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不幸はニュースか

 最近、災害や事件が多すぎて、少々感性が麻痺しかかっているのですが、それでも、JR  福知山線の事故は、さすがに痛ましいですね。昨日の「報道ステーション」では、被害者一人一人のプロフィールを掘り下げていたのですが、痛ましすぎてちょっと見ていられませんでした。素朴な疑問として、そもそも、そこまで報道すべきなんでしょうか。

 たとえば、社会の矛盾を告発するというような報道なら、そこに不幸が存在する、ということ自体が社会に知られていないわけですから、被害者がいかに不幸かを報道することにも社会的な意義があると思うのです。あるいは、社会的に高く評価される業績を残した人の訃報に接して、その業績を振り返り、故人を偲ぶということにも意義があるんでしょう。

 でも、突然の事故で命を奪われてしまった人が不幸なのは当たり前のことであって、たとえその被害者がヤXザであろうが悪徳政X家であろうが、不幸に変わりはないはずですよね。それをわざわざ、この人はこんなに不幸です、という感じで報道する必要があるんでしょうか。

 もともと、ニュースショーというものには、報道の要素と娯楽の要素が入り混じっているわけですが、事故自体の映像は報道として見られたとしても、別に有名人でもない被害者のプロフィールをわざわざ放送することは、なんか、他人の不幸を娯楽として消費しているように思えて、やましくて見ていられませんでした。

 もちろん、別に他の視聴者が偽善的だとか言いたいわけではなくて、純粋に悲しみを共有しながら見ている方もたくさんいるんでしょうし、ひょっとしたら、番組を作っている方も、最近の子供の想像力の欠如みたいなことを憂えて、事故というものがいかに人を不幸にするかということを啓蒙しようという信念の元にやっていらっしゃるのかも知れませんが。

だから、これは善悪と言うより美学の問題かも知れませんが、なんかちょっと個人的にはいい気持ちはしなかったなあ。

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