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保守と革新の微妙な差

 「保守」と「革新」というのは、思想的な分類によく使われる言葉でありますが、つきつめて考えれば、これは程度の差でしかないと思います。なぜなら、本質論で考えれば、人間は、絶対的な保守にも絶対的な革新にもなれないからです。

 そもそも、人類という種自体が、遺伝という種の性質を「保守」する仕組みによって維持されているわけですし、個々の人間にしても、ホメオスタシスという個体の性質を「保守」する仕組みによって維持されているわけですから、人間が保守性を完全に捨てることなどどだい無理なのです。

 もちろん、環境に適応するためには保守性だけでもだめなので、突然変異とか学習とかいう「革新」の仕組みも備わっているわけですが、それは保守性が基本にあって、それを守るためのものなので、どっちにしろ程度の差でしかないのです。

 たとえば、弱者を守ろうという政治運動があったとして、その弱者は日本国内では弱者かも知れませんが、世界レベルで見たら、日本という豊かな国に生まれたという既得権を享受している強者でしかないかもしれない。じゃあ、どこまでその範囲を広げたらいいかと言われたら、無限に広げていくわけにはいかないから、どこかで止めるしかないわけ。あるいは、格差をなくすためなら自分は損してもよい、と言える人でも、友人や家族が犠牲になるとしたらどうか、自分の属する会社が損するとしたらどうか、などと考えていくと、そのうち日本の国益が、みたいな話になっちゃうわけ。

 また、その範囲にしても、広げたり狭めたりすることはできるけど、自分がその中にまったく含まれていない範囲をとるわけにもいきません。たとえば、人類だけでなく生物すべてを平等に扱いましょう、みたいな思想は、現時点では無理でも、はるか遠い未来にはひょっとしたら成り立つかもしれません。でも、人間「よりも」炭素菌や岩を大事にしましょう、みたいな思想を人間がとなえることは、思考実験としては可能かもしれませんが、それが思想としての効力をもつことは決してないでしょう。

 だから、保守にしても革新にしても、その範囲を微妙に広げるか広げないかみたいなところで争っているにすぎないんで(もちろん、その微妙な差で範囲に入るかどうかが分かれる立場の人にとっては重大な問題なんだけど(^^))、結局は現実的に可能かどうかというところで決着するしかないわけです。だからぼくは、自分だけがまともな良心を持っているかのごとき主張をする人が好きになれないのです。(^^)

 もちろん、権力闘争の場では、立場をはっきりさせることもポリティックスの一部なんだろうから、そういう微妙な差を誇張してみせることも必要なんでしょうけど、一般庶民がそれにいちいちのっかる必要はないと思うのね。

 ぼくはむしろ、一般庶民は、意識して立場をあいまいにして、油断するとどっちに転ぶかわからないような姿勢を見せといたほうがいいんじゃないかと思っています。そのほうが、政治エリートに対するプレッシャーにもなるし、変なファナティズムやラジカリズムに対するブレーキにもなる。

 ぼくは、小林よしのりさんが「脱正義論」で言いたかったのは、結局そういうことじゃないかと思うんですよね~。本人が今でもそう思っているかどうかは知らないけど(^^)。

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