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ブログと文体

 このブログでも何回も主張した通り、ブログのよさというのは気楽に書けるところにあると思うのですが、一方で、書かれたものは不特定多数に対して公開されるわけですから、その内容が与える社会的影響というのも無視できません。しかし、社会的影響を考えすぎると、気楽に書けなくなる、という葛藤があります。ぼくは、この葛藤をバランスする一つの鍵は、「文体」にあるのではないかと考えています。

 昨今は、「ズバリ言う」とか「斬る」とかが、やたらともてはやされる風潮にありますが、もともと、公の場で「ズバリ言」ったり「斬」ったりするためには、事実認識や論理に穴がないかどうか十分な調査や思考を重ね、相手の人権などを侵害しないように配慮し、さらに、政治的なリアクションに対する覚悟を決めるというようなことが必要で、だからこそカッコいいはずだったんですよね。

 ところが、なんでもそうですが、そういう行為が「カッコいい」という評価を得るようになると、水面下で行われている努力などは無視して、表面的な形だけをマネをする奴が必ず出てきます。しかし、実際には、そんなものを読んでも、カッコいいどころか、寒々しいだけに過ぎないのです。

 もちろん、ブログと言っても、プロ顔負けの内容を書かれている方もいらっしゃいますし、逆に、プロのジャーナリストでも、かなりゆるゆるの記事を書かれている方もいるので、ブログという表現形式を一律に差別をする気はありませんが、少なくとも、内容にふさわしい文体というものは考えたほうがよいと思うのです。

 ぼくも、たまに真面目にいろいろ調べて書くこともあるので、そういうときにはカタ目の文体を使うこともありますが、そうでないときは、なるべく、「~のような気がします」「~じゃないでしょうか」みたいなへなちょこな文体で書くようにしています。まあ、適当なことを書いて公衆の面前にさらす以上、そのぐらいの義務はあると思うんですよね。

 いろんなブログを眺めていると、たいした内容でもないのに、必要以上に偉そうな口調で書かれているものが、けっこう多いですよね。でも、何が鋭い意見かというのは、相対的に決まるものですから、ブログ全体のレベルが底上げされるということはあっても、全部が全部鋭い意見ばっかりになるということはありえないはずです。そう考えると、ブログをジャーナリスト予備軍の訓練場としてではなく、庶民の文化として定着させるためには、もっと一般庶民の良識と衝突しないような文体が定着する必要があると思うんですけどね。

 ブログに限らず、言論一般のあり方として考えても、かつては、何かについて調べようとしても、当事者や関係者以外には知りえない情報が多かったし、発言の機会の少ない社会階層みたいなものもあったので、あえて、素人の素朴な疑問をぶつけたり、暴論を怖れず問題提起をしたりということにも意味があったと思うのです。

 しかし、現代では、直接にも間接にも情報公開が進んでいるので、当事者でなくてもかなりのことが調べられるし、インターネットではそれこそ誰もが発言の機会を得られるわけで、そういう時代に、ろくに調べもせずに暴論をぶったり、素人だからと無知に居直ったりすることは、かつてのようには擁護できないと思うのです。

 そういう意味でも、もっと他人に対して敬意を持ち、身の丈にあった文体で文章を書く人が増えたほうがいいんじゃないかなと思うんですよね。

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» かくて誰もが [梟の森]
Aさんは、最も身近で最も詳しい筈の自分の歩みには触れないで社会を語ります。B評論 [続きを読む]

受信: 2005.06.09 08:22

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