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ID 狩り

 インテリジェント・デザイン論に関する Wikipedia の記事(この記事はどう見てもあまり「中立」ではないので、よい子のみなさんにもお勧めできます (^^)) を読んでいたら、山田正紀氏の「神狩り」という SF を思い出しました。

 原本がないのでうろ覚えですが、確かこの小説でも、遺跡で見つかった言語の関係代名詞の入れ子が人間が理解するには複雑すぎるというロジックを、神が存在するという根拠に使っていたと思います。

 ただ、山田作品の登場人物がID の提唱者たちと違うところは、彼らは、神を崇めるどころか、神を「狩」って倒そうとするところです (^^)。

 ID の提唱者も、知的存在を仮定するのは別にいいけど、だったら、その存在がどんなハードウェアとソフトウェアで計算を行い、どのような手段で我々の宇宙に干渉しているのかを、明らかにしようとすべきでしょうね。もし、それができるのであれば、それは単に新しい宇宙論のスキーマができただけの話で、別にそれほど科学哲学に衝撃を与えるような話じゃないですよね (^^)。サイエンスというのはそういうディシプリンですから、それをやる気がないのであれば、やっぱり科学じゃなくて宗教だと言わざるをえないんじゃないかな (^^)。

 研究の結果、その知的存在が、キリスト教の神とは似ても似つかない邪悪な存在だったら、彼らはどうするんでしょうね。その存在に合わせてキリスト教の教義を書き直すのか、それとも、山田作品の登場人物のように、その存在を倒そうと決意するのか、興味深いところです。あ、またイジワルなこと書いちゃった (^^)。

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モラル・ハザードと悪者探しの関係

 nikkeibp.jp の「耐震強度の偽装問題は偶発的事件か、業界の構造問題か」という記事を読ませていただきました。不動産の専門家の方がお書きになっているということで、かなり期待して読んだのですが、どうも、お疲れになって感情的になっているのか、論旨が不明瞭なように思われます。

 この主張をわからないなりに無理して要約すると、

  1. 大多数の業界人は良心的である
  2. しかし、一部に、安全性を犠牲にしてまでコストダウンをはかる業者がいる
  3. したがって、競争に勝つためには、良心的な業者までがコストダウン競争をせざるおえない
  4. つまり、これは社会全体の問題である
  5. だから、悪者探しをやめよう

という感じみたいなのですが、なんか矛盾してませんか?

 だって、安全性を犠牲にしてまでコストダウンをはかる業者がいるから、モラル・ハザードが起きて良心的な業者までおかしくなってしまうのなら、その「悪者」を探して排除すれば、問題は解決するじゃないですか。だとすれば、仮にこれが「構造問題」であるとしても、それはせいぜい、「悪者」をすばやく発見して排除することのできない業界の「構造」に問題があると言えるくらいでしょう? だから、それを解決するには、やっぱり「悪者探し」をするしかないんじゃないでしょうか。

 逆にこれが、そもそもこの業界は良心的では誰もやっていけないんだとか、そもそも悪者を発見すること自体が原理的に難しいんだとかいうんなら、それは社会全体の問題かもしれないけど、ご自分で、そうではない、とおっしゃっているわけですから。どうもご主旨がいまいち納得できない感じがします。

 なんか、むかーしの左翼で、泥棒がいるのは資本主義社会の矛盾だから、泥棒は悪くない、みたいなこと言ってた人がいましたけど、ほとんどそれに近い論法のような気がするんですけどねえ。違いますかねえ。

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ポピュリズム批判に効果がないわけ

 ポピュリズム批判っていうのは、どうも、「人間は外見じゃない、中身だ」みたいな台詞と似たところがあって、言ってること自体は間違ってないのかもしれないけど、あんまり実効性がないんですよね。

 もちろん、外見がよくても中身がなかったらダメでしょうけど、じゃあ、外見が悪ければ中身が悪くてもいいのかと言ったら、そんなことはなくて、それはなおさらダメダメなわけでしょう。っていうことは、もともと、外見がいいか悪いかというのはつけたりで、中身のことだけ言えばいいはずなんですよね。

 美女やイケメン男性を使うのが悪いのなら、刑事コロンボみたいなヨレヨレのおっさんばかりだったらいいの? わかりやすいスローガンがダメなら、わかりにくいことを長々としゃべればいいの? それだって、わざとやれば逆の意味でポピュリズムになるだけでしょう? だから、結局、政策の内容を具体的に批判していくしかないんですよね。

 もちろん、おしゃれにも、素材のよさを引き出すような洗練されたおしゃれと、無理矢理飾り立てるようなやぼったいおしゃれがあるんだけど、それすらもやっぱり、モデルに着せてみてはじめてわかることですからね。服だけを見て論じても意味がないわけ。

 気取って言えば、ポピュリズム批判は、ポピュリズムと同じぐらい表層的になる宿命を負っている、とでも言いましょうか。

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eマンション

 この「マンションデベロッパーの評判は」という掲示板、すごく面白い、というか勉強になります。最近の議論はもちろん、ヒューザーの評判とかを時間を遡って見ると、かなり興味深い。そういや、今日のサンプロでヒューザーの人 (声だけなので確証はないが) が建築 G メンの人に「いい加減なこと言わないでよあんたー!」とかって凄んでいたけど、あれって脅迫罪にならんの(^^)?

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朝生少子化編

 昨晩の朝生のテーマは少子化。パネリストの大多数 (12 人中 8 人) が女性、観覧客も全員女性という演出で行われました。いつもイジメられ役みたいになっている福島さんが、みょーに生き生きしていたのが印象的 (^^)。また、森永さんは、どうも本田透氏の著作を読んだらしく、オタク擁護を繰り返していました (かなり私怨も混ざっている感じで、ここに小谷野さんがいたら面白かったろうなあ、と思いましたね(^^))。途中で田原さんが、「三十代で大儲けしている奴にロクな奴はいない。この上 (つまりヒルズ) あたりにもいっぱいいるけど」などと言う一幕もあり。いつもの挑発なのか、本気で嫌いなのかは定かではありませんが(^^)。

(余談ですが、ヒルズ族に対する反感というのは、実は、会社を金で買うという行為よりも、彼らの生活態度みたいなものに起因するところが大きいのではないのではないかという気がしています。そういう意味では、ビートたけし氏が言っていた「品がない」という批判の方が的を得ているような気がしますね。ぼくも、M&A にはたいして腹はたたないのですが、「レオン」はなんか気に食わないもんねー(^^)。)

 ただ、「少子化の何が悪い?!」というサブテーマの割には、少子化の何が悪いかはほとんど論じられず、少子化の原因は何かとか、少子化対策のことばかりが論じられていたのが、少々物足りなかったですね。

 前に書いたように、ぼくは、まず移民政策をしっかりとるべきだという考え方ですが、番組中の議論を見て改めて感じたのは、「子供を育てるのに金がかかる」という言い方がクセモノなのだということです。

 つまり、実際には、教育費用というのはピンキリのはずなんですよね。だって、義務教育はともかく、高校や大学には行かせる義務はないし、塾に行かせるかどうかも各家庭の選択なんですから。それを、「子供の教育に金がかかるようになった」と言えば経済の問題のように聞こえますが、「子供の教育に金をかけなくてはいけないとみんなが思うようになった」と言えば、個人の意識の変化の問題のように聞こえるわけ。

 そして、このどちらの見方をするかというのは、実は、事実認識というより思想の問題だと思うのですね。つまり、「子供の教育を親の経済力に左右されるのは当然だ」という文化保守主義的な立場に立てば、子供の教育に金をかけなくてはいけないと思い込んでいる親の方がおかしいので、別に義務じゃないのだから自分のできる範囲でやりなさい、みたいな考え方を広めればよいということになりますよね。 逆に、「子供の教育が親の経済力に左右されてはいけない」というある種リベラルな立場に立てば、子供の教育費を親に負担させている社会の方がおかしいので、教育費をもっと社会で負担しろということになる。

(「ある種リベラル」と書いたけれども、この立場は実は、親の経済力には格差があってもよいのだ、ということを容認する立場でもあるのだ、ということも付記しておきます。)

 そうすると、少子化の裏にある問題は、親たちは無意識のうちに後者の立場に親和性を示しつつあるのに、社会制度は依然として前者のままである、というズレだということになりそうです。

 念のために言っておきますが、ぼく自身は、日本社会は最終的には後者の道を選ぶべきなんだろうと思っています。ただ、ぼくが気になるのは、後者の道を選ぶということは、単なる「少子化対策」という技術的な問題だけではすまず、確実に社会構造の変革をもたらすはずなんですが、そういう主張をする人たちは、このことをちゃんと考えているだろうかということなんですね。

 だって、なけなしの金をはたいてでも子供を学校に行かせるという覚悟をもって子供をつくった親の家庭と、国が金を出してくれるんならとりあえず子供つくっとくかという感じで子供をつくった親の家庭とが、まったく同じだと思いますか? この政策は、悪く言えば、そういう覚悟のない親にも子供を作るチャンスを与えようという政策でもあるのです。もちろん、金をだそうがだすまいが、子供に対する愛情は変わらないという立派な親御さんもたくさんいらっしゃるでしょう。でも、いつの時代も例外は例外であって、統計的に見れば、平均的な家庭の像というものは変質していくはずです。

 もちろん、仮にそうなったとしても、社会総体としてはよい方向に向かうとぼくは信じていますが、おそらく、ぼくらがノスタルジーをこめてイメージするような、古きよき家庭像というものがだんんだん失われていくことは間違いないと思うのです。

 つまり、この政策はある意味、移民政策なんかよりはるかに大きな社会構造の変革を日本にもたらすかもしれないんですよね。だから、やるんだったら、そこまでの覚悟を持ってやる必要がある。でないと、やっぱやめときゃよかったね、みたいな反動が起きて、いらぬ混乱を招くだけだと思うのですが、いかがでしょう。

(佐藤さんの本とかにいまいち共感できなかったのにもこのへんの理由があって、じゃああなたはどうすりゃいいと思っているのだと。ここまでする覚悟があるのかと。ちょっと言いたい気持ちがあるわけ(^^)。)

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Supplements for Strength-Power Athletics

 Supplements for Strength-Power Athletics

 スポーツ選手、それも、瞬発力系のスポーツ向けのサプリメントの解説本です。たまたまこの手の洋書をまとめて読む機会があって偶然見つけたのですが、わりとお勧めできる本だと思いました。

 だいたい、この手の本には、ごくわずかな証拠を頼りに、仮説の綱渡りを繰り返して結論を出している本も少なくないのですが、この本では、信頼できる複数の臨床試験において有効と認められたサプリメントしか推薦していません。また、個々のサプリメントについて、過去にどのような研究結果が出ているのかを、ネガティブな結果を含めて逐一記載してあるので、実際にどの程度の効果が期待できるのか、読者が自分で判断することができます。

 それでいて、大リーグのマグワイア選手が使っていたとされるアンドロステンジオンという薬は、ほとんど効果もなければ副作用もない、みたいなことをキチンと書いてあるところも、科学者的な良心を感じさせます。(実際には、同じステロイド系の薬でもかなり作用に幅があるらしい)

 英語も比較的平明で読みやすく、全体の構成も、サプリメントごとに、「概要」「作用メカニズム」「効能の根拠」「使用法」「注意」みたいな感じで統一されているので、自分の関心のあるところだけ飛ばし読みすることも可能です。

 ちなみに、同じ著者による姉妹編として、持久系スポーツ向けの「Supplements for Endurance Athletes」という本も出ています。

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MozBackup

 不覚にも今日まで知りませんでしたが、この MozBackup (日本語版はこちら) というツールはなかなか便利ですね。MozillaFireFox のユーザー・プロファイルをバックアップするツールなのですが、単なるバックアップだけではなくて、プロファイルが壊れたときに再構築するためのツールとしても使えます。

 FireFox のヘビーユーザーならご存知でしょうが、このソフトのユーザー・プロファイルは結構よく壊れます。これまでは、そのたびに新しいプロファイルを作成しては、手作業で前と同じ環境を再構築していたのですが、このツールでプロファイルをバックアップしておけば、それをリストアするだけで環境の再構築ができます。

 もっとも、テーマや拡張機能のバックアップは、いまいちうまく動いていないようなので、ここだけは手作業でやらなくてはなりませんが。

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し、失敬な

W32.Sober.K@mm というウィルスの生成するメールらしいです。




Dear Sir/Madam,

we have logged your IP-address on more than 30 illegal Websites.

Important:
Please answer our questions!
The list of questions are attached.


Yours faithfully,
Steven Allison

*** Federal Bureau of Investigation -FBI-
*** 935 Pennsylvania Avenue, NW, Room 3220
*** Washington, DC 20535
*** phone: (202) 324-3000

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松本さん、朝日さんに一票

 

会社法が認めていること全てを上場企業に認めるべきだとの論議は、私には逆立ちしているように見えます。上場企業はもちろん会社法の要請を全て満たさなければいけませんが、逆は真ではないのではないでしょうか。(「松本大のつぶやき」マネックスメール第1548号)

黄金株 上場会社には禁じ手だ (朝日新聞 2005 年 11 月 23 日(水曜日)付社説)

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構造計算書

 この事件はどうも腑に落ちないことがたくさんありますが、一番おかしいのは、あんな簡単な偽造をだれも見抜けなかったということですよね。

 そこにはなんかカラクリがあると思うのですが、その究明はマスコミの皆さんにがんばっていただくことにして、ぼくみたいなソフト屋が素朴に疑問に思うのは、なんでわざわざデータを紙でやりとりしているのかということ。

 検査会社の人は、「手口は巧妙であり、通常なら気づかない」とか言ってるけど、話を聞く限りでは、財務諸表の合計欄だけ書き換えたみたいな幼稚な偽造じゃないですか。元データをソフトに打ち込んで再計算すれば、エラーがでるわけでしょう。だったら、電子化したデータ (に改竄防止のための電子署名でもつけてもらって) を直接受け取れば、一発で判定できるじゃないですか。なんでそういうシステムにしないのが、不思議でしょうがないんですけど。

 自慢じゃないけど、今どき、翻訳業界ですらもうちょっと自動化されていますよ(^^)。

後記:などと思っていたら、かの奥村晴彦氏 (「C言語による最新アルゴリズム事典」愛用してます(^^)) のこんなコメントを見つました。やっぱり、情報系の人は同じような発想をするのですね(^^)。

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努力と選択

 「努力」という言葉は、通常、精神力とか根性とかに結び付られることが多くて、精神力や根性のある人=努力できる人=偉い人、みたいに捉えてる人が多いと思うのですが、ほんとうにそうでしょうか。

 たとえば、子供の頃はできなかった努力が、大人になるとできるようになることがありますよね。ぼくなんかもそうでしたが、夏休みの宿題をギリギリまでやらない子供は多いですよね。でも、大人になると、たいていの人が、スケジュール通りに仕事をするようになります。ああいうのは、精神力や根性で説明のつくことなのか。

 ぼくはむしろ、地道な努力が苦手な子供が多いのは、子供には見えてないことが多いからだと思うのです。つまり、子供はあらゆることに対して経験不足ですから、自分が一日にできる量がどのくらいなのか、それをギリギリになってまとめてやることがどれほど大変なのか、みたいなことが実感としてわかっていない。だからこそ、平気でサボれるんだと思うんですね。一方、オトナになると、サボればどんな目にあうかが実感としてわかっているから、なかなかサボれない。

 たとえば、ここにマラソンの才能のある子供がいたとしましょう。仮に、この子が毎日 12 時間づつ 10 年間練習を続ければ、必ずオリンピックで金メダルがとれて、その金メダルをとったことにより得るものは、10 年間の練習の苦痛よりもはるかに大きくて、その子がマラソン以外の道を選んでも、マラソンほどには成功できないということが、100% 確実にわかっていたら、どんなにその練習が苦しいものだとしても、その子はその練習をすると思うのです。

 逆に、その子はどんなに練習をしても金メダルがとれなくて、金メダルをとれなかった場合にマラソンから得られるものは、練習により失うものよりもはるかに小さくて、マラソン以外の道を選べばもっと成功できるということが、100% 確実にわかっていたら、その子はどんなに根性があったとしても、マラソンの練習をしないでしょう。

 つまり、そこまでいろんなことがはっきりわかっていれば、練習をするかしないかというのは、努力というより、単なる選択の問題になってくるわけですね。だから、努力というのは、自分の本当の能力とか、やりたいこととかがわかっていないという、不確実性の産物だと思うのです。

 最近実感としてわかってきたのですが、人間歳をとると、少なくとも、自分の能力や嗜好については嫌でもデータが蓄積されてくるので、いろんなことが努力というより選択の問題になってくるのですね。周囲の人には、「あの人も成長したね」みたいに言ってもらえることもあるのですが、実は、当人にしてみれば、「こんなもんやらんとしゃーないやろ」という感じで、たいして面白くもなかったりするのです(^^)。

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Amazon がらみのフィッシング (リンクは書き換えてあります)





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お嬢様もいつかはお局様になる

 今はどんなに美人か知らないが、どうせすぐオバハンになってしまうような女性にそんなに入れあげるのはセンスが悪い、みたいなことを言っている人がいるようですが、本当にそうでしょうかねえ。

 この女性が、単に純情でプライドの高いお嬢様ならその通りかもしれません。しかし、このお嬢様が実はけっこう狡猾で、家柄からくる人脈を駆使しながら、いろんな男に色目を使って誤解させつつ、結局誰にも心を許さずに、多くの男性に対して影響力を持つお局様みたいになる可能性だってあるのです。仮に、今は本当に純情だとしても、歳を重ねて容色の衰えを自覚すれば、追い詰められて狡猾な女性に変貌を遂げる可能性は十分にありますからね。

 この女性と結婚するということは、そういう古い支配階級を取り込んで、十分な見返りを与えることによって、彼らの反発を押さえ込むと同時に、そういう影響力を自分のためだけに使わせることによって、他の男性に差をつけるという意味があるはずで、だからこそ、他の男性も、「そんな男と結婚することないよ」とか「おれに言えば追い払ってやるよ」みたいなことを言い出してるわけでしょう?

(だから、敵対的とか友好的とか言ってますけども、どっちがほんとに敵対的なのかも微妙だと思うんですよね。権力闘争はやめて、正々堂々と戦場で戦いましょう、みたいな話でしょう(^^)? なんか、言ってることが、銀英伝のオーベルシュタインみたいで自分でもヤなんですけど(^^)。)

 そういうことを承知の上でわざとカマトトぶってるならいざしらず、本気でそういうことをおっしゃっているのなら、むしろこの人の方がセンスが悪いんじゃないかと、ぼくなんかは思うんですけどね(^^)。

(これはあくまでたとえ話で、ぼく自身は女性には誠実ですから、誤解しないでくださいね(^^))

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子供の名前

 子供の名前をシリーズ化する親御さんっていますよね。ふと思ったんですが、あれって、一人目、二人目はいいけど、子供の数が増えるにつれて、だんだんネタがなくなって苦しくなっていきますよね。そのせいで、子供がヒネくれたりしないのかなあ(^^)。

 お笑いとかの繰り返しギャグだと、最後に大オチがくるとわかっているので、途中に多少苦しいネタがあっても許される傾向にありますよね。でも、いくらなんでも、子供の名前にオチはつけられないので、やっぱり、あの方法はあまり得策ではないのではないだろうか(^^)。

 もしやるんだったら、何人子供を作るかという家族計画をしっかりたててからやるべきだと思いますが、男女比がどのくらいになるかは予測できないので、男性名と女性名を両方考えておく必要もありますよね。あるいは逆に、「男性と女性で名前が違うなどというのは時代遅れだ!」などと言って、ユニセックスな名前だけで押し通すか。

 もっとも、今は少子化の時代ですから、先にもっと心配することがありそうですけど(^^)。

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なぜパスワード再発行機能を続けるのか

 前から疑問に思っていたのですが、なぜ、アカウントを登録するときに、「『秘密の質問』の答え」なるものを登録しなければならないサイトが多いのでしょう。それも、判で押したように、「母親の旧姓は」とか「ペットの名前は」とか「出身小学校の名前は」とかいう質問が用意されているのですが、こんなものは、もともと回答のバリエーションが少ないから、ブルート・フォース・アタックでも簡単にハッキングできてしまうし (もっとも、よっぽど運が悪くない限り、解読される前にアカウントにロックがかかるようになっているはずですが)、ソーシャル・ハッキングでちょっと個人情報を調べても答えがわかってしまうし、わざわざセキュリティの強度を弱めているようなものだと思うのですが。

 だから、ぼく自身は、入力をスキップできる場合には入力しませんし、入力しないとアカウントを登録できない場合には、質問とは無関係に乱数で生成した文字列を登録して、パスワード管理ソフトに記録しておくことにしています。

 警視庁のホームページにも、「パスワードの再発行機能を利用した不正アクセスに注意」って書いてあるし、みんないい加減、このシステムやめたらどうでしょう。ぼくはセキュリティ業界にそれほど詳しくないので、なんでみんなこのシステムを踏襲しているのか、いまだによくわからないんですけど。

 もし、セキュリティの強度は弱くてもいいから、パスワードを忘れたときの手続きを簡単にしたい、というユーザーのためだとするなら、少なくとも、この入力は必須ではなくスキップできるようにしておくべきだし、質問の回答を入力すると、その分セキュリティの強度が低下するという事実も明記しておくべきなんじゃないでしょうか。

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締め直し

 いかんいかん。毒にも薬にもならないふわふわしたブログを目指していたのに、悪慣れして気が緩んできたせいか、あるいは、本来の性格の悪さが隠しきれなくなったのか(^^)、無意識の毒が垂れ流され始めてますね。ちょっと引き締め直します。力の抜けたものばっかり書くのも、それなりに努力が必要なのだということを忘れておりました(^^)。初心に返って、自堕落ではなく、もっと断固としてゆるい文章を書き続ける所存です(^^)。

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宣伝会議

 糸井さんと永江さんの対談の生中継、面白かったのに、3 時ごろの悪口対策の話ぐらいから、たからだんだん重くなって聴こえなくなってしまったぞ(^^)。後でテキスト化してくれるのかなあ。

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小選挙区制ってそんなにダメかなあ・続

 小選挙区制がなかなか奥深いと思うのは、形式的にはあくまで政治家個人を選ぶようになっているところです。つまり、二大政党制になりやすいとか、マニフェスト選挙だとかいうのは、あくまでデファクト・スタンダードであって、制度的にそうしなければならないと規定されているわけではないわけです。

 そうすると実は、有権者は、緊急のイッシューがあるときには、直接政策を選択するようなマニフェスト選挙にのっかることもできますが、そうでないときには、政治家個人の見識に選択をゆだねるような選択をすることもできるはずなんです。

 つまり、小選挙区制だと、オートマチック・モードとマニュアル・モードをユーザー自身が切り替えるような使い方ができるわけです。このカスタマイズ性というのも、小選挙区制の大きな利点の一つだと思うのです。

 その伝でいくと、中選挙区制は、オートマチック・モードだけでマニュアルのない車のようなものだと言えるかもしれません。そう考えれば、右肩上がりの時代にはそれほど問題なく機能したということも納得できそうです。

 小泉氏の「郵政解散」なんかも、「マニュアル・モードに切り替えろ」というシステムからのアラートにみたててみると面白いかもしれませんね。ここで重要なのは、アラートというのは、あくまで警告にすぎず、実際にマニュアルに切り替えるかどうかの判断は、あくまでユーザー (=有権者) に委ねられているということです。そして、多くの有権者は (私も含めて (^^)) それにのったのでした。

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小選挙区制ってそんなにダメかなあ

 なんか、ひところは「政治改革」の代名詞だった小選挙区制が、小泉自民党の大勝利のせいでえらく評判を落としているようですが、小選挙区制ってそんなにダメですかねえ。ぼくにはあんまりそうとは思えないのですが。

 社会選択理論の本なんかを見ても、結局、理想の選挙制度みたいなものはないわけでしょう? つまり、民意をもっともよく反映するのが最善の選挙制度である、みたいな問題の立て方をしても、最適解は求められないというのはわかっているわけだから、これは民主主義的なフィクションの一つと考えるべきでしょう。とすれば、むしろ、どのような選挙制度にすれば社会システムが安定するか、というシステム論的な観点で考えたほうがよいのではないでしょうか。

 前に書いた自動車の例で言えば、憲法とか法制度とかは、車で言えば車体やフレームに相当するもので、フィードバックシステム自体を維持している要素だから、ハンドルを切りすぎたら車がバラバラになったなんてことにならないように、言い換えれば、ポピュリズムに流されないようにがっちり作っておかなくちゃいけないでしょう。

 でも、選挙制度というのは、主権者たる国民がシステムを操作するためのハンドルに相当する部分のはずだから、わざわざ感度を悪くするという発想はおかしいと思うのです。前にも書いたように、右に曲がりすぎれば崖にぶつかるかもしれないし、左に曲がりすぎれば海に落っこちるかもしれないからと言って、右にも左にも曲がれないようなハンドルをつくれば、カーブを曲がることさえできなくて正面の障害物にぶつかるだけなんですから。

 さらに言えば、この運転手は、固定されたシステムではなく、自ら学習する能力を持った成長するシステムなので、学習を促進するような信号がフィードバックされる必要があります。つまり、ハンドル操作と車の挙動との相関がはっきりしている必要があるわけです。そのように考えれば、小選挙区制は、車で言えばパワステみたいなものとして正当化できるんじゃないかと思うのです。

 もちろん、これはヒューマン・エラーの危険と隣りあわせなので、もっと自動化して危険を防ぐほうがいいという考え方もあって、これも部分的には正しいと思います。ただ、どこまで自動化できるかというのは、システムの予測可能性みたいなものに依存しているので、たとえば、同じ交通機関でも、決まった軌道を走る鉄道ならわりと簡単に自動化できますが、いろんな環境を走らなくてはならない自動車の自動化はむずかしいわけですよね。だから、安定したシステムの中のサブシステムみたいなものは自動化できても、外乱のある外部環境に直接さらされるシステムの全自動化は難しいということになるわけです。

 国家というシステムも、やはり、不安定な外部環境に直接さらされるシステムですから、どこまで行っても全自動化はできなくて、最終的には国民が運転手として乗っている必要があるんじゃないかと思うんですね。もちろん、運転手が直接ハンドルを握るのか、何か突発事件が発生したときに指示するだけでよいのか、みたいな差はあるでしょう。でも、単に感度がよすぎるからダメというような批判はおかしいと思うのです。

 だいたい、知識人や文化人の方々は、選挙で自分の望むような結果が出ると、「国民は賢い選択をした」とかいうくせに、自分の望まない結果だと、ポピュリズムだとか選挙制度がおかしいとか言い出すものですが、前にも書いたように、国民は一定確率でヒューマン・エラーを犯すものですから、実際には、望ましい方向にふれるのも逆にふれるのも「たまたま」そうなっただけかもしれないわけですよね。もちろん、そうやって一般庶民を上げたり落としたりするのも、一つの批評のためのレトリックだとは思いますが、もはやそういう手法も陳腐化しているような気がしますね。だから、あんまり効果ないんじゃないですか(^^)。

 まあ、ぼくは最近の論壇の情勢とかよく知らないので、実はもっと説得力のある反論がでてきてるのかもしれないので、単にべんきょー不足だったらごめんなさいですが(^^)、今のところはそういう風に考えています。

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激安バッテリーその後

 前に書いた、ebay で買った激安バッテリーの交換品が届きましたが、今度はばっちり動きました。返品の送料だけは自己負担になりましたが、それを含めても、8 千円弱で済みました (ちなみに、日本で買うと 2 万円ぐらいする製品です)。まあ、いろんな手間を考えると、万人にお勧めできる方法とは言いがたいですが、こんな方法もあるということで、一応めでたしめでたし (^^)。

注: ebaypaypal に登録すると、変なフィッシングのメールがやたらと来るようになるので、その点には十分ご注意ください。

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自己選択の果て

 「生物都市」で思い出しましたけど、ぼくは最近、人間のありとあらゆる属性が選択可能になっていった場合、その極限にはどういう世界が到来するのか、ということをよく思考実験として考えるんですが、おそらく「生物都市」みたいな世界になるんじゃないかという気がするんですね(^^)。

 自己選択の自由が広がると、人間がより個性的になると思う人もいるかもしれませんが、それはおそらく錯覚で、知的能力から肉体的能力から容姿から遺伝子からすべて選択可能 (それが具体的にどのようなテクノロジーで可能になるか、という問題は保留します。あくまで思考実験ですから(^^)) になれば、むしろ、個人の自我よりも環境のほうが個体差を決める境界条件として効いてくるようになるはずです。そうすると、人間の自我はだんだん溶解していって、個人の属性も社会システムの構造によって決まる、というふうになっていくのではないでしょうか。

 (これは、今流行りの「ソフトな管理」とか、そんなことを言ってるわけじゃなくて、もっと本質的に、自由が増せば増すほど、実は、主体的な自我というものは必然的に消滅していくであろうということを言っているのです。為念。それはまあ、考えようによっては「己の欲するところに従って則を超えず」みたいな一種の理想状態なのかもしれないんだけど、それがよーわからんと言っておるわけです(^^))

 ぼくがいまだによくわからないのは、マンガと同じで、果たして人類は、本当にそういう状態になることを望むのだろうか、ということなんですね。前に書いた、経済原則と愛情原則という話も、ある意味、自我とシステムとの闘いであるとも言えます。この両者の相克がどう高次元で調和しうるのか、というのは、最近一番興味のあるテーマですね。

 昨今のナショナリズム、アンチ・グローバリズム、アンチ市場主義などにしても、政治や経済の問題のように言われてますが、本質的には自我の問題で、「選択の自由」に疲れた自我が、「俺たちはもう選択なんかしたくない」「選択や交換によって変わらない確固とした自我の基盤になるものが欲しいんだ!」と叫んでいるだけのことではないか、という気もするのです(^^)。

 今散歩しながらふと思ったのですが、ぐるっと一巡すると、逆にシステムの創発性みたいなものを維持するために、システムの方から個人に対して乱数で個性を割り当てる、みたいな世界になるのかもしれませんね(^^)。

 あるいは、「キャラ選択画面」みたいなのが出てきて (どこに?)、定期的に自分の意思で自分のキャラを選択させられるとか(^^)。「明日からは、頭はいいけど病弱で気が弱くて引っ込み思案、というキャラで生活してください」みたいな(^^)。

(絵だけ見ると、「遊星からの物体 X」とか「リヴァイアサン」みたいなのだと思うかもしれないけど、ぜんぜん違いますから(^^))

 

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奇談

 CM で初めて映画化されたって知ったんだけど、「生命の木」って、「妖怪ハンター」の初期シリーズ中の話ですよね。すぐ連載打ち切りになっちゃったヤツ(^^)。なつかしい。「生物都市」とかもフル CG でやらないのかなあ(^^)。(この時代のマンガなら結構詳しいぞ(^^))

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Princess Nori or Princess Claris

 今さっき NHK に出てた、Princess Nori が子供の頃描いた絵って、どー見ても「カリオストロの城」ですよねぇ。じゃ、Mr.Kuroda はルパン三世だったのか(^^)。いいのかなあ、あんなの放送しちゃって(^^)。

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米国発の和魂和才

 毎度つっかかってすんません。また asahi.com ネタです(^^)。この「『和魂和才』のすすめ」という記事、ご主旨はまったくごもっともなんですけど、どうも非常に神経にひっかかる部分があるんですよね。

 つまり、この人は、「和魂和才」の精神を訴えていながら、「日本人にはコンセプトを作る力がない」というアメリカ人の主張をほとんど鵜呑みにしているけど、ほんとにそうかぁ? とぼくなんかは思うんですよね。

 たしかに、歴史を見れば、日本発のコンセプトが世界に影響を与えた、という事例は少ないように見えますが、大衆文化やサブカルチャーの世界をよくよく観察してみれば、日本独自のものはいくらでもあると思うんですよね。いや、もちろん、まったく差がないとは言いませんよ。ただ、モノは実物を輸出するだけで伝わるけど、コンセプトというのは言葉でないとなかなか伝わりにくいんで、あることはあるんだけど、言葉の壁にはばまれてなかなか伝わらなかった、というのが最大の理由なんじゃないのかなあ。

 だいたい、日本の一般庶民はそれほど英語が得意じゃないんだから、ほおっておけば英語圏の文化に直接影響を受けることは少ないはずなんで、そういう影響を伝えているのも、結局、英語のできるインテリさんたちでしょう? もともと、一般庶民は平均してあまり観念的ではなく、むしろ、自らの快感原則に忠実ですから、コンセプトだけをありがたがって受け取るなんてことはないはずなんで、そういうことをして得するのは、常にインテリさんたちなんですよね。

 つまり、ちょっとばかし英語ができるからって得意になっている日本のインテリさんたちが、欧米のものばっかり新しがって日本に伝える一方で、日本独自の文化を英語圏に伝える努力をしないから、相互の影響が非対称的になってる、ってだけのことじゃないのかなあ? まあ、ぼくははっきり言ってインテリ階級にかなりコンプレックスを持っているんで、この発言にはそういうヒガミ根性が混ざっていることも否定しませんが(^^)。

 だいたい、日本のインテリって言うのは、カラオケだってジャパニメーションだって J-POP だって、最初はバカにしてるくせに、海外でも流行っているときくと、とたんに日本独自の誇るべき文化だ、とか言い出したりするように見えるんですけど。気のせいかなあ(^^)?

 今のアメリカ経済の強さだって、ジャパン・アズ・ナンバーワン時代の日本の QC 手法とかに影響を受けてるんじゃないですか? カイゼンなんて英語になってるぐらいだし、最近のスターバックスとかウォルマートとかの経営手法だって、けっこう日本的じゃないですか。実際、NY や LA には、日本人ですらよく知らないような日本の伝統文化やサブカルチャーにかぶれてる人もいっぱいいますしね。

 もっと極端なことを言うと、冷戦が終わったのだって、かなりの部分日本の影響だという見方だってあると思うんですけど。つまり、思いっきり戯画化して言えば、軍拡競争などに余計な金をつかわずに商売に徹した日本があまりに大儲けしているのを見て、米ソがバカバカしくなったのが冷戦の終結であり経済のグローバル化である、というふうにも言えると思うんですけど。だとすれば、あれこそ日本発の「平和主義」という「コンセプト」の勝利だったのかもしれないじゃないですか(^^)。

 とにかく、「和魂和才」までアメリカ人に言われて気づく、みたいな日本のインテリさんの悪い癖は、いい加減にやめてほしいと切に思う次第です(^^)。

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瞬間風速はあてにならない

 今朝、「辞書にない英語」という Wiki のアクセス解析情報を見てみたら、アクセスが妙に増えているのでびっくりしたのですが、どうやら、yomoyomo 氏がはてなで紹介してくれたせいみたいですね。

 livedoor の「ピックアップ」に取り上げられたときにも、瞬間風速的にアクセス数が増えたのですが (その時も「ホリエモン (の想定外のうまい店) に勝った!」とか書こうかとか思ったのですが、シャレだと思ってもらえないような気もしたので、やめたのでした(^^))、今回の方がそれ以上に効果があるようです。yomoyomo 氏がすごいのか、はてながすごいのか、よくわかりませんが(^^)。

 それにしても、こんなサイトが総合ベストテンに (一時的にでも) 入るなんて、どー見ても「世の中まちがっとるよ~(植木等)」という感じなので、ベストテンに入っているのだから、面白いに違いない、とか勘違いしないでくださいね(^^)。

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喫煙者少数派時代

 愛煙 vs 嫌煙みたいな論争をインターネット上で目にする機会があったので、自分なりにいろいろ考えてみました。昨今の喫煙者に厳しい風潮をファシズム的だと捉える喫煙者側の気持ちもわからないではないのですが、ぼくはむしろ、このような現象は、愛煙家が多数派から少数派に転落したことによる社会構造の変化が必然的に生み出した軋轢ではないか、という気がしました。

 もちろん、女性や未成年まで計算に入れれば、昔から喫煙者は少数派であったとも言えるのですが、少なくとも、職場で多数派を占める成人男性の間では、長いこと喫煙者は多数派だったわけです。ところが、最近になって (厚生労働省国民栄養調査によれば平成 11 年、JT全国喫煙者率調査によれば、平成 14 年以降)、成人男性に限っても喫煙率が 50% を切ったわけで、名実ともに喫煙者は少数派になったわけです。

 ぼくは基本的に、他人に迷惑をかけなければ、喫煙も個人の自由であるという立場ですが、この「他人に迷惑」というのがクセモノです。何を迷惑と考えるかは、その人の価値観によって違うので、自分の土地にビルを建てて何が悪いと思う人もいれば、景観や陽当りの悪くなることを迷惑だと思う人もいる。極端になると、ぼくみたいに、女子高生のスカートの短さですら一種の景観の破壊であると思っている奴すらいる(^^)。

 喫煙の迷惑も、愛煙家同士の間ではあまり迷惑に感じないものが多いので、喫煙者が多数派である場合にはあまり問題にならずに見過ごされることが多かったと思うんですね。もちろん、当時の少数派であった非喫煙者の中には、そういう迷惑に内心腹をたてていたにもかかわらず、口に出してもあまり相手にされないので憤慨していた人もたくさんいたことは想像に難くなく、当時はむしろ彼らの方が迫害されていたに違いないんです。

 もちろん、だからと言って、喫煙者が健康を害することにより、社会全体の生産力に悪影響を与え、GDP が低下するとか、そんなことまで「喫煙の迷惑」に勘定しようとはぼくも思いません。それはそれこそ、愛煙家側の言うとおり、民主主義の理念に反するファシズム的な主張でしょう。

 ただ、公共施設に設置された喫煙所や分煙装置のコストとか、喫茶店や食堂に用意された灰皿や空気清浄機のコストとか、喫煙者が病気になりやすいことによる健康保険料のコストとか、もちろん受動喫煙の害によるコストとかは、これまで社会全体で負担することが当然にように思われてきたわけですが、それは「多数派≒社会の総意」という近似計算によって許されてきたにすぎないと思うんですね。だから、喫煙者が少数派に転落した以上、こういうことが通用しにくくなるのはある意味当然だと思うのです。

 もうちょっと経済学風に言うと、喫煙には確かにコストとベネフィットがあると思いますが、そのベネフィットはほとんど喫煙者だけのもので、コストの方は社会全体が (それも市場を経由せずに) 負担しているという構図があるわけです。こういう状態だと、コストとベネフィットをバランスしようとするインセンティブが働きにくいという問題があるのですが、喫煙者が多数派だと、そういう問題もあまり顕在化しないわけです。

 もちろん、世の中もっと迷惑な習慣や文化がいくらでもあるじゃないか、という反論もわからないではないですが、それは、闘い方としては場外乱闘みたいなもので、ストロングスタイルではないのではないでしょうか。つまり、喫煙に限らず、そのような社会的コストは、なるべく個人の責任で負担する方が本筋であって、他がそうしているから自分もそうしていいんだ、みたいな主張の仕方では、泥仕合になるだけではないでしょうか。

 だから、愛煙家はむしろ、喫煙による社会的な負担をなるべく喫煙者だけで負担するような運動を、自ら推進すべきだと思います。たとえば、煙草税は目的税にして、公共空間の完全分煙の実現などに使うとか、JT なんかも率先して喫煙者向けの食堂や喫茶店を経営するとか、会社に喫煙所や分煙設備を設置するときには、そのコストは喫煙者の給料からさっぴくとか、空港や駅の喫煙所は有料制にするとか、喫茶店の灰皿はレンタル制にするとか、喫煙席は灰皿や空気清浄機のコスト分割高にするとかしたらいかがでしょう。健康保険料にしても、喫煙は、他の病気と違って自分で選択できる習慣ですから、喫煙者の保険料は健康リスクの分高くしてもよいと思うのですが。

 そのように、喫煙者少数派時代に合わせた社会構造の変革を経て、はじめて、愛煙家はマイノリティとしての正当な地位を得るのではないかと思うのですが、どうでしょう。

 ちなみに、ぼく自身は、30 歳ぐらいから煙草を吸い始めて、35 歳ぐらいでやめたという、ちょっと変わった喫煙歴をたどっているので、煙草を吸う人の気持ちも吸わない人の気持ちもある程度わかるつもりです。

 ぼくが煙草を吸う前は、今ほど喫煙者に対する風当たりが強くなかったので、当時はむしろ、煙草を吸う人ってなんか得だなあ、みたいな気持ちがありましたね。昔いたある会社では、開発室の横が全面ガラス張りで、その外がちょっとした広さのテラスになっていて、喫煙者はそこで煙草を吸うわけです。そうすると、コードを書くのに疲れたときにちらっと窓の外を見ると、同僚が煙草をぷかーっとふかしながら雑談してたりして、なんか楽しそうだなあと思うわけです(^^)。ぼくら非喫煙者が息抜きにできるのは、自動販売機にジュースを買いに行くことぐらいで、ジュースではそんなにダベれないし、ちょっと帰りが遅いと上司に文句言われるし、なんか不公平だなあと(^^)。そういう非喫煙者の感情とかも、あんまりわかってない喫煙者の人も多いんじゃないかな(^^)。

 ぼくが煙草をやめたのは、いろんな理由があるけど、なんか煙草を吸いだしてから自分の性格が変化して、短気になったり被害妄想的になったりしたんじゃないか、と自覚したのが一番の理由ですね。まあこれは自分の主観にすぎなくて、科学的に検証したわけでもなんでもないから、それをもって他人に煙草をやめろと主張する気はまったくないですが。(でも、ウルトラセブンの「狙われた街」っていうのは、案外当っているかも、なんて思ったりもしました(^^))

 逆に、これが煙草を吸う最大のメリットだと思ったのは、飲み会とかでたまたま隣に座った人と話が盛り上がらなくても、煙草をぷかーっとふかしてると、なんか格好がつくこと(^^)。だから、煙草をやめた今でも、飲み会に行くときだけ煙草持参で行ったりします。と言っても、ぼくが飲み会に行く回数なんて年に数回というレベルだし、その後からまた吸い出しちゃうなんてこともまったくないですけどね(^^)。

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ファイナンスのじょーしき

 さっきたまたま WBS を見ていたら、楽天が TBS 株を買うために受けた融資の金利より、TBS 株の配当の方が多いので、楽天は儲かっているという話をしていて、まるでそれが濡れ手に粟のぼろ儲け (というのはちょっと大袈裟だけど(^^)) みたいに説明しているので呆れてしまいました。

 前にも書いたけど、基本的に、融資というのはローリスク・ローリターン、株というのはハイリスク・ハイリターンなファイナンス方法です。まず、楽天は基本的に何があっても融資の金利を払わなくてはなりませんが、TBS 株の配当は TBS の業績によっていかようにも変わりえるわけで、ほとんどなんの保証もないわけです。また、銀行が楽天に融資している金額の額面は、よほどのことがなければ変わりませんが、TBS の株価は毎日のように変動しますから、楽天にはキャピタルロスの危険もあります。さらに、会社が潰れたときも、楽天に融資している銀行は、優先的に債権を回収できますが、TBS 株を持っている楽天の資金は、有限責任ですから、ほとんどすべてぱーになってしまうのです。

 つまり、TBS 株と楽天への融資との間にはリスクの差があって、その間のリスク差を吸収しているのが楽天なのだから、その分プレミアムを受け取るのはむしろ当たり前であって、何の不思議もないのです。でなかったら、銀行からの融資を元に起業するなんてことは、そもそもナンセンスだということになってしまうではないですか。

 もちろん、TBS の配当が高すぎるとか、楽天への融資の金利がリスクと比べても安すぎるという意見はあると思いますけど、リスク差のあるところにプレミアムが発生するということ自体は、ファイナンスの基本原則にすぎないはずで、今さら大騒ぎするようなことじゃないでしょう。

 WBS は経済には強いはずなんだから、あんまりドキッとするようなこと言わないでくださいね~。

 どうも、ファイナンスというものをあまり理解せずにいろいろ言ってる人が多いようなので、ついでに説明しますが、TBS の時価総額は今大体 6000 億円くらいで、そのうち株主資本は 3000 億円くらいですから (ちなみに、楽天の時価総額は 9000 億円ぐらいで、株主資本は 500 億円ぐらいですから、楽天が潰れれば、単純計算では株の価値は 1 割以下になる)、もし TBS がつぶれれば、TBS 株の価値は、最低でも半額になってしまうということになります。つまり、その分の差額が、「人的資本」をはじめとするさまざまな無形の資産の価値だということです。(もちろん、それは現在の市場がそう評価しているというだけで、本当はもっと価値のある可能性もありますが)

 ですから、仮に TBS が乗っ取られたとして、その乗っ取った資本家がヘマをして TBS の人的資本を毀損すれば、彼の持っている株の価値は、約半分になってしまう可能性があるわけで、少なくとも主観的には、彼はわざわざそんなことはしないはずなのです。つまり、現状の資本市場の制度でも、そのような形である程度は人的資本の価値を守るインセンティブが存在しているわけです。

 ここで注意して欲しいのは、このような人的資本を守るインセンティブが機能するのは、資本家が金以外のことも考える「いい人」だからではなくて、むしろ、とことん金にガメツイ人であるからだこそだ、ということです。

 もちろん、私の現在の資本市場にまったく問題がないと言っているわけではありませんが、その多くは、前にも書いたように、市場価値と企業価値の乖離からくるものなので、改善をはかるなら、むしろこの点でありましょう。

 私が一つ考えているのは、今の配当制度をなんとかできないだろうか、ということです。配当というのは、本来、一定期間株を所有するという行為のリスクに比例した額であるべきなのですが、今の制度だと、権利確定日近辺に株を所有していれば配当がもらえてしまうので、これが株価が企業価値と無関係に乱高下する一因になっていると思うのです。

 だから、日垣隆氏も示唆するように、いっそ配当なんぞやめて内部留保一本槍にするというのも一つの手だと思うのですが、私はむしろ、一年間株を所有し続けなければ配当がもらえないとか、配当額を実際に株を所有していた日数に比例した額にするとかしてもよいと思うのです。

 今までそういう制度になっていなかったのは、おそらく、事務手続きがあまりに煩雑で現実的ではないという理由からじゃないかと思うのですが、現在のようにコンピュータ化されれば、必ずしも非現実的とも言えないような気がするのですが。

 もっとも、理論上は、配当によるインカムゲインの変化は、株価によるキャピタルゲインの変化によって相殺されるはずだから、あんまり関係ないはずなんですけどね。でも、実際の市場を見ると、あんまりそうなってるように見えないから(^^)。まあ、このへんは私の勝手な思いつきなので、あまり本気にしないで、話半分で読んでくださいね(^^)。

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JDT と EBStudio

 今頃という感じですが、「英辞郎」を第二版に更新しました。一度は、JammingDicTools で Jamming のユーザー辞書にコンバートしてみたのですが、あまりに検索が遅いので、結局、EBStudioEPWING化しました。

 Jamming はすばらしく使い勝手のよい安価なシェアウェアで、しかも、新しい辞書フォーマットにも精力的に対応してくれるので、作者の方にはいつも感謝しているのですが、なぜか EPWING 辞書にくらべてユーザー辞書の検索が遅いということだけは、指摘しておかなければなりますまい。というわけで、Jamming で英辞郎を含めた辞書を串刺し検索したいが、レスポンスの早さにもこだわるという方は、EBStudio を使って EPWING 化することをお勧めします。

 プログラマ的感覚からすると、独自フォーマットの方が、データ構造をアプリケーションに最適化できるので、パフォーマンスはよくなることが多いはずなんですけどね。そのへんちょっと不思議です。

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文化は制度化では守れない

 前にも書いたような気がするのですが、制度と文化というのは存続の仕組みが違っていて、制度というのは、基本的にお約束だから存続しているわけですが、文化というのは、もともと多くの人がそれ自体の価値を認めるからこそ存続してきた習慣なんですね。だから、文化が存続できるかどうかは、その文化に価値を感じる人の自発的な努力にかかっているわけです。

 ある種の保守派の人たちは、西洋近代の理性主義に対抗して、日本文化や東洋文化の暗黙知的な部分を主張するわけだけど、その考え方自体は別に間違ってないと思うんですね。ただ、彼らがおかしいと思うのは、その暗黙知的な部分を守るために、文化を制度化しようとすることで、制度化された文化はもはや暗黙知ではないわけだから、彼ら自身の定義に従えば、もはや文化ではなく制度になってしまっているわけです。

 だから、こういう人たちは、ご本人がどう思っているかわかりませんが、本質的には近代主義者だと思うんですね。ただ、採用するシステムとしては、西欧のシステムよりも日本のシステムが優れていると主張しているだけで。まあ、別にそれはそれでいいと思うんですけど、それだったら、「伝統」などと思考停止の用語を使わず、日本システムの優越性を、純粋に理性的に論じて欲しいと思うわけです。

 象徴天皇制なんかも、半分以上は文化だと思うんですね。天皇家の嫁不足問題なんかにしても、昔の王政みたいな国家だったら、命令して強制的に嫁にするなんてこともできるわけだけど、民主国家ではそんなことをしたら人権侵害になるのでできません。

 かと言って、お金でつれるかと言えば、これも難しい。なぜかと言うと、そもそも、お金の価値というのは、自分の意思でいつでも好きなときに好きなものが買える自由とセットになっているわけですが、皇室の人にはそういう自由がないからです。だから、仮に皇室に入ればいくらでも金を使えるとしても、その金でブランド物のバックを買って合コンしたり鍋パーティをするわけにはいかないのですから、金があってもたいして意味がないわけです。もちろん、食うに困っているような人にとっては、衣食住が保証されるだけでも天国でしょうが、皇室の嫁がそんなヤツばっかりだったら、おそらく、天皇制という文化を支持する人はいなくなるでしょう。

 だから、象徴天皇制が持続できるかどうかは、結局、制度よりもむしろ、天皇制という文化を支持する人たちの、天皇家を魅力的なものにし、天皇家を敬愛するという習慣を守るという、自発的な努力にかかっているわけです (もちろん、合法的な範囲内でそういう努力をすることは、民主主義社会でも認められている正当な行為です)。

 ぼく自身は、そういう文化にはあまりコミットしていなくて、むしろ、民主主義という価値の方に強くコミットしている人間なので、別に天皇制がなくなってもかまわないと思っています。ただ、ぼくが天皇制を廃止しろと強く主張しないのは、

  • 現に天皇制という文化を支持している人たちが存在する
  • 天皇家がたいした権力を及ぼしているようには見えない
  • 天皇家の方々には人権がないと思うが、本人たちがそれを不満に思っている様子がない

というような消極的な理由に過ぎないので、このような条件が成立しなくなったときには、即座に天皇制廃止を主張するつもりです。

 繰り返しますが、そうなるかどうかは、制度よりもむしろ、天皇制という文化にコミットして価値を感じている人たちの自発的な努力にかかっていると思うんですね。それを何か国民全体のせいにしたり、雅子さんの性格のせいにしたりするのはおかしいと思うのです。世の中、制度的な支援などなくても存続している伝統文化はいくらでもあるので、象徴天皇制が本当に日本人にとって必要な文化であるならば、純粋に文化的な努力だけでも存続できないわけがないと思います。というわけで、ご健闘をお祈りいたします。

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プログラマ的文化・制度論

 ぼくは出身がプログラマなので、なんでもコンピュータのことに置き換えて考える癖があるんですが、文化と制度の関係についても、こういうふうに考えればよいのではないかと思いました。

 コンピュータの歴史を振り返ってみると、史上初のコンピュータ (ここで言うコンピュータというのは、バベッジの階差機関とかインカ人がロープでつくった「キープ」とかじゃなくて、いわゆるノイマン型のコンピュータのこと (^^)) ができたときには、もちろん、先にプログラムがあって、それに合わせて計算機が作られたわけではなくて、まずハードウェアとしての計算機があって、それに合わせてプログラムを書いていたのです。

 その頃はまだ、オペレーティング・システム (OS) というものがなかったので、プログラマは計算させたい問題ごとに毎回ゼロから違うプログラムを書いていました。しかし、やがてそれではあまりにも非効率だということになって、プログラムのロード・実行など、ほとんどのプログラムに必要な処理をアプリケーションから切り離して共有しようという発想が生まれました。それが OS の始まりだったわけです。

 そのころの OS はまだ、特定の機種のコンピュータ上でしか動きませんでした。ところが、ハードウェアの種類が少なく、進化もゆるやかな時代はそれでもよかったのですが、ハードウェアの進化が速くなって、どんどん新しいハードウェアが登場する時代になると、今度は、そのたびに OS 自体を開発し直すという非効率が問題になってきます。そして、ハードウェアに依存しない (専門用語ではポータブルという) 現在のような OS が生まれたわけです。

 その結果、ハードウェアと OS の間にある種の関係の逆転が起こります。それまで、ハードウェアというのは、その名の通り、あまり変化しないもので、ソフトウェアの方はすぐ変化するものとして捉えられていました。ところが、どのハードウェアでも同じ OS を利用できるようになると、むしろ、OS の方があまり変化しないもので、ハードウェアは相対的にすぐ進化するものとして捉えられるようになります。そうすると、最初期のコンピュータでは、完全にハードウェアに合わせてソフトウェアを作っていたものが、むしろ、ソフトウェア (OS) に合わせてハードウェア (厳密には、その間にデバイス・ドライバというソフトウェアが介在するが) が作られるようになってくるわけです。

 もちろん、OS の方はまったく変化しなくなったかと言えば、そんなことはなくて、今まで想定していなかったまったく新しいハードウェアが登場すれば、それに合わせて OS の方も進化します。つまり、ハードウェアと OS は、それぞれ独自に進化する柔軟性を手に入れると同時に、互いに相手の進化に合わせて共進化できるようになり、システムとしての安定性と環境への適応性を両立できるようになったのです。

 なぜそんな都合のいいことが可能になったのかと言えば、その秘密は、「ブラックボックス化」という原理にあります。現代のコンピュータ・システムでは、ハードウェアから見た OS も、OS から見たハードウェアもブラックボックスで、互いの内容を規定していません。ただ、相互にやりとりする時のインターフェイスだけが定められているだけです。そのことが、これだけの柔軟性を生み出しているわけです。

 さて、長々と OS の歴史をおさらいしましたが、本題は文化と制度の関係の話でした。国家というのも、元々は文化的な共通性をベースにして成立したもので、制度というのはその上に構築されたというのは確かでしょう。それは、最初期のコンピュータ・システムでは、ハードウェアに合わせて OS を開発していたのと同じようなものだと言えます。

 私が言いたいのは、制度が文化を基盤としているという説は、起源論としては正しいとしても、だからと言って、国家を安定させるには文化の内容を固定する必要がある、という保守派的な発想が正しいとは限らない、ということです。

 もちろん、国家というシステムがすべてであって外部がないとか、国家というシステムが所属するスーパー・システムが完全に静的なシステムであって、まったく変化がないというのであれば、それもまた国家を安定させるための一つの解である、とは言えます。

 しかし、現実には、国際社会は安定には程遠いし、仮に、安定した世界システムができたとしても、その外には、人類が決して完全には制御できない、宇宙とか環境とか呼ばれるスーパー・システムが残っているわけです。このような、外乱のあるダイナミックなシステムの中において、文化と制度がともにガチガチに固まっているような国家システムを作っても、持続可能なシステムになるとは思えません。

 元々、文化というものは、完全に静的なものではなく、不安定な環境に合わせて進化する動的な安定性が生命線です。それを、制度によって文化の内容まで規定すれば、文化を守るどころか、 (保守派の思惑とは反対に) 文化の生命力を破壊し、ひいては国家の生命力まで失わせることになるでしょう。

 確かに、文化と制度は相互に依存していますが、だからと言って、相互の内容を規定してしまえば安定したシステムができるというのは錯覚であって、むしろ、それぞれ独立して進化する余地を残すことによって、スパイラル的な共進化が可能になると同時に、動的な世界の中で安定して持続することが可能になるのだと思います。

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朝生改憲編

 改憲論がテーマだというので、つい朝ナマを最後まで見てしまい、寝不足になってしまいました。でも、結局議論としては最後までたいして盛り上がらなかったですね。

 その最大の理由は、武見氏も認めるように、自民党案の完成度があまりにも低かったということにつきるようです。特に、「国を愛する責務」などというのは、保守派の学者連からもたいして支持されない始末で、一人で自民党の公式見解をしゃべっている中谷氏がほとんど○○に見え、ある意味お気の毒でした(^^)。

 結局、ああいう文句っていうのは、一部右翼支持層向けのウケ狙いで、「本当は入れたかったんだけど、民主党の○○共が反対するんで入れられなかったんだよ」って言うために入れてあるだけなんじゃないかと (実際、村田氏や森本氏もそれを匂わすような発言をしていた)、ぼくなんかは邪推してるんですけど(^^)。

 そんなわけで、自民党は戦後ずっと自主憲法制定を党是としてやってきたわけだけど、何十年たってそれが実現しそうになったときには、彼らがずっと考えていたことはすでに時代遅れになっていた、みたいな感じがしました。民主党の枝野氏なんかも、「自民党は自分たちが戦後やってきたことにもっと自信を持て」みたいなこと言っちゃってましたけどね。

 だから、あれはもはや右翼的なロマンティシズムにすぎないんじゃないのかなあ。右翼だからってリアリストだとは限らないわけですからね。 自衛「隊」を自衛「軍」にするみたいなところにこだわるのだって、そう考えれば納得がいくじゃないですか。ちょっと北田さんちっくだけど(^^)。

 昔は、憲法というと、西部さんみたいに、国家が先か民主主義が先か、みたいな本質論に持ち込むのが好きな人がいましたけど、今回はそういう人もいなかったようです。いい加減、保守派の人も、文化的な共同体としての国家、みたいな発想の限界に気づき始めたのかもしれません(^^)。

 そう言えば、昔は田原さんから見て左がサヨクで右がウヨクという感じだったのが、今回は視聴者から見て左がサヨク (じゃなくて今はリベラルと言ったほうがいいかもしれませんが) で右がウヨクという配置になっていたのは、何か理由があるんでしょうかねえ。田原さんのすぐ隣が定位置だった、森本・姜両氏も真ん中辺に移動していたし。ま、どーでもいいことですけど(^^)。

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マッコウクジラ

 トリビアだけど、マッコウクジラって、英語で sperm whale っていうの、知ってた(^^)?

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あれ? Google につながらないぞ

 なんか、Google につながらなくなっちゃったんだけど、ウチだけ?
 そう言えば、他のサイトも妙にレスポンスが遅いような気がするんだけど、ひょっとして、大規模テロで太いファイバーがぶちきれたとか、ルート・サーバーがクラッキングされたとかいうことない?
 そういうことを考える前に、自分のところのシステムをチェックしろっ! って、昔よく先輩に怒られたなあ (^^)

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知識人の役割

 知識人や文化人と呼ばれる方々が、一般庶民の無知や頭の悪さにいらだちを見せる、ということがしばしばあります。またこれが、自分は頭がいいと任じる読者の共感を誘うというような効果を発揮することもあり、それはそれで一つの職業技術かとも思うのですが、あまりムキになってこれをやられると、少々見苦しく感じます。

 もともと、知識人とか文化人という言葉自体が、一般庶民より知識がある人たちのことを指す言葉なのですから、知識人と一般庶民との間に知識の差があるのは当たり前なのです。こういうことを言うと、また庶民を馬鹿した発言だと思う人もいるかもしれませんが、人々の知識量に統計的なばらつきがある限り、知識の多い人と少ない人というのは歴然として存在するのですから、統計的な偏差がゼロという超均質集団 (それこそファシズムでもなければ実現できないような) にならない限り、知識人と一般庶民との間の知識の差は決してなくならないというのは、ほとんどトートロジーといってもよいぐらいで、単なる事実を言っているにすぎません。

 つまり、知識人から見れば、一般庶民というのは常に (程度の差こそあれ) バカなのであって、だからこそ知識人という職業も成り立っているわけですから、その事実にあまりムキになるのは滑稽だと思うのです。もちろん、知識人の方々の努力によって、集団の知識量の平均値が上がるということはおおいにありえるし、それこそが知識人の役割だとも思うのですが、それは、知識人と一般庶民の差がなくなるということとは、まったく別の話なわけです。

 これは、政治家などについても言えることであって、民主主義社会において、政治家は市民の代理人にすぎない、というのは一つの理想ではありますが、実際には、政治家と一般庶民との政治意識のギャップが完全になくなることはないと思うのです。

 最近、政治における「宣伝」のあり方が問題になっているようですが、そういう意味で、政治「宣伝」の必要性がまったくなくなることなどあり得ない、と私は思います。

 もちろん、だからと言って、どんな宣伝でもいいというわけではありません。たとえば、まったく事実に反するウソの宣伝はもちろんダメだろうし、いろいろ項目を決めて情報公開を義務付けるとか、タバコの箱みたいに、「一党独裁はファシズムをもたらす危険があります」と書いて、小泉さんのとなりにヒトラーの写真を貼ることを義務付けるとか、金融商品の宣伝みたいに、「小泉政権になると、アジア諸国との関係がなおさら悪化する危険があります」「小泉政権になると、憲法が改悪されて軍国主義国家になる危険があります」「小泉政権になると、弱肉強食の市場原理主義社会になる危険があります」などというふうに潜在的なリスクを箇条書きすることを義務付ける、みたいなことしてもいいかもしれません。でも、そういう努力を重ねれば、「宣伝」的な要素を完全に排除できるかといったら、そんなこともあり得ないと思うのです。

 asahi.com で斉藤美奈子氏が「政治宣伝がなべて「劇場」に近づくのだとすれば、識者と呼ばれる人々の役目は「民主党も自民党に学べ」とあおることではなく『人々よ、宣伝に踊らされるな』と説くことじゃねーの?」とおっしゃっているのですが、そんなわけで、ぼくはこの意見には半分しか賛成できないのです。もちろん、「宣伝に騙されるな」と言うことも必要でしょうが、と同時に、「民主党、もっとうまく宣伝しろよ」と言うこともやっぱり必要なのです。そうやって、現実的な政治力だけではなく、宣伝力でも競い合っていくことにより、それを見る有権者の政治リテラシーも高まっていくはずです。

 思えば、商業広告だって、昔はもっとわざとらしい売り文句だったものが、それこそ糸井さん川崎さん仲畑さんなどの努力により、宣伝の要素を残しつつも、ある種の自己批判を取り入れることによって、ウソくささを消していく、みたいな手法が一般化してきたわけで、そういう意味での表現の洗練が進んでいけば、政治家と有権者との間のギャップはなくならないとしても、平均値としての政治リテラシーは向上して、有権者はより真実に近づきやすくなっていくのではないでしょうか。むしろそういうところに可能性を見出したほうがよいと、私は思います。

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なか見検索

 ついに、amazon.co.jp でも、本の内容を直接検索できるサービスを開始したようです。このサービス、本家アメリカの amazon.com ではかなり前からやっていたもので、翻訳者にとってはひじょうに重宝するサービスです。

 たとえば、意味のわからない英単語や熟語に遭遇し、ウェブ検索でもヒントが見つからないときには、amazon で検索をかけてみるわけです。そうすると、本文の中にその単語や熟語が出てくる本が見つかるので、その本がどんな分野の本かを見るだけでもヒントになるし、最悪、問題の言葉が一番よく出てくる本を買って読んでみればよいわけです。もっとも、さすがに辞書や事典のような本については、このサービスはやっていないようですが(^^)。

 ちなみに、Google Print というのもこれと似たサービスで、こちらには複数の書店へのリンクが貼られています。

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もう 11 月かあ

 この台詞も、せいぜいあと 50 回ぐらいしか言えないんだろうなあ。。。

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安全なシステムとは

 たとえば、自動車なんかを考えてみてもそうですが、ハンドルが硬くて右にも左にもなかなかハンドルが切れない車と、ハンドルが軽くてどちらの方向にも素早くハンドルが切れる車では、どちらが安全でしょうか。誰がどう見ても後者ですよね。あるいは、エンジンとブレーキの関係でもそうです。加速も悪けりゃブレーキの効きも悪いという車と、素早く加速しブレーキもよく効くという車と、どっちがより安全か。答えは言うまでもないですよね。

 さらに言えば、あまり変化に対する抵抗が大きいと、逆に、やっと右に曲がったんだから、また左に曲がったりしたらもったいない、みたいな変な反動が生まれて、なおさらシステムの制動性が悪くなる可能性もあります。

 だから、ぼくは、一般庶民はもっともっと軽薄でよいと思っています。あまり一つの判断に時間をかけて絶対に間違えないようにしようとするよりも、間違えたら間違えたで、すぐそれに気づいて反省し、軌道修正できる方が、ずっと安全なのですから。本当に大事なのは、一つ一つの判断の正しさよりも、そういうフィードバック機構自体が正常に機能しているかどうかなんで、マスコミの方も、そこのところをこそ注視すべきではないでしょうか。

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