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謝罪の社会的機能

 「謝罪」という行為が、なんのためにあるかを考えたことがあるだろうか。「処罰」や「補償」ではない「謝罪」である。「処罰」や「補償」については、「処罰」は悪事を働かせないためのインセンティブだろうとか、「補償」は被害者の損害を回復するのが目的だろうというのは、誰もが直観的に思いつくことだろう。

 しかし、「謝罪」というのは、基本的に表現や形式だけの問題なので、一見、どのような社会的機能があるかわかりにくいかもしれない。実は、ぼくには自分なりの理論があって、多分誰もがそう考えているのだろうと思っていたのだが、意外とそうでもないみたいで、戦争被害者に対する謝罪論とかを読んでも、謝罪と処罰や補償を混同していたり、謝罪の意味をわかっていないと思われる例が多いので、一応自分の考えを書いておきたい。

 結論から言えば、「謝罪」の目的は、加害者が被害者と同じ価値観を持っているということを示すことにある。人間が罪を犯す場合、そもそも、価値観自体が被害者や社会全般と異なっていて、確信犯的に罪を犯した場合と、価値観自体は被害者と同じだが、ミスや一時の気の迷いや出来心で罪を犯した場合がある。後者の場合には、再び同じ罪を犯す確率は低いが、前者の場合には、再び同じ罪を犯す率が高い。したがって、容易に社会復帰させうるか、今後も付き合いを継続しうるか、といったことを判断するためには、加害者が被害者と同じ価値観を持っているかを判定することが重要なのである。

 よく知られるように、罪刑法定主義というのは、加害者の内面を問わず、あくまで、行為に対して処罰が決定される。したがって、法治主義の社会では、処罰を受けたり補償をしたりしたからといって、その加害者が心から反省しているという保証はない。また、人間は、内面を偽って表現することができる動物なので、外面的な表現だけを見て、内面を判定することも難しい。

 ところが、誰にも言われることなく、加害者が自分から謝罪するためには、少なくともその行為が悪だという認識がなければならないのである。したがって、加害者が自分から謝罪した場合、少なくとも、自分のした行為が悪であると認識している確率が高いということの大雑把な証明になるのである。謝罪というのは、被害者から要請される前に、自主的に行うのがよいとされるのも、このためであろう。他人から指摘されてから謝罪するのでは、その加害者が、善悪の判定能力があることの証明にはならないからだ。

 したがって、私に言わせれば、「いったいどう謝れば許してくれるんだ」というような台詞は愚問もいいところである。なぜなら、そもそも謝罪の意味というのは、どのようにどの程度謝れば許されるかを、被害者に言われることなく、自分で判断できる能力があるということを示すことにあるからだ。

 つまり、謝罪というのは、そのまま取り出して見せることのできない人間の内面というものを、間接的に取り出してみせるためのさまざまな工夫の一つに他ならない。お手本を見てそのまま真似るのは内面がともなわなくてもできるが、隠されたお題の答えを自分で考えて表現するということは、内面がともなわなければできない。ゆえに、間接的に内面が表現されるわけである。

 このことから言えるのは、お題が「赤いもの」だったら、「リンゴ」とか「チューリップ」とか複数の答えがありうるように、正しい謝罪の方法は一つではないが、にもかかわらず、正しい謝罪と間違った謝罪というのは厳然としてあるということだ。そして、その答えは人に聞かずに自分で探さねばならないが、だからと言って、自分勝手に答えを作っていいというものでもない。

 ぼくからみると、こういう認識は、単に常識を言語化したにすぎなくて、誰でも無意識的にやっていることではないかと思うのだが、戦争被害者に対する謝罪論には、あまりこういう認識をベースにしたものがないように見える。それが、ぼくにとっては不思議なことではある。

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