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オブジェクトの比較

 ここ数回、暴論シリーズが続いたけど、さらに続けます(^^)。

 オブジェクト指向のプログラムを書いたことのある人なら知っていると思うけど、オブジェクトの比較には 2 種類の方法があります。一つは、オブジェクトの属性(メンバとかプロパティとかいろんな呼びかたがある)を一つ一つ比較して、すべて一致すれば同一とみなすというやり方。もう一つは、オブジェクトのポインタやハンドルを比較して、一致すれば同一とみなすやり方。

 人間に例えるなら、前者は、身長も体重も顔も体型も性格もすべて一致するので、マナちゃんとカナちゃんは同じだ、とみなす方法。後者は、どんなにそっくりでも、マナちゃんとカナちゃんは別人だ、とみなす方法、ということになります。

 そうすると、前者は経済原理に対応し、後者は愛情原理に対応している、と言えるのではないでしょうか。そして、この両者をどう切り分けるかが、社会設計においても、個人の生き方においても、重要なポイントなのではないかと思うのです。

 経済原理の世界では、生産のための合理性を重視するので、代替可能なものはどんどん代替して、もっとも低コスト高生産性の組み合わせを見つけ出そうとする。同じものを買うなら、少しでも安い店に行く。というのが経済合理性の世界ですね。

 一方、愛情原理の世界は、関係性重視の世界です。たとえ他の属性がまったく同じであっても、固有名詞が違えば別人とみなすということは、その人自体よりも、その人と他者との関係性を重視しているということです。

 もちろん、経済原理の世界でも、他との差別化をはかることにより、代替不可能な存在になり、固有名詞として認知されるようになった人や会社もあります。

 ぼくが、ニートの人とかの将来の夢とかを聞いて感じるのは、彼らのなりたい職業というのは、そういう固有名詞として認知される職業が多いということです。そうすると、彼らが求めているのは、実は、経済的な成功といよりも、代替不可能な存在になりたいということではないか、という気がするのですね。しかし、それを経済の世界で実現できる人はごく一部ですし、また、必ずしも経済の世界で実現すべきことでもないのではないでしょうか。

 ぼくは、島田紳助さんの本を一冊だけ読んだことがあるのですが、その中で最も感心したのは、「友だち同士は助け合わない」という言葉でした。本当だかどうだか知りませんが、彼は、たとえ友人の会社が潰れて借金取りに追われていても、金銭的な援助をしたりはしないそうです。

 これは、経済原理の世界と、愛情原理の世界を切り分けるための、一つの知恵だと思うのですね。もちろん、たとえ友だちであっても、貸した金は高利貸しのように取り立てる、という方法もあると思うのですが、人間なかなか同じ人間相手にそういうふうには態度を使い分けられないですからね。

 ぼくが LF 問題のときにフジテレビやニッポン放送に対して感じた不満は、彼らには、この両者をどこで切り分けるかという哲学が感じられないということ。にも関わらず「愛情」などという煽情的な言葉を振り回して、周囲の同情を買おうとしていたことです。

 先日、ケイレツの復活傾向が報じられていましたけど、これも別に、長期的な取引関係にメリットがあるのは当たり前だし、そのこと自体が悪いわけじゃないと思うんですね。むしろ問題は、ルールが不明瞭で、ほんとうに長期的な取引関係が望ましいからやっているのか、それとも、人情の次元でやっているのかがはっきりしないことじゃないんでしょうか。だから、使っている方も、都合が悪くなると一方的に取り引きを打ち切ったりするし、使われている方も、感情的に切りにくくするために余計なコストを払っていたりする。こういうのも、ぼくなんかから見ると、経済原理と愛情原理の切り分けができていなように見えるわけです。

 もともと、経済原理と愛情原理には相容れない部分があるので、それをどこで切り分けるかについては、社会倫理としてある程度の合意があるべきだと思うのですが、少なくとも、個人の生き方としてこの両者をどう使い分けるかぐらいは考えておくべきだと思うし、ぼくはそういう人が好きです。

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ヨーロッパの合理主義

 通販で「西洋耳かき」というものを買ってみたのですが、あんましよくなかったですね。パッケージに「ヨーロッパの合理主義が生み出した」とか書いてあるんだけど、そんなたいしたもんか(^^)? (萬流コピー塾なら「餅」か?) 確かに、かくところが軸の周囲 360 度全方向に付いてるので、軸をひねる必要はないんだけど、それだけのこと。逆に、とれた耳垢が捨てにくくて、耳掻き自体を掃除する道具が別に付いていてうっとうしい。

 これが本当なら、日本の耳かきをヨーロッパに輸出すれば、けっこう売れるのではないかしら(^^)。

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生ごみ処理機購入!

 ついに生ごみ処理機を買ってしまいました。これで、冷蔵庫の中身を腐らせても大丈夫だぞ! もちろん、最初から腐らせるつもりで買っているわけではないんだけど(^^)。

 処理済のゴミを捨てるのは一週間に一回ぐらいでいいらしいので、ますます出不精になりそう。今でさえ引きこもりとか言われてるのに(^^)。

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法人税ってホントに必要?

 サンプロで例のサラリーマン増税の話をやっていて、金子勝氏が、まず法人税に手を着けるべきじゃないかみたいなことを言っていたんだけど、ぼくは前から、そもそも法人税って必要あるのかなみたいなことを思ってたんですね。

 なぜかっていうと、株式会社の場合、実際に儲けているのは法人じゃなくて株主のはずでしょ。株式会社の利益は、配当という形で株主に還元された場合には、配当所得として課税されるし、内部留保した分も (理論上は) 株価に反映されるはずだから、キャピタルゲインとして課税されている。したがって、そこからさらに法人税をとるということは、二重課税になっているわけですね。

 別にどっちからとっても大差ないのでは、と思う人もいるかもしれませんが、課税による所得の再配分機能を重視するなら、税率一定の法人税よりも、累進課税の所得税のほうが優れているわけです。(ちなみに、法人税を累進課税にしても、形式的に小さい会社に分割されたりするだけなので、あまり意味がないと思われます)。もちろん、現在の制度ではキャピタルゲインも分離課税で税率一定なのですが、これは総合課税に含めることも不可能ではないと思うので、その上で法人税を廃止すればいいのでは、と思ったりするわけです。

 原理的には一応これでつじつまが合うと思うのですが、現実問題としてまずい点は、おそらく、脱税に利用されてしまうことでしょう。つまり、自営業者などの場合、不必要に贅沢なものを経費で購入して、私用に使ってしまえば、実質的な脱税ができてしまうわけです。ただ、コーポレートガバナンスのしっかりした公開企業だったら、こういう行為は株主の利益を損ねることになるので、そこでブレーキをかけることもできるでしょう。

 そうすると、折衷案としては、公開企業の法人税は思いっきり安くして、そのかわり、キャピタルゲイン課税や配当所得課税を総合課税に含めてしまう、というような案が考えられると思うのですが、だめでしょうかねえ。もちろん、税制 (だけじゃないけど(^^)) には素人なので、とんでもなくはずしたことを書いてたらごめんなさい(^^)。 

(ただ、累進化税みたいな「非線形」の税率というのは、どうがんばっても、どこかしらで節税の可能性をつくってしまうことは避けられないんですよね~。それに、所得の再配分というのは、必ずしも税金を取るときにやらなくても、税金を使うときに所得の少ない人により多く恩恵があるような使い方をする、という形にもできるはずですよね(ただ、これだとメチャクチャなお金持ちはかなり得するわけだけど)。そう考えると、消費税みたいな税率一律の税制に統一して、所得の再配分は、その分福祉政策を充実させることで対応する、という考え方のほうがいいのかな、という気もするんですけどね(^^)。)

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2005 U.S. Women's Open Stats

 2005 U.S. Women's Open の統計データページを発見。これを見ると、Ai MIYAZATO は必ずしもフェアウェイキープ率とかは高くないのね。

  • Greens In Regulation (パーオン率) : 39%(118 位)
  • Fairway Hits (フェアウェイキープ率) : 50% (138 位)
  • Putts (平均パット数) : 1.44 (3 位)
  • Drives (ドライバー平均飛距離) : 270 ヤード (13 位)

 現時点での順位は 22 位だから、いいのはドライバーとパットなんですね。いつもそうなのかなあ。

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プロテスタンティズムの倫理

 これはぼくの勝手な暴論にすぎないんだけども、例の「プロテスタンティズムの倫理」というのも、カルヴィニズムがどうこう言う以前に、実は、キリスト教圏のある種特殊な家庭観とか愛情観の影響も大きいんじゃないかという気がしないでもないのね。イスラム圏が近代化に苦しんでいるのも、ひょっとしたら、一夫多妻制のせいじゃないか、とかね(^^)。

 キリスト教圏の性に対する考え方がいかにへんてこりんかというのは、主に最近のフェミニストが書いた洋書で面白いのがいっぱいあるので、そのうち紹介してみようかと思っています(^^)。フロイト理論とか「性の解放」の本当の意義というのも、多分、その辺を知ってないとわからないと思うのね。

 前に「ぼぼ日」で「日本人はエッチか」という投票をやって、たしか「そりゃあもう本当にエッチである」ということになったと思うんだけど、ぼくの感じでは、日本人のエッチとキリスト教圏のエッチでは、同じエッチでもエッチの質が全然違うと思うの。つまり、日本には、もともと対して性的抑圧がないから、日本人は単におおらかにエッチなんだけど、キリスト教圏のエッチは、すさまじい抑圧を乗り越えてのエッチだから、妙に力の入ったエッチなのね(^^)。

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頭がいい人の「パソコン情報整理術」

 THE 21 7 月号の特集。ある人がすすめていたので買ってみたけど、やっぱりあまり面白くなかった(^^)。こういうのを見て、すぐ、「ひょっとしたら自分の知らないすごいことが書いてあるかもしれない」とか思って、買っちゃうところがボクのダメなところなんだろうな、きっと(^^)。

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金と愛

 最近、中流崩壊とか意欲格差社会うんぬんの本を、ちょっとまとめて読んでいるのですが、何かポイントをはずしているのでは、という気がしてなりません。

 仮に、世の中を、経済原理の支配する領域と愛情原理の支配する領域に分けたとすると、世界的には経済格差とかの方が断然問題でしょうが、日本の国内に限って言えば、愛情原理に支配される領域、つまり、性とか家庭とかの問題のほうが重要な気がしてなりません。もちろん、単なる直感ですけど。

 最近のリベラリストは、性とか家庭とかの問題についてはリベラルだけど、経済の問題については、新自由主義とかグローバリズムに対する反発からか、むしろ保守的な人が多いような気がするんだけど、ぼくはむしろ逆で、経済的にはもっと自由化を進めてもいいと思うんだけど、性とか家庭とかについてはもう少し保守的になったほうがいいんじゃないかと思ってるんですね。まあ、これも半分直感だけど。

 なぜかっていうと、経済の世界では、競争によって全体のパイが増えるという効果があるのに対し、愛情の世界では、競争を厳しくしてモテるヤツは何人彼氏/彼女をつくってもいい、みたいにしたからといって、社会全体の愛情の総量が増えるわけではないでしょう? 

 また、経済の世界は、ミカンよりリンゴの好きな人でも、リンゴ 1 個対ミカン 5 個なら交換に応ずる、みたいな、ある種の代替性があることが前提になっているけれども、愛情にはそういう代替性もあまりないでしょう? というか、より正確に言えば、エロスとかアガペーとかいろいろある中で、そういう代替性のない愛情というものを、人間はどこかで必要としているのではないかと思うわけです。

 そうすると、愛情の世界にまで完全自由競争を持ち込むのは間違いで、経済原則の領域と愛情原則の領域は分けとかなくてはいけないんじゃないかという気がするんですよね。

 日本で経済格差が問題になっているのも、実は、格差そのものが問題だというよりも、むしろ、愛情の世界にまで自由競争原理が忍び込んできたために、愛情原理の通用する領域が狭くなり、経済的な弱者が愛情の世界でも弱者になってしまう例が増えてしまったからではないでしょうか。そのため、「金なんかなくても愛されあれば」とか、「ボロは来てても心は錦」みたいに、経済的な弱者がそれなりにプライドを持って生きることが難しくなっているということはないでしょうか。

 逆に、愛情原理の領域がしっかりしていれば、多少貧しくたって、大多数の人は平気なのではないかなあ。ぼくは、人間にはあえて(経済的には)貧しく暮らす自由、っていうのもあると思うし、生存権に影響しないような細かい経済格差にあまりこだわるのは、かえって裏返しの拝金主義のような気がするんですよね。

 疑似科学とかにはまる人が本当に求めているのも、実は「愛」なのではないかなあという気がしないでもないですね。本人たちにもあまりそういう自覚はないみたいだけれども(^^)。

 「電車男」ならぬ「電波男」は読んでないけれども(実は「電車男」も読んでない(^^))、何を言いたいかは想像がつかないでもない。でも、そういうオタクの人たちも、結局、無償の愛を注いでくれる萌えキャラを金で買っているわけですよ。つまり、これもある種、金より愛が問題なんだということを示す例証ではないでしょうかねえ。でも、それで本当に満足できるんなら、「無償の愛」は「萌えキャラ」で代替可能であるということになるので、経済原理一辺倒でいける、ということになっちゃうかも知れないんだけど(^^)。

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靖国参拝論のダブスタ

 ぼくは前から、小泉首相の靖国問題に対する発言には、どうも納得いかないものがあると感じていたのですが、その理由がやっと少しわかってきました。それはつまり、小泉氏の発言には実は矛盾があり、その奥にダブルスタンダードが隠されているということです。

 そもそも、なぜ信教の自由というものがあるのかを、原理論的に考えてみると、要するに、人間の知性には限界があるという認識の表れだと思うのです。つまり、個人のあらゆる意思決定を合理的に誰もが納得する形でできればいいのですが、現実には人間誰しも、必ずしも合理的かどうかわからない信念にしたがわなければならないときがある。それを保証するのが信教や思想・信条の自由だと思うのですね。

 この原理は、近代社会の合意による社会的決定の原理と表裏一体になっているわけですが、こちらの原理を表しているのが政教分離です。つまり、政教分離は、近代社会はなるべく合理的にみんなの合意に基づいて運営すべきであり、一部の人だけが信じている必ずしも合理的とは言えない信念によって運営すべきではない、という認識の表れだと思うのです。

 つまり、この2つの原理を、私的な領域と公的な領域で使い分けることによって、近代社会というものは成り立っているわけですね。

  そう考えたときに、小泉氏の発言がおかしいと思うのは、氏は、国内に向けては「戦没者に感謝の意をささげるのは当然だ」みたいなことを言っているくせに、国外に向けては「戦没者をどのように追悼するかについて外国に口をはさまれるいわれはない」みたいなことを言っていることです。

 つまり、小泉氏は、国内に向けては、靖国参拝は宗教的行為ではなく、誰もが合意できる可能性のある当然の行為であると言っているのに、国外に向けては、靖国参拝は宗教的行為だから、同じ宗教的信念を持たない奴には理解できない、と言っているということになる。

 この中間的解釈として、外国人にはわからないかもしれないが、日本人なら必ずわかる、みたいな解釈を主張する人もいるかも知れませんが、そもそも国内でだって、靖国参拝が戦没者を追悼する唯一の方法である、などという合意はできてないわけ。だから、小泉さんの発言は、わざわざ国内の対立をあおり、国内とアジア諸国の分断を煽っているように見えてしまう。

 したがって、私の結論は、もし小泉首相が、靖国参拝がだれもが納得できる正しい追悼の方法だと思っているなら、少なくとも、それについて国内外の合意を形成する努力をするべきだろうし(それが実際に成功するかどうかはまた別の話(^^))、逆に、もし靖国参拝が一部の人にしか理解されないことであり、また理解されなくてよいと思っているのであれば、それは個人の宗教的信念なのだから、小泉純一郎個人としていくべきじゃないだろうか、ということです。

 もちろん、こういう発言すべてが、国内外の複雑な政治力学を計算した上で、あえて二つのスタンダードを使い分けているんだよ、という意見もあるかもしれませんが、それならば、前に書いたように、政治は結果責任ですから、結果を出してくれなきゃ評価できないよ、と言うしかないですね(^^)。

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またおかしいぞ、Amazon

 なぜか、Amazon.co.jp のショッピングカート画面にチェックアウトボタンが表示されなくなってしまったぞ。これじゃ何も買えないじゃないか(^^)。うちにあるどのマシンでも、IE でも FireFox でも現象は同じなので、おそらくアマゾン側のシステムの問題でしょう。なにやってんだかなあ。

PS 06/21 14:43 現在、修正された模様。

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書評とバックグラウンド

 ある翻訳家の方がわりと褒めていたので、安藤進氏の「翻訳に役立つGoogle活用テクニック」を取り寄せてみたのですが、正直すでに実践しているテクニックばかりで、ほとんど得るところはありませんでした。

 まあ、ぼくは元来ソフト屋なので、文科系の人が書いたパソコンを使いこなすテクニック、みたいな本を読むと欲求不満を感じることが少なくありません。だからたぶん、ぼくの感想にはあまり一般性はなくて、どうもコンピュータは苦手、みたいな翻訳者の人にとってはやっぱり有益な本なのでしょう。

 ただ、誰も思いつかないような高度なテクニックが書いてあるわけではないので、自分は翻訳もやるけどプログラムのセンスもある、みたいな人にとっては、それほど面白い本ではないかもしれないよ、とだけ書いておきます。

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いまさらテンピュール

Z・■テンピュール オリジナルネックピロー [Mサイズ]3年間保証書付き これまた今頃という感じですが、テンピュールの枕を購入。枕は硬いのが好きなので、平行輸入品ではなく、日本仕様の M サイズにしました。こっちのほうがちょっと高いんだけど(^^)。寝てみると、確かに頭が安定していい感じ。

 最近は類似品もいろいろ出てるので、ひょっとしたら、テンピュールにこだわる必要はなかったのかもしれないけど、探すのが面倒だったのでテンピュールにしといたって感じですが(^^)。

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SDL が Trados を買収?

 SDLTrados の買収をオファーしたらしいです。SDL も製品自体はそんなに悪いとは思わないのだけど、たぶん、市場シェアは Trados の方がずっと上なんじゃないかなあ。だから、ちょっと驚きました。

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疑似科学にも水準が

 な、なぜ Amazon.co.jp ではこの人の本がベストセラーになっているのでせう。ぼくはこういうのに寛容な方だと思うのですが、それにしてもちょっとお粗末なような気が。。。疑似科学業界もレベルが下がってるんでしょうかねえ。

 昔、タキオンで通信すると、因果律を壊さずに未来や過去と通信できるというハード SF があったけど、どうせ読むなら、そういう本の方がはるかに面白いし頭の体操にもなるんではないかなあ(^^)。

 突然思い出したけど、タイムマシンのロジックをとことんまで追求した小説としては、広瀬正氏の「タイムマシンのつくり方」に収録された「ザ・タイムマシン」というのが決定版じゃないかと思っています。最近の「ジパング」なんかも、ある意味、この広瀬氏のロジックを踏襲していると言えるんじゃないかな(^^)。

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公開と公正

 新聞社などが株式公開すると公正さが保てなくなるという説がありますが、本当にそうでしょうか。ぼくには必ずしもそうは思えないのですが。

 なぜかというと、情報の公正さというのは、新聞社の提供する商品=情報の質に対して消費者が求める最大の要件ですから、公正さの劣る新聞は市場で淘汰される可能性があり、したがって、そのような商品を作ることは株主の利益を損なう可能性があるからです。

 もちろん、市場が少数の企業によって寡占状態になっていて、消費者の選択肢が限られている場合には、このような淘汰のメカニズムが働かないこともあるでしょう。あるいは、少数の大株主によって株が独占されている場合には、その企業が他の企業より贔屓される可能性も否定できません。

 たた、じゃあ非公開にすればこのような問題がすべて解決するのかと言ったら、必ずしもそうとは言えません。非公開だからと言って株主がいないわけではないのですから、株主が腐敗すれば会社も腐敗するだろうし、その場合には、むしろ公開企業よりも再生が難しくなる可能性もあります。

 現に、New York Times にしても Washington Post にしても USA Today を出している Gannet 社にしても、NYSE に上場している公開企業です。USA Today はともかく、前二者は、クオリティ・ペーパーの代名詞扱いされている新聞社であることは言うまでもありません。

 逆に、悪名高いルパート・マードックのやってるニューズ・コーポレーションだって上場してますから、上場すればいいというものでもないのは確かでしょうがね(^^)。

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いまごろリローデッド

 いまごろという感じですが、「マトリックス・リローデッド」を観ました。一作目はだいぶ前に観ていたのですが。モーフィアスが十三代目石川五右衛門みたいになってましたね。そう言えば、一作目冒頭の屋根の上を走るシーンも「カリオストロの城」みたいだったし、ひょっとしてルパン三世も観てるのかなあ、ウォシャウスキー兄弟(ヘンな奴等(^^))。あと、causality は因果関係じゃなくて「因果律」って訳したほうがいいと思うんだけど。その方が SF っぽい。アーキテクトの英語はむつかしかった。"Ergo" とかいっちゃって。コギト・エルゴ・スムのエルゴですね。

 さーて、次ぎはいよいよ「レボリューション」だ(^^)。

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コンビニにサイゾーが

 近くのコンビニで「ザイゾー」を売っていたので買ってみました(昨日は「Windows 100%」を買ったし、前には「週刊東洋経済」を買ったこともあるし、コンビニで売る雑誌もだんだんマニアックになってきたような気がしますね(^^))。もっとも、サイゾーに連載している山形浩生さん自身は、サイゾーはグラビアしか読まないとか書いてたけど(いいのか(^^)?)。

 月刊誌なので、今頃になって少女監禁ネタとかが話題になってるんだけど、その中でも、「オタキング」岡田斗司夫氏が「mixi 日記」で書いてる意見が面白かったので、ちょっと引用。

ずいぶん昔だけど、連続幼女殺害事件、いわゆる宮崎勤事件の時にも思ったんだけど、「こんな奴はオタクじゃない!」とか、「こいつはオタクでダメな奴だけど、俺は違う!」とか、そういうの、無駄だと思う。もう、はっきり認めようよ。「萌え」という感情は、「鬼畜」と表裏一体の関係にあるんだよね?

(中略)

同じように「僕たち善良なオタク」だって、いつ「鬼畜」へと裏返るかもわからない。そのギリギリまで妄想を高める、高度な精神的ゲームをやっているわけじゃない? その中で、ゲームのルールや主旨を取り違える奴が出てきても、そりゃ仕方ないよ。いろいろ報じられてるけど、それに対して「いや、あんな奴は特別で」って言えるのは、一回だけだと思うよ。もう無理。その防衛線は。少なくとも、「こういう監禁事件と、萌え系ゲームは関係ない!」とは、もう言い張れないと思う。じゃあどの辺を防衛線にするのか、そして、その意見をどいつに代表して言わせるのか。そういう政治的な判断が、そろそろ僕たちには必要なんじゃない?

 やっぱり、いまだに表現の自由論とか振り回している人にくらべると、岡田さんははるかにアタマがいいですね。

 相関関係が立証されていない、という意見もあるけど、立証されるまで待っていられないということだってあるんで、そんなことを言うなら、首相の靖国参拝と戦争の間には有意な相関がないから首相は靖国に行ってよいとか、あるいは、ギャルゲー禁止論とファシズムの間には有意な相関がないからギャルゲー禁止論を唱える人はファッショじゃない、みたいなことだって言えなくもない。だから、すぐに法的規制に走るのは勇み足だとしても、少なくとも、そこに何かしら関係があるのでは、ということを論ずる価値はあると思うのです。

 よく言われるけど、今の時代の特徴っていうのは、文化的な規制力が弱まって、あらゆる価値観が同一平面上に配置されてしまったことだと思うんですね(宮台さん風に言えば、「島宇宙化」ってことになるのかしら。使い方間違ってたらゴメンなさい)。もちろん、そのおかげで多様な価値が許容されているわけだけれど、それが、反社会的な価値観が温存される土壌にもなっている。そして、それをコントロールしようとすると、法的に規制するしかない、みたいになっちゃってるわけです。

 もちろん、市場での淘汰というのもあるんだけど、前にも書いたように、市場の競争というのは消費者の価値観に対してはわりと中立的であって、競争に適応的でない価値観を持つ生産者は淘汰されるんだけど、特定の価値観を持つ消費者を淘汰するような方向にはあまり働かない。もちろん、フォーディズムによる大量生産時代には、生産者の都合で消費者が淘汰されるということもけっこうあったと思いますが、多品種少量生産の時代になると、そういう傾向はますますなくなってきている。その一方で、市場外での文化的な淘汰力というのはむしろゆるくなって、淘汰よりも棲み分けでやりすごすような方向に向かっている。

 だから、法的な規制を防ぐためには、逆に、文化的な淘汰の力を強化する、つまり「やっぱり鬼畜って変じゃない?」みたいなことをもっと言論の場ではっきり言う必要があると思うんです。それによって、鬼畜がメジャーな感性なのかマイナーな感性なのか、いい鬼畜とわるい鬼畜の違いはどこかをはっきりさせる。マイナーな価値観だということがはっきりしていれば、それでも俺には鬼畜しかない、みたいな人しか入ってこないだろうし、そういう人にはそれなりの覚悟や理論武装があるはずだから、かえって安全かも知れない。

 これは半分冗談だけど、たとえば、鬼畜の好きな人が集まって、「全日本鬼畜連盟」みたいな自主団体を作り、「鬼畜免許」を発行するというのはどうでしょう。そして、正しい鬼畜道を歩んでいる人だけが鬼畜グッズを買えるようにするわけ(^^)。もちろん、鬼畜免許は定期的に更新し、そのたびに鬼畜のダークサイドに堕ちた人の実録映画とかを観てもらいます(^^)。

 なんか矛盾したことを言ってるように聞こえるかも知れないけど、一応ちゃんと考えてるつもりです。つまり、成熟社会においては、思想信条の自由があるから、鬼畜の人だからと言って政治的権利が奪われることはないし、市場も価値中立的だから、コンビニで商品が売ってもらえなかったりすることもない。だからこそ、言論の場では忌憚なく批判し合うことができるわけです。逆に、前近代社会では、そういう役割分化が未熟で、言論の場の対立がそのまま権力闘争の場や市場に持ち込まれてしまうおそれがあるので、言論が抑圧的にならないように気を使わなくちゃならなくなる。

 こういう役割分化した社会で、言論の場で価値形成を図らなかったら、いったいどこで価値形成を図ればいいのか、っていう話ですよね。まったく淘汰圧のない社会では、あらゆる個人的な欲望が自堕落な成長を遂げてしまい、他者との衝突、それも猟奇犯罪のような最悪の衝突を生んで、初めてその奇怪さに気づくようなことになりがちなのではないでしょうか。それを考えれば、言論の場での適度な淘汰圧というのは、やっぱり必要だと思います。

 そのために求められるのは、決して差別や社会的地位の低下を意図するものではなく、むしろ、個人の価値形成を助けるような、率直な批判の言葉だと思うので、そういう時代にふさわしい批判言語というものを考えてみたいですね。

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批評と自己顕示の微妙な差

 前にも書いたような気がするのですが、このブログでは、単なる個人的な主観で人物の好き嫌い(特に嫌い)を言うことはなるべくさけ、言う場合もなるべく客観的な理由をつけて、公共性のある批評になるように努力しています。

 人様が不快になるようなことを、公の場で必要もなく言うべきではない、というのも一つの理由ですが、もう一つの理由として、客観性のない好き嫌いの表明は、一種の自己顕示に過ぎないと思うからです。

 つまり、理由もつけずに私はとにかく XX が嫌いだ、と書く人が本当に言いたいのは、みんなが騒いでる XX が嫌いって言えるオレってかっこいいでしょ? みたいなことでしかないと思うんですよね。

(もちろん、客観性を志向する批評にも、微妙に自己顕示が混ざっているわけですが、それは、公共の利益にもなるということで許されているわけです。)

 それがまた、個人的な付き合いの中でなら、そういう情報も、コンサマトリーなコミニュケーションのネタとして使えますが、何処の誰かもわからない匿名の人の好き嫌いを知ったからと言って、ほとんど何の役にもたちません。

 昔は、そういう個人的な好き嫌いを公の場で表明するのを避ける、みたいなことが、礼儀の一つとしてあったと思うのですが、ブログの場合、そういう個人的な感情が意味もなく垂れ流されているところが、なんとなく品の無さを感じさせる原因ではないでしょうか?

 ぼくは、このブログを、自己顕示の手段というよりも、むしろ、家の周りに打ち水をするような気持ちでやっているので、このブログでは、ぼくが個人的に嫌いな人物だからと言って、かならずしもけなされているとは限らないし、むしろ、嫌いな人物であっても、いいところだけ取り上げてほめてあることすらあります。だから、このブログを読んで、筆者の党派性みたいなものを読み取ろうとしても無駄だと思います。

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「ナニワ金融道」電子書籍化

 「ツマんどるな」で一世を風靡した「ナニワ金融道」もついに電子書籍化。個人的には、こういう絵はあんまり好みではないのですが、この漫画に限っては、この絵だったからこそあれだけのインパクトがあったということも否定できないと思う。ソープに沈められた娘が陰毛を拾っているシーンなんか、今でも鮮明に目に浮かぶもんね。

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FreeCast

 あと、FreeCast なんてのも見つけました。これは、PeerCast と同じような技術を Java で実装したものらしいんだけど、あまりちゃんと動かないので、いいのか悪いのかよくわからない(^^)。まだ、開発途上なのかなあ。

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Mercora

 同じ P2P と言っても、Mercora のほうはオンデマンドしかできないみたいだから、P2P でファイルを直接共有する代わりにストリームを流すようにしました、って感じみたいですね(あってる?)。だとすれば、技術的には PeerCast の方が面白いような気がするんだけど。まあでも、合法的にいろいろ聴けるだけでも十分便利だけどね(^^)。

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PeerCast

 PeerCast というものをはじめて使ってみましたが、これはなかなか面白いアイデアですねえ。P2P 技術をインターネット放送に利用した、と言ってしまえばそれまでですが、そのおかげで、C/S 方式みたいに大量の帯域幅を必要とすることもなく、IP マルチキャストみたいに特殊なルーターを必要とすることもなく、狭い帯域幅でもソフトを配布するだけでブロードキャストを実現できてしまうという。つまり、P2P とブロードキャストってのは、もともと相性がよかったってことなんだな、きっと。

 これは低コストの放送技術としてはかなり強力だから、あんまり有名になると、録画ネットみたいに当局の弾圧を受けるかもしれないので、このへんで失礼(^^)。

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事実ぐらい確認できるだろうに

 テレビとかの討論番組は、よく「言いっぱなし」だと言われます。もちろん、思想的な問題でどっちが正しいかが簡単に決着がつかないのはある程度しかたないでしょう。でも、たまに、単なる事実関係の問題でもめているときがあって、そのくらいはちゃんと決着つけたらいいと思うのに、それすらやらない番組が多いのはどうかと思います。

 たとえば、こないだのサンプロでも、かの岡崎久彦氏が、「A 級戦犯の合祀は、中韓が抗議するまで国内問題にはなっていなかった」みたいなことを言って、野田毅、加藤紘一両議員が反論していたけれども、あんなことは、新聞の縮刷版とかをチェックすればすぐわかることでしょう?

 サンプロとか朝ナマとかは、生番組だから、その場でチェックできないのは仕方ないとしても、たとえば、次の週 (朝ナマの場合は次の月か) までに調べておくとか、あるいは、番組ホームページに掲載するとかできるはず。

 まあ、番組的には、わざわざ出演してくれた論客を潰すようなことはしたくないのかもしれないし、党派的な思惑があったりもするのかもしれないけど、少なくとも、ぼくのようなノンポリ派の評価は、その方が断然よくなると思うんですけどね。

 そういうときにインターネットの掲示板とかを見ると、きちんと議論して結論が出ていたりすることが多くて、そういうところでテレビとインターネットの差がついてしまったりするわけです。もちろん、インターネット派の人は、適当に両方を使い分けられるからそれほど影響はないとも言えるんだけど、テレビしか見てない人には、そもそもそういう手段は与えられていないわけだから、「テレビはなくらなない」派の人ほど、そういうことを考える必要があるんじゃないかなあ。

 また、インテーネットでは、ときどきとんでもないデマが流れることがあるんで、テレビのような責任あるメディアが情報を流せば、そういうのを牽制することにもなりますよね。今は逆に、テレビの流すとんでもないデマをインターネットが牽制してたりしますからねえ。

 「公共性」のあるメディアはもちろん大事なんだけど、「自称」ではダメなんですよね。その程度のチェックもやらずして何の公共性か、という気がしないでもないです(^^)。

PS そういや、「ガードレールの金属片」騒動も、騒ぐだけ騒いどいてその後の総括が何もないような気がするのですが(^^)。あれじゃ不安を煽ってるだけになっちゃうぞ。

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W32.Mytob.ED@mm

 ふ~っ、やっと駆除が済みました。症状はほとんどこの説明の通り。

 このウィルスは、レジストリを書き換えて、 wincfg32.exe というプロセスを自動起動するように設定するのですが、こいつが常駐していると、タスクマネージャや Norton などのアンチウィルスソフトを起動しようとしてもすぐ強制終了されてしまいます。さらに、hosts ファイルも書き換えられ、シマンテックやトレンドマイクロのウェブサイトに接続できないようにされてしまうので、いったん感染してしまうと、なかなか駆除がやっかいです。

 シマンテックでは、駆除の際にセーフモードで起動することを推奨していますが、マイクロソフト以外のプロセス管理ソフト (ProcessWalker など) を使って、wincfg32.exe を強制終了してもうまくようです。あとは、hosts ファイルにごちゃごちゃ書き足されているサーバーのリストを削除して再起動すれば、シマンテックのウェブサイトに接続できるようになるので、この説明にしたがってファイルのスキャンやレジストリの書き換えをすればOK。

 そもそもなんでこんなウィルスに感染してしまったかというと、Norton Antivirus にひっかからなかった怪しい添付ファイルがあったのですが、拡張子が .txt だったので、テキストエディタで中を見ようとしてダブルクリックしてしまったという次第。もちろん、.txt の後ろの方に .scr がついていて、

「password.txt                    .scr」

みたいになっていたことは言うまでもありません。ありがちな手口なのにね~。うっかりしてたとしかいいようがないです。

 ウチかららしくウィルスメールを受け取った皆様、私の不注意で大変ご迷惑をおかけしたしました。心からお詫び申し上げます。やれやれ。

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ごめんなさ~い!

 あちゃー。わたくしとしたことが、ウィルスに感染されてしまいました。

 症状からして、W32.Mytob.ED@mm というやつみたいです。

 うちの住所録に登録されているアドレスにウィルスをばらまくらしいので、とりあえずお知り合いの皆さんは警戒してください!

 完全に駆除したら、追って詳細をご報告いたしますので。

 取り急ぎ要件のみ。

 あ、Studio RAIN のサーバー (www.studio-rain.biz) はレンタルサーバーなので影響はありません。為念。

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霧笛

 友人が車で犬吠埼灯台に連れて行ってくれました。別に狙ったわけではないのですが、待ち合わせの行き違いで出発するのが遅くなり、着いたのは日没後。おまけに、台風のせいか霧まで出ていて、これは失敗したなと思ったのですが、実際に灯台のそばまでいったら、そんな想いはふっとんでしまいました。

 というのも、灯台から発せられた光が、霧に反射してすこし滲んだような光の帯になって暗闇を照らす様子がなんとも神秘的で、さらに、霧のときしか鳴らないらしい霧笛の音がなんとも風情があるのです。しかも、海に向かって鳴らしているのだから、反射などほとんどないはずなのに、なぜかゲート・エコーのような反響がわずかに聴こえて、「おおおおおおおおおおぉぉん ぉぉん ぉぉん」というようななんとも物悲しい音がする。

 それを聴いていたら、これはこれで珍しい体験ができてよかったね、ということになりました(^^)。

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田原さんと財部さん

 昨日のサンプロの冒頭で、田原さんと財部さんがごちゃごちゃモメていたのはなんだったんだろう。なんかちょっといわくありげだったけど。2ちゃんとか見ればわかるのかなあ(^^)。もっとも、田原さんが生放送中にキレることは珍しくないが(^^)。

追記: なんか、このときのビデオが YouTube にアップされていたのでご紹介 (^^)。

   

 アクセスログを見ると、最近この記事みょーにヒット数多いんだよね~ (^^)。この話、どっかで盛り上がってんの (^^)?


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カニ座の怪獣はカニそっくりか

 円谷チャンネル BB で、ウルトラシリーズ 2 作を鑑賞。

 帰ってきたウルトラマンの「暗黒怪獣 星を吐け!」という話は、怪獣が星(恒星)を食べるという壮大な設定で印象に残っていたのですが、今見たらかなりひどい設定でした。

 野暮を承知でツッコミを入れると、まず、北斗七星が次々と食べられてしまうのですが、北斗七星は地球から見れば互いに近接しているように見えても、実際には地球との距離がかなり違うので、空間的に近接しているとは限らないはず。もっとひどいのは、怪獣を見て「あの怪獣はカニそっくりだからカニ座から来た怪獣に違いない」とか言うところ。星座名は地球人が勝手につけた名前で、しかも中国とかでは違う名前で呼んでいたはず。さらに、ウルトラマンがもぐりこんだ怪獣の体内には「地球を角砂糖1個ぐらいの大きさに圧縮するほどの圧力がかかっている」らしいのだが、ウルトラマンがそんな圧力に耐えられるのなら、普通の怪獣に叩かれたぐらいでダメージを食らうのもおかしくないか。最後にウルトラマンが怪獣をやっつけて星を吐き出させると、吐き出した星が自然に元の位置に戻るのだが、どういう物理的作用によるものかまったく不明。

 私服の岡隊員がかなり短いミニスカートを履いていたのもちょっと印象的でした(ほとんど今時の女子高生みたい。ちなみに、「女子校生」と書くと、微妙に違う意味になるらしい(^^)。)。調べてみると、ツィッギーが来日してミニスカートブームを起こしたのが 1967 年 (帰ってきたウルトラマンの放映は 1971 年) で、ちょうどそういう時代だったんですね。

 ウルトラセブンの「盗まれたウルトラ・アイ」は、佳作として定評ある作品ですが、今見てもなかなかよくできていると思いました。子供のころはまったく気づかなかったけど、当時の若者風俗に対する年長世代の違和感みたいなものも表現されていたんですね。ウルトラセブンの放映は 1967 年で、ビートルズ来日のちょうど翌年。脚本は、確か小谷野敦氏も好きだと言っていた、ライブドアにのっとられたらニッポン放送への出演をやめると言った(^^)市川森一氏の手によるもの。

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オレンジレンジパクリ疑惑考

 今日久しぶりに CDTV を見て、最近の J-POP 業界はどうなっているのだろうと思ってちょっと検索してみてたら、オレンジレンジパクリ疑惑なんて出てたんですね。まったく知らなかった(^^)。それで、いろんな人の意見を読んでみたんだけど、今ひとつぼくの思った感じをぴったり代弁してくれるような意見がなかったので、一応自分の言葉で書いておこうと思います。

 まず、法律的な問題として、これが著作権法違反になるかと言ったら、たぶんならないと思う。これがダメなら、ハロプロのがもっとダメだろうという感じ(^^)。たまたま名前を挙げてしまったけど、ぼくはハロプロの曲はけっこう好きで、80 年代のポップスのリソースをうまくリファインして再利用してると思う。オレンジレンジにしても、この若さで、これだけいろんなジャンルの曲を知ってて、うまく利用できるのは、むしろたいしたものだと思ってしまうのだ。

(まわりのオトナたちが知恵をつけているのでは、という説もあるようだが、個人的にはそういう感じはしない。彼らの引用の仕方には、ぼくらの世代なんかの意表をつくものがあると思う。オトナがやったんだとすると、もっと作為的になって狙い目ミエミエになってしまうのではないだろうか。)

 ただ。「オレたちの中の合言葉は〈パクろうぜ!〉です(笑)。」という発言には正直ひいた。それは、法律的にどうこういうより、彼らの芸術家としての姿勢に疑問を感じさせてしまうからだ。

 実は、「パクリ」がなぜ悪いかという理由には、著作権法違反かそうでないか、というような表層的な次元より前に、芸術におけるオリジナリティとは何かという問題があったはずだ。法律というのは、善悪を一義的に決定しなければならないという現実的な要請を伴っているので、「疑わしきは罰せず」という言葉に典型的に表されるように、境界線の部分がどうしても甘くなる。

(たとえば、コード進行はいっしょだがメロディだけ違う、というのと、メロディはいっしょだがコード進行だけ違う、というのだと、法律的にはたぶん後者の方が盗作になりやすいのだと思うが、実際に作曲する方から見れば前者の方が簡単な場合も多い。「君が代」とまったく同じメロディでありながら、コード進行だけを変えてまったく違う曲にしてしまった Wong Wing Tsan の「さとわの夢」などを聴けば、メロディだけでオリジナリティを評価する発想の安易さがよくわかるだろう。)

 しかし、芸術におけるオリジナリティ、という観点に立てば、ほんとうにオリジナリティのある芸術というものは驚くほど少ないのであり、ほとんどの芸術作品は、過去の芸術の蓄積の上に、ほんのちょっとのオリジナリティを積み重ねているだけなのだ。そして、世の多くの芸術家たちは、そのほんのちょっとを少しでも多くするために日夜研鑽を積み重ねているわけだ。

 このプラスアルファの量を客観的に測定することなどは不可能なので、芸術的オリジナリティの有無は、著作権法のように一義的に裁くことは難しい。しかし、芸術家同士の間や、鑑賞力に優れた批評家から見れば、真にオリジナリティのある作品かどうかは一目瞭然なので、オリジナリティのない作品は低評価に甘んじるという形で「裁かれる」ことになるわけだ。

 ここで問題なのは、芸術的なオリジナリティを生み出せるかどうかは、本人の心構えとか努力とか以前に、才能というものが否定しがたく関与しているということである。才能のないアーティストは、パクリをやればモロバレになってしまうし、かと言って、一生懸命オリジナルなものを作ろうとしても、どこかで聴いたことのあるようなものしかできない。逆に、才能の有るアーティストは、意識的に過去の芸術資産を利用しつつ、誰にもケチのつけられないようにパクることもできれば、それにプラスアルファを加えることによって、まったく新しい芸術を生み出すこともできる。

 したがって、たとえ芸術的なオリジナリティがないとしても、才能の不足によるものであれば、過度に責めるのは酷だと言えるし、逆に、明らかに才能のある者が、安易な作品ばかり作っていれば、もっと責められてもよいと言える。つまり、道義的なレベルで考えるパクリの善悪というのは、実は、才能と善意の相対的な関係によって決まるものであり、だからこそ社会的には意図的に曖昧にされているものなのだ。

 オレンジレンジの場合、少なくとも、「パクリ」の対象を俯瞰して分析し、それをオリジナルに聞こえるように再構成するだけの能力を持っている。これは、実はそんなに簡単なことではないはずなのだ。しかし、上記のような言い方をしてしまえば、彼らは、才能があるのにあえて安直な仕事をしているという印象を与えてしまうのであり、多くの人が「ひいて」しまうのも当然だといえよう。

 もちろん、こういう発言は、実質的にはパクリのような作品が高く評価されている現状に対する、彼らなりの反骨精神の表明なのかも知れない。あるいは、実はそんなたいしたことをしてるわけじゃないんですよ、という屈折した謙遜の表現なのかも知れない。しかし、客観的に見て、この発言はいくらなんでもマズかったと思う。

 ぼくも、若い頃は、何かシャレたことを言おうとしてとんでもなく場違いなことを言ってしまったことは数限りなくあり(今でも時々あるが(^^))、そういう意味では、この発言も若気の至りの言葉足らずである可能性も十分にある。もし彼らが、引用やサンプリングについて、もっと深い哲学を持っているんであればぜひ聞いてみたいと思うし、ファンのためにも、積極的に説明責任を果たすべきではないだろうか。

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グローバル化は諸悪の根源か?

 山形浩生さんが Economist の翻訳をアップ。「貧乏人は減ってるんですよ(格差は増えたか減ったか?)」と「世銀も認めてます」。グローバル化が諸悪の根源みたいに思っている人は必読。

 さわりの部分だけ引用。

 どんな推計を見ても、貧困が最も猖獗を極めているのはサハラ以南のアフリカだ。もう一度図1 と図 2 を見て欲しい。白丸で表現されているのがサハラ以南のアフリカだ。これらは世界最貧困国であるばかりか、経済成長が最も低い国でもある。こうした国々がグローバル化の犠牲になっていると本気で言えるだろうか? サハラ以南のアフリカ諸国は、歴史的経緯や成り行きや、そしてかなりの部分が自分自身や他の政府による政策のおかげで、その他世界経済からかなり孤立している。これを考えると、かれらがグローバル化の犠牲だというのは変な主張だ。サハラ以南のアフリカははっきり言って、グローバル化で苦しんでいるのではなく、グローバル化不足で苦しんでいるのだ。焦点は国際経済との結びつきがもたらす便益をどうやってこの地域にも広めるかということであるべきだ。裕福な国がこれらの諸国と貿易しにくくしている貿易障壁を廃止すれば、出発点としては上出来だ。

 それに対し、インドと中国を見ると、国際経済統合の恩恵がどれほどすごいものかわかる。どちらの国も、自由市場経済のお手本ではない――まったくほど遠い存在だ。しかしどちらの国も、貿易と外国投資の両方の面で、グローバル経済が差し出した機会を活かす未知を意識的に選んできたことは否定しがたい。

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定見

 あのー、この人は、放送と通信は文化が違うから、無理に融合させない方がいい、って言ってた人じゃなかったでしたっけ? それが今度は、いずれ融合するのは間違いないから、放送の側で文化を変えなきゃいけないって言ってるの? ふーん、教養のある人の考えることはよくわかりませんね。

 あと確か、ネット文化の人は自分の言論に責任をとらない、みたいな苦言も呈されていたような気がしたんですけどね。。。気のせいだったかしら。

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MyMio 購入

 今まで使っていた CanonMultiPASS の調子が悪くなったので、BrotherMyMio (MFC-410CN) というやつを買ってみました。

 評判どおり、この手の SOHO 向け複合機の中でもコストパフォーマンスは抜群。Windows のプリンタ共有を使わなくても、直接 LAN にぶらさげて共有できるし(したがって、ホストコンピュータを起動する必要もなし)、フィーダーを正面から水平に入れる方式なのでミスフィードも少ないし、インクカートリッジも 4 色ぜんぶ別なので経済的。

 プリンタの場合、ハードがよくてもソフトで台無しになることも多くて、MultiPASS なんかでも、PC からの操作性がイマイチで、直接本体を操作しないとできない設定がたくさんあったのですが、MyMio の場合、ほとんどの設定が PC から行えるので操作もラクです。

 ただ、多少はひっかかるところもありました。たとえば、PC からの FAX 送信がどうもうまくいかないと思って、いろいろ調べてみたところ、どうも、電話番号にハイフンが入っているせいらしい。それで、サポートに電話してきいてみたら、「それだったら、ハイフンをとってください。」って言われた(^^)。えぇー? 今時、ハイフンを読み飛ばすとか、そうでなけりゃ、ハイフンの待ち時間を設定する機能のない FAX なんてないでしょう(^^)。

 あと、FAX 送付票のカスタマイズができないところもペケ。ウチなんかの場合、FAX の送り先が国内・国外半々なので、日本語と英語のカバーページを使い分けたいのですが、そういうこともできないようです。

(こういうニーズに対応していない製品は多くて、たとえば、留守番電話なんかにしても、圏外だったら英語のメッセージを出すみたいな機能があったらいいと思うのですが、コンシューマレベルだとそういう製品は見当たらない。こういうことを思っている人は、だんだん増えてきているんじゃないかと思うんですけどね。)

 このへんが、マイナーなメーカーの欠点かもしれない、とちょっと思いました(^^)。でも、値段も安いし、全体的にはよくできてると思いますよ。

 

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生意気さがかわいい(^^)

 TBS の「企画工場なりあがり」でやっている「ガキ国会」という番組、なにげに数日続けて観てしまったのですが、意外とよくないですか?

 企画としては単純で、現職の国会議員の人が、「ガキ国会」に法案(それもかなり無茶目の)を提出して審議するというだけの番組。「ガキ国会」のメンバーは、「いまどきの」若者40人ぐらいで、早稲田大学生とかもいるけど、失礼ながら決して平均的教養レベルが高そうには見えない方々。

 そんな単純な企画のどこがいいかというと、この「ガキ」の方々がいい感じに生意気なんですよね。相手が国会議員だなんてことは意に介さず、ズケズケ意見を言うんだけど、決して斜に構えた感じじゃなくて、結構マジメにぶつかっていく。それが見ててなんか気持ちいいんですね。

 もちろん、意見自体はハズしてるなあと思うものも多々あるんだけど、借り物の思想じゃなくて、生活実感的なレベルで本音でしゃべってるから、あまりイヤな感じがしないんだよね。一方の国会議員の方も、権威を傘に着て高いところから見下ろすという感じはまったくなく、「ガキ」の方々と同じ目線の高さで議論をしていて、それもいい感じです。

 正直、議論の内容自体は決してレベルが高いとは言えないと思うけど、なんか見てて気持ちいいんですよね。ある種、新種の「癒し系」というか(^^)。

 この番組、わりと素直に撮ったらそうなっただけなのか、実は演出や編集の手練手管でそういうふうに見せているのかよくわかりませんが、たとえ後者だとしても、なかなか面白い狙い目だと思いますね。

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パッケージ

 政治は結果責任だとよく言いますが、外交においては、法治主義が未完成な国際社会を相手にしなくてはならないのですから、なおさらそうでしょう。

 ぼく自身は不信心者なので、感情的にはそれほど共感できないのですが、それでも、首相が靖国神社に参拝することが絶対的な悪だとは必ずしも思っていないのです。ただ、そのことが現実的に国際関係を悪化させているとすれば、看過できないと考える人が増えるのもやはり当然でしょう。

 ただ、外交政策というのは、パッケージとして成功していればいいのだから、靖国参拝をやめなくてもても、その分他のところで努力することにより、アジアとの関係を良好に維持できるんであれば、それはそれでアリだとも思うのです。現に、日中関係や日韓関係がこれほど悪化していない時には、首相が靖国参拝をしても、今ほどは騒がれず、わりと見逃されてきたわけですからね。

 A 級戦犯が合祀されているとか、遊就館は明らかに東京裁判史観を否定しているんじゃないかとかいう問題にしても、首相が参拝することによって、即その思想が公式に肯定されたということには必ずしもならないとは思うのです。

 ただ、それもやっぱり結果責任がとれていての話ですよね。こんなたとえをすると怒られるかもしれないけど、キムタクの HERO みたいな茶髪でジーンズの検事がいたとしても、もちろん絶対的な悪だとはいえないし、仕事ができりゃいいじゃないか、というのも一つの考え方としてあるでしょう。でも、少なくとも現在の社会では、それによって自分の評判が悪くなるかもしれない、という覚悟は必要ですよね。だから問題は、それを覚悟した上で、自分の流儀を押し通せる自信と計算があるのか、ってことですよね。

 また、同僚の評判なんか悪くてもいいけど、自分の好きな娘に言われると、少々納得いかなくてもきいてしまう、みたいなことだってありますよね。それが、好きな娘に言われても、他の人と同じ対応だったら、好意が疑われてもしょうがないわけだしね。仮に、その娘の好意は失いたくないけど、これだけは理解してほしい、というような信念があったら、それを伝えるたけには、それなりの努力をするのも当然じゃないですか。もちろん、やりすぎて尻に敷かれるということもありますけど(^^)。

 だから、この問題については、形而上学的な議論をゴチャゴチャやってもあまり意味ないような気がするんですよね~。まあ、この靖国カードを利用して常任理事国入りを決める、みたいなウルトラCをやられたら、みんな黙ってしまうと思いますけど(^^)。

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保守と革新の微妙な差

 「保守」と「革新」というのは、思想的な分類によく使われる言葉でありますが、つきつめて考えれば、これは程度の差でしかないと思います。なぜなら、本質論で考えれば、人間は、絶対的な保守にも絶対的な革新にもなれないからです。

 そもそも、人類という種自体が、遺伝という種の性質を「保守」する仕組みによって維持されているわけですし、個々の人間にしても、ホメオスタシスという個体の性質を「保守」する仕組みによって維持されているわけですから、人間が保守性を完全に捨てることなどどだい無理なのです。

 もちろん、環境に適応するためには保守性だけでもだめなので、突然変異とか学習とかいう「革新」の仕組みも備わっているわけですが、それは保守性が基本にあって、それを守るためのものなので、どっちにしろ程度の差でしかないのです。

 たとえば、弱者を守ろうという政治運動があったとして、その弱者は日本国内では弱者かも知れませんが、世界レベルで見たら、日本という豊かな国に生まれたという既得権を享受している強者でしかないかもしれない。じゃあ、どこまでその範囲を広げたらいいかと言われたら、無限に広げていくわけにはいかないから、どこかで止めるしかないわけ。あるいは、格差をなくすためなら自分は損してもよい、と言える人でも、友人や家族が犠牲になるとしたらどうか、自分の属する会社が損するとしたらどうか、などと考えていくと、そのうち日本の国益が、みたいな話になっちゃうわけ。

 また、その範囲にしても、広げたり狭めたりすることはできるけど、自分がその中にまったく含まれていない範囲をとるわけにもいきません。たとえば、人類だけでなく生物すべてを平等に扱いましょう、みたいな思想は、現時点では無理でも、はるか遠い未来にはひょっとしたら成り立つかもしれません。でも、人間「よりも」炭素菌や岩を大事にしましょう、みたいな思想を人間がとなえることは、思考実験としては可能かもしれませんが、それが思想としての効力をもつことは決してないでしょう。

 だから、保守にしても革新にしても、その範囲を微妙に広げるか広げないかみたいなところで争っているにすぎないんで(もちろん、その微妙な差で範囲に入るかどうかが分かれる立場の人にとっては重大な問題なんだけど(^^))、結局は現実的に可能かどうかというところで決着するしかないわけです。だからぼくは、自分だけがまともな良心を持っているかのごとき主張をする人が好きになれないのです。(^^)

 もちろん、権力闘争の場では、立場をはっきりさせることもポリティックスの一部なんだろうから、そういう微妙な差を誇張してみせることも必要なんでしょうけど、一般庶民がそれにいちいちのっかる必要はないと思うのね。

 ぼくはむしろ、一般庶民は、意識して立場をあいまいにして、油断するとどっちに転ぶかわからないような姿勢を見せといたほうがいいんじゃないかと思っています。そのほうが、政治エリートに対するプレッシャーにもなるし、変なファナティズムやラジカリズムに対するブレーキにもなる。

 ぼくは、小林よしのりさんが「脱正義論」で言いたかったのは、結局そういうことじゃないかと思うんですよね~。本人が今でもそう思っているかどうかは知らないけど(^^)。

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少子化対策もいいけど

 ぼくは、少子化対策もいいけど、この際もっと移民政策を真剣に検討したらどうかと思っています。

 もちろん、来たい人はみんな入国させろなんていう非現実的なことを言ってるわけじゃありません。ちゃんと、日本人としてやっていける資格があるかを審査して入国させればいいと思うのです。その審査の一環として、学力、職能、日本の文化に対する知識、倫理観などの試験を行えば、その試験の難易度次第で、入国する人のレベルも人数もいかようにも調整できるでしょう。そうして、合格した人には、ちゃんとした日本の市民権(シチズンシップ)を与えるようにします。

 うまくすれば、日本に優秀な人材が入ってくるわけだからそれ自体が日本の国益になるだろうし、その人たちが日本と母国との架け橋になってくれれば外交的な資産にもなるし、日本で質の高い教育やスキルを身につけた人が母国に帰って母国のために働けば、南北格差の解消につながって世界平和にすら役立つかもしれない。

 だいたい、日本だけ見れば少子化かもしれないけど、世界全体で見れば、依然として人口は増え続けているわけでしょう? そしたら、移民の方が、世界の人口には影響を与えず日本の人口だけ増やせるんだから、少子化対策よりいいと思うんですけどねえ。

 それに、子供をたくさん作る文化の人が日本に入ってくれば、日本人も影響を受けて、また子供を作り出すなんていう可能性もあるんじゃないかな。

 今の世の中では子供を作りたくても作れない、っていう意見もあるようだけど、それは半分ぐらいは嘘じゃないかと思ってるんです。だって、昔の日本人は、今の日本人の平均よりはるかに経済的な余裕のない人ですら、やたらと子供を作って、ひーひー言いながら育ててたんですから。それが、経済的には明らかに豊かになっているのに子供を作らなくなったっていうことは、どう考えても、そんな苦労やリスクを背負ってまで子育てをしたいと思わなくなったという、家庭や子供に対する意識の変化も考えないと説明がつかないと思うんですよね。

 でも、共産党支持を公言してるぐらいリベラルな友人ですら、この話にはあまりのってくれないんだよなあ。なんでだろう(^^)。

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DVD ALBUM

 注文しておいた CaseLogic の DVD アルバム到着。これは、ぼくが今まで買った DVD ファイルの中では一番よくできてますね。

 なにより、映画やなんかの DVD トールケースの、外側のビニールとの間に差し込まれているジャケット(でいいのかな?)が、2 ッ折りで収納できるところがいいですね。今までのこの手の製品だと、なぜか、不自然に 3 ッ折りぐらいにしないと入らなくて、あまり美しくなかったのです。もちろん、ディスク用のポケットもしっかりしていて、ディスクが飛び出しにくくなってます。

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坂本龍一登場

 っていうから、ついみちゃったけど、あんなんかい(^^)。アホアホマン以来の衝撃かも(^^)。

 でも、笑い飯もけっこう好きだからいいけど(^^)。

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お金は大事だよ

 お金というのは不思議なもので、ほとんどの人がお金を欲しがっているのは間違いないのですが、その一方で、金目当てで行動する人が蔑まれたり、金銭欲がなくて質素な生活をしている人が尊敬されたりします。つまり、人間は明らかにお金に対してアンビバレンツな感情を持っています。これはなぜなのでしょう。

 そもそも、人がお金を払うのは、自分にとって価値のある財やサービスを得るためですから、お金というのが何らかの価値を体現しているのは間違いないわけです。ところが、その価値の元になる価値観は、人によって違うし、同じ人の中でも、場合によって違っています。だから、ノーベルさんみたいに、ダイナマイトを作って儲けたお金を世界平和のために使ったりすることもできるわけです。

 つまり、お金というのは、人間にとってある種の価値を体現しているものであると同時に、ある種没価値的でもある(むしろ汎価値的と言った方がいいのかもしれませんが)わけで、これが、多くの人がお金に対してアンビバレンツな感情を抱く理由なのだと思います。

 けれども、実はこれこそがまさにお金の強みでもあって、この没価値性が価値観の変換装置として働くことにより、異なる価値観や技術を持つ人たちが、互いに協力し合うことが可能になっているのです。特に、近代民主主義の掲げる「自由」という価値は、市場とお金がなければ、絵に描いた餅でしかなくなることでしょう。

 前にも紹介しましたが、「帰って来たウルトラマン」の中に「怪獣使いと少年」という伝説的なエピソードがあります。その中で、村八分にされている少年がパン屋に門前払いを喰うのですが、後からパン屋の娘がパンを持って追いかけてきます。 そこで少年が「同情なんてしてもらいたくないな」と言うと、「同情なんかしてないわ。売ってあげるだけよ。だってうちパン屋だもん」 と答える有名なシーンがありますが、これなんかも、市場と自由の関係を象徴的に示しているシーンだと思います。

 そのように考えれば、社会の総生産が増えるということは、人間にとってなんらかの意味で価値のある財やサービスが増えるということとイコールなのですから、基本的にはよいことだというしかありません。もちろん、囚人のジレンマによる市場の失敗などが示すように、個々人にとっての効用の増加が社会全体の不効用の増加に結びつびついてしまうとか、一部の人の利益が他の人の不利益に結びつくとかいうこともありますが、すべての交換が正当な等価交換になっていないというシステムの問題なのであって、お金自体が本質的に悪いものだからではありません。

 したがって、そういうシステムの欠陥をすべて除去してもなお、お金が「悪いこと」に使われるとすれば、それは、そういうお金の使い方をする人間の価値観の方が間違っているのだというしかないはずです。もっとも、世の中の大多数の人が価値があると思っているものを、誰がどういう権利で間違っていると言えるのか、というのはかなり難しい問題ですが(^^)。

 金儲けに汲々とする人が蔑まれてきたのも、その中に必ずしも社会全体の富を豊かにしないような人や、一部の人に不当に不利益を与える人が含まれていたからでしょう。しかし、繰り返しますが、それはシステムの問題であって、市場経済のシステムというのは、もともと、自分が豊かになりたいという欲望をインセンティブにして社会全体を豊かにするするという戦略なのですから、金を儲けたいと思うこと自体を責めるのは、矛盾しているというしかありません。

 たとえば、たくさんお金を稼いで、自分に必要な分だけ残して全部寄付をするという人と、最初から自分に必要な分しか稼がないで質素な生活をするという人の、どちらが社会により貢献しているかと言ったら、明らかに前者です。(特に、日本のように累進課税の国ならなおさらです。)

 実は、ぼく自身はどちらかというと後者で、自分さえ喰っていければ、それ以上無理して稼ぐより、好きなことして気楽に暮らしたほうがいいやと思ってしまうタイプなんです。だからこそ、自分に対する戒めもこめて、自分一人では使い切れないくらいたくさんお金をかせぎ、たくさん財やサービスを生産し、たくさん税金を払ってくれている人たちに対する尊敬の気持ちを忘れたくないと思うのです。

 こんなに豊かな社会なのに、それ以上豊かな生活を求めてどうする、みたいな意見もありますが、現在、豊かさを求めなくていいと思えるほど豊かなのは、まだまだ日本を含めた先進国の一部でしかありません。したがって、そんなに豊かなのがいやなら、質素な生活などせず、金を稼ぎまくった上で、余分な金を全部最貧国に寄付なり投資なりすりゃいいのです。もちろん、ぼくだってそんなことできないけど(^^)、理屈の上ではそういうことになるはずです。

 そういうわけで、豊かさの追求をやめるのは、少なくとも、南北格差がなくなってからでも遅くないと思うのです。斎藤貴男さん風に言うなら、「そのせいで最貧国の人がより豊かになる可能性がなくなるんだったら、質素な生活なんてしたかないですよ。」と言ったところか。ちょっと挑発的すぎますかね(^^)。もちろん、最終的には個人の自由ではありますが、まっとうにお金を稼いでる人は、もっと社会的に評価されていいと思うのです。

 そして、そのようにして生産された財やサービスがくだらないものばかりであるとすれば、それは、生産する側よりも、むしろ、消費する側の責任なのであって、そのような消費文化の貧困を解消するためにこそ、山崎正和さんや糸井重里さんの言うような、「消費のクリエイティブ」が考えられなければならないと思うのです。ちょっと強引なまとめですが(^^)。

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Server Down

 いつのまにか、ウチのサーバーが落ちてますね。しかも、ホスティング・サービス自体の管理ページまで落ちている。どうなっとんじゃ。

 前から思ってたけど、このホスティング・サービスは、どうもあまりアップタイムがよくないようですね。ホント、いい加減にせんと、乗り換えるぞ、こら(^^)。でも、スペック的にはわりと気に入ってるんだよな~。

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Angelus

 忘れてはいけない半野喜弘さんの新作「Angelus」も GET。困ったことに、これまた傑作なんだなあ。別に困ることないか(^^)。

 前作「Lido」のレビューでは、ジャズのスタンダードみたいな雰囲気がある、みたいなことを書いたんですが、今作は、雰囲気どころかモロにジャズみたい。それも、日本人ボーカリストによる日本語詩の唄ものばっかり。

 それでも、前作には何かガラスの糸のようにピーンと張り詰めた雰囲気があったのですが、本作はいい意味でオーガニックなユルさがあり、夜中に電気を消して一人で聴くのにピッタリという感じです。ボーカリストは、坂本美雨ちゃん、細野さん、クラムボンのいくこさんなどなど。

 といっても、もちろん普通のポップスではなく、半野さん独特の和声感覚や音響感覚は健在で、半野さんの才能が、特定の手法やスタイルにおさまらない普遍性を持つことが改めて証明されたようです。

 ハラカミさんがサティだとするなら、半野さんは(アルバン)ベルクで、竹村さんはバルトークあたりかなあ。ちょっと無理あるか(^^)。でも、半野さんのサウンドのちょっとデカダンな感じは、ホントに新ウィーン楽派を思わせるところがありますす。

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