ご都合主義的伝統
自民党の憲法改正案に「日本の歴史や伝統の明確化」を盛り込もうという話になっているらしいのですが、この「伝統」という言葉はどうも曲者で、かなりご都合主義的な使い方をされる傾向があるようです。
たとえば、欧米の制度を取り入れるかどうかを検討する際に、それは日本の伝統に合わない、と言って反対する人は、伝統というものを、完全に理性的にはコントロールできない、暗黙知的なものとして捉えているわけで
伝統 > 制度
という立場に立っているわけですよね。
逆に、憲法で伝統を明確化しようという人は、伝統は制度によって理性的にコントロールしうると考えているわけで、
伝統 < 制度
という立場に立っているはずです。
ところが、いわゆる保守派伝統主義者の中には、この両方の主張を同時にしている人が少なくないようです。
もうちょっと用語法を整理して、仮に、社会に昔から受け継がれてきた知の中で、理性では完全に制御できない暗黙知的な部分を伝統と呼ぶことにしたとすると、もちろん、実際には伝統に合った制度を設計するというのは大事なことだし、逆に、制度によって伝統が影響を受けるということもあります。
しかし、制度が伝統の内容自体を直接規定するというのは自己矛盾であって、制度に規定された伝統というのは、もはや、ここで定義したような意味での伝統ではなく、純然たる制度にすぎなくなっているわけです。したがって、その採用の是非には、あくまでも制度的な検討が必要なはずです。
もちろん、大雑把に伝統と呼ばれているものの中には、そういう暗黙知的なものだけではなく、理性的に分析可能な部分もあるはずなので、そういうものを制度に組み入れようとするのは必ずしも間違いではありません。ただし、それは、あくまで合理的に優劣を(伝統との適合性を含めて)検討した上で取り込む、というのでなければ意味がないのであって、伝統という言葉を、そういう検討をしないでごまかすための思考停止の道具として使うのはいかがなものかと思います。
たとえば、「和をもって尊しとなす」は日本の伝統だから、争わなくても問題を解決できるような制度を作ろう、というのは論理としてもおかしくないのだけれど、日本人は「和をもって尊しとなす」と思わなくてはならない、なぜならそれは日本の伝統だからだ、というのは論理が転倒していて、伝統を守ることだけが自己目的化しているわけです。
もっとも、伝統主義者の本音は、無理矢理
伝統 = 制度
にしてしまうことによって、理性的な制度によらず、無意識的な慣習だけに従って暮らす社会に回帰させてしまうことなのかもしれません。まあ、そんなことがいまさら可能だとも思えないので、そのプランにはなおさらのれませんが(^^)。
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