でも、友達同士が助け合うって美しいじゃん、とか言われるかも知れない。そういう人に対しては、だったら、友だちでもないのに助け合う方がもっと美しいだろう、と言っておこう (^^)。カッコつけすぎだって? でも、「友達同士が助け合う」っていう言い方がそもそもカッコつけすぎなんですよ。だから、それに対抗するには、こっちもカッコつけざるを得ないのだ (^^)。わかるかな?

追記: 「柔らかい個人主義の誕生」で検索してみたら、ロクな紹介がないので驚いてしまった。お前らホントに読んだんか? 読んでないか読めてないかのどっちかとしか思えんぞ (^^)。バブル時代の消費礼賛の本で、バブル崩壊によって影響力を失ったとかさあ、いったいどっからそういう読みが出てくるの(^^)? 影響力を失うどころか、今のオタク全盛時代を予言していたとさえ言えると思うんだけど (^^)。まあ、ぼくみたいなのが褒めると、かえってネガティブな先入観を与えちゃうのかも知れないね。でも、批判するなら、ちゃんと読んで理解してからにしてくださいね (^^)。ぼくはいいけど、山崎さんがかわいそうだからさ (^^)。

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西部・宮台対談

 「マル激トーク・オン・ディマンド」で西部邁氏と宮台真司氏が対談するという驚きの企画をやっていました。このお二人はながらく対立関係にあって、テレビの生放送中に宮台氏に論破された西部氏が席を立って帰ってしまったという有名なエピソードがあるほど。そんなお二人が対談したとあって、つい、野次馬的興味で観てしまいました (^^)。

(といいつつ、ぼくは残念ながらその決定的瞬間を観てないのですが(^^)、見ていた友人の話によると、西部氏が退席する姿を見て哄笑する宮台さんの姿はまるで悪魔のようだったそうです (^^)。その友人は、今度の都知事選で共産党候補に投票しろとかいうような人で、西部氏とは思想的にほど遠いはずなのですが、宮台氏の哄笑する姿があまりに怖すぎて、まったく宮台氏に共感できなかったそうです (^^)。見てみたいなあ。ようつべとかにアップされないかしら(^^))

 で、結論から言うと、はっきり言って気色悪かったです (^^)。いったい、宮台サンはなぜ西部さんを持ち上げようと思ったのか。申し訳ないのですが、何をたくらんでいるとしか思えない (^^)。だいたい、あれだけフェミニズムに対するバックラッシュを批判していた宮台さんが、「バックラッシュがあるのは当然だ」はないでしょうが (^^)。あの人は結局、自分が頭がいいということを見せたいだけなのかなあ思ってしまいましたよ。まあ、柳沢発言問題のところだけはちょっと共感したけど。

 西部さんの話も、言ってること自体は基本的に間違ってるとは思いませんよ。でも、新しい話や独自性のある考えはほとんどないですよね。きつい言い方をすれば、二周三周遅れの話だけしかしていない。そんなことはとっくにみんな承知していて、そこから先を悩んでいるんじゃないかと思うのですが、それをさも自分だけが気づいていることであるかのように、しかも酔っぱらいのような口調で延々と喋るので、正直ウンザリしました。

 それじゃあ、そのへんの議論好きオヤジの独演会とかいっしょで、その程度の話なら、ぼくだってできるって (^^)。それで知識人批判とかされてもねえ。じゃあ、知識人としてもたいして価値のある話もできなけりゃ、一般庶民でもないという西部氏自身のスタンスはなんなんだと思ってしまう (^^)。

 西部さんは、全面的な改革を否定し、漸進的な改革を主張するのが保守だみたいに言ってたけど、全面的と漸進的の間にはっきりした線なんかひけっこないじゃないですか。だいたい、人類はすべて 40 億年前の DNA を引き継いでいるし、人間個体だって、常に一瞬前の肉体や記憶を引き継いでいるんで、そういう意味では、人間や生物は基本的に保守なんですよ。

 つまり、極端に言えば、人間のやることに「全面的」な改革なんてありゃしない。あるとすれば、人間であること自体をやめるとか、生物であること自体をやめるとかしかないけど、それだって、「人間が」人間であることをやめるという以上は、人間であるという連続性はどこかに残っているんだよね。

 だから、私はむしろ逆で、保守より目((c) バザロバ・ナタリア)、じゃなかった、人間は完全に保守的になることもできなければ、完全に革新的になることもできなくて、保守と革新の差なんて、所詮は程度の差にすぎないはずなんだよね。そういう意味では、日和見主義で場当たり的な政策をとっている政治屋さんたちのほうがよっぽど現実的であって、どっちがより「真の保守」か、なんて言ってる方が、よっぽど観念的だと思う (^^)。

 今書いた意見だって、十年ぐらい前に橋爪大三郎さんが書いてた意見を、ぼくが自分なりに言い換えただけであって、ちっとも新しくもなんともありゃしないんだけどね (^^)。そんなことを、一般向けのメディアならまだしも、丸激のようなメディアで今さらきかされても、うんざりするだけだよね (^^)。

 ぼくは、坂道で踏むブレーキとしての保守には存在意義があると思うけど、もともと、完全にノーブレーキで突っ走ってる奴なんか誰もいないし、一部の自称保守は、むしろ、坂の途中を目指してバックして逆走しようとするでしょう? それは、ぼくに言わせれば、革新のメンタリティなんだよね (^^)。真の保守なるものがいるとすれば、それは、最終的には坂の下にずり落ちることを承知で、ブレーキを踏み続ける人、言い換えれば、負けを承知で闘い続ける人だと思う。

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