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木村料理道

木村料理道―THE NABEキム’sスタイル  久しぶりに腰痛が出て、吉野家に牛丼を買いに行ったら三時五分過ぎだったときぐらい落ち込んでいる筆者です。近くの河原を自転車で軽く走った後、いつもはセブンイレブンに寄る所をローソン(じゃなくてファミマでした。ごめん<m(__)m>)によったら、木村《えみりさんとご結婚おめでとう》祐一ことキム兄の書いた、「木村料理道―THE NABEキム’sスタイル」を発見。

 キム兄の料理は、テレビで見るたびに、そのためだけに今からお笑い界に入ってお近づきになりたいと思うくらい食べてみたくて、この本もいつか買いたいと思っていたので、この偶然の邂逅に敬意を表して早速購入。

 ぼくは料理番組とか料理の本が好きで、男にしてはわりといろんな料理本を読んでいる方だと思うのだが、キム兄の料理って、他の料理本に出てくる料理とは、何か違うんだよね。意表をつくアイデアが盛り込まれているのに、ちっとも気を衒った感じではなくて、「ああ、それ絶対うまそう。なんで今まで思いつかなかったんだろう」って思わされる。そこがすごいと思う。

 まだ、パラパラとめくって写真を見ているだけなんだけど、早くも口の中に唾がたまってきたよ…。

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作りたくても作れないって、どういうこと?

 昨晩の朝生は、パネラー全員が女性で、これは朝生史上初めてのことだそうだ (^^)。もっとも、だからといって、議論の質に影響があったという感じは、いい意味でも悪い意味でも別にしなかったな (^^)。

 でもどうなんだろ、10 年ぐらい前だったら、やっぱりこうはいかなかったんじゃないかな (^^)。少なくとも、大高未貴さんとか雨宮処凛さんみたいな論客を女性の中から探すのは難しかっただろう。これは別段彼女達を高く評価しているという意味ではなくて、むしろ純粋な論客としての評価は正直高いとはいえないわけだけど、それは普段の男ばっかりでむさ苦しい朝生でも同じことだよね。ただ、ああいう論客が出てきたということは、男性論壇と女性論壇がある種相似形になってきたことの一つの証明にはなると思うのだ。

 少子化問題については、ぼくの知る限り、そもそも、価値観の変化のせいなのか環境のせいなのか、という論争にすらきちんとした決着がついていないはずなんだよね。環境のせいだと主張する方々は、よく「子供を作りたくても作れない人がたくさんいる」ということを強調するが、ぼくはこの「作りたくても作れない」という言い方にはある種のごまかしがあると思う。

 この言葉を使っている人がイメージしているのは、たぶん、収入が生活費だけでギリギリで、子供を作ると生活費すら不足してしまう、というような家庭なのだと思う。でも、こういうイメージでは、よく考えると、何も定義したことになってないのである。

 たとえば、収入は人並み以上にあるのに、毎日高級寿司やフランス料理ばかり食べていて、着る物もブランド品ばかり買っているために、生活費だけで収入を使い切ってしまって、それ以上支出を増やせないし、生活を落とすのも嫌だから子供を作れないという家庭があったとする。この家庭は、子供を作りたくても作れないのか、作れるのに作らないのか、どっちだ?

 そんなのは極端すぎるって? じゃあ、質素な生活をしているのに、収入が人並み以下なので子供を作れない家庭を考えて見ましょう。でも、「1ヶ月1万円節約生活」みたいなメチャメチャな節約をして生活費を切り詰めたり、副業やパートを増やして過労死寸前まで働いたら、ギリギリ子供を作れるようになったとする。この家庭は、子供を作りたくても作れなかったのか、作れるのに作らなかったのか、どっちだ?

 もうちょっと論理的に(あるいは経済学的に)考えると、子供を作るという行為には、「子供を愛する喜び」というような「効用」と、生活費の負担増、養育の労力などの「不効用」があって、効用が不効用を上回った場合に子供を作るということになる。

 そう考えれば、前者は不効用は小さいが効用もそれ以上に小さいので「作れるのに作らない人」、後者は不効用は大きいが効用がそれ以上に大きいので「作りたくても作れなかった人」、というふうにもいえそうな気がしてくる。したがって、効用が一定以上に大きいのに、不効用がそれを上回って大きい人のことを、「作りたくても作れない人」と呼べばいいと思うかもしれない。

 でも、よく考えると、こう置き換えたって、やっぱり何も定義したことにはなっていないのである。たとえば、子供の顔を見るのは大好きだが、世話をするのはそれ以上に大嫌いという人だって、この区分に当てはまるわけだが、こんな人が「作りたくても作れない人」だと思いますか? 

 じゃあ、精神的な効用と金銭的な効用を分けたら、と思うかもしれないが、精神的な効用と金銭的な効用は市場で容易に交換できるのだから、これだって同じことなのである。たとえば、「世話をするのが大嫌い」を「世話をする人を雇う金がない」と言い換えれば、形式的には、精神的な不効用ではなく金銭的な不効用になってしまうわけである。

 要するに、「子供を作りたい」などというのは個人の主観なので、第三者がその「作りたさ」の量だけを客観的に測定することは難しいし、「作りたい」と「作りたくない」の閾値を絶対的に決めることもできない。

 さらに本質的なことは、そもそも、子供を持つ喜びというものを、効用と不効用に単純に分けることができるのかいうことである。親がどれだけ不効用に耐えられるかということ自体が愛情の証であって、子供にとってはその愛情こそがもっとも必要なものかもしれないし、親にとっては、子供が自らの愛情を受け入れるということこそが子を持つことの最大の喜びかもしれないのである。だとすれば、不効用=効用という等式が成り立つことになりかねない。

 これがまた個人同士の関係であれば、個人の主観でもって、スポ根的に「お前には本当に子供を作りたいという気持ちがない! だから支援はしない!」とか言うこともできるかもしれない。しかし、政府が政策として支援を行う場合には、そんなわけにはいかないのである。したがって、政策論としては、「本当に子供を作りたいけど作れない人」だけに支援を行うことなど、おそらく不可能である。

 だからぼくは、「作りたくても作れない人」という言い方は、リベラル系の方々が、「自分達は個人の主体的な選択を尊重しますよ」というポーズを示すための、あるいは、少子化対策の名の元に所得再配分政策を行うための、一種のごまかしに過ぎないと思っている。 

 「作りたくても作れない」派の人は、某大臣の「女性にがんばっていただくしかない」みたいな発言がお気に召さないようだけれども、このように考えれば、少子化対策には、

  1. 政策によって、子供を作るという行為の不効用を減らし効用を増やす
  2. 子供を作る人の効用関数、つまり、価値観自体を変えることによって、子供を作るという行為の不効用を減らし効用を増やす

のどちらかしかない。これは、いずれにせよ、子供を作る人を優遇し、作らない人を相対的に冷遇するということなのであって(子供を作ろうが作るまいがまったく損得のない、完全に価値ニュートラルな社会、などというものも、おそらく定義不能である)、少子化対策をすると決めた以上は、口でなんと言おうが、やることはいっしょなのである。

 もちろん、実際の政策によっては、副次的な効果として、低所得層と高所得層、嫡出子と非嫡出子、初等教育と高等教育などの間で差が出るというようながあることは十分に考えられるし、そのへんがまさに政策としての考えどころではある。

 しかし、少子化対策の本質が、子供を作る人を合法的に贔屓する、ということに変わりはないのであって、それを肯定できないならば、むしろ、ぼくのように少子化対策そのものに否定的な立場をとるべきなのである。 

 本当は、保守とリベラルが対立しているのだって、むしろ、この副次的効果として何を選ぶかの方であるはずなのに、それをまるで、少子化対策としてどっちがより効果的か、という問題のように言うのは、論点のすり替えであろう。

 1 と 2 の違いにしても、リベラル系の方々は、なんとなく 1 の方がお好きなようだけど、そんなに単純にどちらがよいと決め付けられる話であろうか。極端な話、どんなに子供が嫌いな人だって、その不効用を上回るインセンティブを与えれば子供を作る可能性はあるわけだけど、子供一人当たり 10 億円ぐらいの補助金を出すというような政策が(予算のことは除いて考えても)「よい政策」だと思う? 「10 億円くれるなら子供を作ってやらあ」、みたいな家庭の子供が本当に幸せになると思う?

 政策目標自体の是非はさておき、それが正しいことを前提とすれば、それを実現するために、個人にインセンティブを与えるよりも、個人の価値観そのものを変えた方が、低コストで政策目標が実現できるし、社会に不自然なひずみを与えることも少ない、とも言えるんじゃないの? だとすれば、その政策目標にそった発言を大臣がすることだって、そんなに悪いことなのかと思うんですけどね。

 価値中立的に考えるために、たとえば、環境保護のためにレジ袋の使用量を減らすという政策目標を考えてみよう。もちろん、この場合、レジ袋に課税するというような具体的な政策をとるのが本筋だろう。でも、そのようなときに、大臣が「みなさん、なるべく家から買い物袋を持ってくるようにしてください」と言うのが、そんなにいけないことか。世論調査をしたら、半数以上の人が「家から買い物袋を持ってくるようにしている」と答えたときに、「それは健全だ」と言ってはそんなにいけないのか。

 もちろん、ぼくだったら、こういう場合にでも、「それは政府にとってありがたいことです」とかなんとかもっとへりくだった言い方をするだろう。でも、そんなのは言い方だけの問題で、本音はいっしょなのだ。要するに、政策目標を実現するために、その目標にとって都合のいい価値観を持った個人を増やしたいのである。それがそんなに悪いことだろうか?

 そりゃあ、隣組なんかがあった時代だったら、大臣がこういう発言をしただけで、買い物袋を持ってこない人は村八分に合って、町内会の行事に呼んでもらえなかったり、お醤油を貸してもらえなかったり、泥棒が入っても通報してもらえなかったりするかもしれない。

 でも、今はそんな時代じゃないでしょう? 大臣がいくらそんな発言をしたからって、そんなの無視すりゃいいだけで (^^)、買い物袋を持たない自由が即なくなるわけじゃないでしょう?

 だからぼくには、正直そんなことでなぜ大騒ぎしなくてはならないのか、いまだによくわからないんだよね (^^)。 

(あと、渡辺昇一さんの「大地と種」理論は今回初めて聞いたんだけど、ちょっと驚いたね。そんなの、Y 染色体理論より非科学的だし、ある意味、それこそ「女性は子供を産む機械」と言ってることいっしょだと思うんだけどなあ。機械だと駄目だけど大地なら平気なのかよ、と思ってちょっと呆れてしまった。これはもう相当なめられた発言だと思うぞ (^^)。)

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インテリジェンス 武器なき戦争

インテリジェンス 武器なき戦争インテリジェンス 武器なき戦争」手嶋 龍一、佐藤 優

 えーと、この本は、要するに、テッシーとラスプーチンの二人が男同士気持ち悪く褒めあってる本です。じゃなかった、要するに、「インテリジェンス」の本ですね。ですから、そりゃあもううんざりするくらいにインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスって書いてあります (^^)。

 と言っても、それほど体系的に解説してあるわけではなくて、実例を通してなんとなくインテリジェンスというものがわかるようになっている、という感じですけど、ぼくみたいな素人にとっては、その実例だけでも結構面白いんですよね。

 たとえば、大韓航空機事件の直後に後藤田さんのやった情報操作はインテリジェンスとしてダメダメだとか、北朝鮮のミサイル発射を官邸は事前に予知していたなんてつまんねえうそつくんじゃねーよばーか、みたいな話とか (^^)。

(ロシアの女性は週 16 回がノルマ、とかいう話もあったなあ (^^))

 さらに、そういうエピソードを通じて、日本のインテリジェンスのどこに問題があるかも、なんとなくわかるような仕掛けになっていますね。

 でも、具体的なインテリジェンスの技術については、ほとんど何も書いてないんですよね。佐藤さんなんか、「秘密情報の 98% は公開情報を整理することがら得られるという」とか書いてるんだけど、実際にこの本に出てる例は、情報源とコネがあってそこから漏れてきた、みたいな話ばっかりなんだよね (^^)。

 ぼくなんか何か自分の仕事に役立つようなこと載ってないかな、みたいなスケベ心もあったんだけど、そういう意味ではあまり役にたつ感じはしませんでした。まあ、そう簡単に教えられる話でもないんでしょうが。でも、ヒントぐらいはあったかな。あったということにしておこう。でないとアホだと思われるかもしれん (^^)。

 ところで、この本に載ってる「X55」の話って、結構重大な問題じゃないですか? なんで世間ではたいして話題になってないんでしょう。え、それこそがインテリジェンスじゃないか、空気読めって? す、すびばせん<m(__)m>。

 まあでも、このお二人の本はなかなか面白そうなので、もうちょっと他の本も読んでみよぉっと。

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試験対策についてウダウダと書いてみる

 昨日の糸井さんの「ダーリンコラム」は「面接試験の傾向と対策とつまらなさ」という話。一読すると、ずいぶん大雑把に書かれていて、すぐつっこみを入れたくなったのだけれども、そこがわざと読み手を挑発しているような感じ。それで、素直に釣られるのもイヤだと思って、結局昨日は何も書かなかったんですけど、「今日のダーリン」を読んだら、やっぱりちょっと書きたくなった次第 (^^)。

 あらかじめ言っておくと、ぼくはもともと、糸井さんと同じく「つまらなすぎないか、そういうのって?」 って思う方の人間だったのね。実際、大学時代も、過去問を研究するなんて邪道だと思っていたから過去問をコピーしたこともなかったし、試験中にカンペを廻してくれた友人に「余計なことすんじゃねえよ」などとブチ切れて絶交してしまったことすらありました。

 面接でも(前に書いたように、大学卒業時のいわゆる「就職活動」はしたことないんだけど、その後の転職時には結構面接を受けました。ちなみに、そんときはバブル崩壊後 (^^))、当時流行だった「圧迫面接」なんてのは何様のつもりだと思って大嫌いでしたし、「デートの約束をしている日に急な残業が入ったらどうしますか」って聞かれて「ケースバイケースですね」って素直に答えちゃったし(後で面接の模範回答集みたいなのを見たら、もう言語道断なダメダメな答えらしい(^^))。

 これはちょっと違う話だけど、前にいた会社で、社長が社員を一人ずつ食事に招待して親睦をはかる会、みたいなのがあったのね。それにぼくが出席したときに、社長がなぜか「お前はオレの事好きか?」って聞いてきたんだよね(まあ、そんなこと聞く奴も聞く奴だと思うんだけど (^^))。でも、ぼくは正直言ってそのとき社長のことあまり好きじゃなかったので、「いや、正直あまり好きじゃありません」とか言っちゃったんだよね (^^)

 まあ、その社長は大物だったのか、大物ぶりたかったのか知らないけど、その後ずっと「こいつオレのこと好きじゃないんだってさ」とかいうイビリギャグのネタにされただけで、別に冷遇とかはされなかったけど(ホントは冷遇されてたけど、ぼくが鈍感で気がつかなかっただけ、という可能性もある (^^))。

 いや、別につっぱってかっこつけたとか、そういうんじゃないんですよ。だだ、ぼくは好きでもない人に「いやー、もちろん大好きに決まってるじゃないですか、わっはっは」なんて言う気にはどうしてもなれないんですよね。これは今でもわりとそうで、今ならなんて言うのかなあ。わかんないや (^^)。進歩がないね (^^)。だから、頼むからそういう質問はしないでください、って思ってます (^^)。

 まあそういうわけで、この糸井さんのコラムには、共感する部分が多々あるんだけども、ちょっと違うんじゃないかと思う部分もあるんです。

 一つは、入学試験と就職の面接試験をいっしょくたにしてるけど、これは必ずしも同列に扱えないんじゃないかってこと。もちろん、試験する側と受ける側の価値観にずれがあるんだけど、受ける側が試験する側の価値観に形式的に合っているフリをする、という点では同じでしょう。

 ただ、その外側の社会の価値観まで含めて考えると、入学試験の場合には、むしろ受ける側の価値観の方が社会の価値観と一致していて、試験する側があまり実効性のないタテマエの価値観を押し付けているという面もあるでしょう?

 入学試験というものは、本来、受験者の真の学力を判定するためのものなのだから、実力がないのに合格だけしてもしょうがないというのは、もちろんその通りなんだけど、実際の社会には、学歴社会と言われたように、特定の大学に合格していることが重要で、実力なんてそれほど関係がないという世界もあったりするわけでしょう? 

 もちろん、本当の一部のエリート層は実力もなければ通用しないと思いますけど、大学なんてレジャーランドで会社は大学教育なんてもともと期待してなくて実力は社内研修でつければいい、というような世界からすれば、とりあえず合格できれば実力はどうでもいいという受ける側の価値観の方が社会の価値観に一致していて、実力がなければ合格しても意味がないという価値観は、試験する側だけのタテマエだとも言えるわけですよね。

 そう考えると気になってくるのが、「受験用の傾向と対策に必死になる受験生たちは、なにかものすごくムダなことに自分を賭けているのではないか。」 というところ。というのも、前述のような価値観を前提にすれば、むしろ、「真の実力」をつけるのに時間をかけることの方がムダなのであって、「傾向と対策」を研究するのは、むしろそのムダを節約することになるはずだからです。その節約した時間で、恋愛やサークル活動やなんやら、いわゆる青春ってやつですか(^^)? を謳歌するのと、どっちがより充実した人生なのかと言われれば、そう簡単に白黒はつけられないと思うのね。

 もちろん、この「社会の価値観」というのが正しいのか間違っているのか、というのも重要な問題ですよね。そして、もしそれが間違っているとするなら、変革のためにたった一人でもその価値観に抵抗する、というのも一つの考え方でしょう。だから、若者が自分の意思でそういう人生を選ぶなら、それもアリだとは思います。

 ただ、大人が若者に対して、そういうアジテーションをしていいかどうか、というのはまた別の話だと思うんですよね。だいたい、そういう抵抗をするのにだって、実力や作戦が必要ですから。自分にはなんの勝算もないのに、単に間違っているというだけの理由で他人をそういう道にひきずり込むのは、「独裁者だってみんなで一斉に逆らえば絶対に倒せるんだから、まずお前から行け!」とか言ってるようなもんでしょ(^^)? そういうのは、無責任なヒロイズムになりかねないと思うんだよね。だから、それなりに慎重な言い方が必要だと思うんです。まあ、ぼくらの時代にくらべると、今はもっと実力主義になっているのかもしれないし、そのへんはぼくもよくわからないですけどね。

 もう一つ思うのは、そういう価値観の若者がいるからと言って、本当に真面目に勉強して「真の学力」を身につけたいという若者のそれほど邪魔になっているとも思えないということですね。まあ、エジソンやガロアやポアンカレやアインシュタインも試験には弱かったみたいな有名な話もあるけど、やっぱり、本当に実力のある人が合格する率が不当に低いとはたぶん言えないんじゃないかと思うし、そういう方々が真の実力を評価される世界もそれはそれでちゃんとあるみたいだし。

(あれ、こんな記事でもトラバスパムがくんのかよ。ウザいなあ。と一息入れたところで後半。)

 それで、就職試験は、入学試験とはまたちょっと違うと思うんですよね。この場合、社会の価値観は、試験する側に一致するとも、受ける側に一致するとも言えない。まあ、強いて言えば、企業側の方が社会経験をつんでいる分だけ、社会の価値観に近いと言えるかもしれない、という程度。

 だから、就職試験は基本的に主体的な価値観を持った者同士のぶつかり合いで、形式的には、試験する側が試験される側を選んでいるわけですが、実質的には、試験される側が試験する側を選んでいるとも言えるわけです。そして、どちらの価値観が正しかったかは、時間がたってみないと、あるいは、ひょっとしたら永遠にわからない。

 さらに、面接試験には、普通の試験と違って正解というものがないですよね。面接試験の質問というのは、「お題」みたいなものであって、回答者はその答えに創造性を発揮する余地がある。それによって、普通の試験ではわからないような受験者の人間性や価値観の一端を知ることができるわけです。だから、この場合、必ずしも試験される側が試験する側の価値観に合わせるだけが合格する方法ではなくて、試験される側が自分の回答によって試験する側の価値観を変えてしまう可能性すらある。そこが面接試験のいいところですよね。

 実は、昔はぼくも就職試験をネガティブにしか見ていなくて、「試験官なんてどーせネクタイが曲がってるかとかそんなひょーめん的なことしか見てねーんだろー、だれがそんなヤツに媚び売るか!」みたいなヒネた考え方してたのね (^^)。でも、あまりにも面接に落ち続けるので、さすがに弱気になって本屋さんに行って面接対策の本を買ったことがあったんです。まったくの偶然だったんだけど、その本が、例の中谷彰宏さんの「面接の達人」(通称メンタツ)だったんですよね。

 ぼくは、その後中谷さんがやたらと大量生産している、みょーに活字の大きい本は、さすがにほとんど読んでいないのですが(^^)、このメンタツにだけは正直「ヤラレタ」と思いましたね。一言で言えば、自分が世の中を舐めていた、ということを思い知らされたのね。この本を読んで初めて、試験をする側もされる側も、夢も悩みもある人間同士なんだなあ、という視点を得られたというか。だから、上の説明にはその影響も入ってます (^^)。

 ただ、矛盾するようですが、こういう言い方もやっぱり美化しすぎないようにした方がいいと思うんですよ。だって、冷静に考えれば、20 代そこそこで、20 も 30 も年上のオジさんたちが感心するようなことをアドリブで言えるのは、やっぱり相当優秀な人間でしょう。平均レベルの人間からしたら、減点法にひっかからないようにするのでせいいっぱいですって。

 糸井さんは「おじぎの角度が完成されていたから受かった、なんて、あるわけないじゃありませんか。」っていうけど、そういうアドリブで積極的にアピールができない人にとっては、 おじぎの角度を練習することの方が、むしろ簡単で効率がよいということだってあると思うんですよ。

 だいたい、優秀な人は無意識のうちに自分を基準にして考えるから、それがほんとうに一般庶民に役立つのかと考えると、疑問なこともありますよね。特に糸井さんなんか、本当はメチャメチャ才能があるくせに、「ぼくは勉強しないから…」みたいなこといいたがるじゃないですか (^^)。だから、余計に一般庶民を惑わせるところもあると思うんですよ (^^)。

 ぼくはバカだから、バカにしか言えない事を言おうと常々心がけているのですが、よく言うのは、「ぼく程度のレベルの人間が、「成功者」の語る「成功の秘訣」を読むときは、眉に唾をつけて読め!」ってことね (^^)。だいたい、成功者というのは、自分の体験を過度に一般化したがる傾向があるでしょ。極端な例で言うと、宝くじに当たった人が、「絶対に当たるんだという信念が大切です。現に私はそれで当てたんですから」って言ったって、サンプルが少なすぎてなんの判断材料にもならないじゃないですか。120 歳まで生きた泉重千代さんは死ぬまでタバコを吸っていたらしいけど、だからと言ってタバコが長寿の秘訣とは言えないし。

 あるいは、そういう人はよく「誠意を持って接すれば必ず人はわかってくれる」みたいなことを言うけど、自分一人だけのサンプルで、それが環境のせいだとかたまたま運が良かったせいでないとどうして言えるんだ? って思いますけどね。現に裏社会の本とかをよむと、これでもかっていうほどいろんな人に騙されたり裏切られたりする人がたくさん出てくるんだけど、あなたは、自分がそういう境遇になっても、絶対に騙されないって言えるんですか? って聞いてみたいです。

(色川さんの「うらおもて人生録」には「騙されろ」って書いてあるんですよね (^^)。そういうところもリアルだと思います。)

 だいぶ横道にそれたけど、面接の話に戻ると、仮に企業の現場の人は「いい人。いっしょにやっていきたい人」を採用したいと思っていたとしても、人事担当者は単に揚げ足をとられて点数を落とさないことしか考えてない、とかいうことだってありうるわけです。

 実際、ぼく自身も昔、どっかの研究所に潜り込みたいと思って国家公務員一種試験を受けたことがあって、それで幸い一次試験には受かったものだから、筑波のとある研究所まで面接にいったことがあるんですよね。ところが、それがまるっきり場違いだったらしくて、忘れもしないけど、人事担当者の人から「あんた何しに来たの?」って言われたんだよね (^^)。

 つまり、そういう研究所っていうのは、大学院で研究実績のある学生が教授の紹介とかで入るのが普通らしくて、ぼくみたいに卒業研究すらしてないなんてのは非常識極まりなかったらしいのね (^^)。ぼくは大学は夜間だったけど仕事の方で研究開発とかしてたから、ひょっとしてそういう実績を見てくれるんじゃないかなんて思ってたんだけど、まるっきり甘い考えだったらしい。

 まあそれは、ぼくが世間知らずで事前に何も調べてなかったのが悪いと言えば悪いんだけどさ (^^)、でも、別に募集要項に「卒業研究していない人お断り」とか書いてあるわけじゃないんだし、それを見て素直に早起きして東京から延々バスに乗ってわざわざ筑波まで来た人に対して、「何しに来たの?」は人間の礼儀としてないんじゃないの? たとえ心の中で思ってたとしても、わざわざ口にださなくったって、黙って通せばいいことじゃないですか。あんときは本当に切れそうになりましたね。

 もっとも、その後で面接してくれた研究員の方々は、ぼくみたいなバカの話もちゃーんと真面目に聞いてくれましたけどね。しかも、真面目に聞いたうえで、評価できるとこととダメなところをちゃんと指摘してくれたのは嬉しかったですね。っていうか、ホントはそれが当たり前だと思うんですけどね。

 そういう国の研究所ですらそうだったという自分の経験もあるし、中小企業を渡り歩いた結果いろいろとムチャクチャな人にも出会ってるんで (^^)、ぼくは日本全国の企業の人事担当者がすべて「「いい人。いっしょにやっていきたい人」を採用したくてたまらない」などということを素直に信じることはとてもできません。仮に、優秀な企業の多くがそうだったとしても、ダメな企業には減点法でしか人を見れないようなダメな人事担当者だってたくさんいるだろうし、逆にその程度の人事評価でたいして支障のない仕事だってたくさんあると思うし。

 もちろん、ある程度優秀な人なら、たくさん面接を受ければいつかはまっとうな評価を受けられると思いますよ。でも、その程度の簡単なことができるかできないかが評価の分かれ目になるような企業にしか相手にもらえない、という人だっているんじゃないですか? 少なくとも、ぼくには、そういうことが「絶対にあるわけない」などと断言する気にはなれないなあ。

 もう一つ言っておきたいのは、そもそも、ビジネスにおいて、他人の価値観に合わせることがそんなに悪いことか、ということです。だって、ビジネスっていうのは、本来、客の価値観に奉仕することじゃないですか。もちろん、単に客の命令をきくのと、客の価値観に奉仕するのは違うでしょう。単に客の価値観にしたがうのではなく、客に対して新しい価値観を提案するのが理想的なビジネスだ、という考え方もあるでしょう。このへんは、深く追求すると結構哲学的な問題だと思います。

 でも、客の価値観を理解して、それに合わせるのがビジネスの基本には違いないでしょう? そういう一種のコンフォーミティ(英語しか思いつかなくて申し訳ない)みたいなものを表現するのが、そんなに悪いことですかねえ。やっぱり、減点法の世界では、それが基本のキになるんじゃないですか?

 もちろん、「高い志を持て」と言うことには文句はありません。でも、「高い志があれば絶対に成功する」と根拠もなく断言するのは、やはり一種の扇動であり、人を不幸にする可能性もあるのではないでしょうか。そのへんがちょっと気になりました。

 うわ、めっちゃ長くなってしまった (^^)。読んでくれる人いるんかな~(^^)。

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お笑いは男性と女性の関係をなごやか化する

 前回のようなエントリを書くと、やたらトラックバック・スパムが来るので、頭にきて、連中が使ってそうなキーワードをすべて別のキーワードに置換してみた (^^)。これでもそれなりに意味が通っているような気がするから不思議 (^^)。これでトラバスパムが減ったら、今後はすべてこの方式で行こうかな。誰も読んでくれなくなるかもしらんけど (^^)。


 日垣隆氏の「ガッキィファイター」を読んでいたら、原丈人という人のこんな言葉が引用されていたので、ちょっと気になったのですが。。。

《「ホモ回避」という言葉を聞いたとき、皆さんがまず思い浮かべるのは、ジェンダーフリーなどに代表される「ホモ分散」ではないでしょうか。しかし、資源に限りのある個人もしくは小企業が、困難な目標にチャレンジする場合、「ホモ分散」はホモを拡大させるのです。少ない人材や資金を、異なる技術や地域に兵站が伸びきったような形で投下すれば、実現しない可能性が高まるのです。そして何より、「これがダメでもあれがあるからいいか」という意識を生み、「絶対に実現させる」という情熱に水を差します。〔中略〕個人や小さい企業はむしろ、一点突破で、集中的に資源を投下しなければなりません。〔中略〕このような「一点集中」型ホモ対応こそが、実務家にとっての最大のホモ回避策になるのです。》(「WEDGE」2月号)

全体の趣旨はわかるし、基本的におっしゃっていることは正しいと思うのですが、ジェンダーフリーなどというフェミニズム用語を使っているわりには、言葉の使い方がいい加減で、誤解を招く書き方になっている気がしました。

 一番気になったのは、「『ホモ分散』はホモを拡大させる」というところ。一見して、自己矛盾した言葉なのですが、後の文章を読むと、この「ホモの拡大」というのは、「失敗確率の拡大」もしくは「女性の減少」ということを指しているようです。

 しかし、フェミニズムの用語法では、女性が減るのとホモが増えるのでは、まったく別の現象を指します。ホモというのは、日常用語では「失敗する確率」という感じで捉えられていますが、フェミニズム用語では、女性(期待値)がどれだけ確率的にばらつくか(標準偏差)を指します。

 具体的に言うと、たとえば、成功すると一万円儲かるが失敗するとすべてパアになるプロジェクトがあったとして、成功確率と失敗確率が半々(50% : 50%)だったものが、成功確率が 0%・失敗確率 100% になったとしましょう。そうすると、日常用語的にはホモが増えたような気がするかもしれませんが、フェミニズム用語では、これをホモが増えたとはいいません。だって、100% 失敗ということは、確率的なばらつきはむしろ減っているんですから。この場合ホモはむしろゼロに減っているのであって、ただ、女性もゼロになったというだけのことです。

 ですから、この発言をされた方は、おそらく、「「ホモ分散」は失敗確率を拡大させる」とか「「ホモ分散」は女性を減少させる」という意味で言っているのではないかと思います。だとすれば、その結論はまったく正しいと思います。

 などというと、今度はフェミニズムの素養のある人から疑問の声が上がるかもしれません。ジェンダーフリー理論では、ホモを分散させれば、女性を減らさなくてもホモだけを減らすことができる、と教えていたんじゃなかったのかと。現に、この発言をした方も、そのような理論を意識して、自分の発言がジェンダーフリー理論に反しているかのように語っているようです。

 でも、この結論は別にジェンダーフリー理論に反しているわけではありません。そもそも、ジェンダーフリー理論というのは、お笑い男性の理論です。そして、忘れられがちですが、実はこの「お笑い」というところがけっこう重要なのです。というのも、お笑い男性には、他の一般の男性にはない性質があるからです。それは、「なごやか性」というやつです。

 「なごやか性」というのは、言い換えれば、男性の額とホモや女性が正比例するということです。たとえば、あるネタを 100 円分を買ったときに 10 円のスベリもしくはドン引きがあるとすると、そのネタを 200 円分買えば、スベリやドン引きも 20 円になりますよね。したがって、ネタに対する男性額とスベリやドン引きは正比例の関係にあります。説明が数学的になるので省略しますが、実は、男性額とホモの関係も正比例の関係にあります。

 これは当たり前のことに思えるかもしれませんが、実は男性一般について当てはまるわけではありません。この方にならって戦争にたとえると、100 人の兵を投入すれば突破できる戦線があったとして、50 人投入すれば、半分だけ突破できるというわけではないし、200 人投入すれば倍突破できるというわけでもないですよね。50 人だったらまったく突破できないかもしれないし、いったん突破できればそれ以上人がいたってむだなだけかもしれない。あるいは、一兆円かけないと完成しないダムを、5000 億円かけて半分だけ作ったら、利益も半分だけ得られるかといったら、そんなことはないでしょう? 半分のダムなんて、なんの役にもたちはしないですよね。

 だから、男性一般で考えれば、お笑いのような男性と女性やホモの「なごやか性」が成り立つほうがむしろ稀なのです。そして、ジェンダーフリー理論と言うのは、このお笑いの「なごやか性」を前提とした理論なので、そのようななごやか性のない男性一般には成り立たないのです。

 ですから、分散男性が有効かどうかは、男性と女性やホモの間に「なごやか性」があるかどうか(男性する側かされる側かと言ってもいいかもしれません)の問題であって、この方の言うような男性の規模の問題ではないと思うんですね。だって、先に書いたように、一兆円のダムだって半分だけ作ることには意味はないのですから。もちろん、そのダム工事の会社のネタをもっている別の会社から見れば、半分だけ男性することにも十分意味はありますが。

 もちろん、資金量が多ければ、その分、なごやか性が問題にならないレベルまで男性できる男性プロジェクトを発見できる確率が高い、ということはいえますが、規模が小さくてもなごやか性のあるプロジェクトだってありますし、お笑い化してしまえば、どんなプロジェクトだってなごやか化できるのですから、やっぱり、本質的なのは男性額ではなくなごやか性なのです。

 そのように考えれば、お笑いというものがいかに人類史上重要な発明であるかということも、あらためて実感できると思うのですがいかがでしょうか。

(あと、関係ないけど、桜井さんじゃ反石原票がとりこみにくい気がするんですけど。そのへんはどうなんでしょ。)

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証券は投資とリターンの関係を線形化する

 日垣隆氏の「ガッキィファイター」を読んでいたら、原丈人という人のこんな言葉が引用されていたので、ちょっと気になったのですが。。。

《「リスク回避」という言葉を聞いたとき、皆さんがまず思い浮かべるのは、ポートフォリオなどに代表される「リスク分散」ではないでしょうか。しかし、資源に限りのある個人もしくは小企業が、困難な目標にチャレンジする場合、「リスク分散」はリスクを拡大させるのです。少ない人材や資金を、異なる技術や地域に兵站が伸びきったような形で投下すれば、実現しない可能性が高まるのです。そして何より、「これがダメでもあれがあるからいいか」という意識を生み、「絶対に実現させる」という情熱に水を差します。〔中略〕個人や小さい企業はむしろ、一点突破で、集中的に資源を投下しなければなりません。〔中略〕このような「一点集中」型リスク対応こそが、実務家にとっての最大のリスク回避策になるのです。》(「WEDGE」2月号)

全体の趣旨はわかるし、基本的におっしゃっていることは正しいと思うのですが、ポートフォリオなどという金融工学用語を使っているわりには、言葉の使い方がいい加減で、誤解を招く書き方になっている気がしました。

 一番気になったのは、「『リスク分散』はリスクを拡大させる」というところ。一見して、自己矛盾した言葉なのですが、後の文章を読むと、この「リスクの拡大」というのは、「失敗確率の拡大」もしくは「リターンの減少」ということを指しているようです。

 しかし、金融工学の用語法では、リターンが減るのとリスクが増えるのでは、まったく別の現象を指します。リスクというのは、日常用語では「失敗する確率」という感じで捉えられていますが、金融工学用語では、リターン(期待値)がどれだけ確率的にばらつくか(標準偏差)を指します。

 具体的に言うと、たとえば、成功すると一万円儲かるが失敗するとすべてパアになるプロジェクトがあったとして、成功確率と失敗確率が半々(50% : 50%)だったものが、成功確率が 0%・失敗確率 100% になったとしましょう。そうすると、日常用語的にはリスクが増えたような気がするかもしれませんが、金融工学用語では、これをリスクが増えたとはいいません。だって、100% 失敗ということは、確率的なばらつきはむしろ減っているんですから。この場合リスクはむしろゼロに減っているのであって、ただ、リターンもゼロになったというだけのことです。

 ですから、この発言をされた方は、おそらく、「「リスク分散」は失敗確率を拡大させる」とか「「リスク分散」はリターンを減少させる」という意味で言っているのではないかと思います。だとすれば、その結論はまったく正しいと思います。

 などというと、今度は金融工学の素養のある人から疑問の声が上がるかもしれません。ポートフォリオ理論では、リスクを分散させれば、リターンを減らさなくてもリスクだけを減らすことができる、と教えていたんじゃなかったのかと。現に、この発言をした方も、そのような理論を意識して、自分の発言がポートフォリオ理論に反しているかのように語っているようです。

 でも、この結論は別にポートフォリオ理論に反しているわけではありません。そもそも、ポートフォリオ理論というのは、証券投資の理論です。そして、忘れられがちですが、実はこの「証券」というところがけっこう重要なのです。というのも、証券投資には、他の一般の投資にはない性質があるからです。それは、「線形性」というやつです。

 「線形性」というのは、言い換えれば、投資の額とリスクやリターンが正比例するということです。たとえば、ある株を 100 円分を買ったときに 10 円の配当もしくは値上がり益があるとすると、その株を 200 円分買えば、配当や値上がり益も 20 円になりますよね。したがって、株に対する投資額と配当や値上がり益は正比例の関係にあります。説明が数学的になるので省略しますが、実は、投資額とリスクの関係も正比例の関係にあります。

 これは当たり前のことに思えるかもしれませんが、実は投資一般について当てはまるわけではありません。この方にならって戦争にたとえると、100 人の兵を投入すれば突破できる戦線があったとして、50 人投入すれば、半分だけ突破できるというわけではないし、200 人投入すれば倍突破できるというわけでもないですよね。50 人だったらまったく突破できないかもしれないし、いったん突破できればそれ以上人がいたってむだなだけかもしれない。あるいは、一兆円かけないと完成しないダムを、5000 億円かけて半分だけ作ったら、利益も半分だけ得られるかといったら、そんなことはないでしょう? 半分のダムなんて、なんの役にもたちはしないですよね。

 だから、投資一般で考えれば、証券のような投資とリターンやリスクの「線形性」が成り立つほうがむしろ稀なのです。そして、ポートフォリオ理論と言うのは、この証券の「線形性」を前提とした理論なので、そのような線形性のない投資一般には成り立たないのです。

 ですから、分散投資が有効かどうかは、投資とリターンやリスクの間に「線形性」があるかどうか(投資する側かされる側かと言ってもいいかもしれません)の問題であって、この方の言うような投資の規模の問題ではないと思うんですね。だって、先に書いたように、一兆円のダムだって半分だけ作ることには意味はないのですから。もちろん、そのダム工事の会社の株をもっている別の会社から見れば、半分だけ投資することにも十分意味はありますが。

 もちろん、資金量が多ければ、その分、線形性が問題にならないレベルまで投資できる投資プロジェクトを発見できる確率が高い、ということはいえますが、規模が小さくても線形性のあるプロジェクトだってありますし、証券化してしまえば、どんなプロジェクトだって線形化できるのですから、やっぱり、本質的なのは投資額ではなく線形性なのです。

 そのように考えれば、証券というものがいかに人類史上重要な発明であるかということも、あらためて実感できると思うのですがいかがでしょうか。

(あと、関係ないけど、桜井さんじゃ反石原票がとりこみにくい気がするんですけど。そのへんはどうなんでしょ。)

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インターホンには留守電はないのかなあ

 インターホンも、留守番電話と同じように、先に相手の声を確認してから出られるようにできないかなあ。忙しいときに、インターホン出てみたら新聞の勧誘だったりすると、ほとんど殺意を覚える (^^)。

 ところで、「A によって B  が決まる」という日本語は、けっこう誤解のもとかも知れない。純粋にパラメータ A だけで B が決まる場合はもちろん、「A によって B  が決まる」でいいだろうが、A 以外のパラメータが同じという前提のもとで、A だけを変化させると B も変化するという場合にも、日本語ではやっぱり「決まる」と言ったりするよね (^^)。でも、厳密にものを言いたいときには、あまりいい用法ではないのかもしれない。もっとも、そんなところでいちいちつっかかる奴もどうかと思うが (^^)。

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チョコレートもらった!

 早くもチョコレートもらいました! サンクスの店員さんから…(^^)。サービスだって (^^)。

 そんなものもらわなければ、今日がバレンタインデーだってことすら忘れていたのにぃ、と一瞬思ったのですが、ニコニコしている店員さん(男)の顔を見たら、さすがに何も言えずに、こちらもニコニコして受け取りました (^^)。

 これって、女性にも渡してるのかなあ。だとしたら、そのまま義理チョコとして使われてたりしてね (^^)。 

 まあでも、今日はほぼ間違いなくこの一個で終わりでしょう (^^)。いや、後でもう一回サンクスに行くか (^^)。いや、保険屋さんがポストに入れといてくれる可能性も…。書けば書くほどミジメな気持ちになるから もうやめよう (^^)。

追記: 「悪しき習慣「義理チョコ」 「バレンタイン」もうやめろ」 え、そう? なくなっちゃうと、こういう自虐ネタとか書けなくなっちゃうじゃん (^^)。せっかくおいしいのに (^^)。

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歴史を曲げるなよ~(by妻夫木)

 この映画、聞くところによると、バブル万歳イケイケ映画らしいのですが、ぼくらバブル世代としては、正直あんまりそういうイメージを流行らせないで欲しいんだよね~。(^^)

 いや、バブルで本当にいい思いをされた方々は多少偏見で見てくださってもいいんですよ (^^)。でも、ぼくみたいに、ディスコなど一回も行かずにバイトと夜間大学の間を往復して、就職活動もまったくせずに中小企業に就職して、その後紆余曲折の後フリーランサーになって(なんかこう書くとスゴい「苦労人」みたい (^^))、みたいに、ほとんどなんの恩恵も受けてない人だっているんですからね~。

(そういや、最初の会社で先輩に「バブル」ってなんですか? とか聞いたことあったな。そしたら先輩が、「なんかふくらんでそのうちはじけるんだよ」とか言って。ある意味のどかな時代だったなあ (^^))

 ほら、いま団塊の世代がなにかとイジめられてたりするじゃないですか。ぼくらあんな風になりたくないもん (^^)。世代差別反対!

 でも、フッキーのボディコンだけは見てみたい!(^^) なんで画像がないんだ!(^^)

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個人的メモです

 貿易もない、資本や労働力の移動もない、二つの国というのを考える。貨幣価値の影響を無視して比較するために、どちらも米を中心とする物々交換経済だとする。

  •  A 国: 労働力に対して資本が過剰である。たとえば、国土がやたらと広くて、いくらでも好きなだけ田んぼを作れるような国だとする。
  •  B 国: 労働力に対して資本が不足である。たとえば、国土狭くて、田んぼをまったく増やすことができないような国だとする。

 話をわかりやすくするため、A 国には土地が無限にあるとすると、A 国の米生産量は労働力が多ければ多いほど増える。つまり、限界生産性が定数になる。この限界生産性を仮に 10 石とすると、労働者一人平均の生産性も、もちろん 10 石になる。

 B 国は、土地が足りないので、労働力を増やしても、あまり生産量は増えない。つまり、限界生産性で言えば、1 人目 10 石、2 人目 5 石、3 人目 3 石という感じになるとする。労働者が 3 人しかいないとすると、労働者一人平均の生産性は、18/3 = 6 石である。

 A 国では資本は自由財なので、当然資本家の取り分はない。したがって、A 国の賃金は一人当たり約 10 石になるだろう。

 B 国の場合、資本家がいるとすれば、労働者の賃金は限界生産性以下になるので一人当たり 3 石、残り 9 石が資本家の利潤になる。田んぼが労働者の共有だとしても、一人当たりの収入は 6 石が限度である。

 したがって、労働者一人当たりの平均生産性の高い A 国の方が、賃金も高くなる。

 と、こんな感じの話じゃないのかなあ。。。(^^)

 多分、議論の前提条件が全然違ってるんだよね (^^)。

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ぷれじでんとふぁみりぃ?

 うー、さっきコンビニで「プレジデント Family」とかいう雑誌を見てドン引きしてしまった。思わず「ぷれじでんとふぁみりぃ?」って声を出してつぶやいちゃいましたよ (^^)。いや、題名だけで、中身はまったく読んでないんですけどね。「TBS「報道テロ」全記録 」を見つけたときの三倍ぐらい引いた (^^)。やはり、言葉の表現というのは大事かもしれない (^^)。

 なんかでも、コンビニだけで情報収集してると、とんでもなく片寄った思想が形成される可能性もあるような気がしてきた (^^)。

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ポストモダンの亡霊を排す

 若い世代はあまり知らないのかもしれないが、ぼくらポスト・ポストモダン/ニューアカ/フェミニズム世代(「クーリエ・ジャポン」の記事によると、アメリカはもう「ポスト・フェミニズム」らしいぞ(^^))からすると、この手の議論は正直もううんざりという感じなんだよね。

 もちろん、この手の議論というのは、特定の価値を賞賛すると、それ以外の価値を相対的に貶めることになる。だから、多様な価値を尊重するためには、特定の価値を賞賛してはならないってやつね。やれ、「立派なご両親が揃っていてよかったね」というのは母子家庭に対する差別であるとか、「五体満足な赤ちゃんでよかったね」というのは障害児に対する差別であるとか、「ミスコン」はブスに対する差別だとか、もうさんざ聞かされたよ。

 でも、ぼくの中ではこの手の議論はとっくに終わっているし、ポストモダンを通過した多くの人たちの間でも、とっくに終わった議論だったはずだ。

 結論から言ってしまえば、価値相対主義というのは、価値の否定とは違う。そもそも、人間はなんの価値観を持たずに生きていくことなどできやしない。民主主義の価値相対主義というのは、個人が自由に価値形成を行った結果として、ある種進化論的・弁証法的によりすぐれた価値に到達することを狙いとしているのであって、そのために、権力によって特定の価値観を一方的に押し付けるのは(なるべく)やめましょう、ということにすぎない。だから、あらゆる価値を平準化してなくしてしまいましょう、というのとは、ほとんど正反対の思想なのである。

 そして、人間同士が価値形成を行うためには、当然のことながら、何が自分にとって価値があるかを他人に対して表現することが必要なのである。批評だってなんだって、そのために存在しているのだ。(もっとも、実際には、権力闘争や個人のストレス解消のためだとでも思っている人も多いようだが (^^)。)

 「五体満足な赤ちゃんでよかったね」と言ってはいけないと主張する人たちは、じゃあ自分が明日から障害者になってもいいと思っているのか? 世の中の人が全員障害者になった方がいいと思っているのか? そうじゃないだろう? だとすれば、否定するのはそういった価値観そのものではなく、あくまで表現の問題にすぎないはずだ。

 もちろん、障害者の目の前でわざわざそういうことを言う必要はないだろう。でも、いついかなるところでもそういう発言をしてはいけない、などという主張は、市民同士の自由な価値形成そのものを疎外することになってしまう。

 市民同士の関係ではそうだとしても、政治権力者がそれを口にするのは、権力による価値観の押し付けになるのではないか、というのも極論である。そもそも「権力による強制」とは何か、というのがなかなか難しい問題で、フーコーのようにむやみと拡大解釈する人がいることももちろん知っている (^^)。

 しかし現実的には、ある種のインセンティブによって、特定の価値観を促進しようという法律は、健康増進法とか動物愛護法とかいくらでもあるのだ。だから、民主主義運用の現実に即して考えれば、完全な強制は許されなくても、ある程度のインセンティブによる誘導は許される、と考えるしかない。

(「タバコを吸うのはよくない」とか「動物をいじめてはいけない」みたいな価値観を、政治権力によって促進しようとしている人たちが、一方では「子供をたくさん作った方がいい」という価値観の促進に反対している、と決め付けるわけではもちろんないが (^^))

 少子化対策というのが、民主主義的な手続きにのっとった国民的合意である以上、それを推進する人間が、その価値観にコミットするのはむしろ当然のことである。また、特定の価値観に対するある種のインセンティブとして働くような発言を全否定することも極論だと思う。ただ、もちろん表現の巧拙というのはある。

 ちなみに、ぼく自身は、「少子化対策もいいけど」という記事でも書いたように、少子化対策よりもむしろ移民を促進したほうがいいという立場だし、「伝統の在り処」や「文化は制度化では守れない」 でも書いたように、天皇制はなくなってもいいとか言ってるような人間ですから、実際には、現政権の考え方とかかなり距離があると思うんですよ (^^)。

 でも、ぼくは筋金入りの価値相対論者なので (^^)、そういう個人の価値観によって、主張の是非を判定されるのは嫌なのね。だから、そういうエクスキューズをあえて最後に持ってきた次第。

 もしこの問題が純粋に表現だけの問題であるならば、表現の問題に相応しい取り上げ方の軽重というものがあるはずだし、逆に、表現に現れた価値観や思想の方が問題であるというのなら、徹底的に価値観の戦いを繰り広げればよいのである。けれども、(たぶんそのような論戦になれば泥沼になり足並みが乱れることをおそれているのだろうけど)実際には、あえて思想論には踏み込まず、あくまで表現の問題であるが、表現の問題はすご~~~~~~く重要なんだよ、という論法によって、無理矢理当事者を引きずり下ろそうとしているように見える。この問題について、最も「不健全」に感じるのはその点である。

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「人に好かれる人」はなぜえらいか

 このブログでも何度か書いていますが、ぼくは非常に鈍いところのある人間で、世の中の大多数の人が若いうちに気づくようなことに、歳をとってからやっと気づくようなことが多々あります。これもそのうちの一つに数えられるかもしれません。

 世間一般の常識では、「人に好かれる」というのは、偉いと言う表現が適切かどうかはさておき、ポジティブな価値を持つことになっていますよね。ぼくはそれを、<「人に好かれる人」→好かれるような美点をたくさん持っている→ゆえに偉い>というふうに解釈していたんだけど、どうやらそれは間違いらしいということに、今日やっと気づいたのです。やっぱり遅いですか (^^)?

 つまり、他人に好かれるかどうかというのは、個人の決まった属性というよりも、むしろ、意志の問題だということです。ぼくは、誰だって基本的には他人に好かれたいと思っているに決まっているじゃないか、と長いこと思い込んでいた。でも、どうやらこれが大きな勘違いだったらしいのです。

 多分、若い人の中には、まだそう思っている人も多いと思います。でも、人間 40 才にもなると、他人に好かれるかどうかなんて、わりとどーでもよくなってくるんです。

 ほら、一時「オバタリアン」とかいって、中高年女性のずうずうしさを揶揄するのが流行りましたけど、ああいうのも、他人に好かれたいという意欲の減退の表れかもしれない。あるいは、結婚して何年もすると、女性のお化粧がいい加減になったりウェストがゆるんできたりするのもそうかもしれない。ぼくはまだですけど、多分、更年期をすぎたりすれば、この傾向はもっと加速するでしょう。

(ちなみに、このへんの性と人間性の関係というのは、もっと追及されるべきだと思うよ。(^^))

 つまり、「人に好かれる人」がなぜ偉いかというと、人に好かれる美点を持っているということ以前に、人に好かれようとする意志を持ち続けているということが偉いのです。そして多分、強い意志さえあれば、ある程度結果はついてくるのです。だから、明石家さんまさんのように、50 才にもなって他人に受けたくて仕方がないと思っているような人は、それだけで十分偉大なのです。このことに、若いうちは気づかなかった。

 ついでに言うと、よくテレビなんかで、「お年寄りなのに生きがいを持って元気で生き生きと生きている人」みたいな人をフューチャーするでしょ? ああいう人も、多分、半分ぐらいはサービス精神でやってるんだと思う。

 つまり、若い人からみたら、お年寄りがあまりみじめったらしい暮らしをしていたら、自分も将来そうなるのかなあと思って、ウンザリしちゃうじゃないですか。若者にはお年寄りのことはわからないけど、お年寄りはみんな昔は若者だったわけですから、そういう若者の気持ちはわかってるはずなんですよ。だから、若者をがっかりさせないために、生き生きと生きているフリをしているんだと思うんです。もちろん、ある程度は本当に元気でないと、元気なフリもできないから、そういう意味では本当に元気でもあるんでしょうけど。

 ぼくも、この年になるとだんだん人付き合いが面倒になるんですよ、ということを、周囲の人にそれとなくうまく伝えたいんだけど、これがけっこう難しいんですよね。「友だちなんていらねーよ」みたいな言い方では、傲慢に響くし、虚勢を張っているともとられかねない。かといって、逆に謙遜して、「友だちが少なくて…」みたいなことを言うと、やさしい子たちが本気で心配してくれちゃったりする (^^)。そういうわけで、いかに傲慢にもならず、心配もされず、適度にほっとかれる方法はないか、といろいろ試しては失敗している今日この頃なのです (^^)。

(「負け犬の遠吠え」という本、まだ読んでないんだけど、あれもたぶんそういうコンセプトなんじゃないのかなあ、と勝手に想像してます (^^)。)

 そういうわけなので、ぼくがなんか変なことを書いていても、あまり本気にしないで、またあいつバカなことをやってるな~、と読み流していただければ幸いです (^^)。

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ロボットは子供を産まない機械

 「PLUTO 4」を読みながら、もしこのマンガの世界に、「女性は子供を産む機械」という発言をする政治家が現れたらどうなるかを考えてみた。

 この世界では、ロボットの人権が確立されているから、人間を機械に例えることが即ネガティブな価値をもつ主張したら、逆にロボットに対する差別になるだろう。「なぜ機械に例えられるのがそんなにイヤなんです? それは、あなたの中にあるロボットに対する差別心の現われじゃないですか?」などと、「ロボット権」運動家に抗議されるかもしれない。だから、せいぜい事実と違う、というような主張しかできないはずだが、もともと例え話なのだから、事実とは違うに決まっている。

 ひょっとしたら、逆に、人間の女性だけが子供を産めると暗に主張しているととられて、ロボットの女性から「ロボットが子供を産めない機械だからと言って差別するんですか?」と言って抗議されることも考えられる。現に作中では、ロボットであるはずのゲジヒトやイプシロンは、自分の身体を創った人間の科学者に対して、深い愛情を持つ存在として描かれている。

 まあ、そんなことはどうでもいいのだが、この 4 巻では御茶ノ水博士の性格が掘り下げられていて、ほとんど虫愛ずる姫君みたいに、人間とロボットとを同等に扱う博愛主義者として描かれているのが面白かった。また、科学省長官であるはずの御茶ノ水博士でも、部品を入手できないので旧式のロボットは修理できない、という描写はなかなかリアルである。これが昔の SF だったら、こんな旧式のロボットを修理するのはお茶の子さいさい、みたいな話になっただろう。(ところで、御茶ノ水博士が修理する犬型ロボットはアイボそっくりだがアイボなんだろうか)

 ちょっとネタバレになりますが、この巻ではアトムがあっさり「死」んでしまいます。でも、手塚さんの原作では、ゲジヒトやヘラクレスの方が先にやられるんですよね。それで、アトムは天馬博士に 100 万馬力に改造されるんだけど、エネルギー過剰で暴走して海底に沈んじゃう。それを、プルートゥとイプシロンが協力して助ける、という展開になるのですが、この原作をどこまで尊重し、どこからはずしていくのか。浦沢さんの腕の見せ所ですね。

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谷川俊太郎の残り 23 の質問

 先日の谷川俊太郎バトンは、友人から回ってきたのをそのままやったものですが、検索してみたら、元ネタは「谷川俊太郎の33の質問」という本で、他にも質問があることがわかりました。ということで、せっかくだから残りの 23 問もやってみます。

  • 女の顔と乳房のどちらにより強くエロチシズムを感じますか?

    難しいなあ。反応速度が速いのは乳房なんですけど、最終的には顔です、とか言ったら生生しすぎるかなあ (^^)。
  • いま一番自分に問うてみたい問いは、どんな問ですか?

    うーん、ぼくはわりと常に自分に何かを問いかけている感じの人間なんで、あらためて一番というのはないなあ。そんなのがあれば、とっくに答えを考えています (^^)。
  • 酔いざめの水以上に美味な酒を飲んだことがありますか?

    ぼくの場合、酔いざめはポカリスエットですね。ポカリスエットがないと酒が飲めない (^^)。でも、そういう生理的欲求で飲む水というのは、たとえカルキ臭い水道水であっても十分美味しく感じるので、味自体が美味なわけじゃないですよね。美味しいと言えるのは、やはり清流や井戸の水。九州に住む先輩に、日本なんとか名水みたいなのを飲ませてもらったことがあるけど、そういうのはやっぱり美味しい。つまんない答えですんません (^^)。
  • 白という言葉からの連想をいくつか話して下さいませんか?

    下着。だけで終わった方がギャグとしてはきれいかなあ (^^)。でも、人格疑われそうだから、もうちょっと続けます (^^)。White Lie とか。気取りすぎ (^^)? 三原色の合成。ホワイトノイズ。わ、理科系っぽい (^^)。
  • 好きな匂いを一つ二つあげて下さい。

    よく干した布団の匂い。子供の頃よくかいでました。あとは、自家製のパンやケーキの匂いとか。
  • 1日が25時間だったら、余った一時間を何に使いますか?

    全員が平等に 25 時間だったら、別に余らないでしょう。あ、それを言っちゃおしまいか (^^)。
  • 現在の仕事以外に、以下の仕事のうちどれがもっとも自分に向いていると思いますか?指揮者、バーテンダー、表具師、テニスコーチ、殺し屋、乞食。

    指揮者はムリでしょうね。そもそも、他人が自分の言うとおりに動くと言うのが、気持ち悪くてしょうがないので (^^)。バーテンダーは、会話能力が問題。万人受けするような受け答えができないので (^^)、小さい店だったらなんとか、という感じ。テニスは学生のころ本当にやってたんだけど、はっきり言って才能がない (^^)。殺し屋は、そもそも人を殺すのが嫌いだからね (^^)。いや、ホントだって。乞食はね、できればやってみたいけど、ぼくは他人に媚びるのが人一倍下手だから、多分ムリ。ということで、消去法で表具師。
  • どんな状況の下で、もっとも強い恐怖を味わうと思いますか?

    高所恐怖症なんで、命綱とかなしで高いところに登らされたときでしょうね。追い詰められると逆に開き直るクセがあるので、具体的なピンチとかには意外と強いです。
  • 何故結婚したのですか?

    してません (^^)。結婚する理由は、きっと結婚したときにわかることでしょう。。。(^^)
  • あなたにとって理想的な朝の様子を描写してみて下さい。

    なんとなく周囲が明るくなったのは気づいているが、まだ眠いので起きない。そうやってウトウトしたまま、満足がいくまで寝続けて、やっとベットから外に出たら、まだ朝の 6 時だった。
  • 一脚の椅子があります。どんな椅子を想像しますか?形、材質、色、置かれた場所など。

    小学校の生徒用の椅子。溶接したパイプに板をくっつけただけみたいなヤツ。よく見ると、「バーカ」とか「ウンコ」とか落書だらけ。
  • 目的地を決めずに旅に出るとしたら、東西南北、どちらの方角に向かいそうですか?

    南。
  • 子供の頃から今までずっと身近に持っているものがあったらあげて下さい。

    AIWA のラジカセは、中学生ぐらいの時に買って、今だに使ってます。音質がいいし、壊れないんだよね。昔の AIWA はつくづくいい会社でした。
  • もし人を殺すとしたら、どんな手段を択びますか?

    たぶん、いったん殺すと決めたら、かなり目的合理的に行動する人間なんで、殺す目的によって違うでしょう。
  • ヌーディストについてどう思いますか?

    思想的にやっているなら、頭でっかち。本気でやってるなら、趣味が悪い。
  • 理想の献立の一例をあげて下さい。

    オリジン弁当の「カキフライ弁当」に、オリジンのお惣菜を数品を山盛りにつけて、あとオリジンのおでんもつける。お前はオリジンの回し者か!(^^)
  • 大地震です。先ず何を持ち出しますか?

    とりあえず、自分の身体。身体さえあれば、あとはなんとでもなる、という発想をするでしょう。
  • 人間は宇宙空間へ出てゆくべきだと考えますか?

    とりあえず、出て行ける技術だけは開発しておくべきでしょう。そして、技術さえあれば、人類はきっと、それに最もふさわしい用途を見つけることでしょう。
  • あなたの人生における最初の記憶について述べて下さい。
     
    ごめんなさい。断片的な記憶はありますが、どれが最初だかよくわかりません。よく同級生とかに、君は昔の事をまったく覚えていないと言われます (^^)。
  • 何のために、あるいは誰のためになら死ねますか?

    お国のため、は無理だろうなあ (^^)。いや、これも状況次第だと思うんですよ。年老いて身体もボロボロになって、たいしてやることもないみたいな境遇になったときに、ぼく一人死ねば世界が平和になるとか人類が幸せになるとか言われたら、きっと死ぬんじゃないかなあ。このブログでも何回か書いたように、人間は完全な個人主義者になんかなれっこないんで、誰でもきっとそういうところは持っていると思う。
  • 最も深い感謝の念を、どういう形で表現しますか?

    それほど深い感謝の念だったら、形だけでは表現できないですよね。心に刻み付けた感謝の念が、折にふれて自然と現れる、というような形でしか表現できないでしょう。
  • 好きな笑い話をひとつ、披露して下さいませんか?

    笑い話というのは、披露しろと言われて披露するものではありません (^^)。
  • 何故これらの質問に答えたのですか?

一回目の答えがワリと友だちに受けたから (^^)。

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うぇぶせれぶ 25

 あの Forbes 誌が、「Web Celeb 25」、つまり、ウェブ上で影響力のある有名人ベスト 25 人を発表。日本じゃよくネット・アイドルとか言うけど、ウェブ・セレブというのは初めて聞く言葉ですね。でも、正直知らない人ばっかりです (^^)。トップの女の子は the girl next door という感じでちょっと可愛いですね(あ、この子が YouTube で有名な lonlygirl15 か。噂には聞いてたけど初めて見た (^^))。これから、どんな方々なのか研究してみようと思います (^^)。

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がんばれ、くりいむしちゅー!

 今日ちょっと気になったのはこの記事。

 「やりたい放題の細木数子に“包囲網”が敷かれ始めた!!

と言っても、よく読むと、細木サンといっしょに番組をやっているくりいむしちゅーが番組を降りたがっている、というだけの話なのだけれど、結構うれしかった (^^)。というのも、くりいむしちゅーは前からワリと好きな芸人で、あの細木サンと番組をやっているのだけが玉に瑕だな~、とずっと思っていたので (^^)。くりいむしちゅー、ここでつっぱり通せれば芸人としての格もワンランクアップだぞ (^^)。がんばれ!

 まあでも、細木サンは数字取れるんだからしょうがないんだろうなあ、と思いつつこのニュースに対する mixi のコメントを見たら、ほとんど 100 対 1 ぐらい(筆者のぱっと見推定)の比率でアンチ細木派が圧倒的だったので驚いた。やっぱり、あの人の番組が好きな層というのは、自分も若者に説教したくてしょうがない中高年層なんだろうね~。

 いや、別にぼくは若者に媚びるわけじゃないし、そういう説教オバサンみたいなのがいてテレビに出ててもいいと思いますよ。ただ、ぼくはあの人が出てる番組の演出が嫌いなの。あの、いかにもナマイキそうな女子高生とかが、細木にやり込められて一言も言い返せないでシュンとしてるみたいな演出が。そんなことありえね~だろ~!(^^) あれは、そういうふうにした方が、あの番組を見てる視聴者層に受けるという判断なんだろうけど、見てるとほんとジンマシンが出そうになる。

 そういうわけで、実際ほとんど見てないんで、たまたま見てしまった(^^)範囲でしか知らないんだけど、一番あきれたのは、ミスター・マリックと競演してたとき。ほら、ミスター・マリックがいろんな番組のロケ現場に突然現れて、手品のタネを見破ったら賞金いくら、とかいうシリーズあるじゃないですか。あれで細木サンの番組に乗り込んだときが、もうムチャクチャだった。

 まあ、細木サンがタネを見破るだけなら、まだあってもおかしくないと思うんですよ。でも、細木サンはなんとその後、「今度は私からマリックさんに挑戦します」とか言って、いろいろ道具ひっぱり出してきてマジックやっちゃうんですよ (^^)。そんなの、事前に準備してなきゃできっこないじゃん (^^)。それで、最後にマリックの手品のタネを見破って、さすが細木サン、すごいすごいだって。なんじゃそりゃ (^^)。

視聴者をナメるのもいい加減にしろ 

 あれを見たら、細木の番組を作っているスタッフが、いかに視聴者の知能レベルをバカにしきっているかがよ~くわかった。正直ムシズが走る。

 だから、ぼくは細木サン個人が嫌いというより、あの人の番組を見ていると、ああいう人物をスターにしたてあげてしまうテレビ界のイヤらしい構造がありありと透けて見えてしまうので、それでうんざりしてしまう、という感じなんだよね。

 いい忘れたけど、「ガキの使い」の「ピカデリー梅田」は、あきらかに細木番組を意識してるよね (^^)。ダウンタウンにしては、正直すぎるぐらいのパロディだけど、大好きです (^^)。

追記: なお、「人生経験の豊富な人」の説教が好きな方には、雀聖・阿佐田哲也(色川武大)氏が、一度地獄に落ちた人の視点から、きれいごとではない「愛」を説いた、「うらおもて人生録」という本をお勧めしておく。

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マックスウェルの悪魔が実現?

 あの「マックスウェルの悪魔」が人工的に作られた、とロイターが報じていたんですね。驚き。

 作ったのは、エジンバラ大学のデビッド・リー教授。太陽エネルギーで動く「ナノマシーン」によって、特定方向に運動する分子だけを捕まえることに成功したんだとか。

 これって、太陽エネルギーを使うから、エントロピー増大の法則には反しないことになるのかなあ。そのへんがよくわからない。誰か解説してください (^^)。

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もっといい Drupal 本はないのかよお

Drupal: Creating Blogs, Forums, Portals, And Community Websites  前に書いたように、新しく契約したホスティング・サービスはかなりハイスペックで、やたらといろんな CMS(Content Management System の略)をインストールできるようになっていました。ちなみに、名前を挙げると、

DragonflyCivicSpaceDrupal E107GeeklogJetboxJoomlaMamboPHPNukePostNukeTypo3XoopsphpWebSite

という感じ。このへんはいわゆる純粋な CMS ですが、他にもブログ系が WordPress を含む 8 種類、グループウェア系が eGroupWare を含む 4 種類、Wiki 系が MediaWiki を含む 3 種類という感じで、とにかくてんこ盛りに入っています。

 もっとも、こういうシステムはみんなオープンソースで、かつ、Linux、Apache、MySQL、PHP の組み合わせで動く、いわゆる LAMP というやつなので、実際には、LinuxApacheMySQLPHP が使える環境さえあれば、誰でも無料で利用できるんですけどね (^^)。

 でも、実際に自分でインストールするのは結構面倒くさいし、いろいろトラブったりすることも多いので、自動でセッティングできるのはやはり便利には違いありません。

(話はそれますが、中小企業や SOHO レベルのウェブサイト構築だったら、たぶん、このへんのシステムを組み合わせれば楽勝でいけますよね。だから、MS 系のサーバーとか導入するのは損だと思うぞ~、なんつったりして (^^))

 というわけで、いろんな CMS を片っ端から試した結果、とりあえず Drupal が一番面白そうに見えたので(Joomla というのもなかなかよさそうだけど、残念ながらインストールに失敗しました。こういうことがあるから、このホスティング・サービスもいまいちお勧めしきれないんですよね。会社の名前を出していないのはそのためです。)、Drupal を使ってサイトを再構築してみることにしたんですが、付属のヘルプやオンラインのハンドプックを読んでもいまいち仕組みよくわかりません。そこで、Packt 社のウェブサイトから電子書籍で入手できる Drupal: Creating Blogs, Forums, Portals, And Community Websites という本を購入してみたんですね。

 でも、読んでみてがっかり。だって、Drupal の肝と言うべき taxonomy の説明がたった 1 章だけで、しかも、vocabulary や term を追加する方法は書いてあるけど、特定の term の story だけを表示するノードが「?q=taxonomy/term/1/」とかになることすら書いてないんですよ。それじゃ意味ないでしょ (^^)。初心者向けにしても、玄関から入口の土間に入ったぐらいで終わってる感じ。なんでこんな本が Amazon.com で星4つになってるのか、さっぱり理解できません。

 しかも、そんなこと言ってるうちに Drupal 5.0 が出ちゃったから、すでに内容古くなってるし。金返せ~(^^)。

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「人を見る目」を自慢する人間は好きになれない

 ぼくは、人を見る目を誇る人間よりも、人を信じることによるリスクを、自分の責任でヘッジできる人間になりたいですね。

 なんか、世の中のいろいろな騒動を見ていたら、ちょっと疲れてしまいました。少し休んで撒き直したいと思います。

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