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ダウンタウンの「擬似ヤラセ」に見る「演技する精神」

 山崎正和氏の「演技する精神」を久しぶりに読み返していたら、この本の理論を援用して、ダウンタウンの「擬似ヤラセ」の面白さがうまく説明できることに気づいた。(われながらいったいどういう連想回路をしているのかと思うが…(^^))

 「擬似ヤラセ」というのは、ダウンタウンがよくやるある種の企画に対して、ぼくが勝手につけた名前で、「ガキの使いやあらへんで」という番組の「板尾が来た」というシリーズがその代表例である。この企画について、番組を観た事のない人のために簡単に説明すると、こんな感じである。

ダウンタウンとスタッフが楽屋で打ち合わせをしていると(外でロケをしていると、etc.)、板尾創路が予告もなくやってきて、新しい企画を考えたから(偶然カメラに映ったから、etc.)金をくれと言い出す。 あまりに理不尽な言い分なのでダウンタウンとスタッフは抵抗するが、板尾のごり押しに負けて、しぶしぶ金を払ってしまう。

 こういうのを完全にドキュメンタリー調でやるのだが、板尾が貧乏で金に汚い人間だという設定はもちろんウソである。この映像がもし、本当に板尾が貧乏で金に汚い人間だということを信じさせようとして作っているのならヤラセそのものだが、この企画の場合、話が大袈裟すぎたり不自然すぎたりして、視聴者は観ているうちにこれはウソだと気づくような仕掛けになっている。

 つまり、普通のヤラセが、ウソを信じさせるとい目的のために作られた映像だとすれば、この「擬似ヤラセ」は、ウソを信じさせるとい目的をカッコに入れて、映像の作り方だけを忠実にマネた模倣なのである。

 さて、山崎理論によれば、模倣というのは、行動の目的をカッコに入れることによって、見るものの注意を行動の目的から過程に移す効果があるという。

 この擬似ヤラセを見た視聴者も、それがウソだと気づいた時点で、この映像が語ろうとする「目的」から映像そのものへと、強制的に注意を向けさせられることになる。そして、怖ろしいことに気づかされることになるのだ。

 この企画の映像はいかにもウソっぽい映像だが、よく考えてみると、板尾がスタジオやロケ地に来てそういう行動をとったということ自体はウソでもなんでもない。「本当」の映像との違いは、板尾が現実的な要請に基づいて自発的に行動をしているか、事前に打ち合わせをした上でその通りに行動しているかだけにすぎない。しかも、番組の中では、打ち合わせのシーンを流すわけでもなけでば、「板尾は金に困っています」というテロップやナレーションが入るわけでもなく(最近はテロップを入れることもあるようだ。無粋なことである)、板尾の行動を淡々と流しているだけである。ということは、実は、

 あの映像自体はウソでもなんでもなく、まごうことなき真実なのである!

 お気づきの通り、この構造は、印象操作を行うために編集されたニュース映像などとまったく同じである。つまり、この擬似ヤラセは、テレビ映像というものの本質的な欺瞞性を、凡百のメディア論なんかよりはるかに鮮やかに暴いてしまっているのである。これが、この企画のアイデアが第一にすごい点である。

 さらに、このアイデアにはもう一つの効果がある。この企画を、擬似ヤラセではなく、純粋なフィクションとしてやったときのことを想像してほしい。板尾が貧乏なタレントの役、ダウンタウンが冠番組を持っている売れっ子タレントの役をやっているコントだと考えてみるのだ。

 我々がフィクションを観るときには、たとえコントであっても、登場人物に感情移入して観ようとするものだ。したがって、板尾が貧乏だという設定はフィクションだとわかっていても、「もし板尾が本当に貧乏だとしたら」という仮定のもとで観ることになるだろう。そうすると、貧乏人が必死でやっていることを笑いものにしていいのかとか、ダウンタウンは売れてるからって傲慢じゃないのかとかいう、余計な想念が湧き上がってきて、素直に笑えないに違いない。

 しかし、この擬似ヤラセの場合、視聴者はそれがウソだと気づいた時点で(松ちゃんが「ガキの使い」のトークで激怒していたように、本気にしてしまう視聴者もいるようだが)、「板尾が貧乏かどうか」という問い自体が無意味になり、板尾が貧乏だとは仮定としてですらも思えなくなるのだ。その結果、登場人物の行動だけに注意が集中するようになり、追いつめられた人間の行動のおかしさ、みたいなものを純粋に笑えるようになるのである。前に書いた、「ウソなんだけど、本当よりも真実を語ってしまう」というのはそういうことである。

 余談になるが、ぼくがダウンタウンのこの手の擬似ヤラセ企画を観たのは、かれこれ十年も前にやっていた「ごっつええ感じ」という番組が最初である。ちょうどまだ「電波少年」などもやっていた頃で、猿岩石のヤラセ疑惑などが話題になっていた時期でもあった。したがって、その企画を見たとき、なんとすごい発想かと思い、松本人志という人はまごうことなき天才であると確信したのであるが、そのころはまだ、何がすごいかを理屈で説明することはできなかった。それを十年以上たってやっと理論化できたので、余は満足である (^^)。

 もっとも、松本人志という人の頭の中には、このような高度なお笑い方程式がまだまだたくさん隠されていると思う。ぼくか松ちゃんのどちらかが死ぬまでの間に、なんとかその全貌を明らかにしたいというのがぼくの密かな野望である (^^)。(なお、文中の敬称を一部略させていただきました。)

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