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オブジェクトの比較

 ここ数回、暴論シリーズが続いたけど、さらに続けます(^^)。

 オブジェクト指向のプログラムを書いたことのある人なら知っていると思うけど、オブジェクトの比較には 2 種類の方法があります。一つは、オブジェクトの属性(メンバとかプロパティとかいろんな呼びかたがある)を一つ一つ比較して、すべて一致すれば同一とみなすというやり方。もう一つは、オブジェクトのポインタやハンドルを比較して、一致すれば同一とみなすやり方。

 人間に例えるなら、前者は、身長も体重も顔も体型も性格もすべて一致するので、マナちゃんとカナちゃんは同じだ、とみなす方法。後者は、どんなにそっくりでも、マナちゃんとカナちゃんは別人だ、とみなす方法、ということになります。

 そうすると、前者は経済原理に対応し、後者は愛情原理に対応している、と言えるのではないでしょうか。そして、この両者をどう切り分けるかが、社会設計においても、個人の生き方においても、重要なポイントなのではないかと思うのです。

 経済原理の世界では、生産のための合理性を重視するので、代替可能なものはどんどん代替して、もっとも低コスト高生産性の組み合わせを見つけ出そうとする。同じものを買うなら、少しでも安い店に行く。というのが経済合理性の世界ですね。

 一方、愛情原理の世界は、関係性重視の世界です。たとえ他の属性がまったく同じであっても、固有名詞が違えば別人とみなすということは、その人自体よりも、その人と他者との関係性を重視しているということです。

 もちろん、経済原理の世界でも、他との差別化をはかることにより、代替不可能な存在になり、固有名詞として認知されるようになった人や会社もあります。

 ぼくが、ニートの人とかの将来の夢とかを聞いて感じるのは、彼らのなりたい職業というのは、そういう固有名詞として認知される職業が多いということです。そうすると、彼らが求めているのは、実は、経済的な成功といよりも、代替不可能な存在になりたいということではないか、という気がするのですね。しかし、それを経済の世界で実現できる人はごく一部ですし、また、必ずしも経済の世界で実現すべきことでもないのではないでしょうか。

 ぼくは、島田紳助さんの本を一冊だけ読んだことがあるのですが、その中で最も感心したのは、「友だち同士は助け合わない」という言葉でした。本当だかどうだか知りませんが、彼は、たとえ友人の会社が潰れて借金取りに追われていても、金銭的な援助をしたりはしないそうです。

 これは、経済原理の世界と、愛情原理の世界を切り分けるための、一つの知恵だと思うのですね。もちろん、たとえ友だちであっても、貸した金は高利貸しのように取り立てる、という方法もあると思うのですが、人間なかなか同じ人間相手にそういうふうには態度を使い分けられないですからね。

 ぼくが LF 問題のときにフジテレビやニッポン放送に対して感じた不満は、彼らには、この両者をどこで切り分けるかという哲学が感じられないということ。にも関わらず「愛情」などという煽情的な言葉を振り回して、周囲の同情を買おうとしていたことです。

 先日、ケイレツの復活傾向が報じられていましたけど、これも別に、長期的な取引関係にメリットがあるのは当たり前だし、そのこと自体が悪いわけじゃないと思うんですね。むしろ問題は、ルールが不明瞭で、ほんとうに長期的な取引関係が望ましいからやっているのか、それとも、人情の次元でやっているのかがはっきりしないことじゃないんでしょうか。だから、使っている方も、都合が悪くなると一方的に取り引きを打ち切ったりするし、使われている方も、感情的に切りにくくするために余計なコストを払っていたりする。こういうのも、ぼくなんかから見ると、経済原理と愛情原理の切り分けができていなように見えるわけです。

 もともと、経済原理と愛情原理には相容れない部分があるので、それをどこで切り分けるかについては、社会倫理としてある程度の合意があるべきだと思うのですが、少なくとも、個人の生き方としてこの両者をどう使い分けるかぐらいは考えておくべきだと思うし、ぼくはそういう人が好きです。

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