機能、文化、制度
「メディア論の中で語られるべき「放送と通信の融合」」という記事が毎日インタラクティブに掲載されているのですが、少なからず違和感がありますね。
この記事の後半はジャーナリズム論になっていて、放送と通信は、機能的には融合しているが、(ジャーナリズムとしての)文化が異なるので、無理に融合させるべきではない、みたいな論法になっているんですが、この論法には、機能と文化の間にある「制度」という大事な要素が欠けていると思うのです。
そもそも、LF 問題と言うのは、放送と通信は、機能的には融合できるのに、制度的な障壁があるために、実際には融合が難しくなっている、という問題だったはずで、「融合論者」が主張しているのは、その制度的な障壁をなくそう、というだけのことです。その結果、実際に文化がどのように融合するかは、文化の自律的な進化の流れにまかせればよいのです。
つまり、「融合論者」が文化を無理矢理融合しょうとしているというよりも、むしろ、「反対論者」の方が、現在の制度を維持することによって、文化を無理矢理分離したままにしようとしていると言うべきです。もちろん、この両者は、あえて制度的に分離しておくべきなのだ、という立場もありうるとは思いますが、少なくとも、この著者はその立場ではないはずです。
現在のジャーナリズムの文化が、放送と通信で絶対的に異なっているかのように書いているのもおかしくて、放送や出版の世界にもイエロージャーナリズムはあるし、インターネットの世界にも十分に質の高いジャーナリズムは存在します。また、インターネットの世界でも、発言者の責任を明確にするシステムや、「有害」なコンテンツを管理するシステムは十分実現可能だし、現実にさまざまな形で導入されつつあります。したがって、「正統派」のジャーナリズム文化をインターネットの世界に持ち込むことだって十分に可能であり、現にそれを実践している方々も少なくありません。
この記事の最後には、「 機能的に融合していても文化的に融合していない状況では、文化的な融合を生み出すだけの何らかの必然性が生じてくるのを待った方が良いようにも思える。 放送と通信は、無理に融合させようとしなくても、ある日、気が付いたら融合していたということになっているように思えてならない。 」とか書いてあるんだけど、現在の制度は、その自然な融合の機会すら奪っているのであって、だからその障壁をなくしましょう、というのが「融合論者」の言っていることだと思うんだけど、この人は結局何が言いたいのか、今ひとつよくわからないと思うのは私だけでしょうか。
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