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内面を裁くときの作法

 「ボウリング問題」に対するマスコミの姿勢について、前回はやや搦め手から批判してみましたが、今度は、もう少し本質的な問題点について考えてみたいと思います。

 そもそも、マスコミがこの「ボウリング問題」を取り上げる理由としては、以下の 3 つがあると思います。

  1. 組織の体質を示す傍証
  2. 道徳的によろしくない
  3. 被害者や遺族に不快感を与える

 1 は、事故の原因を検証する活動の一環ですから、他の取材との軽重を考えるべきである、ということは前回指摘したので、今回は、2 と 3 について考えて見ます。

 事故の直後にボウリングに行くことが、なぜ道徳的によろしくないとみなされるかというと、ボウリングというのは娯楽であり、本気で反省している人間が娯楽に興じられるはずがないので、反省していないはずだ、というロジックだと思われます。

 しかし、反省というのは、あくまで個人の内面の問題なんですよね。そして、内面の表現方法というのは、人によっても文化によっても違うし、第三者が他人の内面を知ることのできる範囲にも一定の限界があるはずです。

 たとえば、お葬式の場で誰が本当に悲しんでいるかということだって、そう簡単にはわからないことでしょう。一番悲しいはずの人が、わざと気丈に振舞って笑顔を見せていることもあれば、たいして悲しくもないのに、泣き崩れている人もいる。それを、お前は本当に悲しんでいるのか、などと問いただしてもきりがないし、逆に、泣いていない人は悲しんでいない、みたいに決め付けても、形式主義になって、形だけ泣いてみせる技術、みたいなのが流行るだけでしょう。

 JR 西日本の問題でも、二次会などでお酒を飲んだことが問題になっているようですが、通夜振る舞いとか精進落としだってお酒を飲むわけだし、彼らがお酒の席でしみじみと事故について語り合っていた可能性だってないではないわけです。

 こんなことを書くと、その席でも馬鹿笑いの声がしていた、みたいなことまで取材されそうな勢いですが、そんなことを言いたいわけではなくて、私が言いたいのは、他人の内面と言うのは、第三者が軽々しく決め付けることはできないということです。

 もちろん、長年いっしょに暮らしている家族、付き合いの長い友人、学校の部活仲間、企業内の小集団などの中には、あきらかにこいつ反省してない、と言い合えるような関係もあるでしょう。しかし、それは、お互いに利害を共有していて、相手の反論も許しながらとことんまで話し合うことができるような関係だから成り立つことで、第三者が軽々しくできるようなことではありません。

 それを無理に追求しようとすると、JR 西の職員一人一人の生活を朝から晩まで監視するみたいなことになりかねないし、それも、都合のいいところだけ切り貼りしたんでは不公平だから、一日中カメラ回しっぱなしで撮ったものをそのまま放送して、視聴者の評価を仰ぐみたいな、ほとんど人権侵害みたいなことをしなきゃならなくなるでしょう。

 かと言って、なんらかの判定基準をもうけようとすれば、宴会がダメなら食事はどうか、食事の金額を制限する必要はないのか、お笑い番組を見てもいいのか、バラエティとお笑い番組はどうちがうのか、お笑い番組でもつまらなければいいのか、バナナはおやつに入るのか、みたいなどんどんくだらない形式主義になっていくだけでしょう。

 つまり、いずれにせよ、他人の内面を裁くことには一定の限界があるし、特に、不特定多数の第三者が公の場で裁く際には、なおさら慎重であるべきだということです。

 もちろん、当人の内面はどうあれ、被害者や遺族の立場から見れば不快そのものである、という観点はあって、上の分類で 2 と 3 をわざわざ区別しているのもそのためです。 つまり、3 は 2 と違って、道徳と言うよりマナーの問題ですから、社会慣習として不謹慎とみなされていることはしないようにしよう、というような形式主義でもそれなりに有効なわけです。また、報道する側からしても、私的なことについては、わかっていても、あえて報道しないでおこう、という考え方もできるでしょう。

 そう考えると、これはやはり節度の問題で、ボウリングをしたということを報道するだけなら、社会慣習に反するという形式主義の観点で説明できるでしょうが、二次会のレシートまで公表したりすることには、(個人の内面を公の場で裁くことにつながるので)もっと慎重であるべきだと思うのです。

 誤解を恐れずに言えば、そういう内面と外面の区別がなくなった一つの極限が、「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」みたいな標語が蔓延し、女の子の化粧や野球の英語にまで文句をつけた戦時中の社会でしょう。今のマスコミの報道を見ていると、マスコミでよく言う戦争の記憶の風化がこんなところにも表れているんだなあ、などと皮肉の一つも言いたくなってしまいます。

 もちろん、遺族や被害者の方は、JR 西の社員の内面まで信用できるようにならない限り、彼らを心から許すことはないでしょう。しかし、それはあくまで当事者同士の問題であって、第三者が恣意的に干渉すべきことではない、と思います。

追記:「報道ステーション」を観ていたら、また、JR 西の職員が JR という名前を隠して宴会をしていた、なんてことまで「摘発」されていましたが、そういうことを続けていって、いったい何がやりたいんですか? JR 西の職員が、決して宴会をせず、人前で笑顔を見せないようになったら、それで満足ですか? それにいったい何の意味があるんですか? マスコミの取材範囲に形式的な枷をはめるのは難しいことは承知しているんで、だからこそ、マスコミの仕事に携わる方々は、常に社会的影響を考えて自省しながら仕事をして欲しいんですけどね。それこそ、ホリエモン騒動の時にさんざん言われた、マスコミの「公共性」なんじゃないですか? 視聴率さえ取れればなんでもいい、というようなことをやっているとしたら、どの口でホリエモンを批判できますか?

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