補償≠罰
朝日新聞さんの 2005 年12月16日付の社説で、 例のジェイコム株の誤発注について、「一義的には責任あるみずほ、東証の両社が損失をかぶるのが筋だ」と書いてあるんだけど、これにはちょっと異論があります。
まず第一に、もちろんこの取り引きで損失を被った人 (各種インデックスが下がったとか、逆にストップ安時点で投売りしてしまった人とか) もいるだろうけど、それ以上に得をした人もたくさんいるということ。第二に、こちらの方が重要なポイントですが、みずほがこの取り引きで被った損は、かならずしも、市場が被った損害とは一致しないはずだということです。実際、他の投資家が、わざわざミスにつけ込むような取り引きをしなければ、みずほの損害はもっとはるかに少なくてすんだでしょう。
そもそも、株式市場がなんのためにあるかと言えば、資本という貴重な財を、社会からの需要の大きい産業や企業に、優先的に割り当てることによって、より社会にとって効率的に活用するためのはずでしょう。そして、そのためには、産業や企業の価値というものをできるだけ正確に見積もることが必要なので、投資家同士に見積もり競争をさせて、より正確に見積もった投資家に、インカムゲインやキャピタルゲインというごほうびを与えるしくみになっている。株式市場を単なる博打場だと思っている人もいるようですが (^^)、投資家同士の競争というのは、本来そういう目的のためにあったはずです。そして、今回のような相手のミスにつけこむような取り引きが、株式市場本来の目的にほとんど貢献していないのは明らかです。
ただ、ここで問題なのは、相手のミスにつけこんだ人と、単なる善意の第三者とを、厳密に区別するのはほとんど不可能だということです。そもそも、誰が誤発注に気づいていたかを調べるのも困難ですし、仮に、誤発注の情報を知っていたということが証明できたとしても、「ウチは最初からジェイコム株をできるだけ安く買う予定になっていた」と言えばすむ話なんですから。たとえて言えば、嫌いな奴の落としたコンタクトレンズをわざと踏んずけるようなもので、「たまたま歩いていたところにコンタクトが落ちてきたから踏んでしまったんで、そんなところに落とした奴が悪い」と言えばすむことではあるんだけど、でもやっぱりわざと踏む必要はないだろう、というようなことなんですよね。
ぼくが「こころ温まる話キボンヌ」と言ったのは、ただのセンチメンタリズムや、濡れ手に粟で儲けた人に対するやっかみなどではなくて、この状況を冷静に考えれば考えるほど、「身に覚えのある人は自主的に返還した方がいいんじゃないですか」みたいな言い方しかできないと思うからです。
補償すべき損害の量と罰の重さが常に一致するとは限らないので、補償は補償、罰は罰としてきっちり考えるべきでしょう。そういう高級な判断を自主的にした人たちを「美しい」と呼ぶことは、別に悪いことではまったくないと思うのですが。
(これはスポーツなんかでもそうで、スポーツを観る人は本来、全力同士のぶつかり合いを観たいんで、伯仲した勝負がエラーで決着することなど好まないですよね。でも、だからと言って、ミスだったらやり直す、みたいなルールにすればよいかと言うと、これもやっぱり意図的なプレーと本当のエラーの区別をつけることができないので、無理なのです。でも、だからこそ、足を怪我しているピッチャーにあえてバントをしない、みたいなことが美談になったりもするわけですよね (^^)。だから、ルール改正はできないとしても、拍手やブーイングぐらいはあっていいと思うんです。)
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