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朝生反日中国編

 録画しておいた「朝生」を鑑賞。テーマは「反日デモと日中新時代」。中国人もしくは中国系の論客がたくさん参加していたのがちょっと面白かったです。特に、葉千栄という人はすごく目立っていて、おそらく、番組を通しての発言時間が一番長かったのではないかなあ。もちろん、日本の番組であるということも計算して発言されていたのでしょうけど、意外とみなさん中国政府や中国国民のことを冷静に見ているなあ、という感じがしました。

 他の論客の方々も、以前と比べるとものわかりがよくなったのか、昔みたいな「中国人は純粋に傷ついているんですっ! 傷口を広げるようなこと言わないで下さいっ!」みたいな主張をする人はまったくなし。もちろん、中国民衆と手を結んで、中国の抑圧的な政権から民衆を解放し、民主的な中国を作るべきだ、みたいなネオコン的な主張をする人もなし。おかげで、不毛な論争にはなりませんでしたが、対立点があまりはっきりしなくて、今ひとつ議論が深まることもなかったという印象です。

 そういう極端な主張が減ったというのは、なんだかんだ言って、グローバリゼーションや情報化によるところが大なんでしょうねえ。一時期、「やっぱり国家はなくならない」みたいな議論が流行って、それはそれで現実の一面をついているとは思うけど、一方で、国家単位の一元的なパワーゲームだけでは国際情勢を論じられなくなっている、という大きな流れも厳然としてあるわけで、改めてそれを感じましたね。

 余談ですが、「なぜあなたは靖国に行かないんだ!」とか言って福島瑞穂さんイジメをしてた田原さんを見て、自分の過去の発言からしたら、そんなことを偉そうに言える立場か? と思ったのは私だけでしょうか(^^)。

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部屋の鍵が壊れた

 部屋の鍵が壊れてしまい、閉めようとしてもなかなかしまらないし、いったん閉めるとなかなか開かなくなるので、怖くて出かけられなくなってしまいました。

 しょうがないので昨日修理に来てもらったのですが、その修理の人が、たいしてこちらの説明もきかずに、「別に平気じゃん」みたいな感じで鍵を閉めたら、案の定開かなくなってしまって大騒ぎ。そんなに自信を持って閉める以上は、イザとなったらどんな鍵でも開けられる道具みたいなものを持って来たのだろうと思っていたら、ぜんぜんそんなことなくて、ガチャガチャ鍵を廻すだけなんだもの。おいおい、それじゃオレといっしょじゃないか、だったら閉めるなよ、と思ったものの口には出さず。幸い、10 分ぐらいガチャガチャやっていたら開いたんでよかったけど。

 結局、鍵を交換することになりましたが、部品が来るのは明日なんだそう。なんか手際が悪いなあ。俺がやれば絶対直るに決まってる、とか思ってたのかなあ。

 そんなわけで、ゴールデンウィークだというのに、うかつに外に出られなくなってしまいました。まあ、もともとたいして出かける気もなかったんだけどね(^^)。

 そんな経験の直後だっただけに、昨日の「アンビリーバボー」の洗濯機の話には、共感することしきりでありました(^^)。

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祭りはこわい

 某所のお祭りの影響か、ある本のレビューにみょーにネガティブな投票が増えてましたね(^^)。
 でも、別に経歴をほめたわけじゃないんだからさー、関係ないと思うんだけどなー(^^)。
 仮に、経歴がウソだということが確実なら、ほめたヤツにもちょっとは責任あると思うけど、まだ証明されたわけじゃないんでしょ(^^)?
 まあ、もし証明されたら、「私の見る目がありませんでした。ごめんなさい。」っていう内容に書き直すからさー。それまではかんべんしてよって感じ(^^)。

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御回答

 文字化けの件について、こんなありがたい御回答をいただきました。

 アット・ニフティにお問い合わせいただき、ありがとうございます。  メールサポートセンター ○○です。    お問い合わせいただいた「ココログ」の件について回答いたします。

 お問い合わせいただきながら恐縮ではございますが、ココログの推奨環境は
以下の通りとなっています。推奨環境以外では様々な問題が生じ、正常に動作
しないことを確認しておりますため、推奨環境以外の動作は保証しておりませ
ん。

 現在のココログの現在の推奨環境は、以下のとおりとなっております。

  Windows Internet Explorer 6以上
  Windows Firefox 1.0以上

【ココログヘルプ】
http://help.cocolog-nifty.com/
 ・[ 推奨環境について教えてほしい。 ]をクリック

 現在のところ、Macintosh用ブラウザは推奨環境と設定いたしておりません。
何卒、ご了承ください。

 恐縮ではございますが、正常に表示されるブラウザにてご利用いただくか、
推奨環境からご利用いただきますようお願いたします。

 また、ソフトに関するお問い合わせに関しましては、ソフト提供元にご相談
いただきますようお願いたします。

【ubicast Blogger】
http://blog.ubicast.com/

【BlogWrite】
http://witha.jp/BlogWrite/

 お問い合わせありがとうございました。
  今後ともアット・ニフティをよろしくお願いいたします。

            アット・ニフティメールサポートセンター:○○

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ココログ文字化け

 昨日あたりから、このココログの記事を、BlogWrite や ubicast Blogger のようなクライアントに読み込むと文字化けするので不思議に思っていたのですが、BlogWrite のサポートブログによると、どうやら、ココログ側のシステムの問題のようです。ぼくも昨日 NIFTY に問い合わせを出したのですが、まだ返事が来ていません。まさか、ウィルスバスターにやられたとか、そんなんじゃないよね(^^)。

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時刻表が示すもの

 高校生の頃は、電車やバスを使って通学していましたのですが、こういう交通機関、特にバスはしょっちゅう遅れたので、よく遅刻の言い訳に使わせてもらいました。しかし、そんな言い訳が何度も通用するほど世の中甘くありません。やがて、「バスなんてどうせ遅れるんだから、それを見越して早目に家を出なくちゃダメじゃないか」という当然の指摘を受けるようになります。その時、愚かな子供の私は考えました。

「どうせ遅れると言うなら、時刻表に書いてあるあの数字はなんだ? 単なる努力目標にすぎないのか? そんなの無責任極まりないじゃないか」

「だいたい、早目に出るったって、何分遅れるかわからないのだから、何分早目に出れば確実に遅刻を防げるのかもわからない」

「しかも、必ず遅れるのならまだわかるが、定刻より早く到着して定刻より早く出発してしまうことさえある。迷惑だ」

「たとえば、計測機械などは、絶対に正確だなどと謡ってはいないが、少なくとも誤差範囲は明示していている」

「そうだ、交通機関の時刻表にも、誤差範囲を明示するべきなのだ。そして、その誤差範囲以上に遅れたら、運賃を払い戻しすべきなのだ。」

とまあ、いかにも子供っぽい屁理屈でお恥ずかしいのですが、尼崎の脱線事故で、1秒単位で遅延の報告をさせられていた、などという話を聞くと、こういう発想もまんざら的外れでもないのではないか、という気もするのです。

 つまり、完全に時刻を守るなどということは、もともと人間には不可能なことなのに、どこまで誤差が許されるかがはっきりしていないと、単なる努力目標になってひたすらルーズになるか、逆に、一種の精神論に陥って過剰に正確さを追求するか、のどちらかになりがちなのではないでしょうか。

 おそらく、多くの現場では、「常識的な判断」によって、そういう両極端を避けてきたのでしょうが、今のようなマニュアル世代といわれる時代では、それこそなんとかシグマじゃないですけど、そういう現場の「常識的判断」を、統計的に分析することにより、あらためてマニュアル化する必要があるのかも知れない、なんてことを感じました。

 まあ、まだ十分に調査がすすんだわけでもないので、あくまで思いつきの感想ですが。

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不幸はニュースか

 最近、災害や事件が多すぎて、少々感性が麻痺しかかっているのですが、それでも、JR  福知山線の事故は、さすがに痛ましいですね。昨日の「報道ステーション」では、被害者一人一人のプロフィールを掘り下げていたのですが、痛ましすぎてちょっと見ていられませんでした。素朴な疑問として、そもそも、そこまで報道すべきなんでしょうか。

 たとえば、社会の矛盾を告発するというような報道なら、そこに不幸が存在する、ということ自体が社会に知られていないわけですから、被害者がいかに不幸かを報道することにも社会的な意義があると思うのです。あるいは、社会的に高く評価される業績を残した人の訃報に接して、その業績を振り返り、故人を偲ぶということにも意義があるんでしょう。

 でも、突然の事故で命を奪われてしまった人が不幸なのは当たり前のことであって、たとえその被害者がヤXザであろうが悪徳政X家であろうが、不幸に変わりはないはずですよね。それをわざわざ、この人はこんなに不幸です、という感じで報道する必要があるんでしょうか。

 もともと、ニュースショーというものには、報道の要素と娯楽の要素が入り混じっているわけですが、事故自体の映像は報道として見られたとしても、別に有名人でもない被害者のプロフィールをわざわざ放送することは、なんか、他人の不幸を娯楽として消費しているように思えて、やましくて見ていられませんでした。

 もちろん、別に他の視聴者が偽善的だとか言いたいわけではなくて、純粋に悲しみを共有しながら見ている方もたくさんいるんでしょうし、ひょっとしたら、番組を作っている方も、最近の子供の想像力の欠如みたいなことを憂えて、事故というものがいかに人を不幸にするかということを啓蒙しようという信念の元にやっていらっしゃるのかも知れませんが。

だから、これは善悪と言うより美学の問題かも知れませんが、なんかちょっと個人的にはいい気持ちはしなかったなあ。

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コバヤシさんじゃなくてイトイさんだった

 北田暁大氏の「嗤う日本の「ナショナリズム」」を購入。ナショナリズムというから、てっきりコバヤシ某さんあたりが中心になるのかと思ったら、半分ぐらいはイトイさん(というか、イトイさんに代表される 80 年代的なもの)の話でした。著者の年齢は 30 代前半なのに、80 年代の文化についても、よく調べているようです(もっとも、今のような時代では、最低限このぐらいは調べないと、金を取れる商品にはならないとは思いますが(^^))。なかなか面白いので、もうちょっと読み込んだら、レビューしてみようかなあと思っております。

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子供番組とトラウマ

 仕事が一段落したので、久々に円谷チャンネル BB でセブンと新マンを数作見ました。

 特に、新マンのシーモンスとシーゴラスは、かなりいろんなことを思い出させてくれました。ぼくは、スマトラ沖地震の津波の映像を見たとき、なんか、自分の中にある津波のイメージと違うな、という気がしてしょうがなかったのですが、その津波のイメージと言うのは、たぶん、この作品の特撮のイメージだったんですね。あのシーモンスの唄も、子供のころよくマネして唄ってました(^^)。

 やっぱり、こういう子供番組が、子供の心に与える影響ってバカにならないと思いますね。そう言えば、新マンには「怪獣使いと少年」という伝説的な作品があるのですが、これにトラウマを受けた人は少なくないようです。

 これはトラウマじゃないけど、「ぐりとぐら」のホットケーキなんかも、自分の中のホットケーキのイメージにかなりの影響を与えていると思いますね。ぼくはいまだに、あの絵本の中のホットケーキのイメージに匹敵するほど美味しいホットケーキを食べたことがなくて、ホットケーキというものは、もっと美味しいはずだ、という感覚がどうしても抜けません(^^)。

 そう考えると、子供向けの作品を作るって、やりがいもあるだろうけど、そら怖ろしい仕事でもあるな、と思いますね。

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RSS のススメ

 RSS になれてくると、RSS フィードを提供してないサイトのチェックをするのがだんだん面倒になっきますね。今のところ、MyRSS に登録するなどして対処していますが、自動生成では必ずしもうまくいかないサイトもあるので、「ほぼ日」さんとか、早く RSS に対応してくれないかな~、と密かに思う今日この頃(^^)。

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CMS 導入検討中

 いい加減、ウチのサイトでもオープンソースの CMS を導入しようと思って、調査を開始しました。

 以下、参考になりそうなサイトのメモ。

いろんなオープンソース CMS のデモサイトが用意されていて、勝手にいじれる。

人気投票などもあり。

スペックの比較機能や検索機能が便利。

スペック別のランキングもある。

日本語サイトならここか。

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「寄生獣」電子書籍化

 岩明均氏の名作「寄生獣」が、ついに電子書籍化されたようです。SF のもつ思弁性と娯楽性のバランスのとれた傑作として定評ある作品なので、未読の方は、この機会に一読されてみてはいかがでしょうか。

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PC-Transer 要望

 PC-Transer もだいぶ使い込んだので、追加の要望や不満点をまとめておきます。

  • フレーズ種別の指定が効かないことがある。たとえば、This や That が主語になっていると、デフォルトでは限定詞として解釈されてしまい、「フレーズ種別」で名詞句に指定しても有効にならない ("This is a pen." が「このペンである。」になってしまうのは、ちょっとマズくないか(^^))。IT 関係でよく登場する Variable (変数) という名詞なども、形容詞として解釈されてしまう。
  • 「品詞変更」機能を使うと、他のフレーズ種別指定がすべてリセットされてしまう。たとえば、上のような this や variable も、「品詞変更」機能を使えば名詞として解釈できるのだが、その際に、他のフレーズ種別がリセットされてしまうので、あまり役にたたない。
  • 「文型一致文検索」は便利なのだが、これにヒットした文節の、文型に一致しない変数の部分を修正するときに、「訳語対応」や「訳語変更」の機能が使えなくて、手入力での修正しかできない。
  • 訳文のスタイルをもっと細かく指定できるようにしてほしい。たとえば、マイクロソフトのスタイルガイドで指定しているような、半角文字と全角文字の間に半角スペースを入れるとか、数字や記号は半角にするといったスタイルを指定できるようにしてほしい。特に、半角カッコが自動的に全角カッコに変換されるようになっていて、いちいち半角に戻さなくてはならないのは不便。
  • MS Word 用のアドインを組み込むと、MS Word に [翻訳] というメニューが追加されるのだが、Word を再起動するたびに、このメニューが 1 個ずつ増えていき、ほおっておくとメニューだらけになってしまう。(Word XP のバグのせいらしいが)

とりあえずこんなところです。でも、うまく使えば生産性が上がるのは確かだと思います。

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中国におけるインターネット・フィルタリング

 Yomiuri Online の「中国のネット検閲」という記事で紹介されていた、OpenNet Initiative の "Internet Filtering in China" という論文を発見。中国の国家によるインターネット・フィルタリングの実態が、かなり詳細に書かれています。58 ページの PDF です。

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世界の民の声

 木走さんのブログで知ったのですが、BBC日中問題について、世界中の一般市民からコメントを集めて掲載しています。当事者的な視点を相対化するのに、なかなか役立つ記事だと思います。

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中国の歴史認識

 ワシントンポストに、日中問題について、かなり日本に好意的(というか、中国に手厳しい)コラムがのってますね。日本人が歴史から目を背けているというなら、中国はどうなんだ。もっとヒドイじゃないか。という感じの論調。

 日本人が南京大虐殺の 30 万の犠牲者を軽く見ているというなら、毛沢東の「大躍進」による 3000 万の犠牲者はどうなるんだ。中国の教科書にはまったく書いてないじゃないか。

 内政ではなく外交が問題だというかもしれないが、中国の子供は、1950 年のチベット侵攻や 1979 年のベトナム侵攻だって教わってないじゃいか。だいたい、第二次世界大戦だって、共産党のゲリラだけで勝ったことになっていて、真珠湾も硫黄島もミッドウェーも出てこないじゃないか。

みたいなことが書いてあるんだけど、その論調はさておき、ここに書いてある「愛国教育」の内容にはちょっと驚きますね。そんなことも教えてないのかあ、という感じ。だって、「大躍進」なんて、まだ 50 年もたってないんだから、実際に体験してる人だってたくさん生きてるはずなのに。

 偏向しているという噂だけはよく聞くけど、その具体的内容については、日本ではあまり情報が流れていないような気がするんだけど、気のせいかなあ。ひょっとして、中国について知るにも、日本語の本を読むより洋書を読んだ方がいい、なんてことになってると、ちょっとマズいのでは(^^)。

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ITCH

 ITCH で終わる英単語は、bitch のほかにも、ditch、glitch、hitch、itch、pitch、stitch、switch、twitch、witch などがありますね。珍しいところだと、fitch (毛長鼬)、flitch (豚の脇腹肉) なんてのも。bitch 以外は別にヤバくなさそうですね(^^)。

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想定外

 ご存知かもしれませんが、mail forwarding service という、アメリカ国内の住所を国外のユーザーに割り当てて、そこに届いた郵便物や宅配便をユーザーに転送してくれるサービスがあります。

 ぼくの利用している USABox という会社だと、単に機械的に転送するだけでなく、複数の荷物を一つに梱包しなおして運送料金を節約したり、不要な DM などはわざわざ転送するまでもなく廃棄したり、というようなさまざまなサービスが用意されています。また、その際の指示も、電話やメールではなく、ウェブページから行えるようになっていて、なかなか便利です。

 この会社と最初に契約したときの主な動機は、日本への発送を取り扱っていない通販店の商品(決して怪しげなブツではありませんぞ(^^))を買うことだったのですが、使っているうちに「想定外」の利点があることに気づきました。それは、Amazon.com の古本を買えることです。

 本家アメリカの Amazon.com のマーケットプレイスには、一般消費者を含むさまざまな売り手からの古本が売られていて、日本国内の洋書を扱う古本屋よりも、はるかに商品点数が多く、値段も安いのですが、売り手の多くは、アメリカ国外への発送を受け付けていません。

 しかし、上記のような転送サービスを使えば、このような売り手からも商品を購入することができるので、洋書の古書を格安で手に入れることができます。もちろん、monthly fee や shipping charge はありますが、月 $100 以上の本を買う人なら、簡単に元をとることができるでしょう。

 もっとも、契約までの手続きは結構面倒(いろんな書類を提出する必要がある)なので、興味のある人は「自己責任」でがんばってみてください(^^)。

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天才の評価

 あの天才松本人志もアンガールズを評価しているらしいですね。プレイボーイかなんかの連載で「 ちゃんと考えられてます。『賢い』と思います。 」と言ったらしい。前にこのブログにも書いたけど、ぼくと同意見です(^^)。ちょっと自信つきました(また自慢になってしまった)。

 余談ですが、ビデオ屋の「どんまい」の話は面白かったですねぇ。ああいう構成をとっさに思いつくところがすごいよなあ。

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多義的存在としての人間

 人間とは何か、という問いは、簡単そうで、実は、さまざまな定義が考えられます。

 たとえば、物理的な「かたち」に注目して、四肢を持ち直立歩行する動物の一種である、というような定義もできますし、あるいは、「人格」に注目して、特定の情報処理能力を持つオートマトンである、という定義もできますし、あるいは、ジーン(遺伝子)を保持し交配するキャリアである、というような定義もあるでしょうし、あるいは、ミームを受け取り、加工して、伝達するキャリアである、というような定義もあるでしょうし、あるいは、人類社会、という有機体を構成する一要素である、というような定義もあるでしょう。

 このうちのどれが「正しい」、などと議論することにはあまり意味がなくて、どの意味付けにもそれぞれ固有の価値があるはずです。たとえば、人間が少しでも長生きしたいと思うのは、物理的な存在としての人間を大事だと思っているからだろうし、肉体は滅んでも人々の記憶の中に残りたい、などと思うのは、人格としての人間を大事にしているからでしょうし、セックスして子孫を残したいと思うのは、ジーンのキャリアとしての人間を大事にしているからでしょうし、後の世に残るようなものを作りたいと思うのは、ミームのキャリアとしての人間を大事にしているからでしょうし、社会に貢献したいと思うのは、人類社会の要素としての人間を大事にしているからでしょう。

 利己的遺伝子論みたいに、このうちの一つだけを本質的なものとみなして、他をそれに従属するものとみなすような理論も成り立たないわけじゃないけど、そのことと、人間が何に幸せを感じるかということは、必ずしも直結しないですよね。人間は、野球を見て、XX がんばれー、とか言っているときに、これもめぐりめぐって自分の遺伝子の存続に役立つはずだ、とか考えているわけじゃないし、考えたからって、その「幸福感」自体に変化があるわけじゃありません。

 じゃあ逆に、「幸福感」とか「一瞬一瞬の生の充実感」みたいなものが生の本質なのかというと、そうとも言い切れなくて、実際には、そのような幸福感や充実感だって、それ自体を目標にしようとすると、単に刹那的になるだけで、何か別の目標を目指していなければ長持ちしなかったりします。

 ただし、社会的にこのうちのどれが重視されるか、と言うのは、社会的文脈によって決まってきて、歴史的な段階や社会的な「場」によって違ってきます。たとえば、全体主義的な社会というのは、「人類社会の要素としての人間」だけが重視され、「物理的存在としての人間」や「人格としての人間」が軽視された時代だったのでしょうし、近代民主主義社会では、むしろ後者の方が重視されているわけです。

 おそらく、古代社会においては、このような社会的文脈がもっと混沌としていて、「パンとカーニバル」の話みたいに、世俗的な権力者が、同時に、宗教的な生の意味付けを行う存在でもあったりしたわけです。ところが、近代になると、権力の目標は、物理的な個体や人格を守るということに限定され、その代わり、個人が自由に幸福を追求することを許すことにした。つまり、人間存在の意味付けが、社会的文脈によって「分化」したわけです。

 ぼくは、人類社会が進化したと言えるとすれば、それは、意味付けが混沌としていた時代には不可能だった、人間存在のいろんな面を「いいとこどり」できるようになったことだと思うのです。変なたとえかもしれませんが、スパイスだって、混ぜて「カレー粉」にしてしまうと、カレーライスやカレーうどんにしか使えなくなりますが、 ターメリック、パプリカ 、 ペッパー などに分けておけば、もっといろんな料理に使うことができるし、もちろん、混ぜてカレー粉として使うことだってできるわけです。

 近代民主主義が個人を大切にするのも、あくまで「政治権力」という特殊な文脈についてだけのことであって、ありとあらゆる文脈において、人間存在の意味付け統一する必要はどこにもないし、そんなことをすれば、むしろ、人間の生を貧しくするだけだと思うのです。むしろ、政治権力以外の場では、積極的に社会的文脈を多様化して、人間存在の多義性を生かしていったほうが、人間の生は豊かになるはずです。

 そう考えると、たとえば、行き過ぎた個人主義の問題とか、少子化の問題とか、高齢化社会の問題とかも、人間存在の社会的意味付けが貧しいことの現れなのではないか、という気がしてきます。しつこいようですが、人間と言うのは、多義的な存在であって、常に政治的文脈による意味付けに義理立てする必要はどこにもないはずなのです。

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根性悪い私(といいつつ自慢(^^))

 TBS の「島田検定」という番組を後半だけ見たのですが、なんか、ほとんど正解してしまいました。ああいうのは、問題文の中にヒントが隠れてるので、ウラ読みするとかえって当てやすいですね。

 そう言えば、同じ TBS で浜ちゃんがやっている「オオカミ少年」も、ほとんどはずれたことがないです。あれも、VTR の作り方の中にヒントが隠れているので、それをウラ読みすると結構当てやすくて、逆に、マジメに考えようとするとはずしてしまうことが多いくらいです(「寿司スペックス」の時がそう)。

 こないだの「キャベコン」も、セロテープで貼っているところを見て、これは本当に違いないと確信しました(^^)。だいたい、ウソのときは、VTR を尤もらしく作ろうとするから、わざわざセロテープで貼ったりしない。逆に、ホントのときは、ウソっぽいところを強調してある。だから、今のままだとかえって当てやすいような気がするんですけど、いかがでしょう。

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有言実行

 ふと思い立って、10 年ぐらい前に読んだ、立花隆氏の「「知」のソフトウェア」を読み直してみたのですが (この本、ずいぶん熱心に読んだらしく、付箋が何十枚もはさんでありました。日垣隆氏に言わせると、こんなにたくさん付箋をはさんではいけないのだそうです(^^))、やっぱり、すごくいいこと書いてあるんですよね。たとえば、

「人は自分が信じたいことはたやすく信じてしまうものである。信じたいことなら、未確認情報でも、つい真実だと思い込んでしまう。逆に、信じたくないことなら、なんとかしてその情報が真実でない証拠をさがそうとする。誰でもそうした偏見から百パーセント逃れることは難しい。自分が信じたいことに好都合な未確認情報を得たときこそウラ取りを忘れるな、と常日頃から自分にいいきかせておくくらいしかその予防法はない。」

「この手法の記事においては、ほとんどすべての情報が、人のコメントの中にある。コメントに盛られた情報の真偽のほどは、発言者にゲタがあずけられ、筆者自身の知ったことではないこととされる。少なくとも、そういう発言があったこと自体は事実だが、発言内容が事実かどうかには、筆者は責任を持てないという形式を取る。要するにそこにあるのは、ヴァーバルな(ことばの上だけの)事実だけで、ほんとうの事実かどうかはわからないというわけだ。

 ジャーナリズムの本来のあり方は、やはり、ファクトのそのものの追求にあるはずである。その立場からは、この手法は明らかにずるい逃げであり、退廃である。 」

 これ読んでから、あらためて、「メディアソシオ・ポリティックス」を読み直してみると、どうしても首をかしげたくなってしまうのですがねえ。ホリエモンを上げるか落とすかみたいな低次元の話じゃなくて、ジャーナリズムの質の問題として。

 そう言えば、この本には、こんなことも書いてありました。

「何によらず、誰かが何かを論じているとき、果たしてその人がそのことを論じるに十分な知識と能力を持っている人かどうか、吟味してみる必要がある。」

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「外乱」のあるシステム

 宮台真司氏が「思想塾」開講の告知をされています。

 この設立趣意書の中で、ちょっと興味をひかれたのは、「 〈世界〉の根源的な規定不能性 」という話。というのも、たぶん宮台氏とはぜんぜん違う文脈だろうけど、ぼくが最近考えていることと、なんか似たようなことをおっしゃっているような気がするからです。

 前にこのブログでも書いたけど、「ラプラスの悪魔」的な決定論的な世界観と、人間の自由意志とが矛盾するのではないか、という考えは、全知全能の神の視点と、有限の知しか持たない人間の視点の混同による錯覚だと思うのです。

 つまり、「ラプラスの悪魔」のような、宇宙のあらゆる粒子の状態を知り、宇宙のあらゆる現象を予測できるような知性というのは、いくら人類のテクノロジーが発達しても、原理的に実現不可能なので(なぜ実現できないかは、渡辺慧氏の名著「知るということ―認識学序説」を参照)、特定の人間というオートマトンが、世界から受け取る情報を完全に予測することは、本人か他人かにかかわらず、人間にはできないのです。したがって、別に、人間の脳内にカオス的な予測不能性を想定せずとも、人間の行動を、人間が完全に予測することは不可能なので、そういう意味では、自由意志は存在する、と言えます。

 言い換えれば、人間とか社会というシステムは、情報的には完全に「閉じた」システムではなく、自動制御論的に言えば、「外乱」のあるシステムなんですね。

 ただ、人類の歴史というのは、さまざまなフィードバックループを導入することにより、この「外乱」のあるシステムの中に、相対的に安定したサブシステムを作り出そうという試みの歴史でもあったわけです。その試みが、近代以降思いのほか成功を収めてしまったので、ポストモダンブームの頃には、完全に外乱のない極限状態を想定してパラドクシカルなことを言う思想家が現れたり、反対に、外乱は決してなくならないのだから何やってもムダだ的なことを言う人が現れたりしたんだけど、これは、どっちも極論だったと思うのです。

 実際には、外乱が完全に無くすことは決してできないけれども、外乱の中でも相対的に安定したサブシステムを作り、人類が管理できる領域を広げていくことはできるわけで、文化とか制度とか 、ある意味では、人類とか生物そのものも、進化の過程で自律的に発生した、安定化のためのシステムだと考えることができます。進化論的なパラダイムが社会科学にインパクトを与えたのも、進化論というものが、もともと、そういう外乱のある開いた系の中で、自律的に発生する秩序、というものを扱える方法論だったからでしょう。

 ただ、こういうフレームワークに立って考えると、「 主意主義の本義は、主体ではなく、〈世界〉の根源的な規定不能性に関わっている。 」というだけでは不十分で、個々の主体が世界がら受け取る情報は、完全に同じではないけれども、相互のコミニュケーションを可能にする程度の相関性は持っている、というところが重要になってくると思います。(そう考えないと、主体がランダムでも、世界がランダムでも、大差ねえだろ? ということになってしまう(^^)。)

 このような、社会を構成するエージェントが、完全に同一ではないが、一定の相関のある情報を受け取りながら相互作用しているというモデルをうまくつくれれば、社会科学をもう一歩深化させることができるような気がするんですけど、ダメかなあ(^^)。

(北川悦吏子さんがよく書くんだけど、恋人同士が電話で話してて、実際には離れた場所にいるんだけど、同じ月を見てその感想を伝えあっている、みたいなイメージね(^^)。余計わかんねえか(^^)。)

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ドングルが壊れた!

 Trados のライセンスが入っている USB ドングルが壊れてしまいました。

 ノートパソコンの USB コネクタに差し込むと、プラグの部分だけ横に突き出した形になるので、常々やばいな~と思ってはいたのですが、差し込んだままノートパソコンを持ち運んだりしているうちに、あちこちにぶつけたりして、負荷が蓄積した結果、根元からぽっきり折れてしまいました(^^)。

 しかも、折れたプラグの先端がコネクタに入ったままになって、抜けなくなってしまいました。ラジオペンチで引っ張ったりしたのですが、どーしても抜けない。ハンダ付けで線だけでも結線してみようかと思ったのですが、このままではそれすらもできない。

 この際、Ver 6.5.5 から導入された、ソフトキーライセンスに切り替えようかと思ってオーダーしたのですが、ファイルをダウンロードできるまでには、2 business days もかかるらしい。そんなに待ってらんないよ~(^^)。

 もともと、このドングル方式って、プロテクトの方法としては、あんまりいい方法じゃないと思うんですよね。数少ない USB コネクタをムダに占拠するし、ホームオフィス内の複数のマシンで使用するにも、いちいちドングルを持ち運んで差し替えなくちゃならないし。Trados でソフトキーを導入したのも、きっとあまり好評じゃなかったからなんでしょうね。 

 まあ、自分がガサツだからいけないんだけどさ~、弱っちゃったな~(^^)。

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雑誌の新聞

 この「雑誌の新聞」というサイト。なかなか便利ですね。

 主な雑誌の見出しをまとめて検索できるし、記事によく登場する人のランキングなどもあります(最近のトップはもちろんあの人(^^))。ぼくは、毎週同じ雑誌を買うのが嫌いで、面白そうな記事だけつまみ食いするタイプなので、結構利用価値ありそう。

 ただ、「矢口真理」を検索していて偶然見つけた、というところがちょっと恥ずかしいんだけど。(でも、単なる野次馬根性で、別にファンというわけじゃないのよん(^^)。)

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12 億の反日

 China Daily という中国の英字新聞の漫画欄を発見。言葉はよくわからないが、日本ネタばっかりだ、ということだけはわかる(^^)。なんて、(^^) マークを書いてみたけど、笑い事じゃないよね。

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ついに iTMS 日本上陸か

 「米アップル:年内に音楽配信開始へ 市場拡大に弾み」という記事が毎日インタラクティブに。

 必ずしも iTMS をそのまま日本でやる、とは明言していないようですが、やっぱり期待してしまいますよね。

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おめでと~

 「考える人・公募の錬金術」で、松ちゃんがついに最優秀賞をとったらしいです。もっとも、観てるこっちは、番組が終わるまで「またドッキリちゃうの?」と半信半疑でしたが(^^)。

 でも、ウケ狙いで考えたことが、本当にいいアイデアになってしまうことって、たまにありますよね。逆に、真面目に考えたのに、みんなウケ狙いとしか思ってくれない、ということの方がもっと多いけど(^^)。

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ところで

 ライブドアの発行した MSCB の金利についてはいまだに訂正していない、ということは、この部分は「真偽不明のガセネタ」ではない、ということですよね。これ、ぼくだけじゃなく、 公認会計士 の磯崎さんをはじめ、いろんな人が疑問を呈しているのに、なんの説明もないって、ちょっと変じゃないでしょうか。

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ブログの書き直し方

 立花隆氏が、記事の訂正について長々と語っていたのを読んで思い出したのですが、ぼくも、自分のブログを部分的に書き直すことはよくあって、どのように書き直すべきなのか、迷うことがあります。

 つまり、世の中に間違った情報を流さない、という意味では、間違いはできるだけ訂正した方がよいのだけれど、筆者の責任をはっきりさせる、という意味では、いつのまにかこっそり訂正する、というのはよくない。でも、訂正後の記事だけ読む人からみれば、訂正の跡が残っているのはウルサイということがあります。

 そこで、とりあえず今のところは、筆者の責任が問題になるような部分では、明示的に訂正し、どーでもいいような部分は痕跡を残さず書き直す、というようなやり方をしています。ただ、「責任が問題になるような部分」という判断には、ある種の価値判断が含まれますから、完全に客観的に行うということは難しいんですよね。言い換えれば、こちらにとってはどーでもいいような間違いでも、一部の人にとってはすごく重大な間違いである可能性もないとは言えないわけです。

 そう考えると、表面上は痕跡は残らないが、確認しようと思えば、訂正履歴を確認できるというシステムが欲しくなります。また、そういうシステム的な支援があれば、問題発生を怖れるあまり気楽に書けなくなるというような懸念も、ある程度解消されるでしょう。

 たとえば、Wikipedia などは、誰がいつどのような変更を行ったかという履歴が、すべて残るようになっている(おそらく、CVS のようなソース管理システムをヒントにしたと思われる)ので、文責があいまいになる怖れはまったくないわけですが、ブログにもこういうシステムがあったほうがいいのかもしれません。

 ただ、これ以上システムが複雑になると、ただでさえシステムの負担に苦しんでいるプロバイダーさんが、悲鳴をあげる可能性もありますね(^^)。

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Scientific American

 Scientific American って、いつの間にか、記事ごとに電子書籍としてバラ買いできるようになってたんですね。これはなかなか便利。しかも、この PDF ファイルは、他の電子書籍みたいなプロテクトがかかってなくて、クリップボードにもコピーできちゃうんだけど、こんなに太っ腹でいいのか? いや、もちろん、こちらとしてはこのほうが有難いんですが(^^)。

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最近のオカズ

 最近、Oisix(おいしっくす)さんで、調理済みの魚の切り身を冷凍したものを売り始めたのですが、レンジで解凍するだけで簡単に食べられ、しかも結構美味しいので、毎日のように食べてます(^^)。なんか、マトモな料理をしてる暇がなくてねー。

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ubicast Blogger

 ブログ書き込み用のクライアントを、これまで使っていた BlogWrite から、ubicast Blogger に試験的に乗り換えてみることにしました。

 ubicast Blogger は、数ヶ月前に試しに使ってみたときには、バグも多くてあまり使い物にならなかったのですが、たいぶ完成度が高くなってきたようです。得に、WYSIWYG での編集に関しては、現時点では BlogWrite より上ではないですかね

 あと、カテゴリがゴチャゴチャしてきたので、ちょっと整理しようと思ったのですが、ひじょーにめんどくさい作業であることがわかりました。複数の記事のカテゴリを一括して変換できるようなアプリがあるといいんだけどなー、誰か作ってくれないかなー。(自分で作れってか(^^))

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出前情報

  柿家鮓一部店舗でお酒の配達を始めたようです。メニューは日本酒とビール。なかなか便利なサービスだと思います。

 あと、以前に、ピザハットピザーラケンタッキーなどは、インターネットからは注文できないと書きましたが、出前館というサイトを使うと可能であることがわかりました。

 ただ、理由はよくわかりませんが、宅配最低金額などの条件が、電話注文の場合と微妙に違うようです。平均すると、電話の方が安いようですが、インターネット割引のようなサービスをしている店もあります。

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新クール

 「爆笑問題のススメ」は、東京では金曜日に移動したんですね。一瞬、打ち切りかと思ってしまったよ(^^)。

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緊張感の効用

 asahi.com さんに「企業とは何か」という記事が出てて、株の持ち合い復活を正当化するようなことが書いてあるんだけど、これって違うと思うんですよねえ。

 前にも書いたけど、そもそも、会社を株主の「もの」ということにしたからといって、他のステークホルダーの利益が害されるとは限らないし、逆に、持ち合いを認めれば、ステークホルダーの利益が守られるという保証もなにもないと思うんですよ。

 だいたい、単に株主の力を弱め、他のステークホルダーの力を強めたいだけなんだったら、別に持ち合いを認めなくったって、法的な制限を加えるとか、他にいくらでも方法があるはずです。

 さらに言えば、この記事は、日本の株式市場は株価が低い -> 買収のリスクが大きい -> 企業防衛が必要、みたいなロジックになってるけど、逆だと思うんですよね。

 むしろ、買収のリスクがないからこそ、健全な株価形成がされにくくなっているんであって、割安になったらいつ買収があるかわからないとなったら、一般株主も簡単に株を手放せなくなるので、投機的な動きが減って、健全な株価形成が促進されると思うんです。そうなれば、買収のリスクは逆に減るはずなんですよね。

 しつこいようだけど、あんまり、誰の「もの」とかいう言葉にこだわらないで、いろんなステークホルダーの利益がバランスよく反映されるには、どういうシステムがよいか、というふうに考えた方がいいと思うんですけどねえ。

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岩井本への疑問・2

 岩井本に対するもう一つの疑問は、「企業文化」というものに対する考え方で、岩井氏は、まるで、企業はとにかく個性的であればあるほどよい、と言っているような感じがするんですね。

 たとえば、デルなんかがやっているオープン・アーキテクト化についても、「オープン・アーキテクト化は、他の会社との差異性を作り出すための単なる手段でしかない」とか言って、要するに、オープン・アーキテクト化をさまざまな差別化の手段の one of them としか見なしていないんですが、これはいくらなんでもバランスを欠いた見方なんじゃないですかねえ。

 この論法って、ポモ全盛時代の文化相対主義とちょっと似てて、ありとあらゆる文化や個性を無条件で肯定するのがいいことだ、みたいな主張でしょう? でも、世の中には、無駄に個性的ということだってあるんであって、どんな個性も、なんらかの普遍性に裏打ちされていなければ価値はないはずなんですよ。文化だって、ある程度多人数の集団が、ある程度の長期にわたって共有しているからこそ、なんらかの普遍性があるはずだ、と言えるわけで、なんの普遍性もない単なる差異に価値があるわけではありません。

 岩井本には、「利益は差異からしか生まれない」みたいなポモ的なスローガンが頻出するんだけど、本当にそうでしょうか? 著者がこの言葉をどの程度厳密に使っているかわかりませんが、仮に、まったく同一の条件でまったく同じ商品を作る生産者しか存在しない世界を想定したとしても、それで利益がゼロになるわけではないですよね。まあ、こういうのも、生産者と消費者の間の差異によって生み出された利益だ、とかなんとか言われちゃうのかもしれないけど(^^)、そんなのは屁理屈であって、企業文化の問題とは関係ないですよね。

 むしろ、「競争力は差異からしか生まれない」というのであれば、まだわかるんだけど、これにしたって、ひっくり返して「差異があるところに競争力あり」とは断じて言えなくて、実際には、その差異にどれだけ価値があるかが問われるわけじゃないですか。

 「組織特殊的な関係資産」の話にしても、「特殊的」であればあるほどいい、というわけではないでしょう? 組織の特殊な部分が競争力になるのは確かなんだけど、その特殊性にイノベーションとしての価値があればあるほど、他の企業にも速やかに取り入れられらていくので、やがて当たり前のことになっていったりするわけじゃないですか。

 つまり、個性と普遍性というのは、必ずしも完全に対立するものではなくて、長い目みれば、進化論的ダイナミズムの中で一つに収斂されていく可能性があるし、多様性と言っても、あくまで、そういう淘汰の中で構成される生態系の一部としての多様性なわけで、ニッチ企業だけで社会が成立するわけではないはずです。

(社会ダーヴィニズムとかと勘違いされないように言っておくと、必ずしも集団としてでなくて、個人レベルでも淘汰ってあるわけです。たとえば、個人のクセとか習慣だって、長い目で見れば、なんの意味もないものは淘汰されて、その人にとって意味のあるクセや習慣だけが残る、というような過程があるはずです。そういう過程を経て残ったものこそが、真の「個性」であって、まったくランダムなものは個性とすら呼べないわけです。)

 さらに、そういう組織特殊的な資産を特殊であり続けさせることが、社会全体の利益につなるがるか、という本質的な疑問を突きつけている人も最近ではいるわけですが、岩井本には、そういうマクロな視点もないわけで、そういう意味でも、「組織特殊的な関係資産」をそんなに無条件に賞賛するわけにはいかないと思います。

 まあ、いろいろ悪口を書きましたけど、労働集約的な産業の比率が高まると、資本の効率ばかりを最優先にできなくなる、という基本認識はさすがに正しいと思うんです。ただ、それを「法人実在説的な会社」の擁護に直結させるのはおかしいのではないか、というのが私の疑問です。

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お怒り

 日垣隆氏が「日本の、これから」の偏向ぶりにお怒りのようです。確かに、そういう見方もあるとは思いますが、ぼくはそもそもこの番組に説得力を感じなかったので、どうせたいした影響力はないだろうという気がして、別に怒りは感じなかったですね(^^)。

 むしろ、そういう説得力のない質の低い番組を、半強制的に徴収されている受信料で作られてしまった、っていうことの方が問題のような気がするんですが、考えてみると、説得力のある質の高い番組がそんなに偏向してることって、論理的にあり得ないので、同じことかもしれませんね(^^)。

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えぇー?

 昨日の手品師さんと占い師さんの対決って、いくらなんでもヒドくないですか? 演出だと言えばそれまでかもしれないけど、演出としても成立してないと思うし、優秀なテレビマンの方たちが、そのことに気づかないはずないと思うんですよね。でも、気づいているのにあえて放映した、とすれば、あまりにも視聴者をバカにした行為ではないでしょうか。

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やっぱりうらやましい

 「ほぼ日」の「今日のダーリン」で、なんか頭の悪いやつを励ましてくれるようなことを言っています。ぼくも、どうしようもなく頭が悪くて、とまで言うとウソになるかもしれませんが、友人で頭の回転の速い人と喋っていると、よく劣等感を感じます。

 そういうやつは、たいして本とか読まないくせに、こちらが何か言うと、すぐさま鋭いツッコミをしてくるので、ある意味シャクにさわるのですが、冷静に考えると的確な批評なので、結局言い返せなくて納得させられてしまうのです。

 でも、たしかに、そういうヤツって、あまり本も読まないし、読み始めても数ページぐらいですぐ「下らない」とか言ってやめてしまったりしますよね。たぶん、たいていの本は、読む前から内容がわかってしまうから読むまでもない、という感じなのでしょう。

 ぼくなんかは、むしろ、どんなに下らない本でも、最後まで読まないとその下さなさに気づかなかったりするし、いろいろ本を読んだり試行錯誤を繰り返したりしながら十年ぐらい延々考え続けないと、気の効いたこと一つ言えません。

 だから、結果としては、確かにこっちの方がいろんな本を読んだり経験を積んだりすることになるので、ウサギとカメみたいに長い目で見れば逆転していた、ということになればいいんだけど、あんまりそういう気もしないんだよね(^^)。こっちが十年かけて何か言っても、テキは、それはそうだね、とか言ってすぐ吸収しちゃうわけだしさ(^^)。

 まあ、そんなにシリアスに羨んでいるわけでもないんだけど、やっぱり向こうの方が得だと思うぞ(^^)。

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ビジネスとしての競争、スポーツとしての競争

 今日のサンプロの特集はまたプロ野球ネタでしたね。プロ野球の問題について一つ思うのは、ビジネスとしての競争と、スポーツとしての競争を分けて考えたほうがいいのではないか、ということです。

 もともと、スポーツというのは、さまざまな文化活動の中でも、かなり特殊なアクティビティで、本質的に、わざと制約をもうけて手足を縛ってする競争なんですね。

 そもそも、スポーツのルール自体がそういうもので、単に速く移動するとか物を遠くに投げるとかいう目的のためなら、他にもっと合理的な方法がたくさんあるところを、わざわざこういうフォームで投げなくてはならないとか、こういうボールとバットを使わなくてはいけないとか、いろんな制約条件をもうけて、条件付き最適化の競争をする。それがスポーツの面白さなんですね。

 だから、結局金のあるヤツが勝つとか、素質だけで決まってしまうとかいうふうになると、なんかシラケてしまい、文化としての価値が下がってしまうわけです。

 一方、ビジネスというのは、イノベーションという言葉が尊ばれることからもわかるように、むしろ、手段を選ばないところに本領があるアクティビティで、なるべく制約の少ない中で、より大きな収益を生み出す競争をすることにより、社会全体のパイを大きくするところに価値があるわけです。

 もう一つ、重要なことは、ビジネスにおける価値(収益)というのは、各プレイヤーが独立して生み出しているのに対して、スポーツにおける価値というのは、全プレイヤーが共同で生み出しているという点です。

 したがって、ビジネスにおいては、ある程度企業間の格差が生まれても、全体としての収益が増えていればよい(もちろん、福祉の問題とかなんとかは別ですよ、為念)という考え方もできるのに対し、スポーツにおいて、あまりチーム間やプレイヤー間に格差ができてしまうと、それだけで文化としての価値が下がってしまうという違いがあります。

 ところが、プロ野球には、スポーツとしての側面とビジネスとしての側面の両面があって、この両面に競争という言葉が現れるので、この二つの競争を、同じものとして捉えがちなのではないでしょうか。そこに、プロ野球問題を混乱させている一つの理由があるように感じるのです。

 つまり、ビジネスとして、できるだけ多く客を集めるとか、関連商品をたくさん売るとかの活動については、球団ごとの独立採算にして、より努力をした球団ほど収益が大きくなるようにする、ということは、球界全体のパイを大きくするためにも合理的だと思うんです。

 でも、そのビジネスとしての競争を、スポーツとしての競争にリンクさせて、ビジネスの競争に成功した球団ほど、チーム力強化につぎ込める金も多くなる、というふうにすることは、文化としてのプロ野球界全体の価値を高めるためには、必ずしも合理的ではないんですね。

 そうすると、一つ考えられるのは、興行収入については独立採算のままにするが、チーム力強化のために使える資金は、なるべくどのチームも差がないようにして、その金額は、プロ野球界全体の収益に連動させるようにするというような方法です。

 実際、アメリカの大リーグでは、それに近い制度になっているようですが、そのことの意味っていうのは、こういうことだと思うんですね。つまり、ビジネスとしての競争と、スポーツとしての競争は別なんだということ。

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参入防止価格

 昨日の「日本の、これから」でもやってましたが、タクシー業界に対する規制を緩和したら、過当競争になってタクシー業者が苦しんでいるという話がありますが、そもそも、そんなに旨みのない業界に、どうしてそんなにたくさんの業者が参入してくるのか、どうも納得がいかないんですよね。

 「ミクロ経済学 戦略的アプローチ」という、ゲーム理論をベースにしたユニークなミクロ経済学の入門書があるんですが、その冒頭に、これとよく似た話がでてきます。

 その話とは、町に 1 軒しかないパン屋が独占利益を享受していたところに、別のパン屋が参入してきて、仁義なき価格破壊競争に突入してしまう。その結果、低収益に苦しんだ 2 軒のパン屋は、お互いに話し合って、利益はぎりぎり出るが、参入するほどの旨みはないという価格(参入防止価格)にすることで手を打つことにした、という話。

 この参入防止価格というのは、利益が出ないほど安くはないが、寡占のカルテル価格よりはずっと安い価格になっている、というのがこの話のミソで、つまり、必ずしも実際に参入を許さなくても、規制緩和によって参入の可能性を作るだけで、コストダウンが実現されるということなんですね。

 だから、このタクシー業界の話でも、いったん参入してから撤退するとなると、初期投資とかが無駄になってしまうので、ぎりぎりまで頑張るんだろうけど、規制緩和される直前に、先手を打って値下げをしておけば、ある程度参入を防げたのではないか、という気がちょっとしないでもないんですね。

 まあ、自分で実態を真面目に調べたわけではなくて、ニュースなどで得た範囲の情報だけで言っているので、どこまで当っているかはまったく責任持てませんが、そういう印象を持った、というお話(^^)。

(そう言えば、某新聞で、ゲーム理論の紹介をするのに、いまどき「マクナマラの戦争」とかを引っ張り出してきたのにはちょっと驚きましたね。その後の発展まで含めて紹介するんならもかく、そこで止まってしまう認識は古過ぎやしないかい? (^^))

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出前と個人情報保護法

  個人情報保護法の施行でどんな影響があるのかと思ったら、とりあえず、出前をとるのが面倒になりましたね(^^)。これまでは、電話番号を言うだけで、データベースから住所を引っ張り出してくれたのですが、施行以後は、毎回住所を伝えなくてはならなくなったようです。これって、なんとかならないんですかねえ。

 たとえば、なんらかの暗誦コードを決めておいて、それを伝えれば本人確認ができるとかいうのではダメなんでしょうか。きっとそのうち誰かいい方法を考えてくれるとは思うのですが、けっこう面倒くさいぞ(^^)。

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編集合戦

 誰でも編集に参加できるユニークな百科事典 Wikipedia の「ライブドア」の項目が、案の定保護されてしまったようです。Wikipedia では、意見が分かれるような問題に関連する項目は、すぐ「編集合戦」になって保護されてしまうようで、「南京大虐殺論争」とか「慰安婦」とかの項目も、ずいぶん長いこと保護されたままです(^^)。

 ただ、保護されている項目の「ノート」とかを読んでみると結構面白くて、どこが論点になっているのかがわかって勉強にもなります。Wikipedia には、「中立的な観点」という方針があるのですが、これが、ギリギリのところで不毛な議論に拡散しないための、ある種の抑制装置として機能しているようなのです。

 初めてこの百科事典のしくみについて知ったときには、正直そんなんで本当にうまくいくのか、ちょっと懐疑的だったのですが、案外うまく設計されていなあと思い始めている今日この頃です。こういうものも、ある種「ジャーナリズムの未来像」の参考になるかもしれません。

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努力と成果の関係

 NHK の大型新番組「日本の、これから」というのを見てみましたが、正直、印象散漫という感じでしたねえ。一つのテーマを、ゲスト数名と会場に集まった一般客多数とで議論する、という形式なんですが、あまり成功していないと感じました。

 一つは、主観的な印象批評が多すぎて、客観的な統計データにもとづいた議論が少ないということ。今回の場合、VTR の中で、いろんな社会格差があることを示すデータが提示されるんだけど、その格差がどのような要因にもとづいているか、という補助データが何もないので、それが単なる個人の問題なのか、制度的な問題なのかの区別もよくわからないわけですし、いろんな人の意見を聴いても、どれも単なる個人的な印象による仮説にしか聞こえないわけです。

 もう一つは、そもそも人数が多いのに、できるだけ多くの人に話を聴こうとするから、議論がちっとも深まっていかないということ。対立する立場の二人が議論を始めて、盛り上がりかけたかな~と思うと、すぐ他の人に話をふってしまうので、これじゃ議論が深まるわけないよ、という感じ。

 だから、結局、世の中いろんな意見の人がいるんだな~、程度のことしかわからなかったですね。番組の最後で、三宅アナが「結局まだ議論が整理されていないということですね」とか言っちゃったのにはウケてしまった(^^)。でも、このやり方では、最初からそうなるのは見えていたのでは? これだったら、しゃべり場方式のほうがまだいいような気がする(^^)。 

 ただ、議論の中で、「努力すれば必ず成功する」みたいなことを当然のように言う人が多いのは、ちょっと気になりましたね。だって、「機会の平等」だって限度あるし、それ以前に、人知ではどうしようもない運・不運というものは、歴然とあるわけですから、せいぜい言えるのは、努力する人のほうが努力しない人よりは成功する確率が高い、という程度のことでしかないはずでしょ。

 もちろん、その相関関係を高めることによって、努力することに対するインセンティブを高めるのは正しいでしょう。でも、成功していない人がみんな努力していないかのように決め付けるのは、ちょ~っと傲慢でないかい。

 ぼくはだいたい、成功した人の語る成功の秘訣とか、長生きをした人の語る長生きの秘訣とかって、話半分ぐらいしか信用していないんですよね(^^)。それは、人間の間には才能みたいな生得的な差があるということだけでなく、所詮、一人の人間が体験できることには、サンプル数としての限度があるので、統計データとしての信頼性に限界があるからです。

 それが、一人でも何十回何百回と繰り返し試せるようなことならまだいいんですが、一生のうちに数回ぐらいしか試せないことについて、「こうやったらうまくいく」みたいなことを言われたって、それは本当は千回に一回しか成功しないようなことが、たまたま運良く数回目で成功しただけかもしれないんだもの。

 もちろん、自分の体験から普遍性のあるロジックを抽出して話してくれる人の場合には、参考になることもあるんだけど、単に自分がこれでうまくいったから、お前もうまくいくはずだ、みたいなことを言われても、ふざけんなって感じするんですけどね(^^)。そういう批評ってのは、少なくとも、親と子供とか、教師と生徒とか、相手の人生に直接的な責任を持つような関係にある人だけが言えることで、第三者が他人に向かって偉そうに言うことではないと思うんですけど。

 だから、ひょっとすると、こういう偉そうなことを平気で言う人が増えたことにより、必要以上にミジメな思いをさせられる人が増えたということの方が、実際の格差よりも問題なのかも、なんて思ってしまいました(^^)。

(あと、三宅アナが、ゲストの堀江さんがアンケートの設問に答えるたびに「やっぱり XX 番ですか」と言ったり、会社経営者の人に「フリーターの方」とか言ってしまったりして、先入観丸出しなのもちょっとどうかと思いましたね(^^)。)

(あと、堀江さんは、三宅さんにそうまで言われても、しつこく「やっぱり」な回答をし続けるところが憎めないかんじで、この辺が信者とまで言われるファンのいる理由なんだろうな、と思いました。つまり、狭い視野で見ると必ずしも得でない発言をするのが、広い視野で見ると意外と得になっている、という感じで、そういう意味では、小泉さんとかともちょっと似てると思います(^^)。これは、ある種現代的なカリスマの条件なのかも知れません(^^)。)

(あと、斉藤貴男さんは初めて拝見したのですが、逆の意味で傲慢だな~、と思いました。つまり、まるで、自分だけはマトモな人間としての良心があるが、他のゲストにはない、と決め付けているような態度なんですよね。そういうところが、ある種の XX 系文化人のいやらしいところで、ぼくは、権力と庶民が明確に分かれていた時代にはそれでもよかった思うんですが、今のような大衆社会では、そういう態度はもう時代遅れだと思うんですね。だから、必ずしも思想自体を否定するものではありませんが、そういう精神的態度だけはなんとかしてほしいと、せつに思う次第です。)

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ごめんなさい

 YMO のお三方が、わざわざドメインをとって何をするかと思ったら、いきなり「ごめんなさい」とは。でも、いかにも YMO らしいと思って苦笑してしまうファンは、私だけではないでしょうね、きっと(^^)。

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愛は勝つか?

 日経 BP に、ガ島通信の藤代裕之氏による連載が登場。LF 問題が「愛」と「金」の二元論化している、という切り口で攻めています。

 前にも言ったけど、「愛」とか「金」とか言う言葉は、ある種多義的で余計な含意がありすぎるので、もともと、冷静な議論には相応しくないと思うんですよね。それを、あえてそういう言葉を使うのは、ある種の「ワード・ポリティックス」でしかないと思うのです。

 愛というものが、そんなに無条件に正当化できるものではないのは、言うまでもないことでしょう。主観的には愛でも相手から見れば迷惑、という例は、ストーカーをはじめ数限りなくありますし、当事者同士は喜んでいても第三者から見れば迷惑、という例も、某国の某時代の「愛国心」とか、バブル以前のある種の企業の「愛社心」とか、バカっぷるの人目をはばからないイチャイチャぶりとか、それこそ枚挙にいとまがありません。

 そもそも、愛があればすべてが解決するのであれば、誰も苦労しないのであって、むしろ、愛あるがゆえに、人はときとして闘わねばならないんで、だからこそ人は悩むわけでしょ(なんか芸風とちゃうぞ(^^))。

 堀江氏にラジオに対する愛がないとか言うけど、ぼくなんかは、ないからいいんじゃないの? とか思ってしまうんですけどね(^^)。当事者というのは、どうしても愛とか情とかに流されがちなものなので、だからこそ、愛に溺れない現実的・客観的な立場からものを言う人が必要なんじゃないの?

 当事者がどんなにラジオをふかくふか~く愛していたとしても、社会全体からラジオ業界に割けるリソースというのは有限なわけで、その配分がどの程度がふさわしいか、というのを決めるのが、資本市場の役割の一つなわけですから、その判断がラジオが好きな人にとって心地よいものばかりであるはずがないのです。(そういう意味では、「本当の愛」とか、堀江氏の「みんながハッピー」というのも、ある種の「ワードポリティックス」だと思いますけどね。)

 だいたい、「愛」とか言い出すと、結局、既得権のあるもの勝ちになっちゃうんですよ(だから、保守派と言われがちなフジサンケイグループ側がこれを主張するのは、ある種納得できるところもある)。だって、何が「本当の愛」かなんて、客観的に判定する方法なんてないんですから。俺はこれを愛しているんだから奪うな、って言えばなんでも通っちゃうってことでしょ。

 ぼくには逆に、「愛」がある人たちが、なんで俺たちは「愛」があるんだぞ、ってイバってばかりいるのかがよくわからないんですけどね。自分の「愛」を社会に認めてもらうのにだって、誠意と努力が必要なんじゃないかと思うんですけど。

 もちろん逆に、改革派を気取る人たちにも、改革と言うのはある種残酷なものなのだ、という意識を持ってほしいですね。自分のやっていることは、本当に人の「愛」を奪ってまでやる価値のあることなのかと。まあ、こういう言い方もある種偽善的なので、あまり好きではないんですが。

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ラジオを毎週聴いていた頃

 最近、いろんな人がラジオへの「愛」を語っているので思い出したのですが(^^)、ぼくにも、十代のころ、数年間にわたって、毎週聞き続けていたラジオ番組がありました。それは、教授(坂本龍一さん)が DJ をやっていた、NHK FM のサウンドストリート、通称「サンスト」という番組です。

 正直、この番組から受けた影響は絶大で、音楽的な影響はもちろん、教授の少し斜に構えたモノの見方から、ボソボソっとしたハニカミがちな喋り方まで、いまだに影響が残っています。

 この番組で教授がかけていた、現代音楽とか前衛音楽とかは、正直なにがいいのかさっぱりわからなくて聴いていたものもあったのですが、今頃になってその良さがわかるようになってきました。これも、あの頃わからないなりに無理して聴き続けていたおかげだろうと思います。

 そういう影響を受けた人は少なくないらしく、Tei Towa さんとか槙原敬之さんとかもこの番組を聴いていたようだし、「坂本龍一のサウンドストリート全リスト」というウェブサイトまで作ってしまった人がいます。このサイトを見つけたときは、本当に青春が蘇ったような気がして涙が出そうになりました(^^)。

 考えてみると、教授本人も気づかないところで、たくさんの人が教授のミームを受け継いでいるわけですから、ある種、人間存在の不思議さを感じますね。

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内と外の境界線

 ぼくが、ニッポン放送とかフジテレビの関係者の方々を見ていて、どーしても感覚的に違和感を感じてしまうのは、彼らの内と外との線引きの仕方なんですよね。つまり、社内と社外、グループ内とグループ外、業界内と業界外、などの線引き意識が強すぎるように感じるんです。

 もっとも、ぼくはサラリーマンのころから、最終的な目的は、社会に貢献することであって、そのためにたまたま特定の会社に所属しているにすぎない、みたいな意識でいましたし、けじめがいい加減といわれる XX 型でもありますので(^^)、これはぼくの方が特殊なのかもしれませんが。

 でも、会社内にいたって、何もわかってない上司が配属されてきたり、本当に愛情込めてやっていた仕事を打ち切られたりすることはあるわけでしょう? それが、会社の上司とか経営者の命令だと納得できて、株主だと納得できないということに、それほど合理的な理由があるのでしょうか。 ぼくには、それはある種の文化の問題のようにしか思えないのですが。そして、そういう文化が、本当に今後の社会にふさわしいものであるかを、疑問に感じています。

 もちろん、本当に堀江氏が無能であるとか、間違った経営をしているということに対して具体的に批判するというのはわかるのです。それは、相手が上司だろうが経営者だろうが株主だろうが、おおいにやればいいと思うんですよ。でも、それ以前に、単に身内でないから、という理由で拒否反応を示している例が多すぎるような気がするんですよね。

 あえて極論を言えば、仮に堀江氏に経営を任せてみて、もし本当に彼が無能だったら、ニッポン放送の株価は暴落するはずですから、そこでフジテレビがあらためて TOB を仕掛ける、ということだってできるはずですし(そうすれば、今回の TOB 価格より安く子会社化することができるかもしれない)、そこでもし堀江氏が往生際悪く抵抗したなら、そのころにはいい加減ライブドアの株価も下がっているはずですから、ライブドア本体に TOB を仕掛けて、堀江氏を経営陣から追い出すことだってできるでしょう(^^)。(そこまで余裕が持てないのは、逆にフジ側が堀江氏の手腕を怖れている証拠ではないか、と勘ぐりたくもなります。)

 抵抗している方々には、いったい誰のために抵抗しているのか、というはっきりした意識があるんでしょうかねえ。それが、単に「身内」のためでしかなく、そのためには社会や第三者に損害を与えてもよい、というような意識であるなら、第三者の共感を得られなくても仕方ないと思うんですけどね。

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