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コンビニにサイゾーが

 近くのコンビニで「ザイゾー」を売っていたので買ってみました(昨日は「Windows 100%」を買ったし、前には「週刊東洋経済」を買ったこともあるし、コンビニで売る雑誌もだんだんマニアックになってきたような気がしますね(^^))。もっとも、サイゾーに連載している山形浩生さん自身は、サイゾーはグラビアしか読まないとか書いてたけど(いいのか(^^)?)。

 月刊誌なので、今頃になって少女監禁ネタとかが話題になってるんだけど、その中でも、「オタキング」岡田斗司夫氏が「mixi 日記」で書いてる意見が面白かったので、ちょっと引用。

ずいぶん昔だけど、連続幼女殺害事件、いわゆる宮崎勤事件の時にも思ったんだけど、「こんな奴はオタクじゃない!」とか、「こいつはオタクでダメな奴だけど、俺は違う!」とか、そういうの、無駄だと思う。もう、はっきり認めようよ。「萌え」という感情は、「鬼畜」と表裏一体の関係にあるんだよね?

(中略)

同じように「僕たち善良なオタク」だって、いつ「鬼畜」へと裏返るかもわからない。そのギリギリまで妄想を高める、高度な精神的ゲームをやっているわけじゃない? その中で、ゲームのルールや主旨を取り違える奴が出てきても、そりゃ仕方ないよ。いろいろ報じられてるけど、それに対して「いや、あんな奴は特別で」って言えるのは、一回だけだと思うよ。もう無理。その防衛線は。少なくとも、「こういう監禁事件と、萌え系ゲームは関係ない!」とは、もう言い張れないと思う。じゃあどの辺を防衛線にするのか、そして、その意見をどいつに代表して言わせるのか。そういう政治的な判断が、そろそろ僕たちには必要なんじゃない?

 やっぱり、いまだに表現の自由論とか振り回している人にくらべると、岡田さんははるかにアタマがいいですね。

 相関関係が立証されていない、という意見もあるけど、立証されるまで待っていられないということだってあるんで、そんなことを言うなら、首相の靖国参拝と戦争の間には有意な相関がないから首相は靖国に行ってよいとか、あるいは、ギャルゲー禁止論とファシズムの間には有意な相関がないからギャルゲー禁止論を唱える人はファッショじゃない、みたいなことだって言えなくもない。だから、すぐに法的規制に走るのは勇み足だとしても、少なくとも、そこに何かしら関係があるのでは、ということを論ずる価値はあると思うのです。

 よく言われるけど、今の時代の特徴っていうのは、文化的な規制力が弱まって、あらゆる価値観が同一平面上に配置されてしまったことだと思うんですね(宮台さん風に言えば、「島宇宙化」ってことになるのかしら。使い方間違ってたらゴメンなさい)。もちろん、そのおかげで多様な価値が許容されているわけだけれど、それが、反社会的な価値観が温存される土壌にもなっている。そして、それをコントロールしようとすると、法的に規制するしかない、みたいになっちゃってるわけです。

 もちろん、市場での淘汰というのもあるんだけど、前にも書いたように、市場の競争というのは消費者の価値観に対してはわりと中立的であって、競争に適応的でない価値観を持つ生産者は淘汰されるんだけど、特定の価値観を持つ消費者を淘汰するような方向にはあまり働かない。もちろん、フォーディズムによる大量生産時代には、生産者の都合で消費者が淘汰されるということもけっこうあったと思いますが、多品種少量生産の時代になると、そういう傾向はますますなくなってきている。その一方で、市場外での文化的な淘汰力というのはむしろゆるくなって、淘汰よりも棲み分けでやりすごすような方向に向かっている。

 だから、法的な規制を防ぐためには、逆に、文化的な淘汰の力を強化する、つまり「やっぱり鬼畜って変じゃない?」みたいなことをもっと言論の場ではっきり言う必要があると思うんです。それによって、鬼畜がメジャーな感性なのかマイナーな感性なのか、いい鬼畜とわるい鬼畜の違いはどこかをはっきりさせる。マイナーな価値観だということがはっきりしていれば、それでも俺には鬼畜しかない、みたいな人しか入ってこないだろうし、そういう人にはそれなりの覚悟や理論武装があるはずだから、かえって安全かも知れない。

 これは半分冗談だけど、たとえば、鬼畜の好きな人が集まって、「全日本鬼畜連盟」みたいな自主団体を作り、「鬼畜免許」を発行するというのはどうでしょう。そして、正しい鬼畜道を歩んでいる人だけが鬼畜グッズを買えるようにするわけ(^^)。もちろん、鬼畜免許は定期的に更新し、そのたびに鬼畜のダークサイドに堕ちた人の実録映画とかを観てもらいます(^^)。

 なんか矛盾したことを言ってるように聞こえるかも知れないけど、一応ちゃんと考えてるつもりです。つまり、成熟社会においては、思想信条の自由があるから、鬼畜の人だからと言って政治的権利が奪われることはないし、市場も価値中立的だから、コンビニで商品が売ってもらえなかったりすることもない。だからこそ、言論の場では忌憚なく批判し合うことができるわけです。逆に、前近代社会では、そういう役割分化が未熟で、言論の場の対立がそのまま権力闘争の場や市場に持ち込まれてしまうおそれがあるので、言論が抑圧的にならないように気を使わなくちゃならなくなる。

 こういう役割分化した社会で、言論の場で価値形成を図らなかったら、いったいどこで価値形成を図ればいいのか、っていう話ですよね。まったく淘汰圧のない社会では、あらゆる個人的な欲望が自堕落な成長を遂げてしまい、他者との衝突、それも猟奇犯罪のような最悪の衝突を生んで、初めてその奇怪さに気づくようなことになりがちなのではないでしょうか。それを考えれば、言論の場での適度な淘汰圧というのは、やっぱり必要だと思います。

 そのために求められるのは、決して差別や社会的地位の低下を意図するものではなく、むしろ、個人の価値形成を助けるような、率直な批判の言葉だと思うので、そういう時代にふさわしい批判言語というものを考えてみたいですね。

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