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続々・子猫殺し

 この件について、mixi である人と議論した内容を一部転載。長いです (^^)。

確かにこの作家も○○だけど、それに対してあまりムキになって人非人みたいに言う方々にも、正直違和感がありますね。

自分の飼っている猫に対して残酷なことをされたくないという気持ちはよくわかりますが、その愛情を猫という種全体に拡大して、他人の飼っている猫の飼い方にまでけちをつけるという行動に移すところには、ある種の飛躍がありますよね。

要するに、ペットはあくまで人間の所有物であって、その取り扱いは飼い主の美意識だけに任せるべきなのか、それとも、ペットは、人間と同一ではないが、ある種の権利を持つ存在であり、その権利は飼い主を問わず適用されるべきなのか。

猫好きの人は、無意識のうちに後者を仮定しているみたいだし、フランスの法律も、おそらくはそういう思想なんでしょうけど。

でも、これってやりすぎると、余計偽善的になるところもありますよね。例えて言えば、奴隷制を布いている国で、奴隷愛護法を作るようなもので、そういうことをやればやるほど、それ以前に奴隷制自体をやめれば? みたいな感じになってくる (^^)。

だから、本質論で言えば、法律で規制するより、個人の美意識に任せる方がいいような気がするんですけどね。。。

愛猫家っていうのは、結局、自分が猫と友だちだという幻想、と言ってはいいすぎですが、そういう意識を持ちたいわけですよね。その意識がさらに進むと、人類が種として猫という種と友だちであると思いたいということになるんでしょう。だから、他の猫が虐待されているところも見たくなくなる、という順番だと思いますけど。

このロジックが正しいとすれば、目の前で虐待されるのももちろんイヤですが、影でこっそり虐待していたとしても、その事実がわかった以上看過できない、ということになるんじゃないですかね。

そういうふうに考える人が多ければ、猫にある種の権利を与えるということも、まさにそういう「人間の都合」に合致するということで正当化される可能性もあると思います。

 ただ、そうやってペットを飼うという行為のハードルを上げていくと、逆にペットを飼うという行為の意味がどんどん無化されていくというところもあるんですよね。

つまり、もともとペットというのは、人間の彼女や友だちの代用品であるという要素もあるでしょう? 動物は、人間のように人を振ったりしないし、監禁しても犯罪にならないし、食費も安いし、健康管理の責任も少ない。そういう、人間を世話するのに比較したときにお手軽さが、動物を飼う理由の一つであることは否定できないでしょう。

ですから、あまりペットにいろいろな権利を与えてしまうと、ペットを飼う責任が重くなり高コストになりすぎて、よっぽど金や時間やいろんなものに余裕のある人しかおいそれと飼えなくなってしまうでしょう。これもある意味本末転倒だと思うんですよね。

そう考えると、結局は、所有物路線も友だち路線も完全に徹底することはできなくて、ほどほどのところで妥協するしかないはずなんですよね (^^)。

まあでも、愛猫家の多くが、自分が猫を愛しているということに誇りを持っているのは当たり前といえば当たり前ですよね。もともと、そういう誇りを持ちたいがためにペットを飼うわけですから。。。(^^)

そういう意味で、この作家の書いていることは、まさにそういう愛猫家の神経を逆撫でする行為なわけですよね。そのわりに、「他の愛猫家の猫の飼い方は間違ってる!」みたいなはっきりした主張があるわけでもないし。

この人のやっていることは、SM やスカトロとかと同じで、単にこの人の好みという域を出ることはおそらくないでしょう。だから、ぼくは別に SM やスカトロでもいいけど、わざわざ人の前でやるなよ、っていう感じですね (^^)。

ただ、そういう人はあくまで例外だと思うんですよね。そのへんが、普通の刑法犯とかとは違うと思うんです。

たとえば、泥棒とかだったら、法律がなかったら歯止めなく増加するということも考えられますが、人間は毎日食事をしなければならない、というような法律を作る必要はあまりないわけですよね。人間はもともと食事をするのが好きですから (^^)。

同じように、大多数の人は、もともと猫が好きなので、ある程度自主性にまかせてもいいような気がするんですけどね。。。

人間の子供の場合、当たり前ですけど子供はペットと違って人間ですから、大人なみの権利を与えることに本質的な困難はないんですよね。子供という存在は、親が「飼う」ことが前提条件となって成立しているわけでもないから、親がその権利負担に耐えられなければ、国家その他が負担したっていいんだし。

ところが、ペットの場合には、人間並みの権利、というのが本質的な上限になってしまうんですよね。少なくとも、飼い主を選ぶ権利とか、飼われることを拒否する権利、自由に逃亡する権利、などは、ペットという概念に本質的に反してますから (^^)。

ペットを飼いたいという「人間の都合」には、動物を自分の自由にしたいという欲望と、動物を人間並みに扱いたいという欲望という、本質的に相矛盾する欲望が入り混じっているわけで。そこを自覚しておかないと、変な極論に陥ってしまう危険があると思うわけです。

本当にペットに人間並みの権利を与えるというのなら、ペットが人間に束縛されないで暮らせるペットランドみたいなのをつくって、ペットを飼いたい人間はそこに出向いていって、ペット自身の意思を確認した上でペット契約を結び、ペットになっていただく、というふうにしなければだめなんだけど、これはどう考えたって実現性はないですよね (^^)。

(ぼくは、ペットはもともと人間に飼われるようにできてる、というような主張を聞くと、どうしても、黒人はもともと白人の奴隷になるために神様によって作られた、みたいな主張を想い出してしまうんですよね (^^))

そう考えれば、結局は、愛猫家が持つ「猫と人類は仲良しである」という共同幻想を崩すような行為だけは最低限やめなさい、みたいな程度の規制しかできないはずなんですよね。

愛猫家が非難する理由は、おそらくさっき書いたように、「猫と人類は仲良しである」という愛猫家の共同幻想が崩されるからだと思うんですね。

ただ、この理由が、他人に何かを法的に強制するほどの理由なのか、というところには多少の疑問があるんですよすね。

もともと、その共同幻想というのは、猫族たちの主体的な選択によるものではない、たぶんに愛猫家たちの自己満足的なものですから、万人に強制するような普遍性があるのかどうかも疑問ですし。

単に幻想をこわされるのがいやなら、わざわざ見せびらかすようなマネだけ禁止すればいいのかもしれないし。

たとえば、イスラム教徒は「豚は神聖な生き物である」という共同幻想を持っているわけだから、イスラム教徒の前でわざわざ豚を虐待してみせるのはよくないでしょう。

でも、だからといって、そのルールを全人類に強制する必然性があるのかと言われたら、イスラム教徒以外の人の多くは疑問に感じるんじゃないですか? だって、そう思ってるのはイスラム教徒だけなんですからね。

猫自身の自由な選択によるものでもない、人間の勝手な都合による「正しい猫の愛し方」というものが、万人に強制するほど普遍性のあるものなのか。そこが疑問だと思うわけです。

まあ、猫族を友だち扱いするのは、わりと世界的 (一部アジア地域では猫料理とかもあるらしいが) かもしれないけど、クジラ族は日本では高級食材、欧米では友だち、牛族はスペインでは闘って殺すのが愛情、ヒンズー教徒にとっては神聖な生物、日本では主に食材、というぐらいの差があるわけですからねえ (^^)。

これだけ価値観に差があるものに、統一的な基準を作ろうとするのはかえって不自然ではないかと思うのですが。

ご存知の通り、ぼくも合意による正義というものを重視していますが、この場合、一方の当事者であるペット自身の自由な意思を確認する方法はないわけで、合意に至ったとしても、あくまで人間同士の合意にすぎないんですよね。にもかかわらず、どちらがよりペットのためであるか、という観点で議論されていることには不健全なものを感じてしまうんですね。

ぼくもかつて、佐倉統さんの「現代思想としての環境問題」という本で「環境を守るのはあくまで人間のためなんだ」という主張を読んで、目からウロコが落ちたことがありましたけど (今ではたいして珍しい主張でもなくなりましたが (^^))、同じように、ペットを飼うのは、あくまで人間のためなんだ、という視点を忘れないようにしないと、かつての環境問題みたいにおかしな議論がはびこる危険があると思いますね。

フランスの刑法っていうのは、やっぱりキリスト教的な発想なんじゃないでしょうかねえ。日本の動物愛護法も、もともと日本の文化に根ざしたものではなく、西洋から野蛮だと言われて仕方なくつくったみたいなところがあるようですし (^^)。

中世キリスト教圏では、「動物裁判」とか言って、動物の「犯罪」を裁判にかけて「死刑」にしたりしてたらしいですからね。こういう観念は、やっぱり文化依存的で、全人類的な普遍性があるかどうかはたいへん疑問だと思います。

まあ、こういう人々の意識だって、時代の技術的制約によって変わるかもしれないんですよね。どんな食材の味も忠実に模倣できるすっごくおいしい合成蛋白質みたいなものや、自分の代わりにペットの世話をしてくれる格安ロボットや、動物の意思を確実に確認できる進化したバウリンガルみたいなものや、動物の脳を進化させるサイボーグ技術みたいなものができれば、またみんなが合意できるポイントが変わってくる可能性もありますよね (^^)。

要するに、世の中の大多数の人が、「動物と言えば友だちでしょう。食べるなんてとんでもない」みたいに思う時代になれば、動物の権利を法制化する必然性も出てくる可能性はあると思います。

でも、現時点ではまだそこまで行ってないんだから、そんなにムキになって正義感ぶることないだろ、という感じです (^^)。

彼らが主観的にどう思っているかはわかりませんが、動物に権利を与えることこそが、まさに人間のためである、というロジック自体はそれほど変でもないと思います。

人間同士だってそうで、近代民主主義の「人間は生まれながらにして平等」というスローガンだって、よく言われるように、もともとは政治的フィクションだったんですよね。

だって、生まれながらにして平等だったら、古代文明のころから民主制ができたっていいはずなんですから。もちろん、ギリシャの民主制はありますが、あれは奴隷制をベースにしたものですからね。

それが近代になって実現したのは、単なる正義感だけじゃなくて、民主制である方が、多くの人にとって都合がいいという社会的な条件がととのったからでしょう。たとえば、商工業みたいな分権的な統治を必要とする産業の発達とか、メディアの発達や教育の普及により、高度な政治についての議論を一般庶民もできるようになったりとか。

ドイツみたいな後発民主主義国がいい例で、極端に言えば、民主化されたフランスに戦争で勝てないから民主化したわけですよね (^^)。ある意味日本だってそうかもしれないし。

ロボットだって、最初は人間の所有物から出発するでしょうけど、どんどん知能が高くなってくれば、かれらに「人権」を持たせた方が、人間にとっても都合がいい、という議論も出てくると思いますね。そうすれば、アトムや PLUTO のような世界が実現する可能性もある。これはある意味、動物の権利よりも実現性があるんじゃないかなあ (^^)。

そんなわけで、ぼくの場合、今はまだ時機尚早である、という立場ですね。

追記:

 もう一つだけいい忘れたことを。この作家を非難する意見でに欠けていると感じることの一つに、生命を絶つことのマイナス価値ばかりを言い立てて、生命を生むことのプラス価値をほとんど勘定に入れていないことがある。

 たとえば、先天性の病気などをテーマにしたドラマで、「短い人生だったけど生まれてきてよかった」みたいな結末で終わるものがあるが、ああいう話が感動を呼ぶことからしても、短い生涯であっても生を受けること自体に価値がある、と思っている人は多いはずなのである。

 その短い生涯を終わらせているのが、病気や運命であれば完全な美談で終わるわけだが、人為的な選択であると、その価値が相殺されてしまうわけである。

 しかし、先に書いたように、社会的責任を放棄して子猫をすてたとして、誰も拾ってくれなかったら、結局保健所につかまって殺処分になる可能性が高いわけであるが、まさか、この保健所のやることまで動物虐待と言う人は少ないだろう。

 なぜ保健所は猫を殺さなくてはならないかと言えば、それは、飼い手のいない猫族の総数をそんなに増やすことはできないという、人類全体の都合に他ならない。いわば、人類全体が共謀して猫を殺しているわけであり、他に選択肢がないとするなら、猫にとってはそれも一種の運命である。この作家のやっていることは、その保健所の役割を代行しているだけとも言える。

 そもそも、少なく産んで大切に育てるというのは人類独特の進化戦略であって、人類の倫理もこれに合わせて作られたものであるが、生物の中には、最初から一部が死ぬことを織り込み済みで、たくさん産んで産みっぱなしにするという種だってたくさんいるのであって、そういう種にとっての倫理は、当然人類のものとは違ってくるはずである。猫だって、マンボウほどではないにしろ、人間に比べれば多産な生物である。

 ぼくだって、もしこの作家のやっていることが単なる無意味な殺戮だったら、もっと非難しているだろうが、自分なりに考えた限りでは、去勢や不妊手術が、この作家のやっていることに比べてそれほど絶対的な道徳的優位性を持っているとは思えないのである。

 ただ、何度も書いているように、多くの愛猫家は猫が可愛くて飼うのだから、この人のような「猫の愛し方」をするぐらいなら、猫を飼うのをやめるだろう。この作家はそのことを知っていながら、得々として全国紙にそのことを書いているわけで、ぼくが気に入らないのはむしろその性格である。

 自分と価値観の違う相手に堂々と論戦を挑んで相手の価値観を変えさせようとするのはまっとうな行為である。人類が根源的に持つ業のようなものを文学的に表現するのもまっとうな行為である。この作家には、このどちらの選択肢をとる能力もあるはずである。しかるに、この作家は、斜に構えて自分もろとも世間の人を引きずり下ろして冷笑しているに過ぎず、彼女が世間の怒りを買うことは至当であると言うほかはない。

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