昨日の糸井さんの「ダーリンコラム」は「面接試験の傾向と対策とつまらなさ」という話。一読すると、ずいぶん大雑把に書かれていて、すぐつっこみを入れたくなったのだけれども、そこがわざと読み手を挑発しているような感じ。それで、素直に釣られるのもイヤだと思って、結局昨日は何も書かなかったんですけど、「今日のダーリン」を読んだら、やっぱりちょっと書きたくなった次第 (^^)。
あらかじめ言っておくと、ぼくはもともと、糸井さんと同じく「つまらなすぎないか、そういうのって?」 って思う方の人間だったのね。実際、大学時代も、過去問を研究するなんて邪道だと思っていたから過去問をコピーしたこともなかったし、試験中にカンペを廻してくれた友人に「余計なことすんじゃねえよ」などとブチ切れて絶交してしまったことすらありました。
面接でも(前に書いたように、大学卒業時のいわゆる「就職活動」はしたことないんだけど、その後の転職時には結構面接を受けました。ちなみに、そんときはバブル崩壊後 (^^))、当時流行だった「圧迫面接」なんてのは何様のつもりだと思って大嫌いでしたし、「デートの約束をしている日に急な残業が入ったらどうしますか」って聞かれて「ケースバイケースですね」って素直に答えちゃったし(後で面接の模範回答集みたいなのを見たら、もう言語道断なダメダメな答えらしい(^^))。
これはちょっと違う話だけど、前にいた会社で、社長が社員を一人ずつ食事に招待して親睦をはかる会、みたいなのがあったのね。それにぼくが出席したときに、社長がなぜか「お前はオレの事好きか?」って聞いてきたんだよね(まあ、そんなこと聞く奴も聞く奴だと思うんだけど (^^))。でも、ぼくは正直言ってそのとき社長のことあまり好きじゃなかったので、「いや、正直あまり好きじゃありません」とか言っちゃったんだよね (^^)
まあ、その社長は大物だったのか、大物ぶりたかったのか知らないけど、その後ずっと「こいつオレのこと好きじゃないんだってさ」とかいうイビリギャグのネタにされただけで、別に冷遇とかはされなかったけど(ホントは冷遇されてたけど、ぼくが鈍感で気がつかなかっただけ、という可能性もある (^^))。
いや、別につっぱってかっこつけたとか、そういうんじゃないんですよ。だだ、ぼくは好きでもない人に「いやー、もちろん大好きに決まってるじゃないですか、わっはっは」なんて言う気にはどうしてもなれないんですよね。これは今でもわりとそうで、今ならなんて言うのかなあ。わかんないや (^^)。進歩がないね (^^)。だから、頼むからそういう質問はしないでください、って思ってます (^^)。
まあそういうわけで、この糸井さんのコラムには、共感する部分が多々あるんだけども、ちょっと違うんじゃないかと思う部分もあるんです。
一つは、入学試験と就職の面接試験をいっしょくたにしてるけど、これは必ずしも同列に扱えないんじゃないかってこと。もちろん、試験する側と受ける側の価値観にずれがあるんだけど、受ける側が試験する側の価値観に形式的に合っているフリをする、という点では同じでしょう。
ただ、その外側の社会の価値観まで含めて考えると、入学試験の場合には、むしろ受ける側の価値観の方が社会の価値観と一致していて、試験する側があまり実効性のないタテマエの価値観を押し付けているという面もあるでしょう?
入学試験というものは、本来、受験者の真の学力を判定するためのものなのだから、実力がないのに合格だけしてもしょうがないというのは、もちろんその通りなんだけど、実際の社会には、学歴社会と言われたように、特定の大学に合格していることが重要で、実力なんてそれほど関係がないという世界もあったりするわけでしょう?
もちろん、本当の一部のエリート層は実力もなければ通用しないと思いますけど、大学なんてレジャーランドで会社は大学教育なんてもともと期待してなくて実力は社内研修でつければいい、というような世界からすれば、とりあえず合格できれば実力はどうでもいいという受ける側の価値観の方が社会の価値観に一致していて、実力がなければ合格しても意味がないという価値観は、試験する側だけのタテマエだとも言えるわけですよね。
そう考えると気になってくるのが、「受験用の傾向と対策に必死になる受験生たちは、なにかものすごくムダなことに自分を賭けているのではないか。」 というところ。というのも、前述のような価値観を前提にすれば、むしろ、「真の実力」をつけるのに時間をかけることの方がムダなのであって、「傾向と対策」を研究するのは、むしろそのムダを節約することになるはずだからです。その節約した時間で、恋愛やサークル活動やなんやら、いわゆる青春ってやつですか(^^)? を謳歌するのと、どっちがより充実した人生なのかと言われれば、そう簡単に白黒はつけられないと思うのね。
もちろん、この「社会の価値観」というのが正しいのか間違っているのか、というのも重要な問題ですよね。そして、もしそれが間違っているとするなら、変革のためにたった一人でもその価値観に抵抗する、というのも一つの考え方でしょう。だから、若者が自分の意思でそういう人生を選ぶなら、それもアリだとは思います。
ただ、大人が若者に対して、そういうアジテーションをしていいかどうか、というのはまた別の話だと思うんですよね。だいたい、そういう抵抗をするのにだって、実力や作戦が必要ですから。自分にはなんの勝算もないのに、単に間違っているというだけの理由で他人をそういう道にひきずり込むのは、「独裁者だってみんなで一斉に逆らえば絶対に倒せるんだから、まずお前から行け!」とか言ってるようなもんでしょ(^^)? そういうのは、無責任なヒロイズムになりかねないと思うんだよね。だから、それなりに慎重な言い方が必要だと思うんです。まあ、ぼくらの時代にくらべると、今はもっと実力主義になっているのかもしれないし、そのへんはぼくもよくわからないですけどね。
もう一つ思うのは、そういう価値観の若者がいるからと言って、本当に真面目に勉強して「真の学力」を身につけたいという若者のそれほど邪魔になっているとも思えないということですね。まあ、エジソンやガロアやポアンカレやアインシュタインも試験には弱かったみたいな有名な話もあるけど、やっぱり、本当に実力のある人が合格する率が不当に低いとはたぶん言えないんじゃないかと思うし、そういう方々が真の実力を評価される世界もそれはそれでちゃんとあるみたいだし。
(あれ、こんな記事でもトラバスパムがくんのかよ。ウザいなあ。と一息入れたところで後半。)
それで、就職試験は、入学試験とはまたちょっと違うと思うんですよね。この場合、社会の価値観は、試験する側に一致するとも、受ける側に一致するとも言えない。まあ、強いて言えば、企業側の方が社会経験をつんでいる分だけ、社会の価値観に近いと言えるかもしれない、という程度。
だから、就職試験は基本的に主体的な価値観を持った者同士のぶつかり合いで、形式的には、試験する側が試験される側を選んでいるわけですが、実質的には、試験される側が試験する側を選んでいるとも言えるわけです。そして、どちらの価値観が正しかったかは、時間がたってみないと、あるいは、ひょっとしたら永遠にわからない。
さらに、面接試験には、普通の試験と違って正解というものがないですよね。面接試験の質問というのは、「お題」みたいなものであって、回答者はその答えに創造性を発揮する余地がある。それによって、普通の試験ではわからないような受験者の人間性や価値観の一端を知ることができるわけです。だから、この場合、必ずしも試験される側が試験する側の価値観に合わせるだけが合格する方法ではなくて、試験される側が自分の回答によって試験する側の価値観を変えてしまう可能性すらある。そこが面接試験のいいところですよね。
実は、昔はぼくも就職試験をネガティブにしか見ていなくて、「試験官なんてどーせネクタイが曲がってるかとかそんなひょーめん的なことしか見てねーんだろー、だれがそんなヤツに媚び売るか!」みたいなヒネた考え方してたのね (^^)。でも、あまりにも面接に落ち続けるので、さすがに弱気になって本屋さんに行って面接対策の本を買ったことがあったんです。まったくの偶然だったんだけど、その本が、例の中谷彰宏さんの「面接の達人」(通称メンタツ)だったんですよね。
ぼくは、その後中谷さんがやたらと大量生産している、みょーに活字の大きい本は、さすがにほとんど読んでいないのですが(^^)、このメンタツにだけは正直「ヤラレタ」と思いましたね。一言で言えば、自分が世の中を舐めていた、ということを思い知らされたのね。この本を読んで初めて、試験をする側もされる側も、夢も悩みもある人間同士なんだなあ、という視点を得られたというか。だから、上の説明にはその影響も入ってます (^^)。
ただ、矛盾するようですが、こういう言い方もやっぱり美化しすぎないようにした方がいいと思うんですよ。だって、冷静に考えれば、20 代そこそこで、20 も 30 も年上のオジさんたちが感心するようなことをアドリブで言えるのは、やっぱり相当優秀な人間でしょう。平均レベルの人間からしたら、減点法にひっかからないようにするのでせいいっぱいですって。
糸井さんは「おじぎの角度が完成されていたから受かった、なんて、あるわけないじゃありませんか。」っていうけど、そういうアドリブで積極的にアピールができない人にとっては、 おじぎの角度を練習することの方が、むしろ簡単で効率がよいということだってあると思うんですよ。
だいたい、優秀な人は無意識のうちに自分を基準にして考えるから、それがほんとうに一般庶民に役立つのかと考えると、疑問なこともありますよね。特に糸井さんなんか、本当はメチャメチャ才能があるくせに、「ぼくは勉強しないから…」みたいなこといいたがるじゃないですか (^^)。だから、余計に一般庶民を惑わせるところもあると思うんですよ (^^)。
ぼくはバカだから、バカにしか言えない事を言おうと常々心がけているのですが、よく言うのは、「ぼく程度のレベルの人間が、「成功者」の語る「成功の秘訣」を読むときは、眉に唾をつけて読め!」ってことね (^^)。だいたい、成功者というのは、自分の体験を過度に一般化したがる傾向があるでしょ。極端な例で言うと、宝くじに当たった人が、「絶対に当たるんだという信念が大切です。現に私はそれで当てたんですから」って言ったって、サンプルが少なすぎてなんの判断材料にもならないじゃないですか。120 歳まで生きた泉重千代さんは死ぬまでタバコを吸っていたらしいけど、だからと言ってタバコが長寿の秘訣とは言えないし。
あるいは、そういう人はよく「誠意を持って接すれば必ず人はわかってくれる」みたいなことを言うけど、自分一人だけのサンプルで、それが環境のせいだとかたまたま運が良かったせいでないとどうして言えるんだ? って思いますけどね。現に裏社会の本とかをよむと、これでもかっていうほどいろんな人に騙されたり裏切られたりする人がたくさん出てくるんだけど、あなたは、自分がそういう境遇になっても、絶対に騙されないって言えるんですか? って聞いてみたいです。
(色川さんの「うらおもて人生録」には「騙されろ」って書いてあるんですよね (^^)。そういうところもリアルだと思います。)
だいぶ横道にそれたけど、面接の話に戻ると、仮に企業の現場の人は「いい人。いっしょにやっていきたい人」を採用したいと思っていたとしても、人事担当者は単に揚げ足をとられて点数を落とさないことしか考えてない、とかいうことだってありうるわけです。
実際、ぼく自身も昔、どっかの研究所に潜り込みたいと思って国家公務員一種試験を受けたことがあって、それで幸い一次試験には受かったものだから、筑波のとある研究所まで面接にいったことがあるんですよね。ところが、それがまるっきり場違いだったらしくて、忘れもしないけど、人事担当者の人から「あんた何しに来たの?」って言われたんだよね (^^)。
つまり、そういう研究所っていうのは、大学院で研究実績のある学生が教授の紹介とかで入るのが普通らしくて、ぼくみたいに卒業研究すらしてないなんてのは非常識極まりなかったらしいのね (^^)。ぼくは大学は夜間だったけど仕事の方で研究開発とかしてたから、ひょっとしてそういう実績を見てくれるんじゃないかなんて思ってたんだけど、まるっきり甘い考えだったらしい。
まあそれは、ぼくが世間知らずで事前に何も調べてなかったのが悪いと言えば悪いんだけどさ (^^)、でも、別に募集要項に「卒業研究していない人お断り」とか書いてあるわけじゃないんだし、それを見て素直に早起きして東京から延々バスに乗ってわざわざ筑波まで来た人に対して、「何しに来たの?」は人間の礼儀としてないんじゃないの? たとえ心の中で思ってたとしても、わざわざ口にださなくったって、黙って通せばいいことじゃないですか。あんときは本当に切れそうになりましたね。
もっとも、その後で面接してくれた研究員の方々は、ぼくみたいなバカの話もちゃーんと真面目に聞いてくれましたけどね。しかも、真面目に聞いたうえで、評価できるとこととダメなところをちゃんと指摘してくれたのは嬉しかったですね。っていうか、ホントはそれが当たり前だと思うんですけどね。
そういう国の研究所ですらそうだったという自分の経験もあるし、中小企業を渡り歩いた結果いろいろとムチャクチャな人にも出会ってるんで (^^)、ぼくは日本全国の企業の人事担当者がすべて「「いい人。いっしょにやっていきたい人」を採用したくてたまらない」などということを素直に信じることはとてもできません。仮に、優秀な企業の多くがそうだったとしても、ダメな企業には減点法でしか人を見れないようなダメな人事担当者だってたくさんいるだろうし、逆にその程度の人事評価でたいして支障のない仕事だってたくさんあると思うし。
もちろん、ある程度優秀な人なら、たくさん面接を受ければいつかはまっとうな評価を受けられると思いますよ。でも、その程度の簡単なことができるかできないかが評価の分かれ目になるような企業にしか相手にもらえない、という人だっているんじゃないですか? 少なくとも、ぼくには、そういうことが「絶対にあるわけない」などと断言する気にはなれないなあ。
もう一つ言っておきたいのは、そもそも、ビジネスにおいて、他人の価値観に合わせることがそんなに悪いことか、ということです。だって、ビジネスっていうのは、本来、客の価値観に奉仕することじゃないですか。もちろん、単に客の命令をきくのと、客の価値観に奉仕するのは違うでしょう。単に客の価値観にしたがうのではなく、客に対して新しい価値観を提案するのが理想的なビジネスだ、という考え方もあるでしょう。このへんは、深く追求すると結構哲学的な問題だと思います。
でも、客の価値観を理解して、それに合わせるのがビジネスの基本には違いないでしょう? そういう一種のコンフォーミティ(英語しか思いつかなくて申し訳ない)みたいなものを表現するのが、そんなに悪いことですかねえ。やっぱり、減点法の世界では、それが基本のキになるんじゃないですか?
もちろん、「高い志を持て」と言うことには文句はありません。でも、「高い志があれば絶対に成功する」と根拠もなく断言するのは、やはり一種の扇動であり、人を不幸にする可能性もあるのではないでしょうか。そのへんがちょっと気になりました。
うわ、めっちゃ長くなってしまった (^^)。読んでくれる人いるんかな~(^^)。