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知的ストレッチ入門

知的ストレッチ入門―すいすい読める書けるアイデアが出る 「知的ストレッチ入門」日垣隆著

 今をときめくジャーナリストの日垣隆さんが、梅棹忠夫さんの「知的生産の技術」とか、渡部昇一さんの「知的生活の方法」とかとタメはって、「21 世紀版『知的生産の技術』をめざしました(はじめに)」と言うふれこみの本なんですが、ごめんなさい。正直やや期待はずれだったかな~。まあ、ぼくは日垣氏に対しては要求水準が高いので余計そう思うのかも知れないけど。

 まず内容が少ないですよね。大きい字・スカスカの字組で 220 ページしかないのに、値段は 1300 円。文庫や新書にすればもっと薄っぺらな本になって 500 円ぐらいで買えたのでは。その上、どっかで読んだ覚えのある内容が多い。ぼくは日垣さんのメルマガを購読していて、単行本もけっこう読んでいるのでそう思うのかもしれないけど、再録とか使いまわしのネタとかがかなり多いのでしょう。ブログ論とか新聞論とか脱線も多いし。

 また、方法論としてもあまり体系的ではないですよね。日垣氏自身の仕事のノウハウを断片的にエッセイ風に紹介しているという感じで。表題になっている「知的ストレッチ」というのも、少しずつストレッチしていればいつの間にかキャパが増えているという例え話だけで、具体的にどうすればよいのかはあんまりよくわかりません。

 帯には、「この本であなたの知的生産力は 100 倍になる!」とあるんですが、大袈裟すぎません? まあ、ぼくと日垣氏の生産力に 100 倍の差があることを認めるにやぶさかではありませんが (^^)、この本のノウハウをすべて実行できたとしても、それで日垣氏の生産力に追いつけるとはとても思えません。「オレとお前の差が 100 倍? 何ふざけたこと言ってんだ。1000 倍だよ」って言われるかも知れないけど (^^)。

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P2Pと「インフラただ乗り」

 池田信夫氏のブログから。「インフラただ乗り」論を解決するために従量制が提案されているが、その方法では P2P やグリッド・コンピューティングの利用が阻害され、ネットワーク全体の資源の無駄遣いにつながると。なぜなら、

従量課金はユーザーが資源の消費者だという前提にもとづいているが、実はインターネット・ユーザーはCPUやメモリなどの資源や消費者生成コンテンツの供給者でもあるのだ。

とのこと。なるほどね。単純に感心しました。って、オレが頭悪いだけか (^^)。

追記: これって要するに、ネットワーク全体のリソースが公共財化してるってことですよね。もともと、ルーターはリソースの所有者が誰かなんてことは無視して、あいてるところに勝手にトラフィックを分配するわけだから。コンテンツだって、P2P で分散して配置すれば、競合性なんてほとんどなくなるわけだ。平均すればネットワーク上のどのリソースも平等に使われているのが最適状態ということになるのでしょう。そう考えると、単純に帯域幅に比例してコストを分配するという方法は案外正しいのかもしれないですよね。問題は、誰がいくら金を払うかということですね (^^)。

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「文章読本さん江」さん江

    文章読本さん江」斎藤 美奈子

    文章読本さん江 この本は、谷崎潤一郎以来の「文章読本」の歴史をカルスタ的に分析した本である。カルスタと聞くと、文化の裏側に勝手に権力や階級の影響を読み取って、そのモデルを牽強付会的に正当化するというイメージを持つ人も多いと思うが、この本もその癖から逃れていない。

     たとえば、第2章の「階層を生む装置」では、文章読本には目に見えない階層構造が隠れれているといい、本多勝一氏の「日本語の作文技術」を槍玉にあげる。斉藤氏によれば、本多読本は文章読本の「民主化」を目指しているはずなのに、実際には「文学作品 > 新聞記事 > 素人作文」というヒエラルキーが隠れているという。このこと自体、本多氏が文中で明言しているわけではなく、本多氏の引用文の傾向から斎藤氏が勝手に読み取っているに過ぎないのだが、このくだりの決め台詞を読むともっと驚く。

   

もしも田中克彦のことば通りの文章をめざすなら、本多勝一は駄文の山の投書欄から草の根をわけても「名文」を探し出し、名文が目白押しだろう高名な文章家の著書からねじり鉢巻で<ヘドの出そうな文章>を発掘してくるべきだったのだ。たとえそれが、日常の読書感覚とは食いちがうことになったとしてもね。

     はあ? って感じである。じゃあ、草野球選手向けの野球の入門書を書くときには、プロ野球選手をお手本にしたらいかんのかね? 草野球の選手の中から草の根をわけても「名選手」を探し出し、好プレーが目白押しだろうプロ野球選手のプレーからねじり鉢幕で凡プレーを発掘しないと、野球選手のヒエラルキー化に加担してることになんのかい? そんなことをしたって、斉藤美奈子みたいなひねくれ者に変なつっこみを入れられない、という以外の何の意味がある?

     斉藤氏は、印刷言語が珍重されるのは「印刷言語至上主義」のせいだと言いたいらしいが、そうだろうか。むしろ、言語を印刷して流通させるにはコストがかかるという経済原理の要請にすぎないのではないか? 本来、印刷言語だから珍重されるのではなく、いい文章だから印刷されるというだけのことだろう。印刷されているのだからいい文章に違いない、というシグナリングはその副産物にすぎない。

     また、斎藤氏は、文章読本の著者は劇場型の印刷言語にしか相手にしておらず、手紙のような対面型の文章を無視していると言いつつ、その後で、野口英世の母シカの手紙を賞賛する文章読本を揶揄している。この例自体が、文章読本は手紙文を無視しているという主張の反論になっていると思うのだが、そのことはあっさり無視である。

   

        いっぽうでは技術の必要性を口を酸っぱくしていうくせに、野口シカの手紙といい、南極観測隊員の手紙といい、なぜ技術論を根底からくつがえすような文章が賞賛されるのだろうか。(中略)誤解をおそれずにいおう。シカのつたない手紙をありがたがるのは、珍獣を愛でるのと同じ発想なのである。つまりは差別の裏返し。    

     え~? じゃあ南極観測隊員も珍獣扱いで差別されてるのかい、というつっこみはさておくとしても、これは単純に、いくら技術があっても誠意がなければダメだって言いたいだけじゃないの? じゃあ、草野球で下手だけど一生懸命プレーした子供を褒めたら、子供を差別してることになんのかい? 

     また、先ほど書いたように、斎藤氏は本多勝一氏の文章のヒエラルキー化を批判しているにもかかわらず、「素人のエッセイは片腹痛し」という主張(これも本多氏が文中で明言しているわけではなく、斎藤氏が勝手に深読みしているだけだが)にはなぜか賛同していて、アマチュアの文章修行を揶揄している。

   

アマチュアの文章マニアは、なぜ片腹痛いのか。それは彼女らが、文章界のヒエラルキーを疑うどころか無批判に受けいれて、その内部での出世をいじましく画策しているように見えるからだ。組織の論理に忠実なサラリーマン的というか、小役人的というのか、つまり貧乏くさいわけ。こういうのにちょうどいい表現があったっけな。そうそう、奴隷根性、だ。

     じゃあ、草野球の選手がプロの真似をするのも、野球界のヒエラルキーを無批判に受けいれて、その内部での出世をいじましく画策する行為なのかい。この人は、庶民によりそうようなポーズをとっているが、実は庶民文化というものを根本的に理解していないようだ。だからこそ、こんな暴言も飛び出すのだろう。

   

アマチュアの強みは、プロの凡庸な文章作法をゲリラ的に破壊することにある。ところが彼らは、既存の階層構造を肯定し、その内側でのステップアップをめざす。ここに文章修行界のパラドクスがある。文章読本はプロの手になる印刷言語をお手本として提示する。読者はそこで「プロの技」を学び、いずれは自分もプロにと夢想するだろう。だが皮肉にも、その教えに従っている限り、プロのライターになるのはむずかしいのだ。

     つまり、草野球の選手がいくらプロのマネなんかしても、どうせプロにはなれないんだから無駄無駄、素人は素人にしかできない野球をしなきゃ、という発想であるが、この「いずれは自分もプロにと夢想するだろう」というのも、斎藤氏が勝手に決め付けているに過ぎないのである。プロの真似をしてはいけない理由が、それではプロになれないから、というのだったら、プロを絶対化しているのは斎藤氏のほうではないか。こういうのをマッチポンプと言うのである。

     さすがに自分の類型化が強引にすぎると自分でも気づいたのか、途中でこんなことも書いている。

   

こうしてみると、文章界のヒエラルキーは、単純なピラミッド構造ではなく、さまざまななじれやゆがみをふくんでいるように思われる。

    そんなの当たり前じゃん。それを無理矢理単純化しようとしたのはあんたでしょーが、と言いたくなるが、実はこのへんはまだマシな方である。

     第1章の「サムライの帝国」などは、文章読本の著者はみんな「ご機嫌」だといって茶化してみたり、有名な文章読本を派閥の対立抗争になぞらえてみたり、ほとんど芸能週刊誌のゴシップ記事レベルのつっこみである。こういうのも、作家や文壇の権威が確立している時代だったらそれなりに意味があったかも知れないが、今みたいな本音むき出しの時代に読んだってしらけるだけだろう。

     結局、この本で一番読みごたえがあったのは、第3章の「作文教育の暴走」であった。ここでは、いったん文章読本から離れて、明治以来の学校での作文教育の変遷を振り返り、改めて文章読本をその流れの中に位置づけている。自分が疎い話題のせいもあろうが、この部分は単純に勉強になって面白かった。

     ひょっとすると、前半部のつっこみ芸は、著者のサービス精神の産物で、この興味深いがとっつきにくい部分まで読者を引きずり込むための計算なのかもしれない。しかし、だとすれば、読者は相当になめられているわけで、そういう読者をなめたサービス精神は不快以外のなにものでもない。

     著者自身の文体論は、第4章の最後になってようやく出てくる。それは要するに「文は服なり」という言葉に集約されるが、この考え方自体には賛成である。ただ斎藤氏の場合、そういう風に考えれば、これまでの文章読本のヒエラルキー志向を打破できるかのように思っているふしがあるが、その見方は甘いと思う。

     斎藤氏は、ファッションの世界では「縦の序列」より「横の多様性」が重要になると考えているようだが、そんな単純に割り切れるはずがない。フォーマルにはフォーマル、カジュアルにはカジュアルの序列があるというだけのことであって、むしろ、文章の世界なんて目じゃないくらい残酷なまでに「カッコイイ」と「ダサい」に分けられてしまうのがファッションの世界ではなかったか。ファッションの歴史がカジュアル化の歴史だということと、縦の序列がなくなってしまうということも全然違うことであって、実際には、高級ファッションがカジュアル化して消滅するのではなく、カジュアルが高級ファッション化するのである。それは、ビンテージのジーンズが何万円もすること一つをとってみてもわかることだ。

     そういう意味で、いくらファッションになぞらえてみたところで、よりカッコイイ文章を求める意思というものが否定できるわけがない。もし斎藤氏がそう考えているとしたら、氏は外見より内面が重要だと信じる近代主義者だといういうことになろう。しかし、言うまでもなく、外見はときに内面と同等もしくはそれ以上に重要なのである。それこそがポストモダニズムの残した数少ない有益な教訓の一つではなかったか。

     そんなわけで、この本は文章読本のカタログとしてはそこそこ役に立つし、勉強になるところもあれば、幾分の卓見も含まれているのであるが、全体的に読んでいて非常にイライラさせられる本であった。これだけの学習能力のある著者なのだから、低次元のつっこみ芸に走らず、正面から研究対象に切り込んだ方がよいものが書けるのではないかと思うのだが、いかがであろうか。

    付記: 著者が最近の高橋源一郎氏との対談で「やっぱり教養は大事よね」みたいなことを言っていたが、これを読んでさもありなんという感じがした。こういう単純な世界観の持ち主だからこそ、簡単に反動化するのであろう。

付記: 「猫のあしおと・流」さんの批判にお答えしてちょっと補足

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愛動物心、あるいは、公然動物虐待

 文芸春秋に呉智英氏の坂東「子猫殺し」眞砂子擁護論が載っているという噂をきいて、たまたまコンビニに文芸春秋が置いてあったのでそこだけ立ち読みしてみたら、ぼくの「続々・子猫殺し」と同じく動物裁判の話をネタにしていたので少々冷や汗が出た。もちろん、ぼくがパクったわけではまったくない。確認したわけではないが、おそらく、書いた日付はぼくの方が先だと思う。当然、呉氏がこんなブログを読んでいるわけもないので、単なる偶然の一致であろう。

 もっとも、内容的には、特に新しい論点が出ているわけではなかった。1.あくまで人間の都合として考えるのが原則、2.動物の権利=獣権には無理がある、というのが主な論点で、現行の動物愛護法の理念に疑念を呈しているが、おおむねぼくも賛成である。

 これに対して、現行の動物愛護法は、動物の権利など主張しておらず、それこそ人間の都合そのものではないか、という反論をしていた人がいたので、ぼくも改めて動物愛護法の条文をチェックしてみた。

第1章 総則

(目的)

第1条 この法律は、動物の虐待の防止、動物の適正な取扱いその他動物の愛護に関する事項を定めて国民の間に動物を愛護する気風を招来し、生命尊重、友愛及び平和の情操の涵養に資するとともに、動物の管理に関する事項を定めて動物による人の生命、身体及び財産に対する侵害を防止することを目的とする。

 つまり、動物愛護の気風を育てれば、生命尊重や平和に結びつくので、人間のためにもなるという主張らしいのだが、この主張、何かに似ていないだろうか。

 そう、これは文字通り、愛国心ならぬ「愛動物心」のススメなのである。愛国心論争においては、愛国心自体が悪いわけではないが、愛国心を強制することはできないとか、何が愛国心のある行為かは他人が勝手に決められないという主張が多かったはずだが、「愛動物心」になると、愛動物心のない行為を他人が勝手に定義して罰則付きの法律で強制することにも抵抗はないのだろうか。

 この問題は、猥褻法の議論にも少し似ていると思う。猥褻法の議論でも、「確かに公然猥褻は多くの人にとって不快かもしれないが、だからといって刑法で罰する必要はない」という主張があったはずである。 同じように、動物の虐待が多くの人にとって不快だからといって、法律で禁ずる必要があるとは限らない。仮に禁ずるとしたって、行為自体を禁ずるのではなく、そういう行為を見たくない人が見なくてすむ権利さえ守られれば十分なのではないか。

 公然猥褻を刑法で罰しないという主張の根拠となるのは、被害者がいないことである。そして、動物の権利を認めないという前提に立てば、自分の飼っている動物の虐待にも、直接の被害者はいない。強いて被害者を挙げれば、見て不快に思う第三者ということになるが、その権利を守ることだけが目的なら、行為自体を禁ずる必要はないのである。

 繰り返しになるが、坂東氏のやったことは、たとえて言えば、

「人間はみなセ○○スをしなければ生きていけないのに、現代人はみな人前では○器を隠して暮らしている。しかしわたしは、自分がセ○○スをしているという事実から目をそむけないために、堂々と○器をさらけ出して歩くことにしている」

とか

「人間はみなウ○コをしなければ生きていけないのに、現代人はみな人前では自分はウ○コなんかしないというような顔をして暮らしている。しかしわたしは、自分がウ○コをするという事実から目をそむけないために、毎日自分のしたウ○コを皿にのせてナイフで切って断面を観察することにしている(注)」

というような主張を新聞に載せるようなものである。もちろん、部分的には真実を含んでいるが、一読して不快であり、全体として多くの人が共感し説得されるとはとても思えない主張である。したがって、こういう主張を新聞に載せたこと自体は愚かなこととしか言いようがない。

 ただ、しつこいようだが、だからといって、そういう行為を法律で禁ずる必要があるかというのは、また別の話だと思うのである。

 猥褻を法律で禁じた結果日本で起こったのは、猥褻概念の形骸化であり、法律にさえ違反していなければなんでもありという性的モラルのさらなる退廃ではなかったか。愛国心を強制した結果戦前の日本に起こったのは、愛国心の形骸化と、危険なファナティズムの蔓延ではなかったか。愛動物心の強制や公然動物虐待の禁止が、同じような自体を招くことは、真の動物好きの方々にとってすら本意ではないはずである。

注: 筒井康隆氏は、「最高級有機質肥料」という小説を書くために実際にこういうことをしたらしい。ファンの間では有名なエピソードである。

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iTunes 7

 iTunes 7 をダウンロード。新機能として、こんな表示ができるようになってました。

iTune 7.jpg

 これは要するに CD ラックのようなイメージですね。遠近法で傾いて表示された CD のジャケットをクリックすると、本のページをめくるように CD を探していくことができます。よくよく見ると、床にイメージが映りこんでいたりして、なかなか手が込んでいますね (^^)。

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Be prepared to go back to the Stone Age

 9.11 の直後、パキスタンのムシャラフ大統領が、当時の米国務副長官アーミテージさんに「協力しろ。さもないと、石器時代に戻るまで爆撃するぞ」と脅されたそうで (^^)。24 日に CBS の「60 ミニッツ」でやるみたいです。

 正確には、"Be prepared to be bombed. Be prepared to go back to the stone age." かな。 "Be prepared" というのは、もちろん、「準備しろ」じゃなくて「覚悟しろ」というニュアンスですね。アクション映画とかでもよく出てくる表現です。

 一方、アーミテージさんは、強く言ったのは確かだけど、軍事力で脅すようなことはしてない、だいたい自分にはそんな権限はない、みたいなこと言ってるようです。

 小泉さんは「ジョーモン時代に戻る覚悟があるか」とか言われなかったのかなあ (^^)。

付記: 牛丼祭りの日、いちおう吉野家の前まで言ってみたのですが、けっこうな行列ができていたので、あっさり挫折しましたです (^^)。根性無しで申し訳ないです (^^)。

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iTunes のシャッフル

 前から気になっていたのですが、iTunes のシャッフルって、乱数の周期が短くないですか? 数時間ぐらい聞き続けていると、(全曲の再生が済まないうちに)聞き覚えのある曲順に戻ってしまうことが多々あるような気がするんですが。。。

 ネット上で同じような意見がないかと思って軽く検索してみたけど、見つかったのはこの「iPod Shuffleのシャッフル度」だけですね。しかもこれは iPod Shuffle の話だから、iTunes にも当てはまるとは限らないし。 

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Re:質問したいのですが。

 このスパムはおそらく、返信先のメール・アドレスを間違えただけ → 内容自体は騙しじゃない、と思わせたいんでしょうね (^^)。こういう文面なら、ベイジアン・フィルタにもひっかかりにくいし。

 だいたい、そういうのにひっかかる人は、なんかしらさもしいことを考えてる人だよね。まあ、これに限らず、詐欺というものは、常に人のさもしい心につけこんでくるものですが。


メール有難う御座います。
質問についてお答えします。
メールファイルそのままの状態ではソース表示はできません。
一度メールファイルごとコピーして別のフリーアドレスに送信。
この後に、開こうとした時のpassが申された通りのIDpassを入力して下さい。
以上の操作を行えばメールアドレスは見ることができます。
今後とも宜しくお願いします。
  ----- Original Message -----
  From: s
  Sent: Wednesday, August 02, 2006 8:12 PM
  Subject: 質問したいのですが。

  はじめまして、サイトを見てメールします、佐々木と申します。
  そちらのサイトを見て興味を持ちメール聞きたいことがありメールしました。
  お聞きしたのは激裏情報3ページ目の無料可にすることについてです。
  届いたメールをソース表示にすれば、アドレスが判ると書いてあったのですが
  それのpassは自分が入会ID取得したときのpassでいいんでししょうか?
  確認したのですがpassについては詳しくは書かれていなかったのでメールしました。

  ご返答お願いします。
  いちよサイトアドレスを教えとくとここになります。
 
http://studio-rain.cocolog-nifty.com/blog/

------------------------------------------------------------------------------

メール不要
studio_rain@nifty.com

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8 Doogymoto

audio sponge(1)  Last.fm のデータを見ればわかるとおり、最近ちょっと 8 Doogymoto というバンドにはまっています。「audio sponge(1)」というコンピに収録されていた「MINIMALISTICO」という曲がよかったので、先日「Minimalistico 」というアルバムをダウンロードして聴いてみたのですが、他の曲も予想以上によかったですね。

 基本構造は、エレクトロニカをベースにしたトラックに、日本人の女の子のパンクなボーカルがのっかるという感じですが、いろんなところで微妙にはずしてる感じがいいです。ある意味ハラカミさんにも言えることですが、まるっきりあさってに外すのではなく、こういう風に微妙に外すというのは、音楽的素養とセンスがないとできないことですから、へなちょこな見かけに騙されてはいけません (^^)。

 ぼくが知る限りでいちばんイメージが近いのはチボ・マット。日本人のガールズ・ボーカルをフィーチャーしているというところだけでなく、ユーモラスな感じや、音楽的にいろんな要素が詰め込まれているところも似ています。もっとも、チボ・マットの曲調がかなりパワフルなのに対し、8 Doogymoto の曲調は脱力感に溢れているところは対照的ですが。

 今後もぜひ、この微妙にずっこけた感じを追求していっていただきたいです。期待してます。

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SENOR COCONUTS

プレイズYMO(初回限定生産)  おそまきながら、SENOR COCONUTS をちょっと試聴してみた。Atom Heart がやってる、YMO やクラフトワークをラテン風のアレンジでカバーするプロジェクトなのだが、もともと、YMO 自体が、マーチン・デニーのアジアン・エキゾチズム音楽をアジア人がカバーするという皮肉な発想から生まれたプロジェクトなので、それをさらにラテン風にカバーするというのは、ほとんどブラック・ユーモアの世界である。といっても、音楽的にはけっこう真面目に作りこんであるので、それなりに楽しんで聴けてしまうところが怖い (^^)。もちろん、こうやってアレンジと無関係に楽しめるのは、原曲が名曲であるのからこそであって、YMO がもはや堂々たる古典であることを証明する一枚であると言ってもよいのではないだろうか。

(珍しく評論家風の文体でしめてみました (^^))

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Last.fm

 音楽 SNS とでも言うべき Last.fm というサービスに加入してみました。mixi ミュージックとほとんど同じような仕組みで、自分のパソコンで再生している音楽のデータを自動的にアップロード (Scrobble) して、サーバー上に蓄積することができたりします。データがたまると、ユーザーの好きそうな音楽をリコメンドしてくれる機能とかもあるみたい。

 また、下のように、最近再生した曲のデータを HTML 化してくれる機能もあります。

 「あなたのブログやWebサイトに載せるチャート画像を作って、友達や世界中の人にあなたの音楽のセンスを見せびらかしましょう。」だって (^^)。

 さらに、最近再生した曲のデータを RSS フィード化してくれる機能もあります。ぼくが今どんな曲を聴いているかを常にチェックしたいストーカーみたいな人は (^^)、ここのリンクを RSS リーダーに追加してみてください。

 ところで、月曜の 11 時には吉野家で待望の牛丼が食べられるようです。行かねば。

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特撮の理不尽な点を強引に解釈する

 特撮の理不尽な点を強引に解釈するスレまとめサイト、めっちゃウケました。特撮好きにはお勧めです。

 しかしみんなうまいな~。日本人のユーモア・センスも随分ハイレベルになったもんだ (^^)。

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教授 vs イトイさん

 教授のニュースレター「JOURNALSAKAMOTO+」によると、なななんと「SWITCH」で教授とイトイさんが、アッコちゃんについて対談するらしい。びっくり。ついでに同じ内容がほぼ日にも出るらしい。

 もちろん、お二人ともアッコちゃんの音楽を語るには欠かせない人物なわけですが、特に教授は、いろいろと個人的事情もあるだろうに、よく引っ張り出せたなあと思います。これはぜひ読みたいなあ。

 あと、教授重病説についてもコメントが。確かに医者に休養が必要だと言われたが、重病ではないということで、こちらもひと安心。

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それは帽子だ!

 このアメリカン・バカコメディ振興会のサイトってわりとよく見るんですが、この写真はインパクトありますね。ニシキヘビが妊娠したヒツジを丸呑みしたところだって。

 ぼくは、こういうのを見ると、どーしても「星の王子様」を想い出してしまうんですが (^^)。ここまできたら、ニシキヘビ君にももうひと頑張りしていただいて、ぜひ、ゾウを飲み込んでいただきたい。ホントに帽子みたいになるのかどうか。。。(^^)

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乙武くんときっこさん

 なんか、秋篠宮妃の紀子さんに男の子が生まれた件にからんで、ネット上でもいろいろ騒動がおきているようですね。「五体不満足」で有名なスポーツ・ジャーナリストの乙武くんのブログが炎上したり、耐震偽装疑惑の追及で有名になった「きっこの日記」に記載された批判記事が、数時間後に削除されたことが話題になったり。

 ぼく自身は、前にも書いたけど、天皇制自体あってもなくてもよいと思っている方なので、このニュースを聞いたときの嬉しさは、一般庶民の家に赤ちゃんが生まれたことを知ったときと大差ないし、ましてや、男の子だったから嬉しいなどという気持ちはほとんどありません。

 ただ、それはあくまでぼく個人の価値観であって、ぼくは同時に、天皇制を愛している方々の価値観にもそれなりの敬意を払っているので、わざわざ彼らの価値観を批判するような発言をするつもりはないのです。これは、例えて言えば、自分はイスラム教徒でないので豚を食べることに躊躇はないが、わざわざイスラム教徒の前で豚を虐待したりはしない、というのと同じことです。

 そういう立場からすると、きっこの日記のように、真偽も定かでないような情報を理由に天皇家やそれを祝う人々に罵詈雑言を浴びせるのはどうかと思いますね。だれから見ても明らかな悪人ならともかく、単に自分と価値観が違う相手を批判するのに、相手に対してまったく敬意がないという態度は人間として不遜でしょう。もちろん、情報のソースなどを明示していないことや、数時間だけ掲載して削除理由も履歴も残さず削除するようなやり方も無責任としか言いようがありません。

(ついでに言えば、この記事の中で、この件を非難しないヤツを腰抜け扱いしているのも、正直「バック・トゥ・ザ・フューチャー」 のビフなみにムカつきますね (^^)。まあ、ぼくはあの映画でちゃんと学習しましたので、"Nobody calls me chicken (or yellow)" なんて言ってつっかかったりしないですけどね (^^)。)

 では、乙武くんはどうかと言うと、彼の記事にも、天皇制もしくは男系相続を支持している人たちを批判するニュアンスが感じられるので、その点において、批判した相手から逆批判を受けるのは、ある程度仕方ないと思います(もちろん、だからと言って身体障害を嘲笑したりする表現が許されるわけではないのは当然です)。

 しかし、そんなぼくでも、天皇家の慶事を喜ばないのは日本人としておかしい、というような批判は、ちょっと行き過ぎだと感じます。

 このブログでも何度か書いたように、象徴天皇制は、制度と言うより文化に近いものだと思います。文化というのは、制度と違って、権力によって強制されることなく存続するところにこそ価値があります。

 この手の議論でどうもよく錯覚が見られるのは、文化の存続と価値の関係です。つまり、現在から見れば、

存続している → 価値がある

という図式が成り立ちますが、同時代から見れば、あくまで

価値がある → 存続させる

なのであって、各時代の人がそういう意思決定をしているからこそ、上の式だって成立するのだということを忘れてはなりません。

 したがって、天皇制に対する支持が、権力によって強制されることなく、人々の主体的な意思によって存続するという限りにおいて、ぼくも天皇制を支持する方々に対し一定の敬意を払うつもりですが、もしこれが強制されるようになったら、ぼくはむしろ天皇制廃止を訴えることでしょう。

 ですから、天皇制を支持する方々が天皇制に対する支持を広げようと思う際にも、超越的な文化決定論を押し付けるのではなく、天皇制が持つ内在的な価値をこそ主張すべきであるし、その価値を評価しない人に対しても寛容であるべきだと思うのです。そのことは、天皇制を支持することと、決して矛盾しないはずです。

(権力によって強制されることなく、それ自身の価値のみによって存続している伝統文化なんて、民謡や伝統工芸をはじめいくらでもあります。そういう文化を支持する方々が、「伝統は存続するがゆえに価値がある」みたいな超越論に訴えたり、「この文化の価値がわからないやつは日本人じゃない」みたいに恫喝したりしている、という話はあまり聞いたことがありません。だから、天皇制が本当に日本人にとって必要な文化であるなら、それ自体の魅力だけで存続できないはずがないと思うんですよね。なのになぜ、「ぼくがこんな立派な人間になれたのも、天皇制によって精神的支柱が得られたおかげなんですよ。つらいときにも、陛下のことを考えると、もりもり力がわいてきちゃうんだよね。いいぞー、天皇制は。君も支持しない?」みたいな言い方をする人がいないのか。そのへんが、天皇制を支持する方々に対して、ぼくがどうしてもうさん臭さを感じてしまう点なんですよね (^^))

追記: ちなみに、同じことは「愛国心」の教育についても言えます。つまり、愛国心を押し付けるのでもなく、愛国心についてはまったく触れないのでもなく、「国家には価値がある」という事実を知識として伝える、という立場がありうるはずだと思うのです。大雑把に言えば、ぼくもその立場ですし、山形さんが言いたかったのも、そういうことなんじゃないかと思うんですけど (^^)。

追記: ある友人が、「どの生命の誕生も同じように喜ばしい」という主張をしているのが、他ならぬ乙武くんであることの重みをもっと考えるべきだ、と言っていたことも付記しておきます。

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ポスダック

 なんか、政治家に株価をつけるポスダックとかいうシステムがあるらしいですね。

 この記事によると、元は韓国で生まれたシステムで、日本でも導入の準備をしているらしいのですが。。。でも、この説明を読んでも、何がいいのかイマイチわからないんですよね。

 そもそも、証券市場での証券の価格って、別に投資家が恣意的に決めてるわけじゃなくて、ちゃんと理論的な適正価格というものがあるんですよね (そう思ってない人も多いみたいだけど)。株式や債券は、定期的にキャッシュフローを産み出すので、それを「現在の価値」に割り引いて合計したものが妥当な価格だということになってるし、商品先物なら、商品自体がキャッシュフローを産み出すわけじゃないけど、実際に商品と交換したときの商品自体の価格が先物の価値の裏づけになっている。為替はちょっと難しいけど、一応購買力平価とか金利平価とかが根拠になっています。

 でも、政治家は別に直接キャッシュ・フローを産み出すわけじゃないし、政治家自身をキロ何円で切り売りできるでもなし (^^)、政治家の適正価格っていったいなんなのか。しかも、これを読むと、投資に使う電子マネーは、そのサイト以外では使えないという。そうなると、なおさら、恣意的な値段しかつかないんじゃないのでしょうか。

 まあ、難しく考えず、世論調査を盛り上げるための趣向だと考えればいいのかもしれないけど、なまじこういうシステムをとると、それこそケインズの美人投票とかどっちの料理ショーとかといっしょで、投資家は無自分自身の意見よりも無難な多数意見にのっかろうとするから、かえってポピュリズムを煽りかねないと思うんですけどねえ。

 そう考えると、わざわざこういうシステムにする意味がよくわからない。まあ、toto とかといっしょで、有権者に政治に興味を持たせるという意味ぐらいはあるかもしれませんが。

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居酒屋

 先週の「英語でしゃべらナイト」で、ジャズ・ミュージシャンのデヴィッド・マシューズ、日本語で詩を書いているアーサー・ビナード、ヘビメタ・ギタリストにして J-POP オタクのマーティ・フリードマン、そして、ハーバード卒のお笑い芸人パトリック・ハーランという 4 人の日本通アメリカ人が、日本からアメリカに輸出したい文化は、という質問に「居酒屋」と答えていました。

 もっとも、「クーリエ・ジャポン」を見ると、ロサンゼルスでは、すでに「IZAKAYA」ブームだって書いてありますね (^^)。元ネタはたぶん、この New York Times の "A Challenger Arises for King Sushi" という記事。

 でも、これを読んでも、居酒屋と向こうのバーとかが本質的にどう違うのかは、よくわからないですね。まあ、ぼくはどっちもたいしてよく知らないので (^^)、聞いてもわからないかもしれませんが。機会があれば少し研究してみます。

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秋の兆し

 夏はあんだけ暑かったのに、秋が来るのは意外と早そうですね。。。

 こうして、また一年が過ぎてゆくのであった。。。

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天下の往来を勝手に仕切るのは○○○だ

 あのねー、確かにうちらは有象無象のバカかもしんないけど、天下の往来で人がボコボコにされてりゃ、見てみぬフリをするわけにいかんでしょ。しかも、殴られてるヤツが、「あいつが一方的に殴りかかってきたんです」みたいに言ってりゃあさ。

 それが本当は、どっちも同じ格闘技の団体に所属していて、格闘技の稽古なんだから何も知らないしろーとは邪魔するなとか言われても、そんなの知ったことか。それだったら、わざわざ往来でやらずに道場でやるか、事前に相手から絶対に文句を言わないという誓約書でもとっとけっちゅーねん。

 だいたい、どんだけ自分が強いことを自慢したいか知らんけど、いい年こいてわざわざ往来でストリートファイトしたりするのやめたら? いい加減ウザいし、子供の教育にも悪いよ。わざわざそんなことしといて、しろーとは口出すななんて、どの口で言えるんだか。お前らはなんちゃらヨットスクールか。

 それじゃあ、天下の往来で銃を乱射してるヤツがいても、ひょっとして映画の撮影かもしれないから、確認してから訴えなあかんのか。往来で女性がレイプされていても、AV の撮影かもしれないから、確認してから止めなあかんのか。ふざけるな。

 そのしろーとせいで、そいつの格闘家としての将来がなくなろうが、知ったことか。それこそ自己責任じゃねえか。ほっとけよ。

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友だち関係に登記はない

 H さんのブログで I さんと H さん N さんがケンカになって、H さんはブログを閉鎖し、N さんは I さんに絶交を宣言する、というような事件がありました。

 これについて、I さんは、H さんや N さんが間違った主張をしていたので、それを止めるために善意でやったと主張。一方 N さんは、主張の正誤はともあれ、I さんの言い方自体が失礼でありイジメであると主張しています。

 ウェブに残ったやりとりの記録を見る限り、確かに、I さんは上からタカビーに物を言っていて、第三者から見ると失礼な感じがすることは否めません。また、一般論としても、主張の正誤というのは、議論を経る事によって事後的に決まってくるものですから、最初から自分の正しさを前提にして喋ることは不遜でしょう。また、この事件の当事者は、言論を業とする方々なので、言論の質によって市場での評価が変わることは仕方ないと思いますが、思想によって人格まで否定されるというのは、民主主義の理念に反していると思います。そういう意味で、第三者から見ると、一般論としては N さんに分があるように見えます。

 ただ、I さんだって、相手が友だちだと思うからこそこういう言い方をしたんであって、誰にでもそんな言い方をするわけじゃないと思うんですよね。そう考えると、ちょっと切ない気持ちになってきます。

 まあ、友だち関係と言うのは、「友だち登記」とかがあるわけじゃなくて、あくまで私的な合意によるものですから、一方の当事者があいつは友だちだと思っていても、もう一方がそう思うのをやめれば簡単に消滅してしまう、そういうフラジャイルなものなんですよね。もちろん、そういう関係を一方が無理矢理強制すれば、それこそ関係性攻撃というか、一種のイジメになってしまいますし。

 だから、こういう時は、いけると思ってキスしようとしたら拒まれたときとかといっしょで、黙ってゴメンナサイって引き下がるしかないんじゃないかと思うんですよね (^^)。そりゃ、相手だって、10 年たったらやっぱり結婚しといた方がよかったと思うかもしれないけど、今現在相手にそう思わせられない以上、どうしようもないじゃないですか (^^)。もちろん、I さん自身もそう思っていることを匂わせる発言をしているので、それはそれで致し方なしかなと。

 もう一つ思ったのは、インターネット上での議論というのはやはりちょっと特殊で、その場にいる当事者は友だちノリで議論していても、実際には世界中の人がオーディエンスになっているわけですよね。そうすると、当事者同士は友だちだから許されると思っていても、そういう関係を何も知らない第三者から見ると、悪口を言ってる方が単なる失礼なヤツに見えたり、言われてる方が本当に悪いヤツに見えたりするわけです。そのことに気づくと、書いてる方もつい、オーディエンスに対して言い訳をしたくなるんですよね。そういうことによって、当事者同士の関係がこじれてしまうことがままある。

 現にこの事件でも、N さんは、I さんが N さんの評判をおとし、自分の評判をよくしようとして立ち回っていると主張しているので、N さんは結構オーディエンスの評価というものを気にしていることがわかります。でも、I さんは自信家なので、そもそもオーディエンスの評価なんてあまり気にしてなくて、だからこそ、ああいうキツいことを平気で書けたんじゃないかと思うんでよね。そこにそもそもボタンの掛け違えがあったような気がします。

 I さんも、N さんや野次馬のつっこみにあって、やむ終えず自己防衛を強いられているところもあるようで、確かに多少往生際が悪く見えるところもあります。男女関係なら、「オレよりあんなヤツを選ぶなんてなんちゅーバカ女だ」みたいなことは決して言わないで、あえて悪役にまわる方が男が上がったりするんですが (あ、これは悪しきジェンダーでしょうか (^^))、そこまで悪役に徹し切れてないところも印象が悪いかも (^^)。

 そんなわけで、こういう問題は、あまり第三者がガチャガチャ騒がないほうがいいような気がするんですよね。ぼくが当事者の名前を珍しくイニシャルで書いたりしたのもそういう理由です。まあ、ぼくは単なる野次馬なので、本当の事情がよくわからないまま想像で書いているにすぎないのですが、当事者のみなさんすべて有為な人材ですから、つまらないことに精神エネルギーを浪費しないで、なんとかうまくやってほしいと思うですがねえ。と誰にも聞こえないところでボソッとつぶやいてみました (^^)。

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