« 愚痴 | トップページ | 宗教からよむ「アメリカ」 »

「性愛論」再読

 橋爪大三郎氏の「性愛論」の再読を終了。やはり、優れた論考だとは思うものの、出版から 10 年もたってから再読すると、少々物足りないところも出てきますね。

 最も限界を感じるのは、この論文で描いているのは、あくまで、「性空間」が「権力空間」や「言語空間」と交わったところに生じた投影像にすぎず、「性空間」そのものを律する自律的な論理までは説明しきれていないということですね。もちろん、明晰な著者のことですから、論理的な明晰さの水準を維持するために、あえてそういう方法論をとったのだとは思いますが。

 ただ、おそらくそのせいで、性の機能論的ないし目的合理的な側面が強調され、欲望論的ないし消費論的な側面が軽視されているようにも見えます。たとえば、

こうした生殖技術の発展によって、多くの女性たちが妊娠→出産することをやめ、代わりの方法で子供をうるようになったらなら(機能的性別が無化されたなら)、性別がイデオロギーにすぎなかったことが、誰の目にも明らかになる(無出産社会の到来)。そして、幾世代か経るあいだには、性分化が変容し、性別それ自体が解体に向かうであろう 。

などという記述は、まるで、1 個食べるだけで身体に必要なあらゆる栄養を補給できる万能食品ができたら、誰も手の込んだ料理など食べなくなる、というような論法と同じように聞こえます。もちろん、その後にはちゃんと、

そして、昔ながらの男性/女性として行動する人々は、古典的な性別を生きるという、一種のライフスタイルを選択したという意味になる。男女の性別は、これまで自動的に人びとにそなわるものだった。それが無出産社会では、古典的な性別として、選択の対象になるのである。

と書いてあって、単純に性が消滅するわけではないことを示唆してはいますが。ただ、「解体」とかいう表現だと、どうしてもだんだん性別がフェードアウトして無くなっていくような印象がありますよね。

 でもぼくは、確かにそのような社会になれば、職場のような機能集団や目的合理的な力学の働く場においては、性の表現は抑制されて中性化されていくと思いますが、逆に、コンサマトリーな力学の働くある種の場においては、むしろ、セクシュアリティが過剰に表現されるようになると思います。

 これは、先ほどの食事の例で言えば、残業のときにはカロリーメイトやサプリメントばっかり食べている人も、休日になるとグルメなレストランに行ったりするようなものです。ぼくは、たとえば最近の「エロカワ」や「見せ下着」みたいなものも、こういう変化の兆候ではないかと思っているのです。

 もちろん、機能的な制約が弱くなれば、その分、性表現のバラツキは大きくなるでしょうし、そういう意味では「多様化」するでしょうが、だからといって単純にホワイトノイズのような分布になるのではなく、むしろ、偏りも大きく分散も大きい、つまり、裾野も広いが頂上も高い山が2つある、というような分布になると思います。

 料理だって、伝統の制約がなくなった結果、和洋中の手法をごちゃまぜにする料理人もたくさん出てきましたが、だからといって、和洋中それぞれのアイデンティティが消滅するわけではなく、むしろ、よりそれぞれの特徴が強調されるようになっていってるでしょう? それと同じことだと思います。

 もっとも、こういう論法はどこまで言ってもアナロジーでしかないところが難点で、このような現象に内在する論理を説明するには、「性空間論」というより、必ずしも目的合理性では語れない「消費」という現象を語るための「消費空間論」みたいなものが必要だと思うんですよね。それをうまく進化論や創発性の理論とくっつけられないかな、なんていう妄想はしてるんですけどね。。。(^^)

|

« 愚痴 | トップページ | 宗教からよむ「アメリカ」 »

哲学」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/67762/9249068

この記事へのトラックバック一覧です: 「性愛論」再読:

« 愚痴 | トップページ | 宗教からよむ「アメリカ」 »