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多義的存在としての人間

 人間とは何か、という問いは、簡単そうで、実は、さまざまな定義が考えられます。

 たとえば、物理的な「かたち」に注目して、四肢を持ち直立歩行する動物の一種である、というような定義もできますし、あるいは、「人格」に注目して、特定の情報処理能力を持つオートマトンである、という定義もできますし、あるいは、ジーン(遺伝子)を保持し交配するキャリアである、というような定義もあるでしょうし、あるいは、ミームを受け取り、加工して、伝達するキャリアである、というような定義もあるでしょうし、あるいは、人類社会、という有機体を構成する一要素である、というような定義もあるでしょう。

 このうちのどれが「正しい」、などと議論することにはあまり意味がなくて、どの意味付けにもそれぞれ固有の価値があるはずです。たとえば、人間が少しでも長生きしたいと思うのは、物理的な存在としての人間を大事だと思っているからだろうし、肉体は滅んでも人々の記憶の中に残りたい、などと思うのは、人格としての人間を大事にしているからでしょうし、セックスして子孫を残したいと思うのは、ジーンのキャリアとしての人間を大事にしているからでしょうし、後の世に残るようなものを作りたいと思うのは、ミームのキャリアとしての人間を大事にしているからでしょうし、社会に貢献したいと思うのは、人類社会の要素としての人間を大事にしているからでしょう。

 利己的遺伝子論みたいに、このうちの一つだけを本質的なものとみなして、他をそれに従属するものとみなすような理論も成り立たないわけじゃないけど、そのことと、人間が何に幸せを感じるかということは、必ずしも直結しないですよね。人間は、野球を見て、XX がんばれー、とか言っているときに、これもめぐりめぐって自分の遺伝子の存続に役立つはずだ、とか考えているわけじゃないし、考えたからって、その「幸福感」自体に変化があるわけじゃありません。

 じゃあ逆に、「幸福感」とか「一瞬一瞬の生の充実感」みたいなものが生の本質なのかというと、そうとも言い切れなくて、実際には、そのような幸福感や充実感だって、それ自体を目標にしようとすると、単に刹那的になるだけで、何か別の目標を目指していなければ長持ちしなかったりします。

 ただし、社会的にこのうちのどれが重視されるか、と言うのは、社会的文脈によって決まってきて、歴史的な段階や社会的な「場」によって違ってきます。たとえば、全体主義的な社会というのは、「人類社会の要素としての人間」だけが重視され、「物理的存在としての人間」や「人格としての人間」が軽視された時代だったのでしょうし、近代民主主義社会では、むしろ後者の方が重視されているわけです。

 おそらく、古代社会においては、このような社会的文脈がもっと混沌としていて、「パンとカーニバル」の話みたいに、世俗的な権力者が、同時に、宗教的な生の意味付けを行う存在でもあったりしたわけです。ところが、近代になると、権力の目標は、物理的な個体や人格を守るということに限定され、その代わり、個人が自由に幸福を追求することを許すことにした。つまり、人間存在の意味付けが、社会的文脈によって「分化」したわけです。

 ぼくは、人類社会が進化したと言えるとすれば、それは、意味付けが混沌としていた時代には不可能だった、人間存在のいろんな面を「いいとこどり」できるようになったことだと思うのです。変なたとえかもしれませんが、スパイスだって、混ぜて「カレー粉」にしてしまうと、カレーライスやカレーうどんにしか使えなくなりますが、 ターメリック、パプリカ 、 ペッパー などに分けておけば、もっといろんな料理に使うことができるし、もちろん、混ぜてカレー粉として使うことだってできるわけです。

 近代民主主義が個人を大切にするのも、あくまで「政治権力」という特殊な文脈についてだけのことであって、ありとあらゆる文脈において、人間存在の意味付け統一する必要はどこにもないし、そんなことをすれば、むしろ、人間の生を貧しくするだけだと思うのです。むしろ、政治権力以外の場では、積極的に社会的文脈を多様化して、人間存在の多義性を生かしていったほうが、人間の生は豊かになるはずです。

 そう考えると、たとえば、行き過ぎた個人主義の問題とか、少子化の問題とか、高齢化社会の問題とかも、人間存在の社会的意味付けが貧しいことの現れなのではないか、という気がしてきます。しつこいようですが、人間と言うのは、多義的な存在であって、常に政治的文脈による意味付けに義理立てする必要はどこにもないはずなのです。

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