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自己選択の果て

 「生物都市」で思い出しましたけど、ぼくは最近、人間のありとあらゆる属性が選択可能になっていった場合、その極限にはどういう世界が到来するのか、ということをよく思考実験として考えるんですが、おそらく「生物都市」みたいな世界になるんじゃないかという気がするんですね(^^)。

 自己選択の自由が広がると、人間がより個性的になると思う人もいるかもしれませんが、それはおそらく錯覚で、知的能力から肉体的能力から容姿から遺伝子からすべて選択可能 (それが具体的にどのようなテクノロジーで可能になるか、という問題は保留します。あくまで思考実験ですから(^^)) になれば、むしろ、個人の自我よりも環境のほうが個体差を決める境界条件として効いてくるようになるはずです。そうすると、人間の自我はだんだん溶解していって、個人の属性も社会システムの構造によって決まる、というふうになっていくのではないでしょうか。

 (これは、今流行りの「ソフトな管理」とか、そんなことを言ってるわけじゃなくて、もっと本質的に、自由が増せば増すほど、実は、主体的な自我というものは必然的に消滅していくであろうということを言っているのです。為念。それはまあ、考えようによっては「己の欲するところに従って則を超えず」みたいな一種の理想状態なのかもしれないんだけど、それがよーわからんと言っておるわけです(^^))

 ぼくがいまだによくわからないのは、マンガと同じで、果たして人類は、本当にそういう状態になることを望むのだろうか、ということなんですね。前に書いた、経済原則と愛情原則という話も、ある意味、自我とシステムとの闘いであるとも言えます。この両者の相克がどう高次元で調和しうるのか、というのは、最近一番興味のあるテーマですね。

 昨今のナショナリズム、アンチ・グローバリズム、アンチ市場主義などにしても、政治や経済の問題のように言われてますが、本質的には自我の問題で、「選択の自由」に疲れた自我が、「俺たちはもう選択なんかしたくない」「選択や交換によって変わらない確固とした自我の基盤になるものが欲しいんだ!」と叫んでいるだけのことではないか、という気もするのです(^^)。

 今散歩しながらふと思ったのですが、ぐるっと一巡すると、逆にシステムの創発性みたいなものを維持するために、システムの方から個人に対して乱数で個性を割り当てる、みたいな世界になるのかもしれませんね(^^)。

 あるいは、「キャラ選択画面」みたいなのが出てきて (どこに?)、定期的に自分の意思で自分のキャラを選択させられるとか(^^)。「明日からは、頭はいいけど病弱で気が弱くて引っ込み思案、というキャラで生活してください」みたいな(^^)。

(絵だけ見ると、「遊星からの物体 X」とか「リヴァイアサン」みたいなのだと思うかもしれないけど、ぜんぜん違いますから(^^))

 

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