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岩井本への疑問・2

 岩井本に対するもう一つの疑問は、「企業文化」というものに対する考え方で、岩井氏は、まるで、企業はとにかく個性的であればあるほどよい、と言っているような感じがするんですね。

 たとえば、デルなんかがやっているオープン・アーキテクト化についても、「オープン・アーキテクト化は、他の会社との差異性を作り出すための単なる手段でしかない」とか言って、要するに、オープン・アーキテクト化をさまざまな差別化の手段の one of them としか見なしていないんですが、これはいくらなんでもバランスを欠いた見方なんじゃないですかねえ。

 この論法って、ポモ全盛時代の文化相対主義とちょっと似てて、ありとあらゆる文化や個性を無条件で肯定するのがいいことだ、みたいな主張でしょう? でも、世の中には、無駄に個性的ということだってあるんであって、どんな個性も、なんらかの普遍性に裏打ちされていなければ価値はないはずなんですよ。文化だって、ある程度多人数の集団が、ある程度の長期にわたって共有しているからこそ、なんらかの普遍性があるはずだ、と言えるわけで、なんの普遍性もない単なる差異に価値があるわけではありません。

 岩井本には、「利益は差異からしか生まれない」みたいなポモ的なスローガンが頻出するんだけど、本当にそうでしょうか? 著者がこの言葉をどの程度厳密に使っているかわかりませんが、仮に、まったく同一の条件でまったく同じ商品を作る生産者しか存在しない世界を想定したとしても、それで利益がゼロになるわけではないですよね。まあ、こういうのも、生産者と消費者の間の差異によって生み出された利益だ、とかなんとか言われちゃうのかもしれないけど(^^)、そんなのは屁理屈であって、企業文化の問題とは関係ないですよね。

 むしろ、「競争力は差異からしか生まれない」というのであれば、まだわかるんだけど、これにしたって、ひっくり返して「差異があるところに競争力あり」とは断じて言えなくて、実際には、その差異にどれだけ価値があるかが問われるわけじゃないですか。

 「組織特殊的な関係資産」の話にしても、「特殊的」であればあるほどいい、というわけではないでしょう? 組織の特殊な部分が競争力になるのは確かなんだけど、その特殊性にイノベーションとしての価値があればあるほど、他の企業にも速やかに取り入れられらていくので、やがて当たり前のことになっていったりするわけじゃないですか。

 つまり、個性と普遍性というのは、必ずしも完全に対立するものではなくて、長い目みれば、進化論的ダイナミズムの中で一つに収斂されていく可能性があるし、多様性と言っても、あくまで、そういう淘汰の中で構成される生態系の一部としての多様性なわけで、ニッチ企業だけで社会が成立するわけではないはずです。

(社会ダーヴィニズムとかと勘違いされないように言っておくと、必ずしも集団としてでなくて、個人レベルでも淘汰ってあるわけです。たとえば、個人のクセとか習慣だって、長い目で見れば、なんの意味もないものは淘汰されて、その人にとって意味のあるクセや習慣だけが残る、というような過程があるはずです。そういう過程を経て残ったものこそが、真の「個性」であって、まったくランダムなものは個性とすら呼べないわけです。)

 さらに、そういう組織特殊的な資産を特殊であり続けさせることが、社会全体の利益につなるがるか、という本質的な疑問を突きつけている人も最近ではいるわけですが、岩井本には、そういうマクロな視点もないわけで、そういう意味でも、「組織特殊的な関係資産」をそんなに無条件に賞賛するわけにはいかないと思います。

 まあ、いろいろ悪口を書きましたけど、労働集約的な産業の比率が高まると、資本の効率ばかりを最優先にできなくなる、という基本認識はさすがに正しいと思うんです。ただ、それを「法人実在説的な会社」の擁護に直結させるのはおかしいのではないか、というのが私の疑問です。

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