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オヤジがオヤジギャグを言う理由

 世の中、気づいている人はみな気づいているが、おおっぴらに口に出して伝えられることが少ない知識というのがある。ぼくはあきれるほどニブいところがあるので、そういうことに一人だけ気づかないことが結構多い。インターネットのおかげで、そういう一種の暗黙知を人に尋ねなくてもこっそりおべんきょーできるようになり、かつてほどは不便さを感じなくなったものものの、それでも時折、何でオレは今までこんなことに気づかなかったのかと思って突然一人で赤面することがよくある。

 オヤジがなぜオヤジギャグを言うか、というのも、おそらく、まともな感性をもった人であればとっくに気づいていることであろうが、ぼくはなんと今日になってようやく気づいたので、ここに書きとめることにする。

 若者というのは、若者的な感性でしか物事を見れないので、オヤジになると感性が鈍くなってオヤジギャグしか言えなくなると思っている人が多いのではないだろうか。ぼくも正直、若い頃はそんな感じで考えていて、もちろん、そういうところもなくはないが、この見方は正確ではないと思う。

 むしろ、問題は知識の共有である。お笑いに決定的な理論はないようだが、笑いにとってコンテキストの共有が重要であることは論を待たないだろう。オヤジと若者では、まずこの共有されている情報が違うのである。これについても、若者は、オヤジは時代の流れについていけないと思いがちだが、これも必ずしも正しくない。むしろ、歳をとると情報に対する興味の方向性が変わってくるのである。

 一番重要な違いは、若者と言うのは濃密な人間関係を好むが、オヤジは必ずしもそうではないということである。したがって、若者は友だちが知っていることは自分も知ろうとする傾向が強いが、オヤジになると自分の知りたいことだけを知っていればよいと思うようになってくる。

 その結果、若者から見た世界では、自分が面白いと思うギャグは若者には必ず通じるが、なぜかオヤジには通じないというふうに単純に認識される。一方、オヤジから見た世界では、自分が面白いと思うギャグは最初から一部の人にしか通じず、その通じない人の中に若者も含まれるという感じになるのである。

 そういう認識のもとでオヤジが若者にギャグを言おうと思うと、自分の中にある知識の中で、若者と共有できる部分を意識的に探し出してギャグにするという形になるが、オヤジが持っている若者と共有できる知識などというのは、若者から見れば所詮ホットでもディープでもない知識なので、最初から面白いギャグにはなりようがないのである。

 もちろん、オヤジ自身だって、そのことに気づいていないはずはない。しかし、オヤジというのは狡猾なので、たとえギャグ自体はつまらなくても、自分が若者に対してギャグを言おうとしているという姿勢が伝わればいいやとか、オヤジギャグを馬鹿にされること自体もコミュニケーションのきっかけになるとか、そういう姑息な考え方をして開き直るわけである。

 若者諸君。オヤジギャグしか言えないオヤジをゆめゆめ馬鹿にすることなかれ。そういうオヤジは、実は君達を子供扱いしてわざと程度の低いギャグを言っているだけで、内輪の場では、若者にはとうてい理解できないようなディープなギャグを連発して笑い転げているのかもしれないのだ。。。ホントか (^^)? 

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既視感

 一部で流行っている「イルカがせめてきたぞっ」という画像、

イルカがせめてきたぞっの画像

激しく既視感があるんですが。。。(^^) おそらく、ぼくは子供の頃にこの絵を見てますね。何で見たんだろうなあ。どうしても想い出せない。。。

追記: 「なぜなに学習図鑑」が出典らしいです。 そういや、こういうやたら想像力をはばたかせすぎてフィクションだかノンフィクションだかわからなくなってるような本、よくあったなあ。。。あと、学研のジュニア・チャンピオン・コースとか。オウム世代はこのような本によって育まれた、とかよく言われなかったなあ (^^)。

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サイバー恋愛物のアイデア

 ある友人が、mixi の足跡機能を利用した個人情報ハックの危険について教えてくれました。これは要するに、一種のウェブ・ビーコンですね。mixi の URL をウェブ・ビーコンとして使えば、足跡が残るので、足跡をたどれば、そのウェブサイトにアクセスした人のプロファイルまでゲットできる、というお話。

 これを防ぐ方法としては、mixi のサーバー側で、Referer が mixi.jp でない HTTP リクエストをチェックして警告ページを表示するとか、クライアント側のブラウザでページを先読みして、ページ自体の URL が mixi.jp でないのに mixi.jp の URL を参照していたら警告を出すとかすればよいんじゃないかと思います。

 だいたい、これを大々的にやったら、犯人もしくは共犯者のプロファイルだってバレバレなんだから、そんなにひどい犯罪には使えないんじゃないかと思いますし (^^)。

 ところで、この話を聞いて思いついたんだけど、これって、恋愛小説の小ネタとして使えないでしょうかねえ。

 mixi の会員になっているシャイな少年が主人公で、好きな女の子が mixi に入会していることを知るんだけど、気が弱くてどうしてもアプローチできない。その話を聞いて一計を案じたハッカーの友人 (^^) が、その少年がよく見るアダルトサイト (でなくてもいいんだけど (^^)) に、この mixi のウェブ・ビーコンをはっつけちゃうわけ。  その結果、少年がアダルトサイトを見るたびに、その女の子のところに足跡が残るようになり、その女の子はもともと少年に好意を持っていて…、という書くのも面倒なありがちパターンでめでたしめでたしになるという (^^)。

 もちろん、少年が女の子に、「昨日の何時ごろ何やってた?」とか言われて、勝手にうろたえるみたいなネタはお約束です (^^)。

 もちろん、大人向けの小説には使えないでしょうが、ジュブナイルやラノベの一エピソードぐらいにはなりませんかねえ (ラノベをなめるなって言われそう (^^))。アイデア使用料は食事一食分ぐらいでよいので、ご希望の方はご連絡ください。美人女性作家の場合には、メシ代はこっち持ちでよいので、一緒に食事に行きましょう。なんつったりして (^^)。

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な、なんでいまごろ?

 小泉さんがいまごろになって、加藤紘一実家放火事件に言及。な、なんでいまごろ (^^)?

 朝日の若宮さんが書いた「放火への沈黙 「テロとの戦い」はどうした」への答えなのかなあ。

 じゃ、若宮さんはなんでいまごろ。。。?

 ま、いずれにせよ、言及しないよりはよいことだと思いますが。。。

 なんか、この事件に対する世間の扱いって、軽すぎないか?

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禁断の惑星

 The Economist に「Forbidden planet」という題で、例の冥王星問題の記事が出てました。とりたてて変わったことは書いてないのですがが、英語圏での惑星の覚え方がこう変わるだろうというのが書いてありました。

“my very educated mother just served us noodles”

 元が "Nine Pizzas" だったのが "Noodles" になっただけですけどね (^^)。

  でも、N で始まる食べ物って、他になかったのかなあ。Noodles が特に好まれる理由があるんでしょうか。

英語のニーモニック―円周率から歴史年号・イギリス王室まで 覚え歌大集合追記: 「英語のニーモニック 」 という本 (英語圏での語呂合わせの記憶法ばかりを集めたユニークな本) によると、この記憶法には他にもいろんなバリエーションがあるようですね。

My Very Educated [Earnest] Mother Just Served Us Nine Pickles [Pizzas].

My Very Efficient [Excellent] Memory Just Sums Up Nine Planets.

Men Very Easily Make Jugs Serve Useful Nocturnal purposes.

 3 番目のは、Mercury と Mars の区別がつくところがいいらしいです (^^)。(ちなみに、この本では jugs を「ジョッキ」と訳してるけど、これはホントはエロい意味があるんだと思います。ウソだと思ったら、辞書ひいてみて (^^))

 検索してたら、もっとエロいのを見つけました (^^)。

 My Very Erotic Mate Joyfully Satisfies Unusual Needs Passionately

「あたしのエロエロなダンナは、変な欲求を、うれしそうに、情熱的に満たしました」って感じ? (^^) みんなよくくだらないこと考えますね。これなら、Passionately を取るだけだから、新規格対応も簡単ですね。

追記: タイトルをロバート・シルヴァーバーグの「禁じられた惑星 (A Time of Changes)」と混同してました (^^)。指摘してくれた方、感謝。

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キャラが立ってきた柳本ジャパン

 甲子園は時間がなくてほとんど観れなかったので、ハンカチ王子とかの話題についていけなくてちょっと口惜しく思っている最近の私です (^^)。

 そのかわりと言ってはなんですが、女子バレーのワールド・グランプリはわりと観てます。国内の V リーグとかはまったく観ていないのですが、柳本ジャパンはメグ・カナのころから観ているので (メグちゃんはどうしちゃったのかな (^^))、だんだん愛着が出てきましたね。

 なんか、このチームはうまいことキャラが立ってますよね。テンちゃんというめちゃ背の低い天才セッターがいて、シンちゃん (ユニフォームにまで SHIN と書いてあるけど (^^)) というこれまた背の低いアタッカーがいて、かおる姫という美形でアタックもできるリベロがいて、カナやスギという背の高いレフト、センターがいて、という感じで。

 外国のチームを見ると、わりとみんな背が高くてパワーがあって、という感じなので、なんか、明訓高校対大リーガーの試合を見てるみたいで面白いです。

 また、みんなの顔もいい感じに引き締まってきましたよね。ぼくもこんなたるんだ顔ではいけない、もっとしぼらないと、と反省しています。。。^_^;

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続々・子猫殺し

 この件について、mixi である人と議論した内容を一部転載。長いです (^^)。

確かにこの作家も○○だけど、それに対してあまりムキになって人非人みたいに言う方々にも、正直違和感がありますね。

自分の飼っている猫に対して残酷なことをされたくないという気持ちはよくわかりますが、その愛情を猫という種全体に拡大して、他人の飼っている猫の飼い方にまでけちをつけるという行動に移すところには、ある種の飛躍がありますよね。

要するに、ペットはあくまで人間の所有物であって、その取り扱いは飼い主の美意識だけに任せるべきなのか、それとも、ペットは、人間と同一ではないが、ある種の権利を持つ存在であり、その権利は飼い主を問わず適用されるべきなのか。

猫好きの人は、無意識のうちに後者を仮定しているみたいだし、フランスの法律も、おそらくはそういう思想なんでしょうけど。

でも、これってやりすぎると、余計偽善的になるところもありますよね。例えて言えば、奴隷制を布いている国で、奴隷愛護法を作るようなもので、そういうことをやればやるほど、それ以前に奴隷制自体をやめれば? みたいな感じになってくる (^^)。

だから、本質論で言えば、法律で規制するより、個人の美意識に任せる方がいいような気がするんですけどね。。。

愛猫家っていうのは、結局、自分が猫と友だちだという幻想、と言ってはいいすぎですが、そういう意識を持ちたいわけですよね。その意識がさらに進むと、人類が種として猫という種と友だちであると思いたいということになるんでしょう。だから、他の猫が虐待されているところも見たくなくなる、という順番だと思いますけど。

このロジックが正しいとすれば、目の前で虐待されるのももちろんイヤですが、影でこっそり虐待していたとしても、その事実がわかった以上看過できない、ということになるんじゃないですかね。

そういうふうに考える人が多ければ、猫にある種の権利を与えるということも、まさにそういう「人間の都合」に合致するということで正当化される可能性もあると思います。

 ただ、そうやってペットを飼うという行為のハードルを上げていくと、逆にペットを飼うという行為の意味がどんどん無化されていくというところもあるんですよね。

つまり、もともとペットというのは、人間の彼女や友だちの代用品であるという要素もあるでしょう? 動物は、人間のように人を振ったりしないし、監禁しても犯罪にならないし、食費も安いし、健康管理の責任も少ない。そういう、人間を世話するのに比較したときにお手軽さが、動物を飼う理由の一つであることは否定できないでしょう。

ですから、あまりペットにいろいろな権利を与えてしまうと、ペットを飼う責任が重くなり高コストになりすぎて、よっぽど金や時間やいろんなものに余裕のある人しかおいそれと飼えなくなってしまうでしょう。これもある意味本末転倒だと思うんですよね。

そう考えると、結局は、所有物路線も友だち路線も完全に徹底することはできなくて、ほどほどのところで妥協するしかないはずなんですよね (^^)。

まあでも、愛猫家の多くが、自分が猫を愛しているということに誇りを持っているのは当たり前といえば当たり前ですよね。もともと、そういう誇りを持ちたいがためにペットを飼うわけですから。。。(^^)

そういう意味で、この作家の書いていることは、まさにそういう愛猫家の神経を逆撫でする行為なわけですよね。そのわりに、「他の愛猫家の猫の飼い方は間違ってる!」みたいなはっきりした主張があるわけでもないし。

この人のやっていることは、SM やスカトロとかと同じで、単にこの人の好みという域を出ることはおそらくないでしょう。だから、ぼくは別に SM やスカトロでもいいけど、わざわざ人の前でやるなよ、っていう感じですね (^^)。

ただ、そういう人はあくまで例外だと思うんですよね。そのへんが、普通の刑法犯とかとは違うと思うんです。

たとえば、泥棒とかだったら、法律がなかったら歯止めなく増加するということも考えられますが、人間は毎日食事をしなければならない、というような法律を作る必要はあまりないわけですよね。人間はもともと食事をするのが好きですから (^^)。

同じように、大多数の人は、もともと猫が好きなので、ある程度自主性にまかせてもいいような気がするんですけどね。。。

人間の子供の場合、当たり前ですけど子供はペットと違って人間ですから、大人なみの権利を与えることに本質的な困難はないんですよね。子供という存在は、親が「飼う」ことが前提条件となって成立しているわけでもないから、親がその権利負担に耐えられなければ、国家その他が負担したっていいんだし。

ところが、ペットの場合には、人間並みの権利、というのが本質的な上限になってしまうんですよね。少なくとも、飼い主を選ぶ権利とか、飼われることを拒否する権利、自由に逃亡する権利、などは、ペットという概念に本質的に反してますから (^^)。

ペットを飼いたいという「人間の都合」には、動物を自分の自由にしたいという欲望と、動物を人間並みに扱いたいという欲望という、本質的に相矛盾する欲望が入り混じっているわけで。そこを自覚しておかないと、変な極論に陥ってしまう危険があると思うわけです。

本当にペットに人間並みの権利を与えるというのなら、ペットが人間に束縛されないで暮らせるペットランドみたいなのをつくって、ペットを飼いたい人間はそこに出向いていって、ペット自身の意思を確認した上でペット契約を結び、ペットになっていただく、というふうにしなければだめなんだけど、これはどう考えたって実現性はないですよね (^^)。

(ぼくは、ペットはもともと人間に飼われるようにできてる、というような主張を聞くと、どうしても、黒人はもともと白人の奴隷になるために神様によって作られた、みたいな主張を想い出してしまうんですよね (^^))

そう考えれば、結局は、愛猫家が持つ「猫と人類は仲良しである」という共同幻想を崩すような行為だけは最低限やめなさい、みたいな程度の規制しかできないはずなんですよね。

愛猫家が非難する理由は、おそらくさっき書いたように、「猫と人類は仲良しである」という愛猫家の共同幻想が崩されるからだと思うんですね。

ただ、この理由が、他人に何かを法的に強制するほどの理由なのか、というところには多少の疑問があるんですよすね。

もともと、その共同幻想というのは、猫族たちの主体的な選択によるものではない、たぶんに愛猫家たちの自己満足的なものですから、万人に強制するような普遍性があるのかどうかも疑問ですし。

単に幻想をこわされるのがいやなら、わざわざ見せびらかすようなマネだけ禁止すればいいのかもしれないし。

たとえば、イスラム教徒は「豚は神聖な生き物である」という共同幻想を持っているわけだから、イスラム教徒の前でわざわざ豚を虐待してみせるのはよくないでしょう。

でも、だからといって、そのルールを全人類に強制する必然性があるのかと言われたら、イスラム教徒以外の人の多くは疑問に感じるんじゃないですか? だって、そう思ってるのはイスラム教徒だけなんですからね。

猫自身の自由な選択によるものでもない、人間の勝手な都合による「正しい猫の愛し方」というものが、万人に強制するほど普遍性のあるものなのか。そこが疑問だと思うわけです。

まあ、猫族を友だち扱いするのは、わりと世界的 (一部アジア地域では猫料理とかもあるらしいが) かもしれないけど、クジラ族は日本では高級食材、欧米では友だち、牛族はスペインでは闘って殺すのが愛情、ヒンズー教徒にとっては神聖な生物、日本では主に食材、というぐらいの差があるわけですからねえ (^^)。

これだけ価値観に差があるものに、統一的な基準を作ろうとするのはかえって不自然ではないかと思うのですが。

ご存知の通り、ぼくも合意による正義というものを重視していますが、この場合、一方の当事者であるペット自身の自由な意思を確認する方法はないわけで、合意に至ったとしても、あくまで人間同士の合意にすぎないんですよね。にもかかわらず、どちらがよりペットのためであるか、という観点で議論されていることには不健全なものを感じてしまうんですね。

ぼくもかつて、佐倉統さんの「現代思想としての環境問題」という本で「環境を守るのはあくまで人間のためなんだ」という主張を読んで、目からウロコが落ちたことがありましたけど (今ではたいして珍しい主張でもなくなりましたが (^^))、同じように、ペットを飼うのは、あくまで人間のためなんだ、という視点を忘れないようにしないと、かつての環境問題みたいにおかしな議論がはびこる危険があると思いますね。

フランスの刑法っていうのは、やっぱりキリスト教的な発想なんじゃないでしょうかねえ。日本の動物愛護法も、もともと日本の文化に根ざしたものではなく、西洋から野蛮だと言われて仕方なくつくったみたいなところがあるようですし (^^)。

中世キリスト教圏では、「動物裁判」とか言って、動物の「犯罪」を裁判にかけて「死刑」にしたりしてたらしいですからね。こういう観念は、やっぱり文化依存的で、全人類的な普遍性があるかどうかはたいへん疑問だと思います。

まあ、こういう人々の意識だって、時代の技術的制約によって変わるかもしれないんですよね。どんな食材の味も忠実に模倣できるすっごくおいしい合成蛋白質みたいなものや、自分の代わりにペットの世話をしてくれる格安ロボットや、動物の意思を確実に確認できる進化したバウリンガルみたいなものや、動物の脳を進化させるサイボーグ技術みたいなものができれば、またみんなが合意できるポイントが変わってくる可能性もありますよね (^^)。

要するに、世の中の大多数の人が、「動物と言えば友だちでしょう。食べるなんてとんでもない」みたいに思う時代になれば、動物の権利を法制化する必然性も出てくる可能性はあると思います。

でも、現時点ではまだそこまで行ってないんだから、そんなにムキになって正義感ぶることないだろ、という感じです (^^)。

彼らが主観的にどう思っているかはわかりませんが、動物に権利を与えることこそが、まさに人間のためである、というロジック自体はそれほど変でもないと思います。

人間同士だってそうで、近代民主主義の「人間は生まれながらにして平等」というスローガンだって、よく言われるように、もともとは政治的フィクションだったんですよね。

だって、生まれながらにして平等だったら、古代文明のころから民主制ができたっていいはずなんですから。もちろん、ギリシャの民主制はありますが、あれは奴隷制をベースにしたものですからね。

それが近代になって実現したのは、単なる正義感だけじゃなくて、民主制である方が、多くの人にとって都合がいいという社会的な条件がととのったからでしょう。たとえば、商工業みたいな分権的な統治を必要とする産業の発達とか、メディアの発達や教育の普及により、高度な政治についての議論を一般庶民もできるようになったりとか。

ドイツみたいな後発民主主義国がいい例で、極端に言えば、民主化されたフランスに戦争で勝てないから民主化したわけですよね (^^)。ある意味日本だってそうかもしれないし。

ロボットだって、最初は人間の所有物から出発するでしょうけど、どんどん知能が高くなってくれば、かれらに「人権」を持たせた方が、人間にとっても都合がいい、という議論も出てくると思いますね。そうすれば、アトムや PLUTO のような世界が実現する可能性もある。これはある意味、動物の権利よりも実現性があるんじゃないかなあ (^^)。

そんなわけで、ぼくの場合、今はまだ時機尚早である、という立場ですね。

追記:

 もう一つだけいい忘れたことを。この作家を非難する意見でに欠けていると感じることの一つに、生命を絶つことのマイナス価値ばかりを言い立てて、生命を生むことのプラス価値をほとんど勘定に入れていないことがある。

 たとえば、先天性の病気などをテーマにしたドラマで、「短い人生だったけど生まれてきてよかった」みたいな結末で終わるものがあるが、ああいう話が感動を呼ぶことからしても、短い生涯であっても生を受けること自体に価値がある、と思っている人は多いはずなのである。

 その短い生涯を終わらせているのが、病気や運命であれば完全な美談で終わるわけだが、人為的な選択であると、その価値が相殺されてしまうわけである。

 しかし、先に書いたように、社会的責任を放棄して子猫をすてたとして、誰も拾ってくれなかったら、結局保健所につかまって殺処分になる可能性が高いわけであるが、まさか、この保健所のやることまで動物虐待と言う人は少ないだろう。

 なぜ保健所は猫を殺さなくてはならないかと言えば、それは、飼い手のいない猫族の総数をそんなに増やすことはできないという、人類全体の都合に他ならない。いわば、人類全体が共謀して猫を殺しているわけであり、他に選択肢がないとするなら、猫にとってはそれも一種の運命である。この作家のやっていることは、その保健所の役割を代行しているだけとも言える。

 そもそも、少なく産んで大切に育てるというのは人類独特の進化戦略であって、人類の倫理もこれに合わせて作られたものであるが、生物の中には、最初から一部が死ぬことを織り込み済みで、たくさん産んで産みっぱなしにするという種だってたくさんいるのであって、そういう種にとっての倫理は、当然人類のものとは違ってくるはずである。猫だって、マンボウほどではないにしろ、人間に比べれば多産な生物である。

 ぼくだって、もしこの作家のやっていることが単なる無意味な殺戮だったら、もっと非難しているだろうが、自分なりに考えた限りでは、去勢や不妊手術が、この作家のやっていることに比べてそれほど絶対的な道徳的優位性を持っているとは思えないのである。

 ただ、何度も書いているように、多くの愛猫家は猫が可愛くて飼うのだから、この人のような「猫の愛し方」をするぐらいなら、猫を飼うのをやめるだろう。この作家はそのことを知っていながら、得々として全国紙にそのことを書いているわけで、ぼくが気に入らないのはむしろその性格である。

 自分と価値観の違う相手に堂々と論戦を挑んで相手の価値観を変えさせようとするのはまっとうな行為である。人類が根源的に持つ業のようなものを文学的に表現するのもまっとうな行為である。この作家には、このどちらの選択肢をとる能力もあるはずである。しかるに、この作家は、斜に構えて自分もろとも世間の人を引きずり下ろして冷笑しているに過ぎず、彼女が世間の怒りを買うことは至当であると言うほかはない。

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続・子猫殺し

 坂東氏のエッセイについての続報。坂東氏のこんなコメントが出ていた。

タヒチ島に住んで8年。人も動物も含めた意味で『生』、ひいては『死』を深く考えるようになった。『子猫殺し』はその線上にある。動物にとって生きるとはなにかという姿勢から、私の考えを表明した。人間の生、豊穣(ほうじょう)性にも通じ、生きる意味が不明になりつつある現代社会にとって、大きな問題だと考えているからだ。(毎日新聞)

 つまり、単に嫌がらせではなく、信念をもって書いた、と言いたいらしい。

 しかし、どう考えても中途半端の感が否めない。彼女はこういう文章を書いて、いったい何がしたいのだろうか。

 まさか、自分以外の愛猫家にも、去勢や避妊をやめて子猫を殺せと言いたいのか。そんなのに実現性があるわきゃない。だって、猫を飼っている人は、猫が可愛いから飼ってるんだもん。それを自分で殺さなきゃならないんなら、そもそも猫を飼うのを止める方を選ぶでしょ。

 あのね、確かにペットを飼うということは、人間に対しては許されない「押し付け愛」を、動物を利用して実現するという行為でしょうよ。そういう意味で、これが自分の愛し方だ、という勝手な主張は、人間に対しては通用しなくても、ペットに対しては通用しないでもないでしょう。

 でもね、その「押し付け愛」がずっと「押し付け愛」のままだったら、どんなバカな飼い主だってしらけちゃうでしょ。だからこそ、それが少しでも「本当の愛」であると感じられるように、飼い主は日々努力しているのであってね。重要なのは、飼い主にとって、自分とペットとの関係が、主観的に「本当の愛」であると感じられるかどうかなんですよ。

 それとも、去勢や避妊をするか子猫を殺すかの選択権を、飼い主に与えろと言いたいのか。これならまだわかるけどね。要するに、ペットの愛し方は人それぞれ、みたいなコイズミさん的な主張でしょう。でも、それだけのことなら、わざわざ全国紙に人の神経を逆なでするような文章を書く必要はないはず。先に書いたように、みつからないようにこっそりやったっていいし、あるいは、飼い主によるペットの殺処分権みたいなオブラートにくるんだ主張をしてもいいんだし。

追記: なにげなく「コイズミさん的な主張」と書いてから、この問題の構造が、靖国参拝問題とちょっと似ていることに気づいた。つまり、どちらも、「死者」とか「動物」とか、自分の意思を表明できない対象に対して、勝手に「追悼の意」だの「愛情」だのをささげる人たちがいて、互いにどっちのやり方が正しいかと争っている、という構図である。こういう構造だと、当の本人の意見がないから、わりと主観で押し通せちゃうんだよね (^^)。だから、理性的に合意に至ることが難しい。ぼくは、どっちも、相手のためでなく、自分のためにやるんだと考えた方がいいと思いますけどね。

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子猫殺し

 坂東眞砂子氏が日経新聞に書いた「子猫殺し」というエッセイが、一部で話題になっているらしい。その内容の一部はこの記事などでも読め、これを読めば、だいたいどんな内容だったかは想像がつく。

 まあ、ぼくはこの人の言いたい事もわからないではない。「きっこの日記」で有名なきっこさんは、

「これじゃあ、人間が、避妊してセックスするのも、避妊しないでセックスして、できちゃった子供を人工中絶するのも『同じこと』って言ってるワケじゃん。それどころか、こいつのやってることは、生まれて来た赤ちゃんを殺してるワケだから、人工中絶よりもタチが悪い」

と言っているけれど、まず、避妊と去勢は違う。避妊は快楽を奪わないが、去勢はセックスの快楽自体を奪ってしまうものであり、坂東氏はその残酷性を重視しているわけだろう。また、一部のキリスト教徒などのように、避妊は中絶と同じくらい罪悪であると主張する人だっているのであって、避妊が中絶よりマシという価値観に絶対的な普遍性があるとも限らない。 また、仮に里親を探せたとしても、その里親が坂東氏と同じように去勢をさせない確率は低いだろう。

 そもそも、この問題を普遍的な正義という観点で論ずるには、猫自身の意思が問題になろうが、彼らが一生屈辱的な奴隷状態で生きるよりも尊厳ある死を選ばないとは誰にも言えないだろう。

 もちろん、ぼくだって、子猫を殺すよりは、「お前セックスもさせられなくてごめんな~」などと偽善的なことを言いながら去勢手術をする方を選ぶに決まっているが、それは、正義感というより、ぼく自身が子猫を殺す自分とか死んだ子猫とかを見たくないからである。

(もし子供ができちゃって里親が見つからなかったら、「社会的責任なんぞクソ食らえ!」と言ってどっかにこっそり捨ててくるだろうね、ぼくだったら。それはそれで非難の対象になるんだろうけど、どうせ非難されるなら、そっちで非難されることを選ぶでしょう (^^)。それはまあ、ぼくの勝手な生命観みたいなものによるんだろうけど。)

 そういう意味で、これは普遍的な正義と言うよりは、人間の主観的な価値観や快・不快の問題であり、坂東氏は、単に自分にとって少しでも快い方を選んだというだけのことなのだろう。そう考えると、ぼくは、坂東氏を声高に批判する人に対して、「クジラは他の動物と違って頭がよくて人間と友だちになれるんだから、殺して食べるなんて残酷だ」みたいなことを言う人と同じような独善性を感じなくもないのである。

 少なくとも、普遍的な生命尊重主義からすれば、クジラは殺していいが子猫は殺していけないなどという理由はない。理由があるとすれば、それは、クジラは美味しく、子猫は可愛いということ以外にはないのであって、どちらも人間側の勝手な都合なのである。そして、彼女の場合、その勝手さが他の人とはちょっと違っているというだけだろう。そのことだけは一応指摘しておきたい。

 ただ、坂東氏の決定的いやらしいところは、彼女は子猫を殺すのが正しいと主張しているのではなく、選択の問題にすぎないと言っており、なおかつ、自分の選択が大多数の人には不快なものであるということを知っていながら、わざわざ自分の選択をエッセイにして人に読ませているところである。

 そこから、多くの人は、この人は選択の問題だと言ってるけど、本当は自分の選択の方が正しく他の人は偽善的なだけだと言いたいんじゃないのと思ったり、自分は一般庶民とは違うのだという旧時代の作家の自意識みたいなものを感じ取ったりして、反発するんだろうと思う。

 だから、この人がどうしても子猫を殺したいのなら、エッセイになど書かず、自分の業を一身に感じながら一人でこっそり殺し続ければよかったのである。逆に、人間の根源的な偽善性みたいなものを告発したいのなら、筒井康隆氏の「改札口」とか「池猫」みたいな小説を書けばよかったのだ。ぼくはそういうわけで、この件を「重要な問題提起である」などと考える気はさらさらなくて、わざわざ人の嫌がることをしてみせるやなやつ、と思うだけである。

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がんばれ、理想主義的平和主義者!

 最近、タカ派とハト派という分類がどうも現実をうまく現せていないと感じているので、より現実に即した分類法の試案として、こういうのを考えた。

  1. 理想主義的国家主義
  2. 現実的国家主義
  3. 現実的平和主義
  4. 理想主義的平和主義

 この 4 者、政策的には 2 と 3 が似ていて、1 と 4 は両極にあるわけだが、精神類型としては、1 と 4 はむしろよく似ていると思う。これについては、いずれ詳しく論じてみたい。

 おそらく、大多数の人は、1 や 4 にはなろうと思ってもなれなくて、2 か 3 のどちらかになるはずである。

 ただ、最近の傾向としては、1 がわりと地歩を得ているのに比べて、4 が妙に肩身の狭い状態になっているわけだが、これはややバランスを欠いているのではないかと思うのだ。

 というわけで、私としては、4 をもっと応援したい気分になっている。もっとも、実際にそういう人にあったりすると、付き合いきれないと思うことも多いし、私自身は、せいぜい 3 にしかなれないことはわかっているのだけれど (^^)。

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とつぜん夢一夜

 こんな夢を見た。

 駅の構内を歩いていると、浮浪者風の男に突然刃物で切りつけられた。切りかかる相手の腕を、両手でなんとか受け止めたものの、左手の向きがわずかにそれて、手のひらに刃が食い込む。

 男はそのまま身体を押し付けてきて、壁際に追い詰められた。男の腕にもさらに力が込もり、刃先が首に食い込んできた。

 いかん、このままでは頚動脈をやられる。そう思って勢いをつけて全力で相手を押し返すと、刃先は逆に男の首に食いこみ、血の筋が流れるのが見えた。もう一息だと思ってさらに腕に力を込めると、男の首から血飛沫が吹いた。

 はっと我に返ると、目の前には、事切れた男の身体が横たわっていた。


 自分では決して攻撃的な人間ではないと思っているのですが、いったん大義名分を得ると、つい調子に乗ってやりすぎる傾向があるんですね。そういう自分に対する戒めなのかなあ。。。(^^)

 フロイト的には、やっぱり性的欲求不満? ま、否定はしないけどさあ。。。(^^)

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怪しいものではありません

 松本人志さんという人のいうことにはしばしば感心させられるが、先週 (先々週かな?) の「HEY!HEY!HEY!」でも名言があった。ゲストの小林麻央が、「わたしよく鼻が詰まってるって言われるんですけど、ホントは詰まってないですから」みたいなことを言ったとき、松っちゃんが「鼻が詰まってるか詰まってないかを決めるのは、そっちじゃなくて、こっちだから」とピシリ。さらに、「よく、私は怪しいものではありませんとか言う人がいるけど、怪しいか怪しくないかを決めるのはこっちだから」とバッサリ。

 念のために勝手に補足させてもらえば、これは「本当に悪人か悪人でないかは、周囲の人間が勝手に決めることじゃない」という命題と表裏一体のものとして解釈すべき命題である。言い換えれば、「悪さ」は客観的に判定すべきだが、「怪しさ」はあくまで主観の問題なのだということだ。

 たとえば、日本には、「黒づくめの覆面を着て出歩いてはいけない」というような法律があるわけではないので、どんな格好をして歩いても自由と言えば自由である。しかし、それを見た人がどう思うかだって、当然のことながら、見るほうの自由なのであって、そんな格好をしていれば、怪しい奴と思われても文句は言えない。もちろん、「怪しい」からと言って、殴ったりするのは法律的に許されないが、友だちにならないとか、法律的に許される範囲で「非好意的」に遇する自由はあるわけだ。だから、分別のある人は、よほどの理由がない限り、わざわざそんな格好はしないわけである。

 もちろん、相手が家族や友人だったら話は別で、逆に、知り合いなのに見かけだけで怪しいと決めるなんて薄情だ、ということになるだろう。しかし、そういう信頼関係のない相手に対して、見かけを無視してどんな格好をした人をも平等に扱えなどと要求するのは無理な話というものである。そんなことが可能だったら、制服やファッションなどというものは、とっくに世の中からなくなっているはずだ。

 ちなみに、この服を着ればぜったい怪しく見えない服、などというものが完成することもありえない。なぜなら、そんな服ができれば、怪しい奴はこぞってその服を着るようになるから、じきに、その服こそが一番怪しいということになるに決まっているから。つまり、怪しく見えないような格好をするのだって、けっこう個々人の日々の努力のたまものなのである。一番簡単な方法は、多数派に合わせること。だからこそ、服装には常に流行があるのである。

 また、その覆面が親の形見なので、親の命日にはどうしても着用したいとか、これを新しい革命的なファッションとして流行らせたいとか、何かしら特別な理由があれば、絶対にダメとは言えない。しかし、あえてそういうことをするからには、事前に周囲の人に事情を説明しておくとか、怪しい奴と思われてもいい覚悟をして着続けるとか、それなりの努力が必要なわけである。

 なぜ今日になってわざわざこんなことを書くのか、勘のいい人だったらすでに気づいていると思うが、残念ながら、勘のよくない人にもわかるように説明するほどの時間はない。悪しからず。

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Blackout

 都心で広範囲に停電だそうな。あちこち表示できないウェブサイトがあるのは、そのせいだろうか (やっぱ、そうみたいだ <<はてな障害情報>>)。東京電力のサイトも開けないし (^^)。もう少し時間がたってほとぼりが冷めてから、知り合いに電話してみようっと (^^)。

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レバノン情報戦メモ

     これもあまりメディアには出てこないので。。。レバノン情勢も情報戦の様相を呈してきております。

     これを見つけたのが、また例によってブロガーだそうで。

     もちろん、イスラエル側もいろいろやっとるようです。

     なんだか、ややこしい世の中になったものです。

     まあ、さすがに、「イスラエルのレバノン侵攻はなかった派」みたいなのは出てこないとは思いますが。。。(^^)

    おまけ: カナの爆撃について、CNN のキャスターがイスラエルのスポークスマンにつっこみを入れているの図。

                       

    おまけ: ジョン・スチュワート、イスラエルの戦略を絶賛の巻。あはは。やってくれるじゃないですか (^^)。

                       

     このネタいいなあ~。このジョン・スチュワートっていうのは、ちょっと太田光さんとかと似てるかも。時事ネタで一応風刺になってるんだけど、誇張が極端なので、風刺を通り越してナンセンスの域にまで達しているという。いしいひさいちさんとかとも共通するものを感じる。

    もひとつおまけ: これはナスララ師=モーフィアスという、マトリックスねたですな (^^)。

                       

     これは GIZMOZ.com というサイトで作ったらしいですね。このサイトを使うと、勝手なキャラクターにしゃべらせることができるんだけど、選べるキャラにブッシュ、ブレア、ビンラディン、ナスララ、アフマディネジャド、アラファトその他アブないキャラが勢ぞろい (^^)。

     あと、マトリックスには、ザイオン (シオニズムのシオンに相当) とかネブカドネザル (バビロン捕囚の人ね) とか出てくるので、どっちかというとイスラエルだよね~(^^)。

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哀れむ差別、批判する平等

 亀田問題については、当事者に対する毀誉褒貶とは別に、時代の変化みたいなものも感じる。やくみつる氏、勝谷誠彦氏など、亀田親子の礼儀や態度を批判する向きは多いが、たとえばこれが 30 年ぐらい前だったらどうだろう。

 30 年前、つまり、ぼくらが子供の頃はまだ、公立の小学校に行くと、みょーに汚い服を着てきたり、あまりお風呂に入っていないらしく、近寄ると体臭のする子供とかがいたものである。そういう子供に対しては、(子供同士のイジメとかはあっても) 少なくともタテマエ上は、汚いとか臭いとか言ってはいけないことになっていた。

 銭湯に行けば、身体中に派手な絵の描いてある (吉田戦車流に言えば「絵人間」) 人が、ぶっきらぼうな口調でいきなり話しかけてくることもあった。そういう人には、決して口答えせず、適当に話を合わせることになっていた。道端に汚い格好で座って、通行人がお金を投げてくれるのをひたすら待っている人もいた。そういう人に対して、「道端に座ってはいけません」とかお説教する人はいなかった。もちろん、なんとか狩りなどの獲物にする子供も。

 つまり、あのころはまだ、世の中には解決しようのない矛盾というものがあるという意識を、みんなが共有していた。したがって、そのような矛盾の犠牲者と見られる人に対しては、一般人と同じ常識を適用しないという暗黙のルールがあった。

 もちろんこれは、考えようによっては立派な差別である。しかし、社会に解決しようのない大きな不平等があるという認識のもとでは、その犠牲者を平等に扱わず、区別して扱うことこそが、より正義にかなっていると多くの人が考えたのだった。

(高度成長時代は一億層中流で、今よりもっと平等だったんじゃないの、とか思っている若い人。実際は、そんな単純な話じゃなかったんですよ。あの当時は、もっと歴然と差別されている人がいて、それ以外の人に限って建前上平等、というような社会だった。さらに言えば、その平等とされている人たちの間でも、はっきりと暗黙の序列みたいなものが決まっていたのです。それがそんなによい時代だったのか、知りもしないのに単純に憧れてほしくないですね。少なくともぼくは、今のほうがずっといい時代だと思います。)

 たとえば、「あしたのジョー」だって、明らかに年上の丹下段平や白木葉子に対して「おっさんよぉ」「あんたって人は」みたいなタメ口をきいていたわけだが、それを無礼だと批判する人はいなかった。もちろん、当時だってそういう行為自体は十分無礼だったのだが、無礼だと言うこと自体が無意味だという時代状況があったわけだ。

 このような時代だったら、西成区に育ち解体業を営むというあの人に対しても、多くの人が、自分とは違う世界に住む違う人種であり、自分と同じ常識が通用しなくても当たり前と思ったのではなかろうか。また、そういう人がひょんなことで有名人になったりすることがあっても、周囲の大人たちが緩衝地帯になって、そういう常識の違いによるボロが出ないようにしたであろう。 当時の有名人で、死後になってさまざまな奇行が判明した人も数多い。

 ひるがえって現代では、あのようなおっさんに対しても、多くの人が自分と同じ土俵に立っていると考えて批判しているわけである。これはある意味、世の中の人はみな同じルールの下で平等である、という意識の現れであるから、基本的には社会の進歩と言ってよいのだろうと思う。

 ただ、一つだけ気になるのは、本当に現代の日本社会は、それほど平等になっているのだろうかということ。解決しようのない社会の歪み、差別、不平等、みたいなものは、本当に無視できるほど小さくなったのか。

 たとえば、ぼくは自分が別に不幸だとは思っていないが、大企業やアカデミズムの世界に対するコンプレックスや僻みというものはいまだにあって、学者さんとかの非現実的な発言にムカつくことがある。終身雇用は日本が世界に誇るセーフティネットだ? じょーだんじゃねえ! そんなのは大企業だけに通用する話。中小企業でいくら終身雇用を標榜したって、会社自体がいつ潰れるかわかんねぇんだから意味ねえんだよ! そんなことすらわからずに、利いた風な口叩くんじゃねーよ、タコ! みたいな (^^)。

 ぼくは、詳しい事情がわからないから確たることは言えないのだが、あの親子やあの業界を批判する際にも、ひょっとしてそれと同じことをしてやしないだろうか、という想像力だけは持っておきたいと思うのである。

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イスラエルが使っているのは、役立たずの「ラムズフェルド・モデル」だ!

 これは、USA TODAY という、アメリカでも最大の発行部数を誇る新聞の、投書欄ですね。その次に正反対の意見の投書が紹介されているのでアレですが、アメリカも、こういう投書が投書欄の表題になるくらいの状況にはあるということで。。。(^^)

Israel using ineffective Rumsfeldmodel

USA Today
07 Aug 2006

Just when Israel was gaining some credibility from the world for its commitment to peace by withdrawing from southern Lebanon and some of the occupied territories, it overreacts to the kidnapping of two soldiers. Israel is following the Donald Rumsfeld book on nationbuilding and destroying the very government and infrastructure that is needed to defeat the terrorists (“Israel vows no cease-fire soon,” News). Lebanon was well on its way to becoming the kind of secular, democratic neighbor Israel needs on its northern border. It was not given the time to become strong enough to hold offHezbollah. When Israel withdrew from Lebanon in 2000, it should have asked for an international force to protect it from kidnappings and rocket attacks. In fact, the 133,000 U.S. troops now stationed in Iraq would have been better used on Israel’s northern border. I grow weary of comparisons between this fight and the one we had with the fascists inWorldWar II. As sick as Hitler was, he had a standing army and clear borders that we could beat him back into; his country had people who, when it was all said and done, wanted to make peace with their neighbors, rebuild their country and get on with their lives. Not so with the religious zealots we are dealing with now. When will we, and the Israelis, realize that conventional warfare will not work? Now, of course, it is too late. Israel’s destruction of Lebanon’s infrastructure and the killing of its civilians has made Hezbollah more popular than ever. The Israeli government should have met Donald Rumsfeld in Baghdadmonths ago. If it had, it would have seen firsthand the consequences ofmiscalculation.

イスラエルは、南レバノンや一部の占領地から徹底することによって、その平和に対する姿勢を世界から信頼されかけた矢先に、兵士 2 人のを誘拐に過剰反応してしまった。イスラエルは、ドナルド・ラムズフェルドの国家建設マニュアルにしたがって、テロリストを倒すのに必要なはずの政府やインフラストラクチャそのものを破壊している。

レバノンは、イスラエルが北部国境に必要としているような、非宗教的な民主主義の隣国に、まさになろうとしていたところだった。にもかかわらず、レバノンは、ヒズボラを撃退するだけの力を蓄える時間を与えられなかった。イスラエルは、2000 年にレバノンから撤退したときに、国際部隊に対し、誘拐やロケット攻撃からの保護を要請しておくべきだったのだ。実際、現在イラクに配備されている 13 万 3 千人の米兵だって、イスラエルの北部国境にいた方がよっぽど役にたっただろう。

この戦争と、第ニ次世界大戦におけるファシストとの戦いとを比べるような話にはもううんざりだ。

ヒトラーは確かにビョーキだったが、正規軍をもち、追い返す先の国もあった。ドイツの国民だって、なんだかんだ言って最終的には、隣国と和平し、国家を再建し、平和な日常をおくることを望んでいた。

けれども、我々が今相手をしている狂信者たちは、そうではない。アメリカ人もイスラエル人も、いったいいつになったら、従来の戦争のやり方ではダメだということに気づくのだろうか?

もちろん、今頃気づいてももう遅いのだが。

イスラエルによるレバノンのインフラストラクチャの破壊や一般市民の殺戮は、ヒズボラをさらに人気者にしてしまった。どうせなら、イスラエルの政府関係者は、数ヶ月前のバグダッドでドナルド・ラムズフェルドに会っておけばよかったのだ。

そうすれば、計算違いの結果というものを、その目で見ることができていたであろうに。

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蚊がいない?

 今年の夏は何かが違うと思っていたのですが、ようやくわかりました。蚊がいない!

 今年は、網戸を開けっ放しにしていることに気がつかないで寝てしまうことがあるんですが、いつもの年ならそんなことはあり得ない! そんなことしたら、蚊にさされまくりですから。でも、今年はまったく刺されない。だいたい、あの「ぷ~ん」という嫌な羽音を聞いたことがない。

 これは、ぼくの住んでいる地元だけの話なのか、それとも、全国的、世界的な現象なのか。もしかしたら、みんなとっくに気づいていて、今ごろ騒いでいるのはぼくだけだったりして (^^)。でも、少なくとも、ニュースとかでそういう話をきいた覚えはないんだけどなあ。

 もし、世界的に蚊の数が減っていたりしたら、なんか怖いよなあ。。。まあ、蚊がいなくて生活上困ることってあまり思いつかないんだけど。でも、生態系になんか影響を与えるとか、そういうことないのかな (^^)。

 ナウシカとか、その元ネタになっている「虫愛ずる姫君」とかは、蚊をひっぱたいたりとかもしないのかなあ。刺されっぱなし? 「もっと吸って~」みたいな感じ (^^)? 痒くてしょうがないよなあ。

 そう言えば、筒井康隆さんがむか~し書いていたエッセイで、もし、都会からゴキブリがいっせいに逃げ出したら、みたいな話がありましたね。都会はゴキブリすら住めないような環境になってしまったのかと思って、きっとみんな泣いて止めるんじゃないかって。「おねがい。ゴキブリさん、戻ってきて!」みたいな (^^)。

 とか言いつつ、戻ってきたらきたで、「なんで戻ってきやがったんだよ~」とか思うんだろうね。人間なんて勝手なもんだ (^^)。

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偶然の証明

 たとえば、チンチロリンだって、大バリしたときに限ってピンゾロを出すとかいうヤツがいたら、いくら「サイコロには一から六の目があるんだから、ピンばっかり揃うことだってあらーな」みたいなことを言ったって、やっぱりグラサイだろうぐらいのことは思われるわけである。しかも、サイコロは持参してよくて、相手には改める権利もない、みたいなルールになっていれば。

 プロの博打場では、そういうトラブルがおこらないように、いろんな作法が決められていると聞くが、博打場と同じような方々が仕切っているらしいあの競技において、そういう対策がまったくなされていないというのは、やっぱり、ダンナ衆だと思ってナメられているのだろうか (^^)。

※映像は記事とは無関係です。

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あなたの神経は太すぎる

あなたの神経の太さには、ほんとうに毎日驚かされます。
こちらの善意で、全額免除手続きをとっているのに、どうして返事しないのです
か?
このままですと、このチャンスはこれで放棄と認定され、他の人に譲ります。
放棄したくない場合
http://studio-rain.cocolog-nifty.com/blog/ からアクセスし、きちんと処理をしてくださ
い。

 ニックネームの最後に『要る』とつけすべて終えるだけで完了いたします。
一生一回のチャンスを逃がさないために今すぐ処理しましょう。

 拒否へ

 studio_rain@nifty.com


 ただでさえ暑くてイライラしてるのに、ムカつくメールよこすんじゃねーよ。ったく。

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報道と宣伝のはざまで

 そもそも、スポーツ・ジャーナリズムというものには、他のジャーナリズムと比べて、根本的に異質な点があると思う。ニュース・ショー番組などでも、スポーツのコーナーになると、明らかにトーンが変わるのがその証拠だ。スポーツ・ジャーナリズムというのは、許しがたい悪事や悲惨な事件の報道が「ケ」だとすれば、それと対照的な「ハレ」の役割を担わされているのである。

 なぜ、スポーツ・ジャーナリズムがそのような役割を担うことが可能なのかというと、スポーツという分野自体が、人工的に純化された世界だからだと思う。

 本来、人生には明確な目的はない。多くの人は、そこに生きがいという目的を想定することによって、快楽や充実感を得ようとするが、生きがいには絶対的な正さの証明があるわけではないので、多くの人は人生の意味付けに悩みながら生きることになる。もちろん、そこから人生の味わいのようなものも生まれるわけであるが、そのことが、人間の日常を不明瞭なものにしている原因でもある。

 ところが、スポーツの世界では、目的はルールにしたがって勝つということに単純化されているし、競技自体が、現実的な目的に直接役立たないものが多いので、何のために勝つのかという意味を問うことも無意味化されている。その結果、スポーツの選手は、目的自体の意味や価値について悩むことなく、目的を実現するための努力だけに純粋に専念できることになる。おそらく、だからこそ、スポーツを観戦する人は、「ケ」の日常の不明瞭さから解放され、「ハレ」の爽快感を味わうことができるのである。

(このへんの立論は、筆者のオリジナルではなく、山崎正和氏の説を参考にしている。オリジナルを知りたい人は「近代の擁護」などを参照。ただし、細かいところは筆者流にアレンジしており、その部分についての文責は筆者が負うものとする。)

 スポーツ・ジャーナリズムがさらに特異なところは、基本的に、報道が試合の結果に影響を与えることはないということである。

 これが政治だったら、どの政治家をどのような論調でどのぐらいの頻度で取り上げるかというのは、政治の結果にまで影響を与える可能性がある。ビジネスにしても、どの企業のどんな製品をとりあげるかで、企業の業績に影響を与える可能性がある。事件報道ですら、取り上げ方によっては、当事者の人生そのものに影響を与える可能性がある。したがって、ジャーナリストは、嫌でも公正さやバランスというものを意識せざるを得ない。意識しなければ、報道は信用性を失い、単なる宣伝と化してしまうからだ。

 ところが、スポーツの場合には、試合の結果は客観的なルールによって決まり、報道のされ方によって影響を受けることはほとんどない。「なんとか選手強いっ!」といくら連呼しても、そのせいでその選手が試合に勝つことはない。この事実と、先にのべた、スポーツ・ジャーナリズムが持つ「ハレ」の役割を考え合わせると、おそらく、スポーツ報道を多少大袈裟に行うことが正当化されるのであろう。

 この姿勢は、おそらく、アマチュア・スポーツについてはかなりの程度で正しいのだが、プロスポーツになると、事情が微妙に変わってくる。

 なぜなら、プロスポーツでは、お金という別の目的 があるので、アマチュア・スポーツのようには、勝つことだけを目的にしにくいからだ。もちろん、多くのスポーツでは、勝つことによってのみ金が手に入るというような仕組みを作ることによって、選手に金銭面でも勝つインセンティブを与え、そのことによって、スポーツに内在する独自の価値論理を守ろうとしている。

 しかし、ここで忘れてはならないのは、いくらそのような仕組みを作ったとしても、選手に分配する金の原資は、結局は興行収入で得るしかないということだ。言うまでもないことだが、この興行収入というのは、必ずしも選手の実力だけで決まるものではなく、ルックスやパフォーマンスなどによって左右されがちな「人気」であるとか、資金力がものを言う「宣伝」とかに大きな影響を受ける。

 この話にこれ以上深入りすることは避けるが、要するに、プロスポーツというものは、もともと、スポーツと興行の危ういバランスの上に成り立っているビジネスであり、当事者がこのバランスを常に意識していなければ、容易に破綻して単なる見世物に堕してしまう危険を孕んだ文化であるということだ。

 同じことは、スポーツ・ジャーナリズムにも言える。スポーツ報道は、確かに試合の結果には影響を与えないかもしれないが、興行の結果には大いに影響を与えうる。つまり、スポーツ・ジャーナリズムが、いくら事実を選択的に報道しているだけであっても、それが結果として、文化としてのプロスポーツをスポイルする可能性はあるのである。

 たとえば、実力のない選手を報道によって人気者にしてしまえば、その選手は、一番強い選手より大きな収入を得られるようになる可能性がある。そのような選手がたくさん登場すれば、実力より人気を大事にする選手が増え、勝つことだけを目的とするというスポーツの純粋性は破壊されることになろう。また、興行側は、そのような選手を「勝たせる」ことによって興行収入を増やし、関係者全員を豊かにするという誘惑にかられることになるだろう。

 もっとも、本来、スポーツ・ジャーナリズムはスポーツがなければ成り立たないことを考えれば、このような危険を回避することはそれほど難しいことではない。スポーツ・ジャーナリストが、目先の欲望にとらわれず、自分たちの存在を支えているスポーツという文化に対し、正しい認識と愛情をもって、自らペンを律すればよいだけの話だ。そして、この問題には、それ以外に特効薬はないと思う。

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レバノンとイスラエルの TV が見られるぞ

 CNN Pipeline というのは、チャンネルが 4 つあるのですが、現在、そのうちの 2 チャンネルを使って、レバノン国内のテレビ局の放送と、イスラエル国内のテレビ局の放送を、そのまま流しているようです。

 非常に面白い試みだとは思いますが、残念ながら、どちらも言葉がさっぱりわからない (^^)。どうせなら、英語の同時通訳をつけてくんないかな~。

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ボクシング素人の妄想

 ぼくはボクシングのことはよく知らない。試合を見た回数も数えるほどで、もちろん、リングサイドで見たことなど一度もない。ボクシング以外の格闘技のことも、それほど詳しいとはいえない。友人に格闘技好きがいるし、格闘マンガも結構好きなので、言葉だけは多少知っているが、その程度のものである。

 そういう人間ですら、昨日のボクシングの試合では、いろんなことを考えさせられたので、少し感想を書いてみたい。もちろん、これは素人の意見に過ぎず、思いっきり的外れかもしれないことをお断りしておく。

 まず、ボクシングの判定について、こんなことを考えた。

 たとえば、メチャクチャに打たれ強いボクサーがいたとする。こいつは、どんな強打をくらっても、何回打たれても、まったくダメージを受けない。ただし、自分のパンチの威力やスピード、防御のテクニックなどはイマイチだとする。

 そうすると、このボクサーは、KO するまで続けるというルールだったら、かなりの高率で勝つと思われるが、逆に、判定にもちこまれれば、かなりの高率で負けるだろう。自分は相手に「有効打」を浴びせられず、相手の「有効打」はたくさん浴びてしまうわけだから。でも、その「有効打」は、実は彼にとっては有効打でもなんでもないのである。これっておかしくないか?

 ボクシングというのは、本来、相手が闘えなくなるまでダメージを与えることを目的とする、格闘技の中でもやや特異な種目だ。レスリングなら、必ずしも相手に与えたダメージが大きくなくても、なんとが固めを決めて一瞬にして逆転勝というようなことが可能だ。柔道でも、相手より疲れている選手が、一本を決めて勝つということはありうる。つまり、こういう種目では、もともと、相手にダメージを与えることよりも、技を決めるということに高い価値がおかれているわけだ。(もちろん、防具なしでやっていたときには、そういう技はすべて必殺に近い技だったのであろうが。)

 それに対して、ボクシングは、本来、技を決めることは手段に過ぎず、相手に与えたダメージによって評価される種目だったはずである。ところが、判定になると、一転してこの本来の価値基準ではなく、決めた技によって評価されることになるのだ。最後にはフラフラになっていたヤツが、判定で勝つということに対する違和感の理由は、ここにあるのだろう。

 では、相手に与えたダメージそのものを、見ているだけで客観的に判定する方法があるのかというと、それはよくわからない。専門家ならある程度わかるのだろうか。それとも、そんなものを判定しようとすると、なおさら判定が主観的になって不正確になってしまうのだろうか。

 もちろん、ヤオチョウだとかなんだとかいう話があることも知っているが、ここではあえてボクシングのルールの本質についてだけ考えてみた。ひょっとしたら、あの対戦相手は、自分が勝てないことは承知の上で、相手に最も恥をかかせる負け方というのを考えていたのかもしれない。

追記: などと勝手なことを書いていたら、早速こんな記事が。

一般的に、ダメージに基づくクリーンヒット(有効打)の数が重視され、そこに差がない場合は次に手数や攻勢点が評価対象となる。

ということで、ダメージがなければ「有効打」にはならないらしい (^^)。

でも、もしそうだとするとですよ、やっぱり、中盤に日本人が一生懸命打っていたパンチは効いていなくて、ベネズエラ人がポコポコ打っていたパンチの方が効いていた、ということになりませんか。でなけりゃ、あそこまで差はつかないんじゃないですか。となると、やっぱり中盤でそんなに差がつくの判定がおかしいということに。。。(^^)。

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アラブとイスラエル

アラブとイスラエル―パレスチナ問題の構図  時節柄、中東紛争についておさらいしようと思って、放送大学でもおなじみの高橋和夫さんの「アラブとイスラエル」を読んでみました。 とりたてて奇をてらったことを書いてあるわけではないのですが、事実の取捨選択や配置がなかなか巧みであたまに入りやすかったです。

 この本は、著者自身が書いているように、いろんな出来事の国際政治的な位置づけに力を入れているみたいで、たとえば、トルーマンがイスラエルを承認したのはユダヤ人の多いニューヨーク州選挙の直前だったからだとか、アイゼンハワーがスエズ動乱で反イスラエル側になったのは、ちょうどハンガリー事件があったからだとか、パパブッシュがイスラエルへの債務保証を保留して和平会議に参加させられたのは、湾岸戦争で勝ったからだとか、そういう政治的な影響関係がわかりやすく解説してあります。

 ただ、イスラエル建国の過程の説明は、ちょっとあっさりし過ぎていると思う人もいるかもしれませんね。イギリスの三枚舌外交とか言われた「サイクス・ピコ協定」とか「マクドナルド白書」とかの話も出てきませんし、第一次中東戦争の説明も 5 ページぐらいで終わってしまうので、知らない人には、わりと簡単に国ができたしまったような印象を与えるかもしれませんね。

 また、これは出版されたのが 1992 年なので仕方ないのですが、中東和平会議が開かれる直前で話が終わっているので、その後のオスロ合意、ラビン暗殺、シャロン政権誕生、みたいな過程はいっさい書かれていません。

 したがって、読み終わった後で、また別の本を読みたくなる人も多いと思いますが、この問題について興味のある人が、初めて読む本としては、わりとお勧めできるのではないかと思います。

 まあしかし、こうやって改めて読んでみると、アメリカやイスラエルの行動にももちろん一貫性はないけど、アラブ側のプレーヤーも機会主義者ばっかりという感じですよね。ヨルダンの「黒い 9 月」では PLO を支援したのに、レバノン内戦では PLO に敵対するキリスト教徒側を支援したシリアのアサド大統領とか、PLO を支援するイランに戦争をふっかけて身動き取れないようにしたくせに、湾岸戦争ではアラブの大義を訴えたイラクのフセイン大統領とか、シリアと共同戦線を持ちかけたのに、自分だけ裏切ってイスラエルと和平してしまったエジプトのサダト大統領とか。。。

 つまり、「ワード・ポリティックス」のできるプレーヤーがいないと、結局「パワー・ポリティックス」で力の強いヤツが勝つだけ、みたいな感じもするのですよね。トルコのケマル・アタテュルクみたいなヤツがいれば、少しは事態は違っていたかも。アラブ人は誇り高いっていうけど、どうしてこうなってしまうのか。。。もっと頑張れ、やればできる子やから、という気もしてしまうのです (^^)。

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