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多義性と文脈

 前に、戦後民主主義の人権とか個人尊重という概念は、あくまで制度と個人との関係において使うべきもので、個人がどう生きるべきか、ということとは別だ、みたいなことを書いたことがありますが、「会社は誰のものか論争」についても、それと同じようなことを感じますね。

 もともと、多くの言葉には多義性があり、解釈する方が文脈によって正しい意味を選択する必要があります。それが「所有」とか「…のもの」とかになると、日常用語としても使われる言葉なので、ついそういうある種象徴的な解釈をしがちなんだろうとは思いますが、たとえば、「おまえは俺の女」みたいな演歌の歌詞があったとしても、それが法律的な所有権という意味だとは誰も思わないですよね。

(余談ですが、IT 用語にも、日常用語から転用されたものが多いので、誤読をさけるために、あえてカタカナで訳すことがあります。たとえば、オブジェクト指向の object を「もの」とか訳したら、なにがなんだかわからなくなる怖れがありますよね(^^)。IT 関係の翻訳にカタカナが多いのは、そういう理由もあるのです(^^)。)

 株主資本主義者が、「会社は株主のものだ」というときの「ものだ」にだって、株主が会社に対してある種の権利を持つ、という以上の意味はないんですよね。しかも、その「ある種の権利」にしたって、他の物質的なものに対する権利と同じである必要もないし、さらに言えば、すべての会社について同じである必要もありません。

 現に、会社の形態としては、有限会社のように株式を発行しない形態もあれば、株式を発行しても公開しない形態、公開しても上場しない形態など、さまざまな形態が可能であり、株主がもつ権利だって、それぞれ違っているわけです。

 さらに言えば、「権利」という言葉には、権利を与えられる人だけが一方的に得するようなイメージを持つ人もいるかも知れませんが、これも現実の半面でしかありません。たとえば、奴隷解放で奴隷に人権を与えたのは、奴隷だけのためだったのか? 女性に男性と平等な権利を与えたのは、女性だけのためだったのか? などと考えれば、すぐわかることです。

 だから、「会社は誰のものか」という問題は、上場している会社については、株主にどのような権利を与えれば、社会全体がハッピーになるか、というだけの問題なんで、わざわざ多義的に解釈しても議論を混乱させるだけだと思うんですね。

 むしろ、言葉の多義性っていうのは、このように、同じ文脈に違う解釈を持ち込んで話を混乱させるのではなく、文脈自体を多様化するという方向に活用すべきなんで、たとえば、法律的には会社は株主のものかも知れないけど、現実的にしきっているのは俺だ、と思う経営者や社員がいたっていいわけだし、いや、実際に支えているのは商品を買っている私たちでしょう、と思う消費者がいたっていいわけで、そういうふうに多義的に物事を解釈すれば、社会的な秩序を維持しつつ、精神世界を豊かにすることもできるだろうと思うのです。

(たしか、「星の王子様」に、星は自分のものだと思って一生懸命数えている人とか出てきましたけど、ああいうのだって、現実に所有権を行使しようとすればいろいろ問題があるでしょうが、そう思っているだけなら、別になんの害もないわけですし、逆に、主人公みたいに、星が自分に微笑みかけている、と思うのももちろん自由なわけです(^^)。)

 だいたい、若い人っていうのは、ものごとを教条的・理念的に考えがちなもので、子供に「信号無視しちゃだめだよ」って言われたりするのは珍しいことじゃないと思うんですよね。そこで、「お前は人の気持ちがわからない」みたいにムキになって言い返すのが、本当にオトナの態度なんでしょうかねえ。ぼくにはあんまりそうは思えないんですけどね。

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