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平和主義≠個人主義

 以前、がんばれ、理想主義的平和主義者! というエントリで、ハト派とタカ派に代わるものとして次のような分類を提案したことがあった。
  1. 理想主義的国家主義
  2. 現実的国家主義
  3. 現実的平和主義
  4. 理想主義的平和主義

 このエントリを書いた時点では、こういう枠組みを考えた理由については、まだうまく説明できる自信がなくてお茶を濁しておいたのだが、あれからかなり頭の中が整理されてきたので、今日はがんばってその続編を書いてみよう。 (長いぞ!)

平和主義だって個人を犠牲にすることはある

 そもそも、ぼくがこういうことを考えるきっかけになったのは、日本のハト派の方々に対してずっと感じていた、ある種の違和感だった。その違和感というのは、ハト派の方々は、平和を愛好しているはずなのに、なぜあんなに抑圧的に感じられるのだろうということである。その抑圧感を自己分析しているうちに、その感覚が、彼らが、国家主義=全体主義・平和主義=個人主義という図式を単純に信じていることからくることに気付いた。

 改めて考えてみればわかるが、平和主義と個人主義が両立するということは、決して自明でもなければ、論理的必然でもない。 それはおそらく、全体主義から戦争という、日本がたどって来た歴史的経緯からそう思われてきたにすぎないのである。

 もちろん、世界政府のようなものができて、究極の世界平和が達成されれば、世界の平和と、個人の人権・生命・財産を守ることが両立することは間違いないだろう。しかし、それはあくまで平和主義の理想が完全に実現した状態での話であって、そのような理想状態が実現していない段階では、平和という理想が個人の生命や財産を犠牲にするということだってありうるのである。

 たとえば、先日のレバノン紛争では、レバノン政府はイスラエルの侵攻に対してほとんど抵抗をしなかった。その結果、最終的には国際社会の救援とやらが入ったものの、その間にレバノン人やその財産は大きな被害を被った。レバノンの無抵抗が平和主義の産物かどうかは知らないが、平和主義から完全無抵抗の立場をとった場合でも、そのような犠牲が生まれる可能性があることは容易に推測できる。

 その場合、この犠牲者は、明らかに「平和主義」という「理念」の犠牲になったのであって、これは、個人を超える理念や超主体のために個人を犠牲にしているという点においては、国家主義とまったく同形なのである。例えて言えば、「大和魂」が「平和魂」になったようなものだ。

 でも、戦争をするよりは少ない犠牲で済むだろう、と思う人もいるかもしれない。しかし、そもそも、犠牲を量で判断すること自体が集団主義の論理であることを忘れないで欲しい。犠牲者自身やその家族や友人の立場に立ってみれば、どっか遠くの方で何倍もの犠牲が出たとしても、自分の愛しいその人が助かってくれるほうが、ずっと幸せかもしれないのだ。それを特定の個人より集団内の犠牲が少ない方が価値があると考えること自体が、まさに個人より集団を重視する集団主義の論理に他ならない。

 そう考えると、「国家主義 vs 平和主義」という軸と、「個人主義 vs (個人を超える)理念主義」という軸は、実は互いに独立なものとして考えなくてはならないということがわかるのである。

用語を再定義する

 ここで、もう少し厳密に用語を定義し直しておこう。 ここでいう国家主義と平和主義の違いは、国もしくは国民だけが幸せであれば、他の国はどうなってもよいと考えるか、それとも、全世界もしくは全人類が幸福になれなくてはダメだと考えるかの違いである。

 たとえば先の例で、抵抗しなかったら国民 10 人が犠牲になるが他の国の犠牲者は 0 人、抵抗すれば国民の犠牲は 0 人だが相手国に 100 人の犠牲者が出るとする。ここで前者より後者をとるのが国家主義、後者より前者をとるのが平和主義である。

 個人主義と理念主義の違いは、具体的な個人の人権・生命・財産を守ることにこだわるか、それとも、国家や世界平和といった抽象的な理念を守ることにこだわるかの違いである。

 極端に言えば、国家さえ守れれば国民にどれだけ犠牲が出てもよいと考えるのが理想的国家主義、非武装や非暴力が守れれば市民にどれだけ犠牲が出てもかわまないと考えるのが理想的平和主義である。もちろん、理想が現実化した状態、すなわち、国家を守った結果国民の人権・生命・財産が完全に守られた場合、もしくは、平和主義を守った結果市民の人権・生命・財産が完全に守られた場合には、この両者は一致する。

 日本ではよく、国家主義が現実主義で平和主義が理想主義であるかのように言われるが、実際には、どちらにも理想主義と現実主義がある。日本のハト派の問題点は、むしろ、国家主義については現実主義と理想主義が乖離する可能性を強く認識しているのに、平和主義についてはその可能性をまったく認識していない、もしくは、その現実から目を背けていることなのである。

ハト派は、自らの内なるヒロイズムを自覚せよ

 この無自覚性の原因は、おそらく、冷戦下アメリカの庇護下にあった日本が、平和主義と個人の生命・財産のどちらを選択するかを、シビアに問われるような局面に遭遇しなくてすんでいたからであろう。そして、この無自覚性こそが、ハト派が抑圧的に感じられたり、タカ派への反動が起こったりする原因の一端なのである。

 現在の右傾化の原因としては、よく言われるような、観念的な人たちの個人主義から理念主義へのバックラッシュというのももちろんあるだろうが、もっと普通の庶民たちの、ハト派について行って本当に自分たちの生命・財産が守れるのだろうか、という素朴な疑念があるんだと思う。

 たとえば、ハト派の方々は、北朝鮮問題について発言する際にも、北朝鮮なんて危なくないということをいいたがる。しかし、彼らは、平和主義と個人主義が両立することをアプリオリに信じているので、特に政治的でない一般庶民からすると、その主張も、本当に冷静に国際情勢を分析した結果というよりも、単に自分の平和主義的な主張を正当化するために言っているように見えてしまうのである。

 また、そういう主張をきいた一般庶民が、それで自分の生命・財産が守れるかと疑念を呈したとしても、ハト派は、直接それに答えずに、それはタカ派のプロパガンダだとか、戦争と平和とどっちがいいか、みたいな方向に無理矢理話を持っていってしまうことが多い。これも一般庶民からすれば、自分の生命・財産などという利己的なことよりも、平和という崇高な理念の方がはるかに大事であると言われているように感じてしまう。だから日本のハト派は抑圧的なのである。

 ハト派の方々は、ガンジーでもナウシカでもいいが、平和のために自らを犠牲にした人物に感動したことはないだろうか。もしあるとすれば、それは、ハト派の人の中にも、個人よりも崇高な理念を尊ぶ心情があることの証である。ハト派の方々は、少なくとも、そのことをもっと自覚すべきであろう。

(もちろん、ぼく自身も、「あの子は谷を守ったのじゃ」というババさまの台詞を聞きながらポロポロ涙を流した口なので、安心して欲しい。(^^))

現実政治は、あくまで個人主義に立脚すべきである

  次に問題になるのは、この2つの軸のどちらを重視すべきかということだが、私は、現実政治はあくまで個人主義に立脚すべきだと思っている。

 このブログでも何度か書いたように、私は、個人の人権・生命・財産を超える価値というものを全否定しているわけではない。それどころか、人間が自分個人のためだけに生きることなど、実際には不可能ではないかとすら思っている。しかし、そのような価値は、あくまで個人の主体的な意志で選択されるべきもので、社会や政治権力が、個人に対して、超越的な理念や超主体のために、人権・生命・財産を犠牲にすることを要求することは、決してあってはならないと考える。

 もともと、国家主義も平和主義も、個人の生命・財産を守るための手段だったはずだ。けれども、なんでもそうだが、手段自体が理想化され目的化されると、その手段に本来期待されていた効果が忘れられることになりがちである。その結果、国民を守るための国家主義によって国民が犠牲になったり、世界市民を守るための平和主義によって市民が犠牲になったりするのである。それがまた、他のあらゆる選択肢を検討した上での最善の方法であったならまだしかたがないが、理想主義に目がくらんでいる方々は、そういう検討すらろくにしていないことが多い。

 かつて、非武装中立論とか降伏論とかが流行ったことがある。まあ、今の日本を占領統治するみたいな面倒くさいことを誰がやるのかという気もするが、ぼくはこういう主張をかならずしもまったく荒唐無稽なものだとは思わない。ただ、仮に占領されて皆殺しになるようなことはないとしても、二級市民扱いされることぐらいはあるだろうということは考えて欲しい。

 このような場合にも、そのような屈辱に耐えることが個人にとっても最善の選択であるという主張を説得力を持ってできればよいが、単に平和主義という崇高な理想のためだとしか言えなければ、結局は、パレスチナのインティファーダや、かわぐちかいじが「太陽の黙示録」で書いたような武力闘争に回帰するだけだろう。そのような庶民の生への本能を理想だけで抑えこむことはおそらくできない。

 そのような立場に立って、現在の世界情勢を考えれば、日本の国政にたずさわる者が、国民個人の人権・生命・財産を守るためには、完全な国家主義に立つわけにもいかないし、完全な平和主義に立つわけにもいかないだろう。ときには国家主義的に国家主権を主張し、ときには平和主義的な国際協調を提案するというような、ご都合主義的な政策をとるしかないはずである。

 それは、「国家主義 vs 平和主義」という軸から見ればご都合主義かもしれないが、「個人主義 vs 理念主義」という軸から見れば、国民の人権・生命・財産を守ることを第一義とするという意味において、首尾一貫しているのである。

今のハト派に必要なのは、「手段としての平和主義」

 このように書くと、そんなやり方では人類はいつまでたっても戦争から解放されないとか、お前は所詮戦争を無くすことはできないと考えているニヒリストなのかとか思われるかもしれない。だから念のために書いておくが、ぼく自身はかなり楽天的な人間で、いつかきっと世界政府ができるとかして、人類は戦争から解放されるだろうと、わりと本気で信じている。ただ、現時点の日本においては、平和原理主義的政策をとるのはまだ早いと思っているだけである。

 たとえば、かの織田信長が東京ガスの CM のように現代にタイムトリップしてきて、未来の日本では民主主義という素晴らしい社会システムが機能していることを知ったとしよう。ここで戦国時代に帰った織田信長は、民主主義運動を始めるべきかと言えば、そんなことはないだろう。戦国時代の日本で民主主義が機能する確率はきわめて低く、為政者がそのような政策をとることは民衆を苦しませるだけであろう。しかし、そのことは民主主義という思想自体が間違っていることを意味しない。

 平和だってそうであって、平和は人々が願いさえすれば実現するというようなものでは残念ながらない。もちろん、だからと言って、なんの努力もしないでほっといても実現するものでもないので、平和を願わないよりは願った方がいいに決まっているが。

 何が理想主義的で何が現実的かは、時代や状況によって変化するので、未来において平和主義を実現するためには、理想を現実化するための方法を模索することは常に必要である。その意味で、平和を理想主義的に追求する人たちももちろん必要であり、ぼくはそういう方々への敬意も惜しまないつもりだ。ただ、現実の国政を動かす人たちが、個人の人権・生命・財産を省みず、平和主義の理想だけで突っ走るような人ではまずいだろうというだけである。

 近年の右傾化の流れの中で、それに反発するハト派の方々は、ますます先鋭化し理想主義的に純化して、狭いカルトに閉じこもりがちであるように見えるが、これでは、ハト派はますます一般庶民の支持を失って敵を増やすだけだろう。ましてや、ハト派同士の些細な主張の違いでウチゲバをやったりするのは最悪だ。むしろ、今のハト派に必要なのは、理想主義的に純化することではなく、個人の人権・生命・財産を守るための「手段としての平和主義」を具体的に説得力をもって主張することである。

 この稿では、理想主義的なハト派の方々ばかりに文句をつけるかたちになったが、まったく同じことが、個人より国家を優先する理想主義的な国家主義者の方々についても当てはまることは、言うまでもない。ただ、ぼく個人ははっきり言って心情的にはタカ派よりはハト派の方に親近感があるので、最近ぱっとしないハト派の方々に、少々辛口のエールを送ったつもりである。

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