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教養の差

 稲葉振一郎氏の読書ノート、ひさびさの更新。感心したので長いけどちょっと引用。

実のところ社会学というのは――少なくともデュルケムからこっち、20世紀のあらかたは――まさにこの「型」の科学であった。デュルケムの「社会的事実」もポスト構造主義の「エクリチュール」も、更にはルーマンの「システム」もブルデューの「ハビトゥス」も、みんなみんなこの「型」、つまり「構造」理論にはまりこむか、あるいは積極的にはまってはいなくとも結局足をとられてしまったか、であった。

 そのどこがおかしいのか。どの辺でこうした潮流は、かつての威信を失ってしまったのか。思うにそれは「構造」の「再生産」という理論構図にあったのではないか。大雑把に言えばこれらの「型」においては、個別的な実践主体としての人とその社会集団に先立って、人々の思考と行為をかたどり方向付け拘束する「構造」が存在し、その「構造」は人々の社会的な生の実践を通じて再生産されていく――という構図があった。しかしながら「ドーキンス革命」以後の我々には、ここに抜け落ちていたものが何かは明らかである――「状況」あるいは「環境」だ。

 実はドーキンスの理論も、ある意味では「型」を継承してはいる。実のところ、彼の言う「遺伝子」も「ミーム」も「型」「構造」の一種だ。では一体ドーキンスのどこが新しかった(というのは正確な言い方ではないが)のか? 「進化」ではない。より正確に言えば「構造」の変異のメカニズムとしての「突然変異」ではない(むしろそこはブラックボックスだ)。そうではなく、「構造」というマトリクスを実現する生き物個体や社会的実践が、そこにおいて適応の善し悪しを自然選択のテストにかけられるフィールド、すなわち「環境」というファクターが入っているところが、ドーキンスの理論のポイントである。

 ところが従来の「型」にはまった「構造」社会学のほとんどは、「構造」と「環境」の区別を見失っていたのではないか。ドゥルーズ&ガタリの構造主義批判や、あるいはルーマンのシステム論なども、この辺の問題に気づいていたが、どういうわけか一種の袋小路に入っていった――ありていに言えば、外界との生産的な対話のルートが意図してかせずしてか断ち切られ、カルト的に自閉していった。その結果が今日の、進化的認知科学による社会科学包囲の始まりにつながっているのではなかろうか。

 そうそうそう、ぼくもそういうことが言いたかったんだよぉ~、でも、教養のないアホだから言おうと思ってもうまく言えなかったんだよぉ~(^^)。くすん。

 ルーマンって、つまらなそうだから読んでなかったんだけど、西垣通氏の「基礎情報学」を読んで、やっぱり読んどいたほうがいいかと思って、馬場靖雄氏の「ルーマンの社会理論」をちょうど買ってきたところなんだよね。でも、これ見たら、やっぱり読む気がなくなってしまった。(そんなんだからダメなんだよね(^^))

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