質より量
ブログ論というのは、たしかに旬のネタだとは思うのですが、まだまだシステム的にも改善の余地があるので、今ひとつ論じずらいところがありますね。
ただ、少なくとも、ブログの個々のエントリーの質にこだわる種類の議論は、なんか違うような気がしてます。前にも書いたような気がしますが、インターネット上の情報全般の特徴として、質より量ということがあって、ブログはその最たるものだと思うんですよね。
どんな文化運動でも、多くの人が参加すれば、相対的に質の高い少数と、平均的な質の大多数とに、必然的に分かれるわけですが、その上澄みの部分だけ掬い取って使うような使い方は、ブログ本来の長所を生かした使い方ではないと思うんです。むしろ、真ん中のドロドロした部分からも、蒸留の仕方しだいで、ガソリンがとれたり灯油がとれたりナフサがとれたりする、ということの方が重要なのではないでしょうか。
そういう意味で、ブログの上澄みの質ばかりにこだわる議論と言うのは、カラオケの意義を、アイドル歌手の歌がうまくなったことだけに求めるようなもので、そんなのはサイド・エフェクトに過ぎないわけですから、本当にカラオケの文化的な意義を問おうとすれば、会社内や家庭内のコミニュケーションに与えた影響などを総合的に論じなければ意味がないわけです。ブログもそれと同じことだと思うのですね。
ブログ自体を営利目的で使っている人や、営利でなくても人生においてかなり中心的なアクティビティとして位置付けている人は別ですが、大多数の人にとっては、ブログの利点は、空いた時間にいーかげんに書けることであり、そのようにいーかげんに書いたものが、ネットワークの中でそれなりに有効利用されることだと思うのです。
だからこそ、今まで酒場の馬鹿話のネタにしかならず、一瞬で消えてしまったような、トリビアな知識、断片的なアイデアなどまでが、社会的な共有資産としてネットワークの中に蓄積できるようになるわけで、これは、ある種世界中の人がブレーンストーミングをやっているようなものだと思うのですね。
だから、ブログ論というのは、基本的に、ブログのそういう collective brain としての機能を高めつつ暴走させないためには、どのようなシステムが必要か、という方向性で考えるべきじゃないかと思うんですけどね。
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