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報道と宣伝のはざまで

 そもそも、スポーツ・ジャーナリズムというものには、他のジャーナリズムと比べて、根本的に異質な点があると思う。ニュース・ショー番組などでも、スポーツのコーナーになると、明らかにトーンが変わるのがその証拠だ。スポーツ・ジャーナリズムというのは、許しがたい悪事や悲惨な事件の報道が「ケ」だとすれば、それと対照的な「ハレ」の役割を担わされているのである。

 なぜ、スポーツ・ジャーナリズムがそのような役割を担うことが可能なのかというと、スポーツという分野自体が、人工的に純化された世界だからだと思う。

 本来、人生には明確な目的はない。多くの人は、そこに生きがいという目的を想定することによって、快楽や充実感を得ようとするが、生きがいには絶対的な正さの証明があるわけではないので、多くの人は人生の意味付けに悩みながら生きることになる。もちろん、そこから人生の味わいのようなものも生まれるわけであるが、そのことが、人間の日常を不明瞭なものにしている原因でもある。

 ところが、スポーツの世界では、目的はルールにしたがって勝つということに単純化されているし、競技自体が、現実的な目的に直接役立たないものが多いので、何のために勝つのかという意味を問うことも無意味化されている。その結果、スポーツの選手は、目的自体の意味や価値について悩むことなく、目的を実現するための努力だけに純粋に専念できることになる。おそらく、だからこそ、スポーツを観戦する人は、「ケ」の日常の不明瞭さから解放され、「ハレ」の爽快感を味わうことができるのである。

(このへんの立論は、筆者のオリジナルではなく、山崎正和氏の説を参考にしている。オリジナルを知りたい人は「近代の擁護」などを参照。ただし、細かいところは筆者流にアレンジしており、その部分についての文責は筆者が負うものとする。)

 スポーツ・ジャーナリズムがさらに特異なところは、基本的に、報道が試合の結果に影響を与えることはないということである。

 これが政治だったら、どの政治家をどのような論調でどのぐらいの頻度で取り上げるかというのは、政治の結果にまで影響を与える可能性がある。ビジネスにしても、どの企業のどんな製品をとりあげるかで、企業の業績に影響を与える可能性がある。事件報道ですら、取り上げ方によっては、当事者の人生そのものに影響を与える可能性がある。したがって、ジャーナリストは、嫌でも公正さやバランスというものを意識せざるを得ない。意識しなければ、報道は信用性を失い、単なる宣伝と化してしまうからだ。

 ところが、スポーツの場合には、試合の結果は客観的なルールによって決まり、報道のされ方によって影響を受けることはほとんどない。「なんとか選手強いっ!」といくら連呼しても、そのせいでその選手が試合に勝つことはない。この事実と、先にのべた、スポーツ・ジャーナリズムが持つ「ハレ」の役割を考え合わせると、おそらく、スポーツ報道を多少大袈裟に行うことが正当化されるのであろう。

 この姿勢は、おそらく、アマチュア・スポーツについてはかなりの程度で正しいのだが、プロスポーツになると、事情が微妙に変わってくる。

 なぜなら、プロスポーツでは、お金という別の目的 があるので、アマチュア・スポーツのようには、勝つことだけを目的にしにくいからだ。もちろん、多くのスポーツでは、勝つことによってのみ金が手に入るというような仕組みを作ることによって、選手に金銭面でも勝つインセンティブを与え、そのことによって、スポーツに内在する独自の価値論理を守ろうとしている。

 しかし、ここで忘れてはならないのは、いくらそのような仕組みを作ったとしても、選手に分配する金の原資は、結局は興行収入で得るしかないということだ。言うまでもないことだが、この興行収入というのは、必ずしも選手の実力だけで決まるものではなく、ルックスやパフォーマンスなどによって左右されがちな「人気」であるとか、資金力がものを言う「宣伝」とかに大きな影響を受ける。

 この話にこれ以上深入りすることは避けるが、要するに、プロスポーツというものは、もともと、スポーツと興行の危ういバランスの上に成り立っているビジネスであり、当事者がこのバランスを常に意識していなければ、容易に破綻して単なる見世物に堕してしまう危険を孕んだ文化であるということだ。

 同じことは、スポーツ・ジャーナリズムにも言える。スポーツ報道は、確かに試合の結果には影響を与えないかもしれないが、興行の結果には大いに影響を与えうる。つまり、スポーツ・ジャーナリズムが、いくら事実を選択的に報道しているだけであっても、それが結果として、文化としてのプロスポーツをスポイルする可能性はあるのである。

 たとえば、実力のない選手を報道によって人気者にしてしまえば、その選手は、一番強い選手より大きな収入を得られるようになる可能性がある。そのような選手がたくさん登場すれば、実力より人気を大事にする選手が増え、勝つことだけを目的とするというスポーツの純粋性は破壊されることになろう。また、興行側は、そのような選手を「勝たせる」ことによって興行収入を増やし、関係者全員を豊かにするという誘惑にかられることになるだろう。

 もっとも、本来、スポーツ・ジャーナリズムはスポーツがなければ成り立たないことを考えれば、このような危険を回避することはそれほど難しいことではない。スポーツ・ジャーナリストが、目先の欲望にとらわれず、自分たちの存在を支えているスポーツという文化に対し、正しい認識と愛情をもって、自らペンを律すればよいだけの話だ。そして、この問題には、それ以外に特効薬はないと思う。

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