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ポストモダンの亡霊を排す

 若い世代はあまり知らないのかもしれないが、ぼくらポスト・ポストモダン/ニューアカ/フェミニズム世代(「クーリエ・ジャポン」の記事によると、アメリカはもう「ポスト・フェミニズム」らしいぞ(^^))からすると、この手の議論は正直もううんざりという感じなんだよね。

 もちろん、この手の議論というのは、特定の価値を賞賛すると、それ以外の価値を相対的に貶めることになる。だから、多様な価値を尊重するためには、特定の価値を賞賛してはならないってやつね。やれ、「立派なご両親が揃っていてよかったね」というのは母子家庭に対する差別であるとか、「五体満足な赤ちゃんでよかったね」というのは障害児に対する差別であるとか、「ミスコン」はブスに対する差別だとか、もうさんざ聞かされたよ。

 でも、ぼくの中ではこの手の議論はとっくに終わっているし、ポストモダンを通過した多くの人たちの間でも、とっくに終わった議論だったはずだ。

 結論から言ってしまえば、価値相対主義というのは、価値の否定とは違う。そもそも、人間はなんの価値観を持たずに生きていくことなどできやしない。民主主義の価値相対主義というのは、個人が自由に価値形成を行った結果として、ある種進化論的・弁証法的によりすぐれた価値に到達することを狙いとしているのであって、そのために、権力によって特定の価値観を一方的に押し付けるのは(なるべく)やめましょう、ということにすぎない。だから、あらゆる価値を平準化してなくしてしまいましょう、というのとは、ほとんど正反対の思想なのである。

 そして、人間同士が価値形成を行うためには、当然のことながら、何が自分にとって価値があるかを他人に対して表現することが必要なのである。批評だってなんだって、そのために存在しているのだ。(もっとも、実際には、権力闘争や個人のストレス解消のためだとでも思っている人も多いようだが (^^)。)

 「五体満足な赤ちゃんでよかったね」と言ってはいけないと主張する人たちは、じゃあ自分が明日から障害者になってもいいと思っているのか? 世の中の人が全員障害者になった方がいいと思っているのか? そうじゃないだろう? だとすれば、否定するのはそういった価値観そのものではなく、あくまで表現の問題にすぎないはずだ。

 もちろん、障害者の目の前でわざわざそういうことを言う必要はないだろう。でも、いついかなるところでもそういう発言をしてはいけない、などという主張は、市民同士の自由な価値形成そのものを疎外することになってしまう。

 市民同士の関係ではそうだとしても、政治権力者がそれを口にするのは、権力による価値観の押し付けになるのではないか、というのも極論である。そもそも「権力による強制」とは何か、というのがなかなか難しい問題で、フーコーのようにむやみと拡大解釈する人がいることももちろん知っている (^^)。

 しかし現実的には、ある種のインセンティブによって、特定の価値観を促進しようという法律は、健康増進法とか動物愛護法とかいくらでもあるのだ。だから、民主主義運用の現実に即して考えれば、完全な強制は許されなくても、ある程度のインセンティブによる誘導は許される、と考えるしかない。

(「タバコを吸うのはよくない」とか「動物をいじめてはいけない」みたいな価値観を、政治権力によって促進しようとしている人たちが、一方では「子供をたくさん作った方がいい」という価値観の促進に反対している、と決め付けるわけではもちろんないが (^^))

 少子化対策というのが、民主主義的な手続きにのっとった国民的合意である以上、それを推進する人間が、その価値観にコミットするのはむしろ当然のことである。また、特定の価値観に対するある種のインセンティブとして働くような発言を全否定することも極論だと思う。ただ、もちろん表現の巧拙というのはある。

 ちなみに、ぼく自身は、「少子化対策もいいけど」という記事でも書いたように、少子化対策よりもむしろ移民を促進したほうがいいという立場だし、「伝統の在り処」や「文化は制度化では守れない」 でも書いたように、天皇制はなくなってもいいとか言ってるような人間ですから、実際には、現政権の考え方とかかなり距離があると思うんですよ (^^)。

 でも、ぼくは筋金入りの価値相対論者なので (^^)、そういう個人の価値観によって、主張の是非を判定されるのは嫌なのね。だから、そういうエクスキューズをあえて最後に持ってきた次第。

 もしこの問題が純粋に表現だけの問題であるならば、表現の問題に相応しい取り上げ方の軽重というものがあるはずだし、逆に、表現に現れた価値観や思想の方が問題であるというのなら、徹底的に価値観の戦いを繰り広げればよいのである。けれども、(たぶんそのような論戦になれば泥沼になり足並みが乱れることをおそれているのだろうけど)実際には、あえて思想論には踏み込まず、あくまで表現の問題であるが、表現の問題はすご~~~~~~く重要なんだよ、という論法によって、無理矢理当事者を引きずり下ろそうとしているように見える。この問題について、最も「不健全」に感じるのはその点である。

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