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山形≒山崎/芸術論

 この山形浩生氏の芸術論、しばらく前に掲載された直後に読んで以来ずっと思っていたのですが、山崎正和氏の芸術論にすごく似てるんですよね。特に、「芸術・変身・遊戯」という本に収録されている「人生としての芸術」という論文は、サルトルの台詞を枕にした導入部からしてそっくりです。疑う人もいるかもしれないので、ちょっと引用してみましょうか。

いったい、もし「百万人の飢えた子供」が本当に重大な現実であるならば、なにゆえにその前で意味を問われるのが、ほかならぬ文学や芸術だというのだろう。百万人の餓死者の前でまず意味を問われるのは、政治であり宗教であり科学技術であり、ひいでは人類の存在全体の是非ではないであろうか。自分がたまたま文学者だからまず文学を責めるといえば誠実そうに聞こえるが、むしろそういう責任の持ち方そのものが裏返した思い上がりの産物といえる。なぜなら、「文学者」というものが、たとえば政治家や技術者や飢えた子供が存在するのと同じ意味で、たしかにこの世にあるといいきれるのかどうか、まずそれから反省してみなければならないからである。潔癖症のサルトルもけっして園芸術をとりあげて、それが百万人の子供にとってなんの意味があるかとは訊ねなかった。暗黙のうちに彼は文学を園芸術よりも有意義なものと考えているのだろうが、果たしてこの文学者の自負の念はそれほど当然のものだといえるのだろうか。ありもしない法力が自分の身に備わっていると信じこんで、その法力によって世界が救えないと嘆いている迷信家を、私たちはふつう、人生に誠実な人とは呼ばないのである。

質問の中身を僅かばかり変えてみればことはあきらかなのであって、サルトルはむしろ、「庭先の一輪のバラの栽培にとって、文学にはなんの意味があるか」とでも訊ねてみるべきだったのである。そうすれば、文学や芸術の意味というものはなにも百万の餓死者を持ち出すまでもなく、そのような些細なものの前でもすでに十分疑わしい、ということがわかったはずであった。

ね、似てるでしょ (^^)?

 もちろん、山崎氏がコリングウッドやフィードラーを引用して論じているのに対し、山形氏が引用しているのはピンカーだし、なにせ書かれた時期がうん十年も違うので、援用される概念も違っているのですが、結論はそれほど違わないように私には思えました。

私たちは言葉であれ身振りであれ、あるいは音や形体であれ、なにかによって自分を表現したときに、はじめて自分が何を感じているのかを明確に自覚することができるのである。表現とは、俗に信じられているように、あらかじめ内にあるものを外に出す行為ではない。むしろ、外にひとつのかたちを作ることによって、逆に自分の内部に何ものかを発見する行為なのである。

 おそらく偶然の一致でしょうけど、頭のいい人というのは、途中の過程は違っても、結局は同じような結論に達するのだなあ、と感心した次第です。もっとも、ご本人方にとっては不本意な感想かもしれないので、あまり目立たないようにこっそり書いておきます (^^)。物好きな人は読み比べてみてくださいませ。

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