金と愛
最近、中流崩壊とか意欲格差社会うんぬんの本を、ちょっとまとめて読んでいるのですが、何かポイントをはずしているのでは、という気がしてなりません。
仮に、世の中を、経済原理の支配する領域と愛情原理の支配する領域に分けたとすると、世界的には経済格差とかの方が断然問題でしょうが、日本の国内に限って言えば、愛情原理に支配される領域、つまり、性とか家庭とかの問題のほうが重要な気がしてなりません。もちろん、単なる直感ですけど。
最近のリベラリストは、性とか家庭とかの問題についてはリベラルだけど、経済の問題については、新自由主義とかグローバリズムに対する反発からか、むしろ保守的な人が多いような気がするんだけど、ぼくはむしろ逆で、経済的にはもっと自由化を進めてもいいと思うんだけど、性とか家庭とかについてはもう少し保守的になったほうがいいんじゃないかと思ってるんですね。まあ、これも半分直感だけど。
なぜかっていうと、経済の世界では、競争によって全体のパイが増えるという効果があるのに対し、愛情の世界では、競争を厳しくしてモテるヤツは何人彼氏/彼女をつくってもいい、みたいにしたからといって、社会全体の愛情の総量が増えるわけではないでしょう?
また、経済の世界は、ミカンよりリンゴの好きな人でも、リンゴ 1 個対ミカン 5 個なら交換に応ずる、みたいな、ある種の代替性があることが前提になっているけれども、愛情にはそういう代替性もあまりないでしょう? というか、より正確に言えば、エロスとかアガペーとかいろいろある中で、そういう代替性のない愛情というものを、人間はどこかで必要としているのではないかと思うわけです。
そうすると、愛情の世界にまで完全自由競争を持ち込むのは間違いで、経済原則の領域と愛情原則の領域は分けとかなくてはいけないんじゃないかという気がするんですよね。
日本で経済格差が問題になっているのも、実は、格差そのものが問題だというよりも、むしろ、愛情の世界にまで自由競争原理が忍び込んできたために、愛情原理の通用する領域が狭くなり、経済的な弱者が愛情の世界でも弱者になってしまう例が増えてしまったからではないでしょうか。そのため、「金なんかなくても愛されあれば」とか、「ボロは来てても心は錦」みたいに、経済的な弱者がそれなりにプライドを持って生きることが難しくなっているということはないでしょうか。
逆に、愛情原理の領域がしっかりしていれば、多少貧しくたって、大多数の人は平気なのではないかなあ。ぼくは、人間にはあえて(経済的には)貧しく暮らす自由、っていうのもあると思うし、生存権に影響しないような細かい経済格差にあまりこだわるのは、かえって裏返しの拝金主義のような気がするんですよね。
疑似科学とかにはまる人が本当に求めているのも、実は「愛」なのではないかなあという気がしないでもないですね。本人たちにもあまりそういう自覚はないみたいだけれども(^^)。
「電車男」ならぬ「電波男」は読んでないけれども(実は「電車男」も読んでない(^^))、何を言いたいかは想像がつかないでもない。でも、そういうオタクの人たちも、結局、無償の愛を注いでくれる萌えキャラを金で買っているわけですよ。つまり、これもある種、金より愛が問題なんだということを示す例証ではないでしょうかねえ。でも、それで本当に満足できるんなら、「無償の愛」は「萌えキャラ」で代替可能であるということになるので、経済原理一辺倒でいける、ということになっちゃうかも知れないんだけど(^^)。
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