制度ではなく文化の問題として
例の監禁事件について検索すると、批判の矛先を成人コミックとかエロゲーとかに向ける動きをけん制するような意見が多いようですね。
ぼくも、エロに対しても表現の自由は守られるべきだ、という意見にはまったく賛成です(もちろん、レーティングとかはきちっとやったほうがよいと思いますが、ここではその話は省略)。ただ、最近の「そういうの」を見ると、あまりにロリコンや鬼畜が多すぎるのではないか、と感じるのはぼくだけではないと思うし、だとすれば、それに対してなんの批評も行われない、というのは、やっぱりおかしなことではないでしょうか。
つまり、特定の文化活動を制度的に規制する、ということと、言論というフィールドの中で批判する、ということは、本来別次元の行為であるはずなのに、批判が高じて規制に結びつくことを怖れるあまり、まっとうな批判までが忌避される傾向になってしまっては、本末転倒だということです。
ええかっこしいと思われるのはいやなのですが、ぼくは、こんなにロリや鬼畜ばかりが過激化する傾向には、なにかしら不健全なものを感じるし、それを体系的に文化批評として述べる人は、やっぱり必要だと思うのです。
たとえば、食文化についてであれば、仮に、ジャンクフードばかり食べている人がいたとしても、法律的には許されるわけですが、それはそれとして、そんな食生活はやっぱり身体に悪いんじゃないか、というような批評はあっていいはずだし、あるべきでしょう? それと同じことだと思うのですね。
もちろん、ジャンクフード派の方も、あまり健康オタクみたいになるとかえって不健全だから、たまにはジャンクフードも食べたほうがいいんだとか、一日一回と決めて食べればほとんど害はないとか、大いに反論すればいい。そういう議論の中で、ジャンクフード的なものにも、それにふさわしいニッチというものが決まってくるのだと思うのです。
ポモ時代に俗流文化相対主義が流行ったころには、あらゆる文化批判を禁じ手のように言う人もいましたが、文化のバイアビリティというものは、言論の自由の下での相互批判によって、常に試されるべきであると思います。
もちろん、それが性的マイノリティの抑圧につながるとか、いろんな問題はあると思いますが、性的マイノリティの方たちだって、無条件に存在を肯定されるのではなく、相互批判という文化的な闘争の中で、自分たちが反社会的な存在でないことを自らアピールすべき(健全なサドと危険なサドとはここが違う、みたいに(^^))だと思うのですが、いかがでしょう。
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