内と外の境界線
ぼくが、ニッポン放送とかフジテレビの関係者の方々を見ていて、どーしても感覚的に違和感を感じてしまうのは、彼らの内と外との線引きの仕方なんですよね。つまり、社内と社外、グループ内とグループ外、業界内と業界外、などの線引き意識が強すぎるように感じるんです。
もっとも、ぼくはサラリーマンのころから、最終的な目的は、社会に貢献することであって、そのためにたまたま特定の会社に所属しているにすぎない、みたいな意識でいましたし、けじめがいい加減といわれる XX 型でもありますので(^^)、これはぼくの方が特殊なのかもしれませんが。
でも、会社内にいたって、何もわかってない上司が配属されてきたり、本当に愛情込めてやっていた仕事を打ち切られたりすることはあるわけでしょう? それが、会社の上司とか経営者の命令だと納得できて、株主だと納得できないということに、それほど合理的な理由があるのでしょうか。 ぼくには、それはある種の文化の問題のようにしか思えないのですが。そして、そういう文化が、本当に今後の社会にふさわしいものであるかを、疑問に感じています。
もちろん、本当に堀江氏が無能であるとか、間違った経営をしているということに対して具体的に批判するというのはわかるのです。それは、相手が上司だろうが経営者だろうが株主だろうが、おおいにやればいいと思うんですよ。でも、それ以前に、単に身内でないから、という理由で拒否反応を示している例が多すぎるような気がするんですよね。
あえて極論を言えば、仮に堀江氏に経営を任せてみて、もし本当に彼が無能だったら、ニッポン放送の株価は暴落するはずですから、そこでフジテレビがあらためて TOB を仕掛ける、ということだってできるはずですし(そうすれば、今回の TOB 価格より安く子会社化することができるかもしれない)、そこでもし堀江氏が往生際悪く抵抗したなら、そのころにはいい加減ライブドアの株価も下がっているはずですから、ライブドア本体に TOB を仕掛けて、堀江氏を経営陣から追い出すことだってできるでしょう(^^)。(そこまで余裕が持てないのは、逆にフジ側が堀江氏の手腕を怖れている証拠ではないか、と勘ぐりたくもなります。)
抵抗している方々には、いったい誰のために抵抗しているのか、というはっきりした意識があるんでしょうかねえ。それが、単に「身内」のためでしかなく、そのためには社会や第三者に損害を与えてもよい、というような意識であるなら、第三者の共感を得られなくても仕方ないと思うんですけどね。
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