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プロとしてのプライド

 なんか、福知山線の事故の件で、ブロガーたちに批判されたジャーナリストが、「オマエモナー」的なことを書いているのを読んで、ちょっと呆れてしまいました。

 あのー、そもそも、プロが金もらってやってる仕事と、しろーとが金も貰わず片手間でやってるようなことを、同列に比べるのがおかしいんじゃないですか? 

 本来、プロのジャーナリストは、しろーとが簡単には近寄れないような仕事をして、レベルの差を見せ付けるべきなのに、それができてない例が散見されるから、仕方なく尻を叩いてるんであって、もともと、ブログがジャーナリズムにとってかわってほしいなんてさらさら思ってないですよ。

 っていうか、しろーとと本気でタメはってるようなこと書いてる時点で恥ずかしくないのかなー。あなた、髪の毛の切り方にケチをつけられた床屋が「そんなこと言うなら自分でやってみろ」と言ったり、運転の仕方にケチをつけられたタクシーの運転手が「そんなこと言うなら自分で運転してみろ」と言ったりしたら、素直に納得しますか? もっとプロとしてのプライドを持っていただきたいものです。

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銀行レース

 ディープインパクト、単勝 1.1 倍だって。ホントに銀行並ですねえ(^^)。

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Lust

 レイ・ハラカミさんの「Lust」が届いたので、早速聴きまくっておりますが、やっぱりすごいです。でも、その魅力を言葉で説明しようとしても、なかなかうまくいかないんですよね。

 ハラカミさんの音楽は、決して俗っぽくない。超俗的である。にもかかわらず、決して難解でも高踏的でもない。極めて親しみやすい響きがある。そこが不思議なところ。

 そういう意味では、ちょっとサティに似てるかもしれませんね。ポップスはサティから始まったみたいなことを言ってた人がたしかいたけど、ハラカミさんは、制度化してしまったポップスの世界に現れた現代のサティ、なのかも知れません(^^)。

 なんて、一応もっともらしいことを書いてみたけど、こんなゴタクは聞き流して(^^)、とにかく機会があったら一度聴いてみてくださいな。

 細野さんの「終わりの季節」のカバーは、これまた、日立の CM でやってた「あなた」のアレンジを思わせる、ぶっとんだアレンジです。こういう唄ものだけのアルバムも聴いてみたいなあ。竹村さんの「ソングブック」以上の傑作になるかも。

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内政干渉

 ぼくは、政治家や評論家の方々がテレビで言っている「内政干渉」という言葉の使い方が、何かおかしいような気がします。

 「個人の自由」だってそうだけど、あくまで、暴力や脅迫によって行動を強制されない、という社会的なお約束にすぎなくて、本当に字義通りあらゆる影響から自由である、なんてことはあり得ないわけでしょう。だから、いくら個人の自由だからと言って、気に食わない人はいろいろ言うだろうし、言われたほうだって影響は受けますよね。ただ、その影響を受けるのも受けないのも「個人の自由」だってことになってるだけで(^^)。

 国際関係だって同じことで、いくら国家主権は尊重されなくちゃいけないと言ったって、最終的な決定権はその国にあるっていうだけであって、外国だって言うだけならいろいろ言うでしょう。ただ、その通りにしないからと言って、宣戦布告されたり経済制裁されないっていうだけで。でも、宣戦布告や経済制裁をされないからと言って、そういう声をまったく聞かなくていいのかって言ったら、必ずしもそうではないでしょう。ただ、聞くも聞かないも、最終的にはその国の判断だ、ってことになってるだけですよね。

 だから、「XX したら宣戦布告するぞ」とか言ってるんなら、内政干渉といってもいいと思うけど、たんに「不快感がある」とかなんとか言ってるのを、いちいち内政干渉だというレッテルを貼っても、現実的にはほとんど意味ないと思うんですよね。

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PC-Transer 要望

 PC-Transer への追加要望。辞書登録時に、登録先の辞書を選択できるようにしてほしい。デフォルトの書き込み用辞書以外の辞書にも書き込みたいときに、いちいち [ツール] -> [設定] -> [辞書] -> [書き込み辞書]で切り替えるのは面倒です。

 デフォルト以外の辞書にも書き込みたい場合というのは、たとえば、翻訳中の文書が複数の分野に関連していて、複数のユーザー辞書を使い分けたい場合とか、あるいは、特殊な用語と一般的な用語を別の辞書に蓄積したいような場合。これができないと、辞書の再利用性が悪くなります。

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新作ラッシュ

 なんということでしょう。仕事に追われている間に、ハラカミレイさんの新譜、教授と Alva Noto の新譜、ムーンライダースの新譜などが続々発売されているじゃありませんか。

 とりあえず、「Lust」と「Insen」だけあわてて注文。「P.W Babies Paperback」については、もうちょっと迷ってみることにする。しっかし、ムーンライダースってホントにしぶといですねえ。

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Edy カード

 近所のコンビニで Edy カードを売っていたので、どのぐらい使えそうか、ちょっと調べてみたけど、お店でチャージして使うんじゃあまり意味がないような気がするし、かと言って、ケータイは大嫌いなので、そのためだけにおサイフケータイなんて買いたくないし、やっぱり、Felica 用のカードリーダー・ライターであるパソリを買って、自宅でチャージしたほうがいいんでしょうね。これ、3千円ぐらいで、Suica とかのデータも読めるらしい。

 クレジットカードと比較したときの利点は、1.支払いが素早くできる、2.セキュリティ、3.ポイントやマイレージの分得かもしれない、といったところでしょうが、個人的には今ひとつ魅力がない感じですね。まあ、子供のおこづかい代わりに渡すとか、治安の悪いところに遊びに行くときに持っていくとか、そういう特殊な用途には使えるかも知れませんが(^^)。あとは、社員食堂とか、社用の交通費とかの支払いとかにも使えるのかもしれないけど、いまいちピンとこないですね。

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堅実さに好感

 「出会い系サイトと若者たち」渋井哲也著

 本書の内容は、

  • 出会い系サイトの歴史、分類、統計などの、基本的データ
  • 出会い系サイト利用者へのインタビュー
  • 出会い系サイト関連事件のルポ
  • 出会い系サイト規制法の成立経緯と問題点

から構成されています。

 一般に、ノンフィクションというものには、著者の主観的な感想の多いエッセイ的なものと、事実中心のドキュメンタリーとがありますが、この本は圧倒的に後者で、著者自身の主観的な意見は最低限に抑制され、あくまでファクトの積み重ねにより構成されています。

 そのせいか、印象的にはかなり地味ですが、「出会い系サイト」というテーマの性質上、煽情的な筆致の本や、生煮えの仮説を振り回すような本が多いの中にあって、その堅実な筆致にはかえって好感が持てました。

 したがって、まず出会い系サイトの問題に関する基本的な事実をきちんと押さえたい、という人には、わりとお勧めできる本ではないかと思います。

 ただ、児童を売春の処罰対象にすることに対する著者の反対論については、必ずしも納得しませんでした。これについては、時間があればあらためて論じてみたいと思います。

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フィッシング対策

 ひさびさにフィッシングのメールが来たので、フィッシング対策についてちょこっとだけ調べてみました。個人的には、SSL のサイト証明書をチェックするのが一番確実のような気がしていたのだけれど、そういう説明をしている人は意外と少ないんですね。なんでだろう。ちなみに、DNS だってクラックされる可能性はあるから、URL とかだけ見てもダメだよ。

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概念の歴史

 すごいサイトを見つけました。"The Dictionary of the History of Ideas"、つまり、「概念の歴史辞書」。

 コンセプトとしては、中村雄二郎氏の「術語集」とか、小田中直樹氏の「ライブ・経済学の歴史」とか。(あと、山形浩生さんの訳してる「経済思想の歴史」とか)に近くて、 "JUSTICE" だの " EXISTENTIALISM " だのという概念が、歴史の中でどのように発展してきたかを示した辞書のようです。

 人文系の用語、特に哲学用語とかは、特定の思想家にひっつけて語られやすくて、いい加減な使い方をすると、「誰々はそんなこと言ってない」みたいな不毛な議論になりやすいですよね。かと言って、普通の哲学用語辞典みたいなものだと、一つ一つの項目の分量が少ないし、書き方も無難な書き方になるので、その概念が生み出された動機とか歴史的背景とか見えにくくなりがちです。

 ところが、この辞書は、各項目がかなり詳しいので、そういった経緯もよくわかるし、それでいて、項目数もけっこう多い。分野も、数学 (INFINITY など) や 政治学 (UTILITARIANISM など) から、自然学 (EVOLUTIONISMなど) や芸術 (IRONY など) まで幅広いです。

 ぼくはブショー者で、「なんとかを読んでない奴にはなんとかを論じる資格はない」みたいなことを言う奴が大嫌いなので(^^)、こういうサイトはひじょーにありがたいです。

 検索してみると、日本でもけっこう知る人ぞ知るサイトらしく、書籍版には日本語訳(「西洋思想大事典」)もあるようです。

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CD-ROM 大量処分

 CD-ROM は、ケースに入れたままだと場所をとるので、ケースを捨てて専用ファイル (前に紹介した CASELOGIC のものを愛用) に保存するようにしているのですが、それでもいい加減溜まりすぎたので、一気に大量処分しました。大部分は、90 年代のパソコン雑誌の付録とかで、すでに陳腐化していたり、インターネットで簡単に拾えるようになっていたりするので、ほとんど保存する意味がないものばかり。

 DVD に焼きなおしたりすればもっと減らせるんだけど、その作業にかかる手間も馬鹿にならないので、ほどほどのところで手を打ちました。

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DVD ドライブ交換

 デスクトップの方の DVD ドライブを交換。スーパーマルチドライブとかいうやつで、フォーラム系、アライアンス系を問わず、ほとんどのメディアに書き込み可能。ついでに、二層式の DVD+R に書き込む機能までついているようです。購入価格は 6000 円ちょい。ずいぶん安くなったものですね。

 購入店は PC-Successさん。このお店はなにかとよく利用します。値段が安いだけでなく、ノーブランドのメモリに「相性保証」をつけてくれたりとか、サービスも結構充実してると思いますね。

 バンドルソフトは、CyberLinkPowerProducer と、Nero。なかなか、堅実な選択だと思います。

 余談ですが、交換直後にになにかのはずみで CPU ファンが停止してしまい、冷や汗をかきました。CPU 温度モニタからの警告が出て、強制シャットダウンモードに入ったのですが、ソフトからのシャットダウンだと、なんだかんだで電源が切れるまで時間がかかるので、その間にもぐんぐん温度が上がり、しまいには焦げ臭い匂いまでしてくる始末。やばい、電源コードを引っこ抜こう、と思った瞬間電源が切れ、なんとか CPU を燃やさずにすみました。CPU ファンの調子が悪いことは知ってたんですけどね(^^)。やっぱりファンは大事なのです。

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生ごみ処理機

 生ごみ処理機、いつの間にかずいぶん進歩してますね。室内に置けて、大きさも通常のゴミ箱と大差なくて、値段も実勢価格で 5 万円台。

 しかも、購入金額 5 万円以上なら、地方自治体から 1 万円ぐらいの助成金がでるようです。これは買いかなあ。

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オトナ語の謎

 あれ? NOVA ウサギが「オトナ語の謎」をやっているぞ?

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制度ではなく文化の問題として

 例の監禁事件について検索すると、批判の矛先を成人コミックとかエロゲーとかに向ける動きをけん制するような意見が多いようですね。

 ぼくも、エロに対しても表現の自由は守られるべきだ、という意見にはまったく賛成です(もちろん、レーティングとかはきちっとやったほうがよいと思いますが、ここではその話は省略)。ただ、最近の「そういうの」を見ると、あまりにロリコンや鬼畜が多すぎるのではないか、と感じるのはぼくだけではないと思うし、だとすれば、それに対してなんの批評も行われない、というのは、やっぱりおかしなことではないでしょうか。

 つまり、特定の文化活動を制度的に規制する、ということと、言論というフィールドの中で批判する、ということは、本来別次元の行為であるはずなのに、批判が高じて規制に結びつくことを怖れるあまり、まっとうな批判までが忌避される傾向になってしまっては、本末転倒だということです。

 ええかっこしいと思われるのはいやなのですが、ぼくは、こんなにロリや鬼畜ばかりが過激化する傾向には、なにかしら不健全なものを感じるし、それを体系的に文化批評として述べる人は、やっぱり必要だと思うのです。

 たとえば、食文化についてであれば、仮に、ジャンクフードばかり食べている人がいたとしても、法律的には許されるわけですが、それはそれとして、そんな食生活はやっぱり身体に悪いんじゃないか、というような批評はあっていいはずだし、あるべきでしょう? それと同じことだと思うのですね。

 もちろん、ジャンクフード派の方も、あまり健康オタクみたいになるとかえって不健全だから、たまにはジャンクフードも食べたほうがいいんだとか、一日一回と決めて食べればほとんど害はないとか、大いに反論すればいい。そういう議論の中で、ジャンクフード的なものにも、それにふさわしいニッチというものが決まってくるのだと思うのです。

 ポモ時代に俗流文化相対主義が流行ったころには、あらゆる文化批判を禁じ手のように言う人もいましたが、文化のバイアビリティというものは、言論の自由の下での相互批判によって、常に試されるべきであると思います。

 もちろん、それが性的マイノリティの抑圧につながるとか、いろんな問題はあると思いますが、性的マイノリティの方たちだって、無条件に存在を肯定されるのではなく、相互批判という文化的な闘争の中で、自分たちが反社会的な存在でないことを自らアピールすべき(健全なサドと危険なサドとはここが違う、みたいに(^^))だと思うのですが、いかがでしょう。

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5本指ソックス

綿100%つま先なし5本指ハーフソックス(4枚入り/男女兼用) 5 本指ソックスというものを取り寄せてみたけど、かなり気に入りました。ぼくはうっとうしいのが苦手で、靴下は外出時にしか履かないし、袖もすぐまくってしまう方なのですが、これは、部屋の中でも履いていたくなりますね。指があるだけでこんなに気持ちいいとは、体験してみないとわからない世界。

 考えてみると、なぜ今までこれがなかったのか、不思議な気もしますね。だって、東洋では足のツボは昔から重視されていたわけだし、手袋なんかは、昔から指のあるものがあったわけだから、技術的な障害があったわけでもないでしょうし。コロンブスの卵ってやつなんですかねえ。

付記: 調べてみると、けっこう昔からあることはあったらしい。。。

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対談本

 本を整理してる最中に、たまたま目に入った森毅先生の本で、対談本が好きだ、という趣旨で、糸井重里さんと橋本治さんの「悔いあらためて」を紹介していたのですが、昨日の「ほぼ日」を見たら、当の糸井さんも同じようなことを書いていたので、ちょっとおかしかったです。ちなみに、ぼくは「万流コピー塾」とかは読んでいたのですが、「悔いあらためて」はまだ読んでないのです。すんません(^^)。

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ハイバネーションと仮想ドライブ

 CD-ROM がないと起動しないソフトを使うのに、いちいち CD を持ち運んで入れたり出したりするのはめんどくさいので、CD のイメージファイルをつくって LAN 上の共有フォルダにぶちこみ、仮想ドライブとしてマウントする、という使い方をしています。(もちろん、みんなライセンスを所有した上でやっているのである。為念。)

 基本的にはこれでうまくいくのですが、ノートパソコンをハイバネーション状態から復帰したときの再マウントだけがいまいちうまくいきません。仮想ドライブ用のドライバとしては、Alcohol 120% というやつを使っているのですが、やっぱ、こんな使い方は「想定外」なのかなあ。

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本の処分

 思い切ってかなり大量の本を処分しました。いざとなると、計算もへったくれもなく行動するところが、私のいいところだと自負しております(^^)。

 「MS-DOS デバイスドライバ作成法」とか、そーいうハードウェア寄りアセンブラ系の本は全部処分しましたので、今後は、MS-DOS の TSR のデバイスドライバを作ってくれ、みたいな仕事をいただいても、お引き受けすることはできません。悪しからず。(いまどき誰が頼むんじゃ、そんな仕事(^^))。

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メモリ拡張

 ノートパソコンのメモリを 768MB に拡張。だいぶ動きが軽くなりました。

 やっぱ、このぐらいないと、仕事に使うにはストレスがありすぎますね。だって、TradosPC-TranserJamming と MS-Word と FireFox を起動しただけで、ページファイル使用量 700MB ぐらいになっちゃうんだから。

 あと、Britannica とか Encarta とか Becky! とか起動したら、もうページファイル使用量 900MB ぐらいになるから、ちょっとウィンドウ切り替えただけで、スワップしまくり状態になってしまいます。

 512MB の PC2700 SO-DIMM の購入価格は 7000 円弱。ずいぶん安くなったものです。

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あのさー

 ゴミ捨て場に出した本や雑誌を黙って持っていくのは別にいいよ。

 ぼくも子供の頃よくやったし、資源のリサイクルにもなる。

 だけど、本を結わえてるヒモぐらい元に戻して行けよな~。

 でなきゃ、回収に来てくれた人がメーワクするだろ? 

 そのぐらい、説明されなきゃわかんねーか?

 こんなとこに書いてもしょうがないかもしれないけどさ~、みんなもマネしないようにね。

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本の保管コスト

 確か野口悠紀雄氏も書いていたけれど、本というのは捨てにくいものです。読み終えた本でも、また読み直したくなるかも、とか、なんかの調べもので必要になるかも知れない、とか考えていると、ちっとも捨てられません。そこで、本を保管するコストと、捨ててまた買いなおすのと、どっちが得かを考えてみました。

 たとえば、40 平米で家賃 8 万円の部屋に住んでいたとすると、天井の高さが約 2m として、体積は約 80立方メートルだから、1 立方メートル当りの占有コストは、

80,000 ÷80 = 1,000 円 / 月

 1 立方メートルは、100 × 100 × 100 = 1,000,000立方センチメートルだから、1 立方センチメートルあたりの占有コストは、

1,000 ÷ 1,000,000 = 0.001 円 / 月

 A5 版で厚さ 1 cm の本があったとすると、その体積は、

15 × 21 × 1 = 315 立方センチメートル

 したがって、この本の保管コストは、

0.001 × 315 = 0.315 円 / 月

 年換算に直すと、

0.315 × 12 = 3.78 ≒ 4 円 / 年

 あれ? っていうことは、800 円ぐらいの本でも、200 年ぐらいは保存する価値があるってことじゃないか(^^)。ほんとぉ? 計算あってる? なんか計算しただけ時間の無駄だったな…(^^)。相変わらずお莫迦な私。

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企業特殊的技能の不要化

 松尾匡先生の経済学概論のパワーポイントファイルをのぞいたら、

企業特殊的技能の不要化 <- ME化(マイクロエレクトロニクス化)、IT革命(情報技術革命)

という説明が。

 ね、ね、やっぱそうでしょう(^^)? 細かいところは別にして、大きなトレンドとしてはやっぱそうだと思うんだよね。

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CASELOGIC 公認オンラインショップ

 CD や DVD 用のファイルを作っている CASELOGIC という会社の公認オンラインショップを発見。CD 用のファイルは、今でこそ各社で発売していますが、昔はこの会社のものしかなくて、それも、アメリカから直輸入するか、タワーレコードみたいな一部の輸入 CD 店でしか買えなかったのですが、便利になったものです。(でも、値段はちょっと高いなあ(^^))

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金持ちボケ

 「世界がもし100人の村だったら」にも、いろいろつっこみどころはあるだろうとは思うけど、どうしても好きになれないタイプの批判がある。それは、「貧しい人が可哀想だと思うこと自体が金持ちの驕りで、本当は貧しい人のほうが幸せかもしれない」みたいなヤツ。(まあ、自分が障害者でもないくせに、障害者の方が健常者より幸せかもしれない、とか言い切っちゃうヤツよりはマシかも知れんが)。これこそ、平和ボケならぬ金持ちボケの典型だと思う。

 だいたい、今の日本の若い子は、「銭金」に出てくるようなのがびんぼーだと思っているかもしれないが、日本みたいな豊かな国で、好き好んでびんぼー生活しているヤツと、貧しい生活しかできない国の貧しさとでは、その質がぜんぜん違うのだ。「貧しくても楽しい我が家」みたいなのを勝手に想像しているのかもしれないが、本当に貧しい国では、そういう生活をできる人の比率自体がそもそも少ないのだ、ということがわかっているのだろうか。

 そんなことも想像できずに、したり顔で偉そうなことを言うヤツのことを、ぼくはあまり好きになれない。てか、それこそ、金持ち社会の閉塞感から産まれた願望を、勝手に投影してるだけじゃないのかい。

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焼き鯖寿司

 セブンイレブンの弁当企画で「焼き鯖寿司」というのを売っていたので、食べてみたら結構美味しかったです。

 ご飯自体は酢飯なのですが、鯖寿司と違って、しめ鯖でなく焼いた鯖がのっていて、しかも、鯖寿司みたいにペラペラでなくかなり分厚い。鯖の脂っこさが酢飯で中和される感じがイケますね。

 羽田空港の空弁として有名らしいですが、飛行機に縁の薄い私はまったく知りませんでした(^^)。検索してみると、楽天でも何店かで売ってますね。

越前三国・焼き鯖寿司ジュワッと鯖の旨み口いっぱいに広がる当店人気ナンバー1の焼き鯖寿司 3本以上お買い上げで送料...焼き鯖寿司★これぞ究極!焼き鯖寿司 A

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世代 VS 年代

 統計を年齢層別に分析したものってよく見ますけど、特定の時点でとったスナップショット的なデータの場合、年齢層による差は、年代的な差によるものと、世代的な差によるものの、二通りの可能性があるはずですよね。たとえば、

  • 10 代 : C
  • 20 代 : B
  • 30 代 : A

というふうに分かれたとすると、それが年代的な差であるなら、10 年後に調べても、

  • 10 代 : C
  • 20 代 : B
  • 30 代 : A

となるだろうけど、それが世代的な差であるなら、10 年後は、

  • 10 代 : D
  • 20 代 : C
  • 30 代 : B

というふうになるはずで、同じようなデータでも、将来の予測はぜんぜん違ってくるはずなんですよね。

 先日、小中学生はパソコンのメールを使う割合が多いが、高校生になると携帯メールの割合のが増えるとかいう統計データを見たのですが、このどっちにあてはまるのだろう、とちょっと疑問に思ったのでした。まあ、実際に子供と接している人には、直感的にわかることなのかもしれないけど。

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FireFox 1.0.4

 セキュリティの脆弱性にパッチを当てたというので、FireFox 1.0.4 にアップグレードしたのだけど、なんか、セキュリティと関係ないところで挙動が変わっているような気がするのだけれど、気のせいでしょうか? もっとも、エクステンションもいくつか同時にアップグレードしたので、そちらのせいかもしれませんが、なんかむやみと使いにくいです。まあいいや。しばらく様子を見てみましょう。

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福沢さんフリー

 日テレの福沢朗アナがついにフリーになるらしい。なんとなく、福沢さんは日テレに対する忠誠心が高そうな気がしてたんですが。でも、「50代に何を残せるかが最大の目標」という言葉は、歳の近い者にはぐっときますね。こっちももっとがんばらなくっちゃ。

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機能、文化、制度

 「メディア論の中で語られるべき「放送と通信の融合」」という記事が毎日インタラクティブに掲載されているのですが、少なからず違和感がありますね。

 この記事の後半はジャーナリズム論になっていて、放送と通信は、機能的には融合しているが、(ジャーナリズムとしての)文化が異なるので、無理に融合させるべきではない、みたいな論法になっているんですが、この論法には、機能と文化の間にある「制度」という大事な要素が欠けていると思うのです。

 そもそも、LF 問題と言うのは、放送と通信は、機能的には融合できるのに、制度的な障壁があるために、実際には融合が難しくなっている、という問題だったはずで、「融合論者」が主張しているのは、その制度的な障壁をなくそう、というだけのことです。その結果、実際に文化がどのように融合するかは、文化の自律的な進化の流れにまかせればよいのです。

 つまり、「融合論者」が文化を無理矢理融合しょうとしているというよりも、むしろ、「反対論者」の方が、現在の制度を維持することによって、文化を無理矢理分離したままにしようとしていると言うべきです。もちろん、この両者は、あえて制度的に分離しておくべきなのだ、という立場もありうるとは思いますが、少なくとも、この著者はその立場ではないはずです。

 現在のジャーナリズムの文化が、放送と通信で絶対的に異なっているかのように書いているのもおかしくて、放送や出版の世界にもイエロージャーナリズムはあるし、インターネットの世界にも十分に質の高いジャーナリズムは存在します。また、インターネットの世界でも、発言者の責任を明確にするシステムや、「有害」なコンテンツを管理するシステムは十分実現可能だし、現実にさまざまな形で導入されつつあります。したがって、「正統派」のジャーナリズム文化をインターネットの世界に持ち込むことだって十分に可能であり、現にそれを実践している方々も少なくありません。

 この記事の最後には、「 機能的に融合していても文化的に融合していない状況では、文化的な融合を生み出すだけの何らかの必然性が生じてくるのを待った方が良いようにも思える。 放送と通信は、無理に融合させようとしなくても、ある日、気が付いたら融合していたということになっているように思えてならない。 」とか書いてあるんだけど、現在の制度は、その自然な融合の機会すら奪っているのであって、だからその障壁をなくしましょう、というのが「融合論者」の言っていることだと思うんだけど、この人は結局何が言いたいのか、今ひとつよくわからないと思うのは私だけでしょうか。

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続 Diploma Mill

 Diploma Mill についてのエントリーに対して、CAT さんからトラックバックをいただいたので、TB 先のエントリーをたどってみたら、かなり詳しい情報がありました。

 うーん、でも、個人的にはそれほど重大な問題だとは思えなかったな~。(ゴメンナサイ)

 まあ、ぼくはもともと、学歴というものをそれほど絶対的なものだと思ってないせいかも知れないけど、むしろ、アメリカに留学したとかアメリカの大学で学位をとったというだけで評価する人や、学校の実態や評価をろくに調べもせずに入学してしまう人の方に対して違和感がありますね。

 前に書いたことの繰り返しになるけど、すでに社会的な評価が定まった部分の技術や知識の習得は、資格みたいに形式化することもできるでしょうが、大学まで来ると、必ずしも評価が定まっていない部分にまで踏み込んでいかなくちゃいけないわけでしょう? それをあんまりガチガチのシステムにしても、ロクなことないんじゃないかなあ。

 たとえば、学位のある人しか大学では教えられない、というふうにしたところで、学位のある人がむやみと増えてしまえば、それは質に対する保証にはならないでしょう? かと言って、そういう相対的でない絶対的な質の保証ができるのかっていったら、難しいと思うんですよね。

 もちろん、社会通念として、東大はすごいとかハーバードはすごいとかいうのはあっていいと思うけど、そういう権威は、あくまで実績によって守り続けるべきであって、名もない怪しげな大学からすごい人材が現れて、そういう社会通念がひっくり返される、みたいな可能性は残しておいたほうがいいと思うんですけど(^^)。違うかなあ。

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二人で一人

 「くりぃむナントカ」に、三倉佳奈ちゃんが珍しくピンで出演。それを観てふと思ったのですが、どうせ誰にも区別がつかないのだから、いっそ、パーマンとコピーロボットみたいに(また例えが古い(^^))、二人一役でタレント活動をしたらどうでしょう。そうすれば、ヒマなときにはたくさん休みがとれるし、忙しいときにも他のタレントより楽ができるはず。でも、今のところ、ぜったい茉奈ちゃんでなくちゃとか佳奈ちゃんでなくちゃみたいなオファーは少なさそうだから、ピンで活動すれば、結果としてそういうことになるんでないかい? なんて、太田光さんが言いそうなネタになってしまった(^^)。

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教養の差

 稲葉振一郎氏の読書ノート、ひさびさの更新。感心したので長いけどちょっと引用。

実のところ社会学というのは――少なくともデュルケムからこっち、20世紀のあらかたは――まさにこの「型」の科学であった。デュルケムの「社会的事実」もポスト構造主義の「エクリチュール」も、更にはルーマンの「システム」もブルデューの「ハビトゥス」も、みんなみんなこの「型」、つまり「構造」理論にはまりこむか、あるいは積極的にはまってはいなくとも結局足をとられてしまったか、であった。

 そのどこがおかしいのか。どの辺でこうした潮流は、かつての威信を失ってしまったのか。思うにそれは「構造」の「再生産」という理論構図にあったのではないか。大雑把に言えばこれらの「型」においては、個別的な実践主体としての人とその社会集団に先立って、人々の思考と行為をかたどり方向付け拘束する「構造」が存在し、その「構造」は人々の社会的な生の実践を通じて再生産されていく――という構図があった。しかしながら「ドーキンス革命」以後の我々には、ここに抜け落ちていたものが何かは明らかである――「状況」あるいは「環境」だ。

 実はドーキンスの理論も、ある意味では「型」を継承してはいる。実のところ、彼の言う「遺伝子」も「ミーム」も「型」「構造」の一種だ。では一体ドーキンスのどこが新しかった(というのは正確な言い方ではないが)のか? 「進化」ではない。より正確に言えば「構造」の変異のメカニズムとしての「突然変異」ではない(むしろそこはブラックボックスだ)。そうではなく、「構造」というマトリクスを実現する生き物個体や社会的実践が、そこにおいて適応の善し悪しを自然選択のテストにかけられるフィールド、すなわち「環境」というファクターが入っているところが、ドーキンスの理論のポイントである。

 ところが従来の「型」にはまった「構造」社会学のほとんどは、「構造」と「環境」の区別を見失っていたのではないか。ドゥルーズ&ガタリの構造主義批判や、あるいはルーマンのシステム論なども、この辺の問題に気づいていたが、どういうわけか一種の袋小路に入っていった――ありていに言えば、外界との生産的な対話のルートが意図してかせずしてか断ち切られ、カルト的に自閉していった。その結果が今日の、進化的認知科学による社会科学包囲の始まりにつながっているのではなかろうか。

 そうそうそう、ぼくもそういうことが言いたかったんだよぉ~、でも、教養のないアホだから言おうと思ってもうまく言えなかったんだよぉ~(^^)。くすん。

 ルーマンって、つまらなそうだから読んでなかったんだけど、西垣通氏の「基礎情報学」を読んで、やっぱり読んどいたほうがいいかと思って、馬場靖雄氏の「ルーマンの社会理論」をちょうど買ってきたところなんだよね。でも、これ見たら、やっぱり読む気がなくなってしまった。(そんなんだからダメなんだよね(^^))

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Diploma Mill

 今日のクローズアップ現代は、いわゆる Diploma Mill (番組中では「学位工場」と訳してました)の特集でした。

 Diploma Mill からのメールは、ウチにも毎日のように来るのですが、ナイジェリアの大富豪からのメールとか、おめでとう宝くじに当りましたメールとかと同じように、すべてスパム扱いです(^^)。でも、番組では、日本から応募している人もいると言ってましたね。

 番組中では、Diploma Mill と普通の大学との線引きが難しい、とかいってましたが、そりゃそーだろうと思います。だって、大学の権威っていうのは、形式ではなく、実績の積み重ねによるものですからね。カリキュラムだって自由に作れるし、教授になるのだって資格があるわけじゃない。そこが大学のいいところで、あまり型にはめてしまったら、本来大学に求められる先端的な教育ができなくなってしまうでしょう。

 もちろん、あまりにも学校の体を成してないものは規制できるでしょうが、非常に野心的な教育を行っている大学と、非常に質の悪い大学と、純然たる詐欺との線引きはかなり難しいので、学位をとる人や評価する人が自己責任でやるしかないんじゃないですかねえ。せいぜい、第三者の格付けを利用するくらいで。

 検索したら、こんなの見つけました。こりゃ完全にジョークだね(^^)。本気にしたらアカンよ(^^)。

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ほどほど露出法

 ウェブサイトのアクセスを増やす法、みたいなものについては、マーケティングの専門家もいろいろと研究しているようだし、個人サイトの成功者の方もいろいろ本を出しているようですが、「ほどほどに露出する法」という本が出ないのはなぜだろう、と疑問に思ったことがあります。

 しかし、よく考えると当たり前で、そういう人は本が売れることもあまり好まないはずですし、そういうテクニックがバレることも望まないはずなんですよね。

 つまり、必殺仕事人に仕事を頼む方法(例えが古いか(^^))みたいなもんで、まったく知られていなくてもマズいが、あまりおおっぴらに知られてもいけない。 いくらインターネットが発達しようと、表に出にくい情報というのはあるのです(^^)。

 このブログも、匿名ブログだと思う人もいるかもしれませんが、目立つところに書いてないだけで、ちょっと調べれば、住所氏名性別年齢職業その他すべてわかるようになってます(^^)。でも、余計なセールスの電話とかがうっとーしいので、本当はそういうことすら書きたくないのです。だって、調べればわかる、というヒントを与えてしまうことになりますからね(^^)。ただまあ、匿名と実名の区別にうるさい人もいるし、ぼく自身、匿名で悪口を書くのは決して好きではないので、今回だけ書いときます。ブログの内容に文句があるが、調べても苦情を送る先がわからないという人は、プロフィールのページから直メールを送ってください。

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ココログ文字化け修正

 BlogWriteubicastBlogger などの投稿クライアントにココログの記事を読み込むと文字化けする件、やっと修正されたようです。

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内部の声

 尼崎事故の報道について、ガ島通信の藤代裕之氏による批判的な論考が登場。ジャーナリズムの内部にいた人からもこういう声が出てきたのは心強いですね。後半が楽しみです。

関連記事:

尼崎の事故について本当に知りたいこと

内面を裁くときの作法

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売れ続ける「失踪日記」

 Amazon.co.jp のトップセラーリストを見る限り、吾妻さんの「失踪日記」はずいぶん息長く売れ続けているようですね。あの池田信夫氏が読んだというのにも随分驚いたのですが、ついに日垣隆氏まで読んだらしいです。

 池田氏は、「私にも、他人事とは思えない部分がある。現代人の抱える不安をギャグとして表現しているところが、多くの人々の密かな共感を呼んでいるのではないか。」などと評していて、ちょっと意外でした。

 アマゾンのカスタマーレビューなどを見ても、けっこうシリアスな読み方をしている人が多いようなのですが、ぼくは、吾妻さんが、「いつもどおり普通に書いただけ」みたいなことを言ってるのが、謙遜でもなんでもなく本音だと思うなあ。それがこんなに受けるということは、かつてはぼくら吾妻ふぁんだけがかかっていた「びょーき」が、一般の人にも感染しはじめてるのかもしれない、なんつったりして(^^)。

 逆に日垣氏は、「この本を読んでぐったりする人は、生命力が落ちているのかもしれません。正しく笑い飛ばしてあげましょう。」(「ガッキィファイター」2005 年5月10 日号)と書いていましたが、ぼくもそう思う(^^)。

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内面を裁くときの作法

 「ボウリング問題」に対するマスコミの姿勢について、前回はやや搦め手から批判してみましたが、今度は、もう少し本質的な問題点について考えてみたいと思います。

 そもそも、マスコミがこの「ボウリング問題」を取り上げる理由としては、以下の 3 つがあると思います。

  1. 組織の体質を示す傍証
  2. 道徳的によろしくない
  3. 被害者や遺族に不快感を与える

 1 は、事故の原因を検証する活動の一環ですから、他の取材との軽重を考えるべきである、ということは前回指摘したので、今回は、2 と 3 について考えて見ます。

 事故の直後にボウリングに行くことが、なぜ道徳的によろしくないとみなされるかというと、ボウリングというのは娯楽であり、本気で反省している人間が娯楽に興じられるはずがないので、反省していないはずだ、というロジックだと思われます。

 しかし、反省というのは、あくまで個人の内面の問題なんですよね。そして、内面の表現方法というのは、人によっても文化によっても違うし、第三者が他人の内面を知ることのできる範囲にも一定の限界があるはずです。

 たとえば、お葬式の場で誰が本当に悲しんでいるかということだって、そう簡単にはわからないことでしょう。一番悲しいはずの人が、わざと気丈に振舞って笑顔を見せていることもあれば、たいして悲しくもないのに、泣き崩れている人もいる。それを、お前は本当に悲しんでいるのか、などと問いただしてもきりがないし、逆に、泣いていない人は悲しんでいない、みたいに決め付けても、形式主義になって、形だけ泣いてみせる技術、みたいなのが流行るだけでしょう。

 JR 西日本の問題でも、二次会などでお酒を飲んだことが問題になっているようですが、通夜振る舞いとか精進落としだってお酒を飲むわけだし、彼らがお酒の席でしみじみと事故について語り合っていた可能性だってないではないわけです。

 こんなことを書くと、その席でも馬鹿笑いの声がしていた、みたいなことまで取材されそうな勢いですが、そんなことを言いたいわけではなくて、私が言いたいのは、他人の内面と言うのは、第三者が軽々しく決め付けることはできないということです。

 もちろん、長年いっしょに暮らしている家族、付き合いの長い友人、学校の部活仲間、企業内の小集団などの中には、あきらかにこいつ反省してない、と言い合えるような関係もあるでしょう。しかし、それは、お互いに利害を共有していて、相手の反論も許しながらとことんまで話し合うことができるような関係だから成り立つことで、第三者が軽々しくできるようなことではありません。

 それを無理に追求しようとすると、JR 西の職員一人一人の生活を朝から晩まで監視するみたいなことになりかねないし、それも、都合のいいところだけ切り貼りしたんでは不公平だから、一日中カメラ回しっぱなしで撮ったものをそのまま放送して、視聴者の評価を仰ぐみたいな、ほとんど人権侵害みたいなことをしなきゃならなくなるでしょう。

 かと言って、なんらかの判定基準をもうけようとすれば、宴会がダメなら食事はどうか、食事の金額を制限する必要はないのか、お笑い番組を見てもいいのか、バラエティとお笑い番組はどうちがうのか、お笑い番組でもつまらなければいいのか、バナナはおやつに入るのか、みたいなどんどんくだらない形式主義になっていくだけでしょう。

 つまり、いずれにせよ、他人の内面を裁くことには一定の限界があるし、特に、不特定多数の第三者が公の場で裁く際には、なおさら慎重であるべきだということです。

 もちろん、当人の内面はどうあれ、被害者や遺族の立場から見れば不快そのものである、という観点はあって、上の分類で 2 と 3 をわざわざ区別しているのもそのためです。 つまり、3 は 2 と違って、道徳と言うよりマナーの問題ですから、社会慣習として不謹慎とみなされていることはしないようにしよう、というような形式主義でもそれなりに有効なわけです。また、報道する側からしても、私的なことについては、わかっていても、あえて報道しないでおこう、という考え方もできるでしょう。

 そう考えると、これはやはり節度の問題で、ボウリングをしたということを報道するだけなら、社会慣習に反するという形式主義の観点で説明できるでしょうが、二次会のレシートまで公表したりすることには、(個人の内面を公の場で裁くことにつながるので)もっと慎重であるべきだと思うのです。

 誤解を恐れずに言えば、そういう内面と外面の区別がなくなった一つの極限が、「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」みたいな標語が蔓延し、女の子の化粧や野球の英語にまで文句をつけた戦時中の社会でしょう。今のマスコミの報道を見ていると、マスコミでよく言う戦争の記憶の風化がこんなところにも表れているんだなあ、などと皮肉の一つも言いたくなってしまいます。

 もちろん、遺族や被害者の方は、JR 西の社員の内面まで信用できるようにならない限り、彼らを心から許すことはないでしょう。しかし、それはあくまで当事者同士の問題であって、第三者が恣意的に干渉すべきことではない、と思います。

追記:「報道ステーション」を観ていたら、また、JR 西の職員が JR という名前を隠して宴会をしていた、なんてことまで「摘発」されていましたが、そういうことを続けていって、いったい何がやりたいんですか? JR 西の職員が、決して宴会をせず、人前で笑顔を見せないようになったら、それで満足ですか? それにいったい何の意味があるんですか? マスコミの取材範囲に形式的な枷をはめるのは難しいことは承知しているんで、だからこそ、マスコミの仕事に携わる方々は、常に社会的影響を考えて自省しながら仕事をして欲しいんですけどね。それこそ、ホリエモン騒動の時にさんざん言われた、マスコミの「公共性」なんじゃないですか? 視聴率さえ取れればなんでもいい、というようなことをやっているとしたら、どの口でホリエモンを批判できますか?

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確率に対する違和感

 テレ朝のドスペ2でやってた「確率検証バラエティ・運命の数字」という番組、大して期待しないでなにげに見ていたら、意外と面白かったですね。

 もともと、統計的に計算した確率って、人間の直感的判断と必ずしも一致しないことが多いんだけど、そのずれをいじって遊んでみよう、という企画はありそでなかったんじゃないでしょうか。

 先ごろノーベル経済学賞を受賞した、ダニエル・カーネマンという人も、トバスキーという人といっしょになって、人間の直感的確率判断がいかにあてにならないか、ということを示す実験をたくさんやっています。たとえば、

  • ある街でタクシーによる轢き逃げ事故があった。
  • その街で走るタクシーの 85% は緑色のタクシーであり、15% が青色のタクシーである。
  • 目撃者は、轢き逃げタクシーは青色タクシーであったと証言した。
  • その証人がタクシーを正しく識別する確率は 80% である。

この場合に、事故を起こしたタクシーが青色のタクシーである確率は、という問題を出して、多くの人の直感的な回答を集計したところ、平均値は約 80% だったそうです。

(これをお読みになっているあなたは、直感的にはどのぐらいの確率だと思いますか?)

 ところが、ベイズの定理にしたがって計算すると、この確率は 41% で、なんと半分以下なのです。

 なぜこんな直感に反する結果になるのか、ということにも、いろいろ理屈があるのですが、興味のある方は、たとえば佐伯胖氏の「認知科学の方法」などを参照してみてください。(「きめ方の論理」もいいけど、この本も結構面白いですよ。)

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いっしょに映画を観たい人

 「こちトラ自腹じゃ」のコーナー自体は結構すきなのですが、正直、監督みたいな人といっしょに映画を観に行くのは勘弁、と思っているのは私だけでしょうか(^^)。

 余談ですが、野村アナは、ご結婚後も相変わらずお美しいですねえ。旦那さまがうらやましいです(^^)。

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尼崎の事故について本当に知りたいこと

 尼崎の事故報道については、第一報からちょっと嫌な感じがしていて、このブログでも軽く苦言を呈しておいたのですが、その後ますます変な方向へ行っているような気がします。特に、運転手2人が救助に参加しなかったという件と、ボウリング大会の件についてはいろいろと疑問があります。

 まず、前者については、その時点での救助の状況はどのようになっていたのか、運転手が手伝えるような作業があったのか、その作業は通常の職務を放棄しても行うべき緊急性のあるものだったか、その運転手が救助に参加した場合に代わりに運転を代行するバックアップ要員はいたのか、バックアップ要員に切り替えた場合通常業務に支障は生じなかったのか、ぐらいの情報がないと論じられないと思うのですが、このへんについては、マスコミの報道を見てもさっぱりわかりません。

 また、後者についても、現実的に問題なのは、事故対策用の待機要員は十分に確保されていたのかということのはずですが、これもよくわからない。そのくせ、ボウリングの後に二次会に行ったとかいうことはみょーに細かく調べていたりします。

 確かに、こういう事例だって、組織の体質を示す傍証にはなるかもしれませんが、あくまで傍証にすぎないのですから、その取材には一定の節度が合ってしかるべきで、節度のない取材は、正直、ただの揚げ足取りにしか感じられません。

 また、事故原因については、そんなことより他に知りたいことがたくさんあるのですが、いっこうに伝わってこないように思います。たとえば、ダイヤが過密だというなら、ダイヤ変更の事故発生率への影響の見積もりは行われたのか、その見積もり方法は正しかったのか、見積もりの結果はどうだったのか、その結果に合わせてどんな対策がとられたのか、というようなことも知りたいし、最近化学プラントなどで一般化していると言われる、FMEA とか HAZOP とか FTA とか ETA とかの安全管理手法は使われていなかったのか、使われていたとすれば、その運用に問題はなかったか、というようなことも知りたいのです。(まあ、こういう情報は一般受けしないので、業界の人しか読まないような専門誌に掲載されて終わりなのかもしれませんが。)

(ちなみに、時刻の正確さと安全をトレードオフのように言うのは間違いだと思います。確かに、他の条件をすべて同一と仮定すれば、トレードオフの要素もあるでしょうが、それは他の条件を変更すればカバーできるはずですし、この両者はおそらく、リニアな関係ではないはずですから、リスクをあまり増やさずに精度を高めることのできるバランスのよいポイントというものがあるはずです。)

 少なくとも、このぐらいの情報がないと、本当に問題外のどうしようもない組織だったのか、それとも、多少のミスにいろんな不運が重なったのか、あるいは、その中間か、ということは判断できないと思うのです。もちろん、安全対策になんらかの問題があったには違いないんでしょうが。

 被害者や遺族の方がお怒りになられるのはもちろん当然としても、マスコミまでが、感情的な印象操作を繰り返して、そういう冷静な事故究明が行われないうちに、JR 西日本に悪者イメージをべったり貼り付けようとしているのはいかがなものか。あるいは、ちらっと映ったけど、取材記者のまるで総会屋みたいな偉そうな態度はいかがなものか。もっと重要な事実に焦点をしぼって、冷静に淡々と報道してほしいと思うのは私だけでしょうか。

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ブログと文体

 このブログでも何回も主張した通り、ブログのよさというのは気楽に書けるところにあると思うのですが、一方で、書かれたものは不特定多数に対して公開されるわけですから、その内容が与える社会的影響というのも無視できません。しかし、社会的影響を考えすぎると、気楽に書けなくなる、という葛藤があります。ぼくは、この葛藤をバランスする一つの鍵は、「文体」にあるのではないかと考えています。

 昨今は、「ズバリ言う」とか「斬る」とかが、やたらともてはやされる風潮にありますが、もともと、公の場で「ズバリ言」ったり「斬」ったりするためには、事実認識や論理に穴がないかどうか十分な調査や思考を重ね、相手の人権などを侵害しないように配慮し、さらに、政治的なリアクションに対する覚悟を決めるというようなことが必要で、だからこそカッコいいはずだったんですよね。

 ところが、なんでもそうですが、そういう行為が「カッコいい」という評価を得るようになると、水面下で行われている努力などは無視して、表面的な形だけをマネをする奴が必ず出てきます。しかし、実際には、そんなものを読んでも、カッコいいどころか、寒々しいだけに過ぎないのです。

 もちろん、ブログと言っても、プロ顔負けの内容を書かれている方もいらっしゃいますし、逆に、プロのジャーナリストでも、かなりゆるゆるの記事を書かれている方もいるので、ブログという表現形式を一律に差別をする気はありませんが、少なくとも、内容にふさわしい文体というものは考えたほうがよいと思うのです。

 ぼくも、たまに真面目にいろいろ調べて書くこともあるので、そういうときにはカタ目の文体を使うこともありますが、そうでないときは、なるべく、「~のような気がします」「~じゃないでしょうか」みたいなへなちょこな文体で書くようにしています。まあ、適当なことを書いて公衆の面前にさらす以上、そのぐらいの義務はあると思うんですよね。

 いろんなブログを眺めていると、たいした内容でもないのに、必要以上に偉そうな口調で書かれているものが、けっこう多いですよね。でも、何が鋭い意見かというのは、相対的に決まるものですから、ブログ全体のレベルが底上げされるということはあっても、全部が全部鋭い意見ばっかりになるということはありえないはずです。そう考えると、ブログをジャーナリスト予備軍の訓練場としてではなく、庶民の文化として定着させるためには、もっと一般庶民の良識と衝突しないような文体が定着する必要があると思うんですけどね。

 ブログに限らず、言論一般のあり方として考えても、かつては、何かについて調べようとしても、当事者や関係者以外には知りえない情報が多かったし、発言の機会の少ない社会階層みたいなものもあったので、あえて、素人の素朴な疑問をぶつけたり、暴論を怖れず問題提起をしたりということにも意味があったと思うのです。

 しかし、現代では、直接にも間接にも情報公開が進んでいるので、当事者でなくてもかなりのことが調べられるし、インターネットではそれこそ誰もが発言の機会を得られるわけで、そういう時代に、ろくに調べもせずに暴論をぶったり、素人だからと無知に居直ったりすることは、かつてのようには擁護できないと思うのです。

 そういう意味でも、もっと他人に対して敬意を持ち、身の丈にあった文体で文章を書く人が増えたほうがいいんじゃないかなと思うんですよね。

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パンダ反則認定

 あのパンダとかいう生物はおかしい。
 あの白黒の顔だけでも十分変なのに、後ろ足で胡坐をかくような座り方して、前足で子供を抱くなんて、可愛すぎるぞ。
 そんな都合のいい生物がいていいものか。
 あれは、女の子の涙といっしょで、人の心を惑わすためのいんぼーに違いない。

 もっとも、ツッコミを入れたい生物は、ペンギンとかクリオネとか、他にもいろいろいるのだが(^^)。

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憲法記念日

 憲法記念日の昨日、ニュース 23 では憲法改正問題の特集。立花隆さんと宮台真司さんという珍しい組み合わせによる対論があって、一応、立花さんが護憲派で、宮台さんが改憲派なのですが、どっちに転んでも、結局、自民党の案はおかしい、という結論になるところがニュース 23 らしくて微笑ましかったです。いや、イヤミじゃなくて(^^)。

 ただ、オバサンたちが憲法についてあちこち聞いて回る、という企画はどうでしょう。なんか、一般大衆を高い位置から見下ろして啓蒙してやる、みたいな印象があるし、だいたい、「オバサン」は無知だというジェンダーバイアスに満ち満ちているような気がするんですけど、ニュース 23 の視聴者層的にはマズくないのかなあ(^^)。どうせやるなら、子供の方がまだいいような気がするんだけど、それだと戦争体験を絡ませにくいからだめなのかなあ。

 第 9 条の問題は別として、「国民の責務」とかいうのは、本気なんでしょうかねえ。どうも、民主党との差別化をはかるための、保守派向けのウケ狙いで言ってるだけにしか見えないんですけど。まあ、中には本気の人もいるんだろうし、世論が暴走する危険もないではないから、一応釘を刺しておく必要はあるんだろうけど。

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わかいって素晴らしい

 と、さんまさんがフジテレビの番組でおっしゃっておりました。。。

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唯「言説空間」史観の限界

 この本は、要するに、思想問題として捉えられがちなネット右翼の問題を、「言説空間の歴史」という観点から捉えた本で、連合赤軍の「総括」から始まり、糸井重里さんに象徴される「消費社会的アイロニズム」を経て、田中康夫さんに象徴される「消費社会的シニシズム」に至る、という流れに歴史的連続性を見出すことにより、その流れの行き着く先として、ネット右翼に象徴される「ロマン主義的シニシズム」を位置づけようと試みたものです。

 こういう切り口は、もちろん、文化論としてはありうると思うし、極めて斬新とまでは言いにくいにしろ、そこそこ面白いとは思います。ただ、思想というものが言説空間だけに規定されるものではない以上、そこから何か思想的展望を得ようとしても限界があるはずなのに、無理にそれをやろうとしているために、論理が逆転している箇所が多々見受けられました。

 これは、例えて言えば、「冷戦時代の米ソは、思想的には対立していたが、軍隊の装備自体はよく似ていた」と言うようなもので、必ずしも間違いではないけれど、だからと言って、軍事力だけを分析しても冷戦が解決できるわけではないはずです。もちろん、「最初は思想のために戦争をしていたのが、だんだん人を殺すこと自体が快感になって、相手は誰でもよくなった」みたいなところが、ネット右翼にまったくないとは言わないけど、それですべてが説明できるとはとうてい思えません。

 そもそも、著者は、実存主義と世界志向が短絡することを矛盾だと感じているようですが、それがそんなに不思議なことでしょうか。たとえば、ハイデガーだって実存主義とナチズムを短絡させた形跡があるし、西洋近代が個人の実存と政治思想を切り離したことによる、ある種必然的な結果と見ることもできると思うのですが。

 そんなわけで、思想オタク的な言説空間に囚われてしまっているのは、むしろ著者自身ではないか、という想いを禁じえませんでした。

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