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岩井本への疑問・1

 ぼくが、岩井本でいちばん納得がいかなかったのは、株主資本主義的(岩井さんの言葉で言えば、法人名目説的)な会社だと、「ホールドアップ問題」が発生するという話なんだけど、立花氏の記事を読めばわかるように、実際には、そんなことしても、株主は損するだけなんですよね。

 というのは、最近の DCF 法(ディスカウント・キャッシュフロー法)のような企業価値の評価法では、現時点での資産額ではなく、将来のキャッシュフロー(の予測)から企業価値を評価しているからです。そして、メディアに限らず、労働集約的な産業において、キャッシュフローを生み出しているのは、資産よりも人材なわけですから、その評価の中には、当然「組織特殊的な人的資産」の評価も含まれているはずなんですよね。

 そのことは岩井氏もわかっているはずで、現に、岩井本の中には、マイクロソフトの時価総額は、物的資産の総額の何倍もある、という話がでてくるわけです。だとすれば、マイクロソフトのような企業を時価でのっとって、ホールドアップで従業員を追い出したとしたって、(そこに「組織特殊的な人的資産」の蓄積があるなら)買収側が得するわけがないのです。

 したがって、買収者が合理的に行動するなら、本当に「組織特殊的な人的資産」を十分に蓄積しているような組織には、それ以上に生産性を向上させる選択肢がない限り、手をつけないはずで、むしろ、「法人名目説的な会社」の方が、「組織特殊的な人的資産」を正当に評価する可能性が高い、とさえ言えると思うのです。

 「法人実在説的な会社」の方が、ある意味、「ホールドアップ問題」が起きやすいともいえます。というのは、「法人実在説的な会社」では、「組織特殊的な人的資産」を毀損することが、必ずしも経営者の不利益に直結するとは限らないので、「組織特殊的な人的資産」を正当に評価するインセンティブが少なくて、評価までが「組織特殊的」になってしまう可能性があるからです。現実に、従業員が搾取されて企業だけが肥大化したりとか、一部の経営者だけが得をしたりという例は、腐るほどあるわけです。そして、岩井本の中には、それを防ぐための制度的提案は何もないのです。

 したがって、これはどーみても、「法人実在説的な会社」を擁護する理由にはなってないと思うんですけどねえ(^^)。違うかなあ。

(岩井さんの本って、柄谷さんとかとちょっと似てて、必ずしも論旨が明瞭ではないので、批判しずらいんですよね~(^^)。下手に批判すると、私はそんなことを書いたつもりはない、とか言われそうで(^^)。まあ、わざとやっているとは言わないけど(^^)、もともと矛盾したこと書いてると思うんですよね。)

(ただし、このことがニッポン放送という特定の企業についてあてはまるか、という点については、必ずしも立花氏と意を同じくしていません。また、それが必ずしも敵対的買収を否定する根拠にもならない、ということも、注意深く読んでくれた人にはわかると思いますが、いずれ補足する機会もあるかもしれません。)

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代表作

 ついに、Yomiuri On-Line にまで、「失踪日記」の記事が(^^)。

 ただ、この「吾妻ひでおはついに『不条理日記』を超えた!」という大げさなアオリには、小うるさいファンとしてはちょっと異を唱えたいです(^^)。

 そもそも、「不条理日記」とジャンルが違うし、確かに星雲賞(これってネビュラ賞の直訳なんだろうね(^^))はとったけど、「不条理日記」が不条理ものとしても必ずしもベストとも思いません。

 やはり、ファンとしては、「ローリング・アンビバレンツ・ホールド」あたりを読まずして吾妻氏を語るな、ぐらいのことは言っておきましょう(^^)。

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正反対

 立花隆氏の「メディア・ソシオ・ポリティクス」の第6回がアップされてましたが、今回はちょっと面白かったです。というのは、立花氏は、ある意味、岩井理論と正反対のことを書いているからです。ぼくは、その点に関しては立花氏の認識の方が正しいと思います(^^)。

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砂糖の世界史

 歴史の本と言うのは、わりと受身で読めるので、最近、頭が疲れているときには、歴史の本を読むようにしているのですが、その中でも、この「砂糖の世界史」というのは、かなり面白かったです。

 要するに、砂糖を狂言回しにして語られた世界史(ウォーラーステインの世界システム論なんかが下敷きにあるらしいのですが、その辺の関係については正直よくわからない)、と言ってしまえばそれまでなのですが、ぼくみたいな無知な人間から見ると、興味深い指摘がたくさんありました。

 たとえば、そもそもサトウキビという植物の性質が奴隷制を生んだんだとか、淹れるのが難しいコーヒーと家庭でも淹れられる紅茶の違いがイギリスとフランスの文化の違いを生んだんだとか、産業革命が紅茶を中心としたイギリスの食事を生んだんだとか。

 白眉は、第8章の「奴隷と砂糖をめぐる政治」というくだりですが、これ以上ネタばらしをしては著者に申し訳ないので、興味のある人は買って読んでみて下さい。

 ちなみに、この本は、岩波ジュニア新書という子供向けのシリーズの一冊です。学問と言うのは、常に進歩を続けているので、いつのまにか学説がひっくりかえっていたり、昔よりわかりやすい説明の仕方が考え出されていたりすることがありますが、そういうニュースと言うのは、自分の専門分野についてはフォローできても、子供の頃習って当たり前のように思っていることについては、なかなか再点検する機会がありません。そういう意味で、子供向けの本を読むと、けっこう意外な発見があることが多いと思います。

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分化の効用

 企業価値というのは、株主価値とイコールではないのではないか、という議論がありましたが、これについても、ぼくはあんまりややこしく考えるべきではないのではないかと思っています。

 そもそも、なぜ複雑なシステムをサブシステムに分けて考えるかと言えば、変数が減るとか、いろんな意味でシステムが単純になるので、最適化とかがしやすくなるからなんですよね。

 だから、資本の効率は資本市場で評価し、商品の価値は商品市場で評価し、労働者に対する待遇は労働市場で評価する、という形にすっきり分化させて、なおかつシステム全体がうまく動くのが理想だと思うのです。言い換えれば、株主に貢献している企業は、必ず、消費者にも労働者にも貢献しているはずだ、と言えるようなシステムを作るのが本筋だと思うんですよね。

 もちろん、これはある種の理想論で、実際には市場の失敗とかがあって、そんなにうまくはいかないから、運営する人がいろいろと配慮する必要はあるんだけど、少なくとも、システムを設計する側では、それを目指すべきだと思うんです。

 モラルとルールという観点で考えても、社会が複雑になればなるほど、本当の意味で何が正しいかを判断するのは難しくなりますが、単にルールを決めてそれに従わせるだけならわりと簡単なわけです。したがって、実際にはモラルがまったく不要になるということはありえないんだけれど、にもかかわらず、システム設計側の目標としては、あまりモラルに頼らず、ルールだけで運営できるようなシステムを目指すべきだと思うんですね。

 かつては、資本家が労働者を「搾取」したり、企業が消費者を犠牲にしたりというような現象が当たり前のように起こっていたので、そのようなシステムが本当に(近似的にも)成立するのかと疑う人が少なくないのも、わからないではないのですが、現在の市民社会の成熟度とか、社会科学の水準とかを考えれば、決して非現実的な目標ではないと思うんですね。

 余談ですが、前に紹介した、山崎正和さんの「柔らかい個人主義の誕生」のすごいところは、単に生産と消費は実は同じようなものだ、というような価値相対化をするだけにとどまらず、本来同じようなものが、なぜ二つに分化したのか、という理由までが射程に入っているところです。だからこそ、生産と消費のバランスのとれた社会とは何か、ということが、単なる懐古趣味にならずに議論できるわけです。

 この、変化と見えるものを分化とみなす、という発想法は、山崎さんの癖みたいで、他にもいろんなところに出てくるので、そう思って読み直してみると面白いかもしれません。

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多義性と文脈

 前に、戦後民主主義の人権とか個人尊重という概念は、あくまで制度と個人との関係において使うべきもので、個人がどう生きるべきか、ということとは別だ、みたいなことを書いたことがありますが、「会社は誰のものか論争」についても、それと同じようなことを感じますね。

 もともと、多くの言葉には多義性があり、解釈する方が文脈によって正しい意味を選択する必要があります。それが「所有」とか「…のもの」とかになると、日常用語としても使われる言葉なので、ついそういうある種象徴的な解釈をしがちなんだろうとは思いますが、たとえば、「おまえは俺の女」みたいな演歌の歌詞があったとしても、それが法律的な所有権という意味だとは誰も思わないですよね。

(余談ですが、IT 用語にも、日常用語から転用されたものが多いので、誤読をさけるために、あえてカタカナで訳すことがあります。たとえば、オブジェクト指向の object を「もの」とか訳したら、なにがなんだかわからなくなる怖れがありますよね(^^)。IT 関係の翻訳にカタカナが多いのは、そういう理由もあるのです(^^)。)

 株主資本主義者が、「会社は株主のものだ」というときの「ものだ」にだって、株主が会社に対してある種の権利を持つ、という以上の意味はないんですよね。しかも、その「ある種の権利」にしたって、他の物質的なものに対する権利と同じである必要もないし、さらに言えば、すべての会社について同じである必要もありません。

 現に、会社の形態としては、有限会社のように株式を発行しない形態もあれば、株式を発行しても公開しない形態、公開しても上場しない形態など、さまざまな形態が可能であり、株主がもつ権利だって、それぞれ違っているわけです。

 さらに言えば、「権利」という言葉には、権利を与えられる人だけが一方的に得するようなイメージを持つ人もいるかも知れませんが、これも現実の半面でしかありません。たとえば、奴隷解放で奴隷に人権を与えたのは、奴隷だけのためだったのか? 女性に男性と平等な権利を与えたのは、女性だけのためだったのか? などと考えれば、すぐわかることです。

 だから、「会社は誰のものか」という問題は、上場している会社については、株主にどのような権利を与えれば、社会全体がハッピーになるか、というだけの問題なんで、わざわざ多義的に解釈しても議論を混乱させるだけだと思うんですね。

 むしろ、言葉の多義性っていうのは、このように、同じ文脈に違う解釈を持ち込んで話を混乱させるのではなく、文脈自体を多様化するという方向に活用すべきなんで、たとえば、法律的には会社は株主のものかも知れないけど、現実的にしきっているのは俺だ、と思う経営者や社員がいたっていいわけだし、いや、実際に支えているのは商品を買っている私たちでしょう、と思う消費者がいたっていいわけで、そういうふうに多義的に物事を解釈すれば、社会的な秩序を維持しつつ、精神世界を豊かにすることもできるだろうと思うのです。

(たしか、「星の王子様」に、星は自分のものだと思って一生懸命数えている人とか出てきましたけど、ああいうのだって、現実に所有権を行使しようとすればいろいろ問題があるでしょうが、そう思っているだけなら、別になんの害もないわけですし、逆に、主人公みたいに、星が自分に微笑みかけている、と思うのももちろん自由なわけです(^^)。)

 だいたい、若い人っていうのは、ものごとを教条的・理念的に考えがちなもので、子供に「信号無視しちゃだめだよ」って言われたりするのは珍しいことじゃないと思うんですよね。そこで、「お前は人の気持ちがわからない」みたいにムキになって言い返すのが、本当にオトナの態度なんでしょうかねえ。ぼくにはあんまりそうは思えないんですけどね。

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The Economist にホリエモン登場

 いつのまにか、The Economistホリエモンが写真入ででかでかと登場していたんですね。さわりの部分だけ訳すと、こんな感じかなあ。

 (経済産業省の) 役人たちは、改革者の旗を振っているが、味方からの誤爆を浴びせられる中で、せっかくの進展をだいなしにしてしまう危険がある。というのは、経産省は、企業買収の規制に「ライツ・プラン」、すなわち、ポイズンピルを導入しようとしているからだ。

(中略)

 ポイズンピルの導入により、経営者たちは、買収騒動の中でも、あらゆるオファーを冷静に比較検討することができ、その結果、最も買収価格の高い買収者を惹きつけることにより、株主に貢献することができる、と経産省の役人たちは主張する。

 しかし、この主張はインチキだ。確かに、株主にやさしいと言われる米英でさえ、経営者が変化に対する障壁を張り巡らせて、経営権市場を機能不全にしてしまうこともできるが、それが明らかに株主に損害を与えた事例も少なくないないのである。このような規制が投資家の利益になるかどうかは、少なくとも議論の余地があると思うが、仮に、総合的に見れば利益になるとしても、それは、米英には、長年の間に確立された、株主の利益を守るための法律や制度があるからなのだ。たとえば、米英の取締役会には、株主に対する明確な信認義務 (fiduciary duty) がある。

 日本にはそういう法律や制度がなく、それが根付くまでには、時間と絶え間ない圧力が必要だ。つまり、経産省の提案は、アングロサクソン型の企業統治の悪いところばかりをマネようとしているようなものなのだ。日本の経営者は、この悪いところはすぐとり入れるだろうが、良いところの方を取り入れるまでには、地道で時間のかかる努力が必要だ。

 この信認義務というのは、確か、岩井本でも強調していたところですから、読み直してみるのも面白いかも。

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土足

 たとえ話というのは、諸刃の剣で、確かに、複雑な事象をわかりやすく説明するのにも役立つんだけど、その分、細部の厳密さはどうしても失われるので、誤解のもとにもなります。また、最近は、そういうミスリーディングを意図的にやろうとする、ある種頭のいい人も多いですよね。

 「他人の家に土足で」という例えにしても、そもそも誰の家なのか、という認識自体が、株主資本主義派と法人(従業員)資本主義派とでは違っているわけですから、その点についての議論をさけて通っていながら、こういうたとえ話を出してくるのはかなり「ずるい」やり方だと思います。

 そもそも、株主資本主義派から見れば、前の家主が寛容で、鍵をかけずに近所の子供とかに勝手に使わせていた家を買い取って、鍵をかけようとしたら、勝手に鍵をかけるなって怒られた、みたいな状況なんですから。そういう立場からすれば、勝手に土足で入っているのはそっちだろ、とも言えるわけですからね。

 もちろん、今までずっとうまくやってきたわけだし、よその家だってみんなそうしてるし、みたいな主張がありえることはわかりますよ。でも、そういう主張だって、株主資本主義派から見れば、「赤信号、みんなでわたれば怖くない」みたいな主張にしか思えない、ということもわかってほしいですね。

 また、実際には株主資本主義と法人資本主義のどちらが正しいか、ということについて議論があるのもわかります。でも、少なくとも、その対立をこの新しい家主さんだけが引き受けるのはおかしな話で、本来なら、金融ビックバンや会社法の「現代化」を進めた人たちが引き受けるべきことのはずですからね。

 さらに言えば、やっぱり法人資本主義が正しいのだ、と主張する人は、奥村さんなんかがさんざん指摘している法人資本主義の弊害と言われるものをどうやったら防げるのか、ということにも解答を示さねばならないはずですよ。

 この家主が、本来なら容赦なく鍵をかければすむだけのところを、子供の気持ちを配慮して、「おねがいだから協力してくれないか」みたいなことを言ったら、逆に態度が豹変した、みたいに非難されたりするのをみてると、なんかかわいそうになってきますね。株主からお金をあずかっていながら、意思決定の場からは特定の株主を排除しようと画策することだって、十分「ずるい」と言えるんですからね。

 だから、あんまりそういう感情論にばかり走らないで、もっと本質的な議論をしてほしいですね。

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評価に迷う2人

 吾妻さんの「失踪日記」に収録されている対談の中で、「アンガールズが好きだ」とおっしゃっていたのがちょっとひっかかっています。

 というのは、ぼくも、なぜかアンガールズが気になって気になって仕方がなかったからです。でも、なぜ気になるのか、自分でもうまく説明できないんですよね。

 ちょっと検索してみたら、天然系だという評価が多いみたいだけど、つまらないネタをえんえんやるのが逆におかしかったり、ボケがつまらなくてつっこみの方がギャグになっていたりするのは、案外計算してやってるんじゃないか、という気もちょっとするのです。

 ただ、「こいつらは天才だ!」と言って積極的に押すところまで、まだ自分の評価に自信が持てなくて(^^)。お笑いファンのみなさまはどう思いますか(^^)。

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ニュースバリュー

 なんか、キルギスタンで革命だかクーデターだか(どっち?)が起きているようですが、意外と報道の量が少ないですねえ。アメリカがパキスタンに F-16 の供給を再開したとかいうのも、見ようによってはかなり怖いニュースではないかと思うのですが、みんなホリエモンにふっとばされてしまったか(^^)。

 そういえば、NHK vs 朝日のバトルも、いつの間にかすっかり忘れ去られていますが、それでいいんでしょうかねえ。だって、誰かが確実にウソをついてるってことでしょう? それが誰かをはっきりさせないで、メディアの信頼性とか公共性とか、維持できると思ってるのかなあ。

 もともと NHK が政治に弱いという話はよく言われていたことで、私のような世間知らずの人間ですらきいたことがあるぐらいなのだから、マスコミ関係者の間では、それこそ暗黙の了解とか公然の秘密とかいうたぐいのことだったんじゃないですか。でも、今までは、確実な証拠がないから攻め込めなかったわけでしょう。それを攻め始めた以上は、最後まで詰めきれなかったら意味がないと思うんですよね。今さら、そういう構造が問題だ、みたいな構造論に逃げても、そんなのは前からわかっていたことなんですから。違うかなあ。

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XXX の権利

 南アフリカ共和国で、囚人に性行為をする権利を与えるかどうか、真面目な議論になっているそうです。

 どういうことかというと、つまり、刑務所内の治安が悪くて、レイプとかがしょっちゅうおこるので、それだったら、合法的な性行為を認めたほうが、レイプも減るし、エイズとかの予防にもなる、というお話らしいです(^^)。でも、反対する方は、それじゃ罰にならんだろう、と言ってるらしい。そりゃそーだよね(^^)。

 でも、それって「ショーシャンクの空に」なんかよりもっとひどい状態だってことで、よく考えると、笑いごとじゃないよね。

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よい敵対、わるい友好

 ニッポン放送問題についてのいろんな人の意見を見ていると、「敵対的」という言葉に対する反応が、世代によって大きく違うような気がしますね。そういう意味では、ぼくは両者の中間的な世代で、どちらの気持ちもある程度わかるような気がするので、ちょっと書いてみましょう。

 結論から言うと、最終的には、敵対的が正しいか友好的が正しいかというのは、一律には決めるのではなく、どちらが世の中全体を幸せにする(言い換えれば、社会的厚生を向上させる)かで決めるべきだと思うのです。

 日本語の「敵対」ということばには、ネガティブなコノテーションがあるので、そこで感情的に反発する人もいるんだと思うんですが、実際には、「敵対的」であることが、社会をよくすることもあるし、「友好的」であることが、社会を悪くすることもある。

 たとえば、市場におけるフェアな競争というのは、基本的には、敵対的であるがゆえに、社会全体の厚生の向上に結びつくと言われているし、スポーツの試合なんかだって、本気で戦ってくれなきゃつまらない。逆に、株の持ち合い、談合、カルテル、コネ、八百長などは、みんな、一部の人たちが友好的であることが、社会全体の不利益に結びついているわけです。

 あるいは、他にもっと安くて質のよいサービスを提供してくれる人がいるにもかかわらず、友人だからといって優先的に仕事を回したりするみたいなことも、美談みたいに言われがちですが、これだって、社会全体の生産性からみればマイナスなんですよね。もちろん、気心が知れているから、能力だけ見れば劣っていても、総合的に見ればむしろ効率がいい(一種の「取引費用」の問題)、みたいな場合はまた別ですが。

 あるいは、「話し合いで決める」というのも、言葉だけ聞くといいことのように聞こえがちですが、現実社会では、一見話し合いという形はとっているけれども、実は、当事者同士の力関係で決まっている、みたいなことが結構多くないですか? 「君がそうしたいんだったら、好きにすればいいんじゃないですか。こちらには強制する権利はないし。にこっ」みたいなやつね(^^)。

 そう考えると、明示的に対価を提示して、これだけ払うから協力してくれませんか、みたいな方が、そういう暗黙の権力みたいなものが生まれないし、よりよい条件に最適化される機会も多いし、むしろフェアだとも言えるわけです。もちろん、敵対的は敵対的なんだから、当事者同士に仲良くしろと言ってもしょうがないのですが、第三者までが当事者的な視点で判断する必要はないと思うのですね。

 ただ、ここで問題なのは、どのようなシステムが「社会的な厚生の向上」に結びつくかというのは、実際にはそう簡単には決められない、ということなんです。そうすると、前にも書いた絶対的な正義か合意の正義かという話になって、民主主義的な方法論で行くなら、どのシステムがより「社会的な厚生の向上」に結びつくかという合意を事前に形成し、社会的な意思決定する必要があります。

 この意思決定は、法律のレベルでやるのは簡単なのですが、実際には、どのような社会システムも、個人がそれに適応的な倫理観を持って協力的に行動しないと機能しないわけですから、制度と個々人の倫理観との間には、常にギャップが生じることは避けられません。(ほんとは、法律を決めた時点で、その理念的な意味とか、その制度に適応的な倫理観とはどんなものか、というのをもっと広めるべきだったとは思うんですけどね(^^)。)

 上に上げた「害のある友好」の例だって、今でこそ多くの人がその害を認めるようになっていますが、かつてはそれほど悪いことと思われていなかったわけで、上の世代の人には、そういう行動様式が倫理として身体に染み付いているのかもしれません。逆に、今の社会科学の水準だと、そういう行動様式の弊害が、ある程度理論的に分析できてしまうのですが、若い世代はそういうものを学校で習っているし、宮台真司さんも言うように、今の若い子は、感覚的にも流動性の高い人間関係に慣れているので、「敵対的」であることを上の世代ほどには倫理的な悪だととは感じていないのかもしれません。

 そうなると、これは単にどちらがよりよいシステムか、ということを超えた、倫理観同士の対立になってしまうわけです。もちろん、こういう対立は、その倫理観が前提とするシステムのどちらが優れているかを、理性的に分析することによって解消すべきだとは思うんだけど、それでみんなが納得するなら、そもそも合意の正義か絶対的な正義かなんて悩む必要もないわけですから、最終的には、実際にやってみて、どちらがより世の中をよくするかで決めるしかないところもあると思うんですね。

 そういう意味で、新撰組みたいな人たちが、自分の信念に殉じるのだって、必ずしも悪いことだとは言えなくて、一生懸命説得してもしょうがない、という現実も厳然としてあると思うのです。だから、世の中を変えようとする人たちは、そういう抵抗に正面からぶつかって、実際によりよい世の中を作って見せるしかない。それができないのだったら、しょせんはその程度の信念だったというしかないと思うのです。

(以前に、「歴史を動かすのは悪人だ」と書いたのは、そういう意味もあるんですが、やっぱり説明しずらかったなあ(^^)。) 

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あれれっ

 日経 BP に、あの立花隆氏が「メディア ソシオ-ポリティクス」という連載を開始したようで、いきなりライブドアねたをやっています。このネタもいい加減飽きてきたので、個人的にはもう書くのはやめようかと思っていたのですが、ちょっと気になるところがあるので、そこだけ指摘しておきます。

 第5回の中で、

一つは堀江社長に用立てた800億円の資金の金利(それがどのような約定になっているか確かなところはわからないが、相当な高金利と推定してまちがいないだろう)である。

書いてあるところですが、この MSCB は金利ゼロということはいろんな人が指摘していることで、EDINET にライブドアが提出した臨時報告書(トレイコード:00509SLP)にも、

(iv)  利率

本社債には利息を付さない。

と書いてあるはずなのですが、ここで立花氏が書いているのは、この「利率」のことではないのでしょうか。あるいは、ぼくの知らない新情報があるとか、公にはしていない裏の利率みたいなものがあるとかいうことなのか、よくわかりません。(間違ってたら教えてください(^^))

 さらに、リーマンは MSCB のカラ売りで絶対儲かる、という耳タコの話が書いてあるのですが、これがそう単純な話じゃない、というのは、このブログでも何度か指摘したので省略。

 しかし、立花氏ほどの人が、なんでこんな言い古された話を今頃出してきたのか、正直よくわかりませんね。

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あれっ

 Oracle が PeopleSoft に敵対的買収を仕掛けたのは、そんな前だったっけか。いや、そうじゃなくて、あれは失敗だったってことなんだろうな。専門家が言うんだから、間違いない(^^)。

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古館さんのトリビア

 みなさん、中尾彬さんが、古館伊知郎さんの事務所である古館プロジェクトに所属していることをご存知でしょうか。松尾貴史さんなんかは、なんとなく古館さんと共通項があるような気もするのですが、中尾さんと古館さんにはあまり共通項が感じられなかったので、これってトリビアになりませんかねえ、って友人に聞いたら、即座に却下されました。たしかに、小ネタすぎるかもね(^^)。

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ロングインタビュー

 ついに「丸激トークオンデマンド」に堀江さんご本人が登場。90分もしゃべっていました。たぶん、ぼくがこれまで見た堀江インタビューの中では、一番内容が濃かったと思います。

 このブログでも、(かなり遠まわしにではありましたが) ニッポン放送問題は何度かネタにしたんですが、実は、ぼくは堀江さんの本を読んだこともなけりゃ、まともなサーベイもしたことなくて、ほとんど想像だけで書いてたんですよね。だから、堀江さんをダシにして、自分の意見を書いてたようなところもあったんだけど、このインタビューを見たら、意外とポイントはずしてないじゃん、と思いました。なんて書くと自慢してるみたいだけど、単にほっとしただけです(^^)。

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筑紫さんのトリビア

 「トリビアの泉」に筑紫さんが出ていたので、ちょっと驚きました。やるじゃん、フジテレビ(^^)。

 ぼくが筑紫さんについて気になってしかたないのは、エンディングの決め台詞「それでは今日はこんなところです」もさることながら、インタビュー中などに使う、「それにしても」という接続詞の多さです。これは、いったん気になりだすと、耳について離れなくなって、「また『それにしても』かよ」「そこは別に『それにしても』じゃないだろう」とか思ってしまうのですが、これってトリビアになりませんかねえ(^^)。

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職業に貴賎はないって、教わらなかった?

 どうして、「M&A 業者」というのを、あからさまに蔑みの目で見る人が多いのか、今ひとつ理解できないんですけど、合理的な理由がないんだったら、これも一種の職業差別ですよねえ(^^)。

 前にも書いたけど、M&A って、社会的になんら価値を生み出さない虚業でもないし、ただ金さえあれば誰にでもできるような、濡れ手に粟の大儲けでもないですよ。市場が過小評価している企業の隠された価値を発見するとか、企業同士を組み合わせることによって新たな価値を生み出すとかするのだって、いろんな「技術」が必要だし、それは、基本的には社会全体を豊かにする行為でもあるのです。

 それでなかったら、金のある奴はみな M&A しまくってるはずですし、やった奴はみな成功して大儲けしてるはずですが、別にアメリカだってそんなことにはなってないですよね。資本があっても M&A をしない会社はいくらでもありますし、やって失敗する会社もたくさんある。

 かつてアメリカで M&A が流行ったのは、企業価値を評価する方法論が未発達で、市場で過小評価されている企業が多かったことや、独占に対する規制が甘かったので、買収により容易に独占利益が得られたりしたことが理由にあると言われています(ちなみに、コングロマリットというのは、水平統合でも垂直統合でもない、異業種同士が集まった企業集団を指す言葉で、トラストみたいな独占指向の企業集団とは区別して使われます。これも勘違いしている人がいるようですが)。

 でもそれは、他の商売だって同じ事であって、ダイエーの中内さんだって、松下幸之助さんだって、紀伊国屋文左衛門さんだって、みんな今から見れば当たり前みたいなことで大儲けしているわけで、そういう先駆者が大儲けするのを見て、みんながマネする。みんながマネすると、だんだんうまみがなくなって当たり前になる。という過程の繰り返しによって、ビジネスの世界は進歩してきたわけですから。

 それでも、こういう仕事に価値がないと言い張るのであれば、隠れた天然資源を発見するような仕事とか、骨董品の中から掘り出し物を見つけたり、中古品をリニューアルして売り出したりという仕事には、どうして価値があると言えるのか。あるいは、そういう人は、お百姓さんは自分でお米を育ててるから偉いけど、漁師さんは自分で勝手に育った魚をとってるだけだからダメだ、みたいなことを言うのか。そんなこと言うなら、お米だって、実際に育ててるのは太陽であって、お百姓さんは太陽さんが一生懸命育てたお米を横取りしているだけだ、みたいなことだって言えるじゃないか(^^)。

 もちろん、世の中には、何の価値も生み出さない M&A とか、かえって、世の中に害を与える M&A とかもあると思いますよ。でも、そんなのはどんな職業に対しても言えることなんだから、 M&A 業者という職業自体に対する評価とは分けて考えないとね(^^)。

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成果主義より能力主義では?

 「成果主義、労使とも9割が「問題」」という記事が asahi.com に出てるんですが、どうなんでしょうねえ。ぼくは、サラリーマンをやめて結構長いので、「成果主義」と呼ばれる制度が、現場で実際どのように運用されているのかもあまり知らないのですが、もし文字通り、成果をできるだけ収入に反映させる、という意味だったら、そんなのうまくいきっこねーだろう、と思うんですけどね(^^)。

 だって、人がなぜわざわざ会社なんていう組織に縛られようとするかと言ったら、かなりの部分がリスクヘッジのためでしょう。つまり、もともと能力と成果の間には、相関関係はあっても、決定論的な因果関係があるわけではないので、能力のある人はそれに見合った成果が得られる、というのは、平均値としては正しいとしても、常にそうなる保証はなくて、実際には、能力のある人だって失敗することはあるし、能力のない人がまぐれで成功することもあるわけでしょう。

 だから、自分が失敗しても、他の人が助けてくれたり、あるいは、直接的なフォローではないにしろ、別の場所で成功して全体の帳尻を合わせてくれたり、あるいは、全体が低調な時期にも、資本の力で持ちこたえたりというような、いろんな意味でのリスクヘッジ機能があるからこそ、会社に入る意味があるわけでしょう。

 それを、完全に成果連動にしてしまうんだったら、社員というより、単なる出入り業者の寄せ集めと変わらなくなってしまうわけだから、必ずしも、会社全体の利益を考えて行動するとは限らないし、ライバル同士が協力し合うという保証もなくなるのは、むしろ当たり前という気がするのですが。

 だから、会社の社員の評価としては、基本的には、成果主義より能力主義のほうが正しいような気がするんですけどね。つまり、たまたま今回は失敗したけれど、君はベストを尽くしたし、運も悪かったし、君だけのせいじゃない、というようなことまで見てもらえるんでなけりゃ、会社に入る意味なんてない(みんな自営業者になったほうがいい(^^))と思うんですけど。違うかなあ。

 もちろん、能力主義だって、あまり教条的に徹底したらおかしなことになるんで、要はバランスの問題でしょう。だいたい、最近の新制度学派みたいな人が書くインセンティブ設計の本とか読んだって、そんな「成果主義まんせー」みたいなことどこにも書いてないと思うんですけどね(^^)。いったいどーゆーことになっているのやら、よくわかりません(^^)。

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おーっと、実は楽天が!?

 「ライブドア騒動の陰で潜行するメディア進出、楽天がフジサンケイに接近」などという記事が、日経ビジネスに。

  • 楽天も放送メディアとの合併を考えていた
  • 楽天は村上ファンドからニッポン放送株のオファーを受けていた
  • 楽天はフジサンケイグループとの提携を図っていた
  • 楽天はニッポン放送のホワイトナイトになることを検討していた

などという、ちょっと耳寄りな情報が書かれておりますぞ(^^)。

 

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「失踪日記」入手!

 そうそう、吾妻さんの「失踪日記」、やっと手に入りました(^^)。

 たしかに、ホームレスの生活とか、アル中患者の生活とかを、こんな風に淡々と描いたマンガと言うのは、前代未聞なんでしょうねえ。また、だからこそ、社会の矛盾とかいうドキュメンタリー的な切り口からは絶対に見えてこない、人間性の側面を描き出すことにも成功していると思います。

 ただ、ぼくのような昔からの吾妻ファンにとっては、これは往年のあじま調そのものであって、むしろ、それが健在であることに感激したという感じですね。もともと、吾妻さんはエッセイマンガがうまいですし、びんぼーネタや奇人変人ネタは得意中の得意ですからね。だから、吾妻さんならこの程度のものは描けて不思議はまったくない、という感じがむしろしました。

 あと、ビッグマイナーと言われた時代のマンガ家生活の裏話も描いてあったのが、ファンにとっては掘り出し物でしたね。なんであんなに出来不出来があったのか、どの作品を本気で描いてて、どの作品を投げてたのか、よくわかりました(^^)。

 突然思い出したけど、ぼくは、並んだりするのが嫌いなので、サイン会とかほとんど行ったことがないのですが、紀伊国屋でやった吾妻さんのサイン会だけは行ったことがあるんですよね。

 サイン会慣れしてないものだから、隣のアドホックでわざわざ色紙を買って行ったら、色紙はダメですって言われて、でも好きな作品はすでにほとんど購入済みだったから(^^)、たいして好きでもない「格闘ファミリー」かなんかをその場で買って吾妻さんに渡したら、他の人はサインだけなのに、何も言わずにちょこちょこっとイラスト描いてくれたんですよね。

 意外とやさしい吾妻さん、ホントに復活おめでとうございます。

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質より量

 ブログ論というのは、たしかに旬のネタだとは思うのですが、まだまだシステム的にも改善の余地があるので、今ひとつ論じずらいところがありますね。

 ただ、少なくとも、ブログの個々のエントリーの質にこだわる種類の議論は、なんか違うような気がしてます。前にも書いたような気がしますが、インターネット上の情報全般の特徴として、質より量ということがあって、ブログはその最たるものだと思うんですよね。

 どんな文化運動でも、多くの人が参加すれば、相対的に質の高い少数と、平均的な質の大多数とに、必然的に分かれるわけですが、その上澄みの部分だけ掬い取って使うような使い方は、ブログ本来の長所を生かした使い方ではないと思うんです。むしろ、真ん中のドロドロした部分からも、蒸留の仕方しだいで、ガソリンがとれたり灯油がとれたりナフサがとれたりする、ということの方が重要なのではないでしょうか。

 そういう意味で、ブログの上澄みの質ばかりにこだわる議論と言うのは、カラオケの意義を、アイドル歌手の歌がうまくなったことだけに求めるようなもので、そんなのはサイド・エフェクトに過ぎないわけですから、本当にカラオケの文化的な意義を問おうとすれば、会社内や家庭内のコミニュケーションに与えた影響などを総合的に論じなければ意味がないわけです。ブログもそれと同じことだと思うのですね。

 ブログ自体を営利目的で使っている人や、営利でなくても人生においてかなり中心的なアクティビティとして位置付けている人は別ですが、大多数の人にとっては、ブログの利点は、空いた時間にいーかげんに書けることであり、そのようにいーかげんに書いたものが、ネットワークの中でそれなりに有効利用されることだと思うのです。

 だからこそ、今まで酒場の馬鹿話のネタにしかならず、一瞬で消えてしまったような、トリビアな知識、断片的なアイデアなどまでが、社会的な共有資産としてネットワークの中に蓄積できるようになるわけで、これは、ある種世界中の人がブレーンストーミングをやっているようなものだと思うのですね。

 だから、ブログ論というのは、基本的に、ブログのそういう collective brain としての機能を高めつつ暴走させないためには、どのようなシステムが必要か、という方向性で考えるべきじゃないかと思うんですけどね。

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西垣氏のホリエモン評

 ビデオニュース・ドットコムの「丸激・トークオンデマンド」で、情報学者の西垣通氏をゲストにライブドアとメディアの問題をやってました。

 ぼくは「デジタル・ナルシス」のころからの西垣ファンなので、西垣氏のホリエモン評を聞きたいだけのために、有料会員になって見てみましたが(^^)、さすがに面白かったです。500 円ぐらいの価値は十分あったと思いますね。宮台さんも、昔とくらべると、ずいぶん考え方が変わってきていて、それも面白かったです。

 「メディアの公共性」とかいう議論も、みんな最低限このぐらいのレベルでやってほしいなあ、と思うのは、ゼイタクでしょうか(^^)。

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高音質イヤホン

 ぼくは、Etymotic Reserch という会社で出している ER4 シリーズという、知る人ぞ知る高音質イヤホンを長年愛用していたのですが、寝床で音楽を聞きながら寝てしまったせいで、目覚めたときには、身体の下敷きになって壊れていました(^^)。しょうがないので、また注文しようと思っています。

 スピーカーやヘッドホンなどの出力機器を選ぶときには、低音がしっかりしているものを選べ、というのがぼくの持論です。最近のオーディオ機器は、高音域はみなよく出るのですが、低音域の場合、単に周波数特性とか数値的なスペックだけがよくても、実際に聴いてみると、やたらビリついていたり、音像がモワっとしていたりして、結構差があるんですよね。だから、バスドラなんかの音像がかっちりしていて、ペダルが風を切る音まで聞こえてきそうな製品は、総合的にみても、だいたいいい音がすると思っています。

 この Etymotic Reserch のイヤホンは、たいていの中級以下のヘッドホンより、はるかに低音がしっかりしているし、たいていの密閉式のヘッドホンより、外部の雑音の遮断もしっかりしています。唯一の不満は、デザインがしょぼくて、電車の中などで使うのは多少抵抗があること。

 この製品を始めて購入したときには、まだ日本では売っている店がなかったので、メーカーに国際電話を書けて、カード番号を口頭で伝えて注文した記憶があります。今は輸入している店もいくつかありますけどね。

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Simba

 「おしゃれ関係」に高嶋ちさ子さんが出ていました。いかにも末っ子的というか、なんというか、すごいプラス指向の人ですよね(^^)。

 高嶋さんが自分のテーマ曲だとどこかでおっしゃっていた「Simba」(スワヒリ語でライオンという意味) という曲があるんですが、確かに彼女のイメージにぴったりかも知れない、と改めて思いましたね(^^)。この曲は、大島ミチルさんが高嶋さんのために書いた曲らしいんですけど、草原の中でライオンがあくびしてる情景が浮かんでくるような曲で、大島さんの数多い曲の中でも大好きな曲です。

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法人資本主義論

 ニッポン放送問題について、岩井克人さんの法人資本主義論を論拠にした批判が、意外と見当たらないのがちょっと不思議ですよね。

 岩井さんの議論は、やれハゲタカがどうのアメリカニズムがどうのアングロサクソンがどうのというムード的 (あるいは、あえて文化相対主義的と言ってもいいですが) な批判よりは、ずっと論理的なので、その点では評価するのですが、でも、よくよく読むと、論理的におかしな点がいろいろあるような気がするんですよね。

 まあ、ぼくは素人なんで、ぼくのほうが勘違いしている可能性もおおありなんですけど(^^)、株主資本主義派の専門家の人は、あの「会社はこれからどうなるのか」についてどう思っているのでしょうねえ。一般向けなので無視しているのか、反論する価値もないと思っているのか、それとも、本当に反論できないのか、ちょっと興味あります(^^)。

 身の程知らずかも知れないけど、そのうち時間の余裕のあるときに、反論を書いてみようかなあ(^^)。

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無防備な批評家

 くらたまさんの話題作「だめんず・うぉ~か~」が電子書籍になったので、読んでみました。すでに、くらたま批判みたいなのをたくさん目にしていたせいか、かなり身構えながら読んでいたので、逆にわりと楽しんで読めましたね。

 良くも悪くも、作者の怨念が生で出ているのがこの作品の特徴で、週刊誌的な俗情を煽るには効果的なんだけど、作者自身を相対化するような視線には欠けていることは否めません。もちろん、そういう男運の悪さを普遍的な人間性や社会構造に対する考察に結びつけていれば、また別種の作品になったのでしょう。ただ、そういう作品を傑作にするには、かなり強靭な分析能力とか批判精神とかが必要なんで、この作者がそこまでできるかどうかは未知数ですからね。

 また、これはあくまで実話だと思って読んでいるからそこそこ読めるのであって、完全なフィクションだったらたいして面白くもないわけですが、まあ、そういう「だめんず・うぉーかー」みたいな人が存在する、ということを世間に知らしめるためのドキュメンタリーだと思えば、一応存在価値はあるんじゃないですかね。

 ただ、くらたまさん自身が自分の屈折に対してあまり意識的でないところが、他人からみればつっつきやすいところではあるんで、ぼくなんかも、だめんずよりも、むしろ、うぉーかーの人たちやくらたまさん自身の精神構造に興味を持ってしまいました(^^)。

 ただまあ、そのへんで似非精神分析みたいなことをして血祭りにあげるのも大人気ないというか、わりと、酒場の愚痴的にさらっと流しておけばいいレベルの作品ではないかと思いましたけどね(^^)。

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Advanced Search Sidebar

 Advanced Search Sidebar が、いつの間にか FireFox 1.0 でも使えるようになっていたので、1.0 にバージョンアップしました。これまで、このサイドバーを使うだけのために、アップグレードしないで、わざわざバージョン 0.8 のままで使っていたで、感激です。0.8 でもかなり軽いブラウザだと思ったのに、1.0 では、ウィンドウを開くのがさらに速くなっていますね。おかげで、仕事の効率も上がりそう。

 このサイドバーは、なぜか、Extensions のページには出てこないので、知らない人もいるかもしれませんが、これを使うと、FireFox でも本家 MozillaNetscape と同じような串刺し検索ができます。

 検索対象のサーチエンジンは、Mycroft プラグイン (Mac の Sherlock のフリーウェアバージョン。なぜ Mycroft かは、シャーロック・ホームズの小説を読んだことのある人ならわかるはず(^^)) を使えばいくらでも拡張可能です。このプラグインは、このページからダウンロードすることもできるし、自作するのも簡単です(このブログでも、私が自作したプラグインを何度か紹介しました)。

 ウェブの串刺し検索機能は、翻訳者を初めとして、調べものを頻繁にやる人には必須の機能だと思います。辞書サイトを検索するにしても、あっちを検索して見つからない、こっちを検索しても見つからない、などとやっていたら、日が暮れてしまいますからね(^^)。Copernic のような専用のアプリケーションもありますが、個人的には、このサイドバーの方が、拡張性と使い勝手とコストのバランスがよくてお勧めだと思います。

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人工無脳と英会話

 昨日の「報道ステーション」で、愛・地球博に使われている案内嬢ロボットが出てきましたが、喋り方が、なんだか、昔流行った「人工無脳」というおしゃべりプログラムみたいでしたね。

 「人工無脳」というのは、人工知能にひっかけた言葉で、実際には意味を理解していないにもかかわらず、なんだかそれっぽい会話ができるプログラムのことです。

 この「それっぽさ」を出すためにも、いろんなテクニックがあります。たとえば、相手が自分のデータベースに登録されていない言葉をしゃべったら、「XXX ってなんですか」と聞き返すとか、あるいは、と自分から話題を変えるとか。

 考えてみると、こういうテクニックって、英会話にも応用できると思うんですよね。ぼくも、会話はそれほど得意ではないので、あまり偉そうなこといえませんが、特に、質問をする能力というのは、会話にとっては重要だと思います。

 なぜかというと、英語の勉強を始めたばかりの人というのは、ネイティブの人に比べると、圧倒的に語彙が少ないわけですから、相手が自分の知っている単語だけで喋ってくれる確率って、すごく小さいんですよね。それなのに、1 個でも知らない単語が出てきたらお手上げになってしまうのでは、いつまでたっても満足に喋れないことになってしまいます。

 でも、日本人同士だと、大人と子供とか、語彙に差がある人の間でも、会話って成立してますよね。それはなぜなのか? それは、子供は、知らない言葉が出てきたら、「XXX って何?」と聞き返すことができるからです。

 したがって、この聞き返す能力と言うのは、英会話の初心者にとってもっとも重要なテクニックだと思うのですが、少なくともぼくの世代が受けた教育では、一度も教わったことがありません。これは非常におかしな話で、これでは実用的な会話能力が身につかないのも当然だと思ってしまうのです。

 まあ、時代も変わって、英語教育のカリキュラムもだいぶ進歩したようなので、今の子供はもっと実用的な英語教育を受けていると信じたいですけどね(^^)。

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年寄りのグチ

 ぼくが現在使っているパソコンには、デスクトップにもノートにも 512 MB のメモリが積んであるのですが、ちょっと足りない感じになってきて、やっぱり 1GB に拡張しなきゃダメだな、とか思っているのですが、一方で、そう思っている自分に驚いている自分がいます。

 ぼくがプログラムの仕事を始めた頃は、プログラムは 64 KB 以内のサイズで書かなくてはいけない、などと言われていたものです。64 MB ではありません。64 KB というのは、言うまでもなく、64 MB の 1000 分の 1 です。これは、当時主流だった、8086 という CPU のアーキテクチャでは、メモリを 64 KB のセグメント単位で管理していたことによる制限ですが、そもそも、当時は、物理メモリ自体が 256 KB とか 384 KB とかしか搭載されていないマシンも多かったのです。

 そのうちに、物理メモリが 1 MB ぐらい搭載されるようになると、今度は、640 KB の壁、などと言うことが言われました。これは、当時主流だった MS-DOS という OS が、アプリケーションに対して 640 KB までしかメモリを割り当ててくれなかったことによる制限です。

 この制限が、オーバーレイとか EMS とかいう技術を活用することによって突破されると、今度は、フロッピーの容量が 1MB しかないことが問題になったりしました。というのも、当時はまだ、ハードディスクが搭載されていないマシンも多かったので (CD-ROM ドライブなんぞはもちろんない (^^))、アプリケーションの実行ファイルが 1MB のフロッピーに入りきらないと、実行中にフロッピーを交換する必要がでてくるからです。(昔は、フロッピーだけでマシンをブートしたりできたのよ(^^)。)

 ぼくが仕事場で初めて使わせてもらったハードディスクの容量は、たしか 10 MB ぐらいだったのですが、それでも当時は、「10 MB ももらっても、いったい何に使えばいいんだろう」などと思ったものですが、今や、物理メモリですら 10 MB よりはるかに多い時代になっているのですから、驚いたものです。

 そんなわけで、当時は、メモリやクロック数を少しでも節約することばかり考えてプログラムをしていたわけですが、当時覚えたテクニックは、今やほとんど役に立たないというか、むしろ、コードが読みにくくなるのでやらないほうがいいテクニックになっていたりします。そういう意味では、かなり無駄なことばっかり覚えていたわけで、今の若いプログラマーがうらやましく思うこともあります(^^)。

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Clicks & Cuts

 マニアの方から見ればいまごろという感じでしょうが、Mille Plateaux (ドゥルーズ=ガダリの「千のプラトー」からとったそうな(^^)) というレーベルで出してる「Clicks & Cuts」というコンピのシリーズにはまっています。全編クリックノイズやグリッチノイズのオンパレードというエレクトロニカですが、気持ちよくてたまらないです。

 なんでこんな雑音が気持ちいいのか、自分でもよくわからないです。ひょっとしたら、人間としてちょっと壊れかけてきているのかも、なんて思うことも(^^)。

 川又千秋さんの SF 大賞受賞作で、アンドレ・ブルトンかなんかの詩を読んだ人が、みな異世界(比喩的な意味ではなく、ホントの異世界)にトリップしてしまうという「幻詩狩り」という小説があるんですが、あんなふうになったらどうしよう、なんて思ってちょっと怖くなったりして(^^)。

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文体と内容の釣り合い

 ぼくは、正直言って、新聞記者の方の書くコラムみたいなものが、あまり好きではありません。

 同じ記者の方の書く文章でも、綿密な取材に基づく、事実に立脚した記事は面白いのです。また、学者の方の書く、論理構成をきちんと考えた論文も面白い。また、作家の方の書く、人間の感情の機微を的確にとらえたエッセイもまた面白い。

 でも、新聞記者の方の書くコラムには、残念ながら、単なる主観で、論理構成もいい加減で、しかも芸もない、というような、この三者の悪いところだけを集めたような文章が多いと思うのです。

 ただ、そういう文章を書く人は、決して新聞記者だけではなくて、もっと部数の少ない雑誌とかにもいます。それなのに、なぜ新聞記者の文章だけがこんなに気に触るのだろう、と考えていて、一つ気づいたことがあります。それは文体です。

 つまり、新聞記者の方は、一人称のない文体を使う人が多いのです。おそらく、普通の記事を書くときに身についた癖なのでしょうけど、自分の主張を書くときですら、三人称を主語にして「…と思われる」「…であろう」という受身でしめる、というような文体を使うので、なんだか、誰が見ても否定できない普遍性のある真理だけを書いているような印象を与えるのです。おそらく、それが、内容の軽さと釣り合ってないのですね。

 たぶん、同じ内容でも、一人称の主語にして、「私は…思う」「私は…感じる」というような文体にすれば、かなり好感度は違うと思うのです。もちろん、その分文章の格調は低くなりますが、それは、もともと内容が軽いのだから仕方がないのであって、内容が軽いのに文体だけ格好つけようとするから、よけい気に触るのだと思うのですが、いかがでしょう(^^)。

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今日のおかず

 またもオイシックスさんの「サーモンのわら焼きたたき」。

 その名のとおり、鮭のたたきなんですが、マグロのトロなみに脂がのっていてクセもなく、美味しいです。

 ただ、ウチみたいにあんまり研いでない包丁だと、焦げ目の部分は切ってるうちに崩れてしまいます(^^)。

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Each blog is like a neuron in the collective brain

 今日は、ブログというのは、collective brain のようなものではないか、というようないーかげんな思いつきを書こうとしたら、すでに書いてる人がいて、あまり付け加えることもないので、引用するだけにします(^^)。あのクルーグマン先生も、ブログからヒントを得たりしてるらしいですね(^^)。

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腰痛の方へ

 腰痛が出たときにいつも使っているのが、このキネシオテープキネシオ KT-050 50mm幅 

私も、腰痛持ちのご多分にもれず、いろいろ試しましたが、これはホントに効きます。

テープは、筋肉と同じ伸縮率を持つという柔軟性のあるテープで、貼ると、疲労や痛みで身体をうまく支えられなくなっている筋肉の代わりに身体を支えてくれるような感じがします。

 とりあえず、座っているだけでつらいという状態だけは、すぐ解消されるので、忙しくて寝てられないときにはホントに助かります。

アーロンチェアBサイズ・ランバーサポート【カーボン・フル装備・グラファイト色】★送料込み【... 決してサクラではありませんので、腰痛の人は、だまされたと思って一度お試しください。

 ちなみに、仕事場の椅子はもう何年も前からアーロンチェアです。これに慣れると、普通のオフィスチェアでは耐えられなくなります。とくに、座る面がリクライニングするのが、こんなに具合がよいとは、使ってみるまでわからなかったですね。

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曖昧な用語によるすれ違い論争

 日枝氏と堀江氏の「テレビがインターネットを飲み込む」いや「インターネットがテレビを飲み込む」という論争?も、彼らが「テレビ」や「インターネット」という用語でいったい何をいわんとしているのか、いまいちはっきりしないですよね。

 ぼくの勝手な想像だと、日枝氏は、「テレビ」=「テレビ番組」、「インターネット」=「ホームページ」というふうに、コンテンツのカテゴリで考えているのではないでしょうか。一方、堀江氏の方は、「インターネット」=「TCP/IP」、「テレビ」=「地上波」という、メディアあるいは通信方式のカテゴリで考えているような気がします。

 だとすれば、どっちが正しいなどと争うことには意味がなく、ある意味どっちも正しいですよね。コンテンツの面では、インターネットにおいても、現在の HTML というテキストや静止画中心のものから、より動画を駆使したものに発展していくだろうし、通信方式の面では、地上波においてもデジタル化や IP 化が進行していくでしょう。

 「テレビ番組」を放送できるのは地上波だけではないし、インターネットで提供できるコンテンツは「ホームページ」だけではない、という当たり前の認識があれば、こんなのはそもそも議論にすらならないはずですが、お二人ともどこまで計算して発言しているのか、ある意味興味深いです。わざとわかりやすい対立軸を作っているような気がしないでもないのですが(^^)。

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マスメディアが地上波である必然性は?

 マスメディアがなくなるかなくならないかと言えば、ぼくもなくならないに決まっていると思うのですが(^^)、ぼくが最も疑問なのは、それが現在の(アナログ)地上波である必然性があるのか、ということなんですよね。

 つまり、アナログ地上波という放送方法が、本質的にインターネット放送より低コストの放送方法であるならば、アナログ地上波だけがマスメディアとして扱われてもおかしくないと思うのです。けれども、(きちんと計算したことがないので断言はできませんが) IP マルチキャストとかだったら、インフラさえ普及すれば、地上波放送より低コストで送信できるん可能性もあるんじゃないでしょうか。(VOD とかは、もともとアナログ地上波では不可能なので、比較しても仕方がない)。そしてもし、コストや利便性の面で対等以上であれば、別に地上波以外のメディアがマスメディアになってもいいはずだと思うんですよね。

 現在の地上波の一番の問題点は、双方向性とかなんとかいう以前に、チャンネルの割り当てが固定で、新規参入ができないというところにあると思うのです。したがって、活字メディアなどでは、単に読者が多いものがマスメディアになるだけで、何がマスメディアかは情報の受信側が決めているのですが、映像メディアでは、それを送信側が決めています。また、メディアとコンテンツの力関係でも、基本的にメディアの方が強くなるし、メディアの方がある種の寡占利益を得ることになってしまいます。

 これまでは、こういう制約は、技術的制約によるものなので、仕方のないことでした。だから、放送法や電波法によって公共性・公益性を担保するしかなかったのでしょう。しかし、IP 技術の利用により、その技術的制約をなくせるのだとしたら、ここで、より自由なメディアのあり方というのを考え直してもよいはずです。だから、なにも地上波という手段を否定しているわけでもなくて、地上波のまま IP 化するという手だってあるでしょう。

 もちろん、インターネット放送が普及した後も、純粋に企業努力によって、地上波放送局がマスメディアの地位を守り続ける、という可能性も十分ありますし、何も放送局に恨みがあるわけではないのですから(^^)、それはいっこうにかまいません。ただ、ほっておいてもよいコンテンツが集まってくる現在の状況に比べれば、優秀なコンテンツ製作者をつなぎとめるにも努力が必要になってくるでしょうし、広告代理店との関係も変わってくるでしょう。もちろん、それが本来の対等な競争ということなのですが。

 重要なのは、マスメディアだからみんなが見る、という関係を、みんなが見るものがマスメディアなんだ、という関係に変えていくことだと思うのです。それにより、マスメディア自体も低コスト化するだろうし、マスメディア以外のミディアムメディアやオタクメディアも豊かになり、みんながよりハッピーになる (^^) のではないでしょうか。そして、その手段として最もふさわしいのがインターネットなのではないかと思うんですが、いかがでしょう。

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弱り目にたたり目

 久しぶりに腰痛が出てしまいました。かなり前から腰痛持ちではあったのですが、ここ数年はわりと調子がよくなっていたので、油断していい加減な姿勢で長時間仕事をしていたのがいけなかったのかもしれません。

 おまけに、仮眠している間に停電があったらしく、いろんな機器のデータがリセットされていました。やっぱ、UPS ぐらい買っとかないといけないですね。

 だいたい、忙しいときに限ってこういうことになるんですよね~。これも普段の心がけが悪いからですね。反省します(^^)。

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「沈黙の艦隊」電子書籍化

 かわぐちかいじ氏の傑作マンガ「沈黙の艦隊」がついに電子書籍化されたようです。

 マンガというのは、字だけの本より場所をとるので、あまり長期間保存しておけず、読んだらすぐ処分してしまうことが多いので、それだけに、電子書籍化はありがたいです。

 売るほうの立場からしても、展示スペースをとらない分、どの商品を入荷すれば最も利益率が高いかみたいなことをあまり気にしなくてよいという利点もあるんじゃないですかね。リアルの店で、こんなに昔の本ばかり置いたら、その分、現在の売れ線の本を置くスペースがなくなって、売り上げに影響するでしょうからねえ。

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Front Line の記録

 迷ったけど、結局買ってしまいました、「イエローマジック歌謡曲」。YMO の 3 人が作曲、編曲、プロデュースなどに関わった歌謡曲を集めた CD です。

 これを聴いてあらためて思うのは、今のなんでもありみたいな歌謡曲というのは、この 3 人 (もちろん、彼らだけではないが) が中心となって持ち込んだいろんな手法を引き継いで成立している、ということですよね。だから、ある意味、「イエローマジック歌謡曲」の精神をもっともよく受け継いでいるのは、つんくさんでありハロプロだと思うのです。

 そういう意味では、最初からハロプロの作るものが「歌謡曲」だと思っている世代から見ると、この CD に収録されているような曲を聴いても、なんとなくテンポの悪い下手糞な歌謡曲にしか聞こえないかも知れないですね。もちろん、ハロプロの方が時代が後だから、ある面ではずっと洗練されているところもあるし、カラオケが普及したおかげで、少なくとも歌だけは今のアイドルのほうがずっとうまいですからね(今聞くと、この時代のアイドルの歌の下手なことには逆に驚かされる)。

 でも、当時の歌謡曲はもうちょっと保守的で、わりと決まりきったスタイルがあったので、リアルタイムで聴いていた者にとっては、こういう曲たちは、みんな、歌謡曲としては「ちょっと変な曲」ばかりだったんですよね。ただ、それはやはり当時の歌謡曲を基準として聞いていたから感動した面もあったようで、今聴いても意外と感動しないです(そのへんは、ヒッチコックを今見ても、なんとかサスペンス劇場みたいなのと大差ないように見えるのと同じようなものかもしれません(^^))。もちろん、彼らがあえて歌謡曲というフィールドに実験的な曲を提供して、少しずつリスナーの耳を慣らしていった結果として現在のなんでもあり状態があるわけなので、そういう一種の歴史的資料としての価値はあるかな、と思いますが。

 もちろん、「春咲小紅」「玉姫様」「リセエンヌ」「NEO PLANT」(私は「都会の生活」バージョンの方が好きだが) など、今聞いても色あせない名曲もたくさん収録されていますが、この辺の曲は、そもそも歌謡曲ではない上に、他にまったく音源がないというわけではないので、マニアの人はすでになんらかの形で入手済みだと思うんですよね。それ以外の曲は、さすがに純粋に曲を楽しむという姿勢で聴いていてもつらいものが多いです。

 資料的価値と、アルバムとしての完成度と、どっちをとるかは、セールス的には微妙なところだとは思いますが、やっぱり素直に、「天国のキッス」と「ガラスの林檎」は入れといたほうがよかったのではないですかねえ(^^)。

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鶏と卵

 「放送の未来像:ライブドア・堀江社長から挑戦状…、融合は進むのか?」という毎日インタラクティブの記事は、放送と通信の融合の問題について、要領よくまとめたいい記事だと思います。

(なんで Asahi.com にはこういう切り口からの記事があんまりないんでしょうねえ。本誌の方には出てるのかな?)

 ただ、この高コストの問題は、鶏と卵のようなもので、高コストだから普及しないという面と、普及しないから高コストになるという両面があるはずですよね。

 もちろん、そういうリスクがあるのに、現在成立しているビジネスモデルを、わざわざ自ら崩していくようなことをしたくない、という放送局側の判断もよくわかるんです。

 だからぼくは、インターネットテレビが普及するにつれて、徐々に視聴率が取れる番組が少なくなってきて、それまでのビジネスモデルが成立しなくなり、仕方なくコンテンツ製作者中心のビジネスモデルに移行していく、という形になるのかなあ、と想像していました。

 でも、堀江さんは、どうせいつかそういう時代が来るのなら、それを時代に半歩先んじてやれば、先駆者利益が得られるはずだ、という発想ですよね。

 結局こういうのは、早すぎてもダメだし、遅すぎてもダメ。タイミングの問題だと思うんですよね。そういう意味では、どっちが正しいとは簡単には決められないとは思います。

 ただ、フジテレビなどの対応を見ていると、どーしても組織防衛・既得権維持が先にたっているように見えるのが気になるところですね。本当に時期が来たらやるべきことをやるのか。系列維持を目的とした締め付けを行ったりして抵抗しないのか、という点に注目していきたいと思います。

付記:

 あと、放送局主導でやると、衛星放送や地上波デジタルと同じように、インターネット放送も囲いこまれてしまうんじゃないか、という心配もありますね。たとえば、メーカーと組んで、特定の放送局にしか接続できないようなセットトップボックスを作り、それ経由でないとデコードできないようなストリームばっかり流すとか。こういう、オープンエンドでない閉じたネットワークは、たとえ回線はインターネットのものを使っていたとしても、インターネットとは名ばかりのものになってしまい、インターネットのよさは死んでしまいます。そんなものなら、やらないほうがましです。i-mode でも、当初はそういうことが試みられたが、松永さんらの努力により、現在のように勝手サイトにも接続できるシステムになった、という話は有名です。

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なぜにアナキン?

 前から気になっていたのですが、河野アナの愛猫は、なんでアナキン・スカイウォーカーなんでしょうねえ。だって、アナキンとか可愛らしい名前してるけど、実はダースベーダーなんでしょ? 将来は、す~~~は~~~とか言いながら人を殺しまくって、最終的には銀河皇帝にビビビビってやられて殺されちゃうんですよ。本当にそれでいいんですか? などと嫉妬丸出しの本音はおくびにも出さず、いいご趣味ですね~、などと平気で書いてしまう私です。オトナってつらいな~(^^)。

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マジぃ?

 昨日の「オオカミ少年」でやってた、メガネのつるが箸になるという、"Sushi Specs"、ほんとにあったのね(^^)。いやー、ビデオに出てきた ic! Berlin 社の社長の小芝居がわざとらしいとは思ったんだけどさ~、あまりにウソ臭いのでだまされてしまいました。連中は、耳にかけていたものでモノ食べることを、不潔だとは思わないんでしょうかね~。(ま、実はぼくもわりと平気なのだが(^^))。

 ぼくはこの番組わりとよく当るのですが、昨日は全滅でした。その前の「犬のソムリエ」という奴も、いったい何の役に立つのかさっぱりわからなかったのでウソだと思ったのですが、別に、ソムリエと呼ばれているからと言って、それを職業にしているわけではなく、単なる変人らしいです。まあ、そうだよな~、ウソだったら、逆にビデオにもっと説得力持たすよな~、と一瞬思ったんですけどどね。まあでも、完敗です(^^)。

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「失踪日記」が読みたいっ!

 ネットというのは、とーとつに何かがブレークしていたりするので驚くのですが、Amazon.co.jp をのぞいたら、吾妻ひでおさんの「失踪日記 」がいきなり売り上げベストテンに入っていました。

 私は、何を隠そう、子供のころはかなりのアズマニアだったのですが(ある意味、オタクのはしりだったのだと思いますが、最近はすっかりマンガにも SF にもご無沙汰しています(^^))、吾妻氏が書かなくなってから、こんな生活をしていたことも、その後みごとに復活したことも、まったく知りませんでした。

 しかも、これが老大家の手すさびという感じではなく、かなり傑作らしいのです。あの吾妻ファンをもって任じるとりみき氏が言うのですから、結構信憑性高いのでしょう。

 これは自分の十代を清算する意味でも読まねば、と思うのですが、Amazon も bk1 もみんな品切れ。いったいどーなってんの? 全盛期ですら、こんなに売れたことないんじゃ(^^)?

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よくとる出前

 買い置きがなくなって、買い物に行く時間も惜しいときには、出前ばかりで暮らすことになります。よく使うお店は、こんな感じ。

すかいらーくやガスト風の洋食メニュー。ばーみやんの中華もある。最低 1500 円から。インターネットからの注文も可。

ピザ。ミルフィーユピザとか、こってり系が多い。最低 1500 円から。インターネットからの注文も可。

ピザがメインだけど、パスタとかが結構おいしい。最低 1500 円から。電話のみ。

お寿司。ちらし系のメニューが豊富。茶碗蒸しも結構美味しい。最低 1500 円から。電話のみ。

もちろんフライドチキンである。最低 1500 円から。電話のみ。

カレー。カレーとしてはめちゃめちゃうまいというわけではないが、辛さや具を自由に選べるところがよい。他の店のように、宅配最低額の制限がなく、200 円宅配料を出せば値段を問わず配達してくれるところもよい。電話のみ。

 最近のお気に入りは CoCo壱ですね。一時は態度が悪くてムカつくことも多かったのですが、最近はどこも礼儀正しくなりました。やはり、ああいうのはいつまでも続かない、ということでしょうね。蕎麦とかラーメンとかをとらないのは、単にチラシが来ないから(^^)。

 

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堀江式ジャーナリズム論再び

 「ニュース23」で筑紫・堀江対談をやっていました。後半の方しか見てないけど、この2人のジャーナリズムに対する認識のずれが、ちょっとわかってきたような気がしました。

 ぼくは、堀江氏が「無色透明なジャーナリズム」という言葉を使ったので、そんなのありえねえだろう、と思ったのですが、彼が本当に考えているのは、むしろ、「無色透明のメディア」なのではないでしょうか。

 つまり、筑紫さんとかがイメージしてるのは、あくまで、チャンネル数は有限で、各放送局に報道部みたいなのがあって、そこが情報を選別して送る、というイメージですよね。このイメージだと、メディアとジャーナリズム(=情報を選別する主体)が一体化しているので、メディア論とジャーナリズム論がいっしょになってしまうわけです。

 もちろん、こういうモデルだと、ユーザーは自分でニュースを選択することができないので、送信者側の方に、ある程度バランスのいいメニューを作って情報を送信する責任が出てきます。

 ところが、堀江氏はたぶん、そもそもメディア=ジャーナリズムだとは思っていないのです。だから、自由なジャーナリズムを媒介する無色透明なメディア、という絵が描ける。もちろん、従来型のテレビでは、こんなことは不可能で、これはあくまで、送信チャンネルの制限がなく、双方向性を持つインターネットを前提にしてのみ可能なモデルです。

 このモデルでは、ジャーナリストはみな自由に情報を編集して発信でき、メディアがそれに制限を加えることはありません。そして、ユーザーは常にオンデマンドで情報を取得するから、一次情報源に直接接続することもできれば、固有のエディターシップを持った特定のジャーナリストに接続することも可能なわけです。さらに、対話性を生かすと、ユーザーの批評に基づいてニュースを選別したり、ユーザー自身がニュースを発信したりということまで可能になっていきます。

 堀江氏が地上波テレビに求めているのは、あくまで、こういう世界への入口だけであって、詳しくしりたい人はインターネットにアクセスしてください、みたいにして最終的にはインターネットに誘導するのが目的なのでしょう。これこそが、地上波の免許を既得権だと思い、コンテンツを出し惜しみしている従来のテレビ局が絶対にやりたがらないことであり、堀江氏が「強引な手段」をとらざるおえなかった理由なのではないでしょうか。

 もちろん、これはあくまで私の想像ですから、それが当っているかどうかは、みなさんのご想像におまかせします(^^)。

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先見性

 そう言えば、昨日の「クローズアップ現代」で若手作家の台頭について取り上げていましたが、そこで紹介された文体が、ぼくなんかから見ると、明らかに SF 第三世代の影響を受けているように見えるのが面白かったです。

 たとえば、マンガの影響ではないか、という文脈で、擬音語の多い文章を紹介していましたが、ぼくの知る限り、ああいう文体を最初に使ったのはたぶん夢枕獏さんだと思うのです。また、一人称を多用した文体も紹介されていましたが、ああいう文体を最初に使ったのはたぶん新井素子さんじゃないかと思います。

 そう言えば、新井素子さんが 16 才で某 SF 雑誌の新人賞で佳作をとったとき、強力に推す星新一氏と、「これは小説の文体ではない」と言って反対する他の選考委員の間で大激論になったのは有名な話ですが、そういう意味では、星さんというのは、ものすごい先見性があった人なのかも知れない、と改めて思いました。これ、1978 年の話ですからね。

 昔、新井さんの「絶句」という小説を読んだときには、かなりムチャクチャな小説(悪口に非ず)でホントに絶句しそうになりましたが、今の「ライノベ」とか見たら、もっとムチャクチャなのがいくらでもありますもんね(^^)。時代は変わる。

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e-Tax 見送り

 今年は e-Tax で申告しようかと思っていたのですが、なんか意外と面倒臭そうだし、今からでは間に合いそうもないので、去年と同じく「確定申告書等作成コーナー」を利用することにしました。

 しっかし、なんでこんな面倒なシステムになってしまうのかなー。どうも、少しでもユーザーにとって使いやすい便利なシステムを開発しようという気がそもそもない、としか思えないのですが(^^)。しょーがない、来年はもっと早目に準備しよう(^^)。

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Too bad!

 なぜか、「英語でしゃべらナイト」にギター侍が出てて、パックンの協力で、ブッシュ大統領斬りのネタを英語でやってました。

 それによると、「言うじゃな~い」は「He says, you know?」、「残念」は「Too bad!」だそうです。「斬り」はなぜかそのまま「Giri!」。ギャグとして成立しているかどうかは謎。

 なんか、アメリカへ行って、英語でアメリカ斬りのネタをやりたいとか言ってました。そういえば、長井秀和氏も似たようなこと言ってましたね。

 お笑いの人にもこれだけの志があるのですから、論壇にも、Foreign Affairs とかにバリバリ投稿して世界世論を変えてやるぜ、みたいな人は出てこないのですかねえ。日本の中だけでこちゃこちゃアメリカの悪口とか言ってても、なんかちーさいぞ(^^)。

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ジャーナリズムの未来

 また堀江氏ネタで恐縮ですが(今回の顛末はどうあれ、この人のおかげでいろんなことを考えさせられたことだけは感謝しないといけないでしょうね(^^))、彼が言ってる「無色透明なジャーナリズム」ってのはどうなんでしょうね。

 もちろん、ジャーナリズムの役割が変わってくるのは確かだと思うんですよ。特に、これまでのジャーナリズムの存在意義は、まずは一次情報の収集にあったと思うけど、インターネット時代には、一次情報なんて、(堀江氏もやっているように)当事者や関係者自身が自分で発表できちゃったりするので、わざわざ収集する必要が少なくなってくるのは確かでしょう。

 でも、そのように一次情報が氾濫すると、逆にエディターシップの重要性が高まってくるので、これからのジャーナリズムは、むしろそっちの方に存在意義を見出していくのではないかという気がするんですけど。それも、単に情報を分野別に分類整理するなんてことは、ある程度自動化できるようになってしまうので、独自の価値観を持った人間にしかできない、より高度なエディターシップが求められるようになるのではないでしょうか。

 また、情報のチャンネルが増えると、公正中立な報道を目指す、ということの意味も変わってくるはずですよね。もちろん、まったくのウソはどっちにしろいけないんだけど、取り上げ方が片寄ってる、みたいな批判は、チャンネルが限定されていた時代の産物で、チャンネルがたくさんあれば、ユーザーが自分でいろんなチャンネル比較してバランスをとれるので、そういう批判はあまり意味をなさなくなってくるはず。

 堀江氏は、自分で情報を見て判断すればいいというけれど、そりゃ、ぼくも自分の専門分野についてはそうしてますけど、他の分野については、いちいちそんなことしてるヒマなんかとてもないですからね。堀江氏同様、ぼくも新聞はとっていないのですが、日垣隆氏のメルマガとかには金を払っています。それは、一次情報を得るためと言うよりも、むしろ、日垣氏のエディターシップを評価しているからです。堀江氏が既存のジャーナリスムに不満を持っているのは、エディターシップが存在することに対してはなく、むしろ、そのレベルが低いことに対してじゃないんですかねえ。そういう不満なら、ぼくにもありますし(^^)。

 さらに、高度なエディターシップを前提にすると、一次情報の収集という作業にも、また別の意義が出てきますよね。つまり、情報の山を、なんらかの問題意識で切り取れば、いわゆるミッシング・リングになるような部分とか、あるいは、他の情報と照らし合わせると信憑性の低い部分が出てくるはずです。そういう部分の情報を収集するとか、裏トリをするとかっていうのは、問題意識をもたずに、ただ漫然と情報を集めていてもできることじゃありませんからね。

 ですから、ぼくはむしろ、今後のジャーナリズムは、無色透明とは真逆の、それぞれ独自の視点を持った高度なエディターシップを前提としたものに変わっていくんじゃないかと思うんですけどね。いわば、新聞型から週刊誌型に変わっていくというか。また、そうでないと生き残れないでしょうしねえ。

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ひえっ

 全然知らなかったけど、こんなことがあったのね。すごいな~、太田光。

 こないだ、秋元康氏かなんかと話してて、「昔ホされてトラウマになった」みたいなこと言ってなのにな~。どこがやねん(^^)。

 でも、このどこまで計算しているかわからないというか、ときどき本気で暴走してしまうところが、太田光の魅力であるのも否定できないんだよね~(^^)。

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消費は大事だよ

 経済関係のニュースでは、消費しょーひと簡単に言うけれど、実は、経済の中でも一番よくわかっていないのが「消費」なのではないか、という気がします。

 門外漢がこんなことを言うと、専門化の方に怒られるかもしれないけど、確かに、経済学では、人間の消費に対する好みを表す「効用関数」というものを設定するのだけど、これは、最終的には消去される補助線のようなものだという気がします。

 つまり、こういう効用関数を仮定すると、こういうモデルが導けます。このモデルは、現実のこのような現象をうまく説明しています。よくできました、ちゃんちゃん。という感じで、本当にその効用関数が正しいのかとか、人間性とどのような関わりがあるのかとかは、それ以上追求されていない感じがするんですよね。

 おそらく、人間の「価値観」というもっと扱いにくい概念を、そのようにブラックボックス化できたことが、社会科学の中で経済学が最も成功した理由に違いないのですが、それだけに、「消費の意味」みたいなことを考えるときに、経済学の本は意外と役にたたない気がします。

 そういう意味で、ぼくが最も影響を受けた消費論は、今もって、山崎正和氏の「柔らかい個人主義の誕生」で、世代的になんとなく悪いイメージを持たされていた「消費」に、「生産」と同じぐらいの意味がある、ということをぼくに教えてくれた本です。ただ、これもいい加減古い本なのに、いまだにこれを超えるような論考が見当たらない(ぼくが知らないだけかもしれないけど(^^))、というのが個人的にはちょっと物足らない。

 糸井重里さんなんかも、よく、「消費のクリエイティブ」とかいってるので、ひょっとしたら、これと似たようなことを考えていらっしゃるのではないか、という気がします。ただ、この人は忙しい人なので、なかなかまとまった論考を発表してくれないんですよねー。「インターネット的」みたいな本をまた書いてくれたらいいなあ、と思っているんですが(^^)。

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ぶりっこ疑惑

 フジテレビの日枝会長は、「インターネットがテレビに取って代わることなどあり得ない」みたいなこと言ってましたが、ほんとにそんなこと思ってるんでしょうかねえ。ぼくには、とてもそうは思えないのですが。

 たとえば、4th MEDIA みたいに、セットトップボックスとテレビをつなぐだけで番組を見られるという状態になったら、ユーザーは、途中のメディアが地上波だろうがインターネットだろうが、別に意識しなくなって、とにかくコンテンツが面白い方を見るだけだと思うんですよね。その上で、i-mode みたいに、勝手サイトならぬ、勝手放送局みたいなのにも接続できるようになって、課金システムまで整備されたらどうなるか。

 民放の経営は基本的に広告料で成り立っているわけですから、インターネット放送に時間をとられて地上波番組を見る時間が少しでも減れば、その分広告料が減り、広告料が減れば、番組にかけられる予算も減り、予算が減れば、番組はその分つまらなくなり、番組がつまらなくなれば、その分さらに地上波番組を見る時間が減るという悪循環に陥ります。

 こういう流れは、最初は微々たるものでしかないでしょうが、徐々に加速していって、どこかで一気にフェイズ・シフトが起きるんじゃないでしょうかね。そして、いったんフェイズ・シフトが起これば、広告料が地上波テレビ局にだけ集中するという構造はなくなって、テレビ局主導の時代から、コンテンツ製作者主導の時代に移行するでしょう。

 だから、そのフェイズ・シフトが起きる直前までは、コンテンツを地上波だけに出し惜しみして時間をかせいでおいて、フェイズ・シフトが起きた瞬間に、コンテンツ中心の新しいビジネスモデルに移行して、インターネット放送界のトップになろうとしているのが、実は日枝会長じゃないかという気がするんですけどね。

 だって、日枝氏はこんなこと言ってるんですよ。(出典はこちら

  • 「インターネットは最大の脅威になりつつある」(日本経済新聞 2000年4月25日)
  • 「メディアを押さえなかったら、コンテンツをいくら作ってもダメ。蛇口を押さえないと番組を作っても流せない」(週刊東洋経済 2000年4.29-5.6号)
  • 「私は社内に対し、放送も通信に打って出ようと言っている。打って出ないと勝てない」(週刊東洋経済 2000年4.29-5.6号)

 もちろん、逆にその程度のことを考えてなかったら、経営者として失格だと思いますし、フジテレビの会長にまでなった人が、そんなに無能だとはどうしても思えないんですよね。だから、どうもテレビを見てるとぶりっこを演じているように見えて仕方ありませんが、それを非難する気はまったくありません。ただ、それほど同情する気にもなれない、というだけで(^^)。

 だって、別に、インターネット時代になったって、コンテンツ制作事業そのものがなくなるわけじゃないし、そういう意味では、全体として失業者が増えるわけでもなんでもないんですからね。第三者としては、競争が公平に行われてさえいれば、よりよいサービスを提供してくれる方を支持するだけのことで、それ以上でも以下でもありません。

 どっちでもいいから、早くインターネットで見たいものがいつでも見れる体制を作ってくれ!(^^)

付記:毎日インタラクティブを見たら、こんな言葉ものってました。

「ネットがテレビをのみ込むんじゃなくて、(将来的には)テレビがネットをのみ込むんだと思う。テレビは最も大衆に近いメディアだから。 」

ね。やっぱりこれが本音なんですよ。この場合の「テレビ」というのは、地上波というメディアのことではなく、「テレビ番組」というコンテンツのことでしょう。要するに、コンテンツ制作での優位性を利用して、インターネットの世界でも頂点に立ちたいと思っているんでしょう? ぼくもその通りだと思いますよ。だから、両方とも必死なわけでしょ(^^)?

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時間は非情である

 池田信夫氏のブログにこんな記事が。「AMラジオに未来があると思っているのだろうか」というのは、池田氏らしいきつーい言い方で、引く人もいると思うけど、でも、重要な指摘だと思います。

 たぶん、堀江氏には、ラジオ事業そのものを発展させようという気など、はっきり言ってほとんどないと、ぼくも思います。そういう意味では、「愛情が感じられない」という指摘は、その通りでしょう。彼が考えているのは、テレビ+ラジオ+インターネット全体でバランスをとっていくことでしょう。もちろん、既存株主の利益は、最終的には株式交換かなんかで担保する気なのでしょう。そういう意味では、堀江氏は、放言しているように見えて、意外と考えてしゃべっているようにも思えます。

 もちろん、これが、純粋にテレビやラジオの仕事が好きな人にとっては、受け入れがたいことだというのはよくわかります。また、堀江氏の手腕のほども、まだまだ未知数です。けれども、ひょっとしたら、10 年 20 年たったら、買収された企業のほうが、早めに買収されておいてよかった、と思うような未来があるかも知れません。実際の買収の顛末はどうあれ、放送業界の人は、そういう可能性についても、この機会に少しは考えておいたほうがよいのではないか、という気もします。

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あのー

 Asahi.com さんの「株価を意識した経営」というコラムについて、どーしても一言言いたくなりました。別に、朝日さんに恨みがあるわけじゃなくて、今後も朝日さんにはリベラルの守護神としてがんばっていただきたいと思っているのですが(皮肉じゃなく)、なんか、経済関係の記事については、どーかと思うものが多いので。。。

 この記事では、

一方古い体質の経営や経営マインドでは今の世の中、もう通用しないことも意味しているように思える。

と言っていて、その認識自体は正しいと思うのですが、その後こう書いています。

 これからは株価を意識した経営が一層重要である。例えば多額の資本剰余金を持ち、かつ十分収益をあげているにもかかわらず、わずかな配当しかしていない企業が数%でも配当を増やせば、個人預金から株式への資金シフトが起き株価も上昇し、配当を受け取った株主は消費へも金を回し、経済にとってもプラスに働こう。この影響で金利も上昇するかもしれない。

 でも、ぼくに言わせれば、こういう、配当と金利の関係で企業価値を捉える認識がすでにして古いのです。これは、ぼくだけの勝手な意見じゃなくて、(前にも書いたことがあるのですが)最近の金融工学をふまえたファイナンス理論の本を見れば、そう書いてあるはずです。

 要するに、市場が効率的で企業価値を正しく評価するなら、配当せずに内部留保すると、確かにインカムゲインは減りますが、その分株価が上がってキャピタルゲインが増えるので、株主は損も得もしないのです。

 ですから、配当するかしないかは、単なる利益の還元だけではなく、その利益を効率的に運用できる投資案件があるかどうかで決めるべきなのです。つまり、成長期にあって、投資案件がたくさんある場合には内部留保すべきですし、逆に、安定期に入って、投資案件がない場合には配当すべきなのです。

(なんか、偉そうに書いてますけど、こんなの常識だと思うんですよねー。正直、書いてるほうも恥ずかしいです(^^)。もし、奥村宏さんの本とかしか読んでないのだったら、その後の金融工学の本も、少しは読むべきだと思いますよ。)

 ご指摘の通り、企業の買収と言うのは、市場の評価と、買収側の評価の間にギャップがある場合に起こります。したがって、無意味な買収劇を避けるには、市場の評価がより適正である必要があります。ですから、朝日さんにも、そのへんをもっとしっかり啓蒙してただきたいと思うのですが、いかがでしょうか。

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好感度アップ

 宮台真司氏が、ブログにこんな記事を。思わず目を疑いました。

 

■事件後の95年6月、オウムに惹かれる若者を論じた「終わりなき日常を生きろ」を出しました。主題は成熟社会の「つまらなさ」です。でも当時の僕は、問題の深刻さを見通せていませんでした

 

■90年代前半から拡がる「ブルセラ・援交」の子たちに僕は「軽々と生きる」新世代の可能性を感じました。社会の流動性が高まっても、「やりようで」若者たちが感情的安全を得られると思いました。

 

見込み違いでした彼女らの多くは、疲れ、メンヘラー(精神科に通う人)になりました。人づきあいが苦手というより、つまらないから退却するタイプの引きこもりも増えました。僕は、成熟社会のつまらなさの問題をより深刻に受け止める必要に迫られました。流動性の高いコミュニケーションが与える殺伐さをどうするかです。この10年でそれが明瞭になりました。

あのプライドの高い宮台氏が、こんなに率直に自分の見込み違いを認めている文章を、私は初めて読みました。やはり、年齢を重ねることにより、心境の変化があったんでしょうかねえ。

 今まで、宮台氏の本は、数冊読んだだけで敬遠していたのですが、これを見て、また読んでみようかという気になりました。もともと、能力はすごくある人で、ただ、性格的にちょっとひねくれているのが玉に瑕、という感じだったので、一皮剥けたら、(さらに)すごい思想家になるかもしれません。

 本人が見たら、失礼に感じるかもしれないので、あえてトラックバックはしません。偶然見つかっちゃったら仕方ないけど。生意気ですみません。

追記: この記事にリンクしてくれた方(http://erka.jugem.cc/?eid=290)がいらっしゃったので、少々補足しておきます。その後、彼の著作を何冊か読み、丸激トークオンデマンドなどでも彼の話を何度か聞いたぼくの暫定的な結論は、やっぱりこの人の言うことは信用ならない、です(^^)。彼は結局いつも思いつきでもっともらしいことを言ってるだけで、しかも言うことがコロコロ変わります。それだけならまだしも、変わったことに対する自己批判がないから、彼の発言のどの部分を信用してよいかもわからない。

ぼくが丸激を見ているのは、他のメディアにはあまり登場しないゲストが出てくるからであって、宮台氏の見識を評価しているからでは残念ながらありません。彼の支持者は、いったい彼の発言のどこに価値を見出しているのか不思議でなりません。まあ、たまにはマトモなことも言いますが、それは彼でなくても言えるようなことばかりですし。そういう意味で、彼の言説に実用的な価値はほとんどないというのがぼくの現在の評価です。

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これはなかなか

 フジ対ライブドアについて、毎日インタラクティブこんな記事が出ています。これは、ぼくが今まで読んだ中では、一番重要なポイントを押さえた記事だと思います。学芸部の記者さんなのに、経済のこともよく勉強しているみたいで、ぼくなんかが言うのもなんですが、えらいです。

 特に、

 「放送と通信の融合」と放送局幹部が言う場合、収益構造や制作システムは今のままで、ネットと連動した商売をするという意味でしかない。しかし、衛星放送やネットの世界では、より細かな視聴者ニーズに向けて格段に低いコストで番組を作っている事業者たちがひしめき合っている。本来の意味での「融合」は放送局に、優越的地位からの脱却と制作費や人件費の大幅削減を含む抜本的な経営改革を求めることになる。

というのは、このブログでも遠まわしに言及してきたけど、重要なポイントだと思います。

 つまり、はっきり言って、放送局が本格的にインターネットに進出しても、必ずしも得にならないばかりか、むしろ、既得権を失って自分で自分の首を絞めることになる可能性が高い。だからぼくは、放送局が自ら進んでそういう道を選ぶかについては、非常に懐疑的でした。たぶん、もし選ぶとしても、失った既得権以上の売り上げや利益を、インターネット業界でも得られる場合だけなんじゃないでしょうか。

 つまり、もしテレビ局が本気でインターネットに進出しようとするなら、テレビを握っているという優位性を十分に生かしつつ、少しずつコンテンツを小出しにしながら、インターネット事業での利益を増やしていき、インターネット事業だけでも放送事業と同等の利益と雇用を確保できる、という見極めがついた時点で一気にシフトする、というやり方をしたいはずです。

 でもそれは、最初からインターネット業界でやっている方から見れば、「じょーだんじゃねえよ、後から来た奴にそんなに美味しい所ばっか持ってかれてたまるかよ」っていう話なんですよ。しかも、「自分の本業は法律で保護されてるくせによ」みたいな。

 つまり、放送業界からはインターネット事業に参入できるが、インターネット業界からは放送事業に参入できない、という状態で、テレビ局のインターネット本格参入を許してしまえば、イコールフッティングでないハンデ付きの競争になってしまうわけで、これだって相当アンフェアなんですよ(どうも、多くの人は、この不公平さを過小評価してるように見える)。だから、むこうがそうくるなら、先手を打ってファウルぎりぎりのプレイででも反撃してやるぞ、という発想が出てきてもおかしくないと思います。

(ついでに言えば、ファウルぎりぎりのプレーは、ブーイングの対象にはなっても、ファウルそのものではありません。ブーイングがあるからと言って、ファウルぎりぎりのプレーをファウルにしてしまえば、ルールはメチャメチャになってしまいます。)

 だから、そういう仁義なき闘いを避けるためには、放送局側にも、放送事業とコンテンツ制作事業を切り離して、たとえ放送事業では損することになっても、コンテンツをインターネットを含めて幅広く解放し、コンテンツ事業で元をとっていく、という態度が必要だと思うんだけど、はてさて、現在の放送局に、そこまでの度量があるかどうか。見守っていきたいと思います。

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ご都合主義的伝統

 自民党の憲法改正案に「日本の歴史や伝統の明確化」を盛り込もうという話になっているらしいのですが、この「伝統」という言葉はどうも曲者で、かなりご都合主義的な使い方をされる傾向があるようです。

 たとえば、欧米の制度を取り入れるかどうかを検討する際に、それは日本の伝統に合わない、と言って反対する人は、伝統というものを、完全に理性的にはコントロールできない、暗黙知的なものとして捉えているわけで

伝統 > 制度

という立場に立っているわけですよね。

 逆に、憲法で伝統を明確化しようという人は、伝統は制度によって理性的にコントロールしうると考えているわけで、

伝統 < 制度

という立場に立っているはずです。

 ところが、いわゆる保守派伝統主義者の中には、この両方の主張を同時にしている人が少なくないようです。

 もうちょっと用語法を整理して、仮に、社会に昔から受け継がれてきた知の中で、理性では完全に制御できない暗黙知的な部分を伝統と呼ぶことにしたとすると、もちろん、実際には伝統に合った制度を設計するというのは大事なことだし、逆に、制度によって伝統が影響を受けるということもあります。

 しかし、制度が伝統の内容自体を直接規定するというのは自己矛盾であって、制度に規定された伝統というのは、もはや、ここで定義したような意味での伝統ではなく、純然たる制度にすぎなくなっているわけです。したがって、その採用の是非には、あくまでも制度的な検討が必要なはずです。

 もちろん、大雑把に伝統と呼ばれているものの中には、そういう暗黙知的なものだけではなく、理性的に分析可能な部分もあるはずなので、そういうものを制度に組み入れようとするのは必ずしも間違いではありません。ただし、それは、あくまで合理的に優劣を(伝統との適合性を含めて)検討した上で取り込む、というのでなければ意味がないのであって、伝統という言葉を、そういう検討をしないでごまかすための思考停止の道具として使うのはいかがなものかと思います。

 たとえば、「和をもって尊しとなす」は日本の伝統だから、争わなくても問題を解決できるような制度を作ろう、というのは論理としてもおかしくないのだけれど、日本人は「和をもって尊しとなす」と思わなくてはならない、なぜならそれは日本の伝統だからだ、というのは論理が転倒していて、伝統を守ることだけが自己目的化しているわけです。

 もっとも、伝統主義者の本音は、無理矢理

伝統 = 制度

にしてしまうことによって、理性的な制度によらず、無意識的な慣習だけに従って暮らす社会に回帰させてしまうことなのかもしれません。まあ、そんなことがいまさら可能だとも思えないので、そのプランにはなおさらのれませんが(^^)。

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宮崎駿の原点

 NHK で地味に「未来少年コナン」の再放送をやっていますね。時間的に見づらい時間なので、あんまり見てませんが、なつかしい。

 そもそも、ぼくが初めて宮崎駿という名前を認識したのは、ナウシカでもカリオストロでもなく、この番組でした。それも、最初は、いかにも NHK 的な人畜無害な名作劇場路線だと勝手に思いこんでいて、たいして期待もしないで見ていたのでした。

 ところが、まず、飛行機の羽根に足の指で掴まるというシーンに一撃をくらい、次に、百叩きされたお尻に水をかけたら蒸発するというシーンに追い討ちをかけられ、最後に、ビルの上から飛び降りても足がしびれただけというシーンにとどめをさされたのでした。

 今でこそ神格化されて、エコロジーがらみで語られたりして、その分いろんな批判も受けている宮崎氏ですが、ぼくにとっては、最初からそういう人でした。もちろん、その後の作品も魅力的なのですが、登場人物の生命力という意味では、今見てもこの作品が随一のような気がします(「ハウル」は未見)。 

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がんばれ、古館さん

 鳴り物入りで始まった「報道ステーション」も、気がついてみたら、後1ヶ月ほどで1年になろうとしていますね。

 考えてみると、こういう時代のニュースキャスターというのは、そうとう難しい仕事だろうと思います。中途半端に知識人ぶろうとしても、すぐ見透かされてしまうし(見透かされないためには、最低でも日垣隆氏クラスの読書量と調査能力が必要)、逆に庶民派ぶろうとしても、たいていのことに意見が一致するような、古きよき「庶民」などという階層はどこにもおらず、いるのは掴み所のない群集だけという時代。

 その点では、久米氏が「ニュースステーション」を始めた時代はまだ楽だったろうと思います(もっとも、また別の点で苦労があったでしょうが)。55 年体制は揺るぎようのない壁として立ちはだかっており、ちょっとぐらい無責任な意見を言っても、それが本当に採用されたらどうしよう、などと心配する必要もない時代。文化人は権威によりかかっていられたし、庶民の代弁者を気取るのも容易だった時代。そのような、ある意味で古きよき時代の終わりとともに、久米氏はキャスターをやめ、そのバトンを受け取ったのが古館氏だったわけです。

 実は、ぼくは古館氏に対してちょっとやましい気持ちがあります。古館氏が放送局をやめてフリーになったとき、ぼくは氏のことをただのプロレス中継の絶叫司会者としてしか認識しておらず、どうせすぐに潰れるに違いないと思っておりました(若気の至りです)。ところが、氏はいつの間にか絶叫とは対極のソフトな語り口を身に付け、売れっ子バラエティー司会者に変貌していたのです。このときぼくは、古館氏が、一見ケレンに見えて、実は地道に自分のスタイルを作っていく努力家であるということと、人のことを安易に決め付けてはいけないということを学んだのでありました。

 そんなわけで、「報道ステーション」の古館氏は、まだまだスタイルを模索中に見えますが、そのうちきっと新しい時代のニュースキャスター像を生み出してくれるだろう、とぼくは(罪滅ぼしもかねて)期待しているのであります。

 個人的には、河野アナにももっと活躍してほしいですね。ぼくは、ニュースステーション後期の渡辺真理さんのボソボソっとしたつっこみが結構好きでした(あれはきっと久米氏と打ち合わせてやっていたに違いない)。河野さんはああいうキャラでないのはわかっていますが、もうちょっといろんなところにからんでいってもいいのではないでしょうか。たとえば、古館さんが意表をつくことを喋ったときに、加藤さんが返答に困って黙ってしまうことがよくありますが、ああいうときに河野さんがからんでいくと、雰囲気がよくなるかも。。。なんて、そんなことは、専門家のみなさんが、とっくに考えているでしょうけどね。素人の勝手な意見ですみません(^^)。市川さんもかわいいです(ファンレターかい(^^))。

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闘いと仁義

 市場経済というのは、確かに競争でもありますが、それは、社会全体のパイを大きくするという点においてのみ正当化されるわけだから、なんでもありというわけではありません。わかりやすく言えば、自分が前に出ようとするのはいいけど、単なる足の引っ張り合いはいけない。それでも、競争である以上は、すべての利害が一致するわけはないので、妥協なき闘いをしなければいけない局面も当然出てきます。

 フジ対ライブドアの対決において、フジ側は、「人間関係は金で買えない」という、ある種道徳的な主張をしていたわけですが、フジテレビがニッポン放送(あるいはポニーキャニオン)へのコンテンツ供給を打ち切ると言った時、あれーと思ったひとは多いと思うんですよね。だって、たとえライブドアが支配株主になったとしって、現場で働いている人が総入れ替えになるわけじゃないんですよ。なのに、それだけでこれまで築いてきた信頼関係がいきなり完全消滅するわけないじゃないですか。だったら、ライブドアの入っていない株主総会で取締役が更迭されても、やっぱり取り引きを打ち切るんですか? っていう話になってしまいますよね。だとすれば、それは結局、ライブドアと同じ「資本の論理」にすぎないじゃないですか。

 言うまでもないことですが、もともと、「人間関係を大切にする」という論理は、一歩間違えれば、「コネのない奴は、たとえ実力があっても排除する」という論理になりかねない面があるわけで、フジ側が「人間関係は金で買えない」みたいなことを言ったとき、多くの人は、その点こそを注視していたはずです。にもかかわらず、フジ側は、結局はよそ者排除としか思えないようなことを、平気でやってしまった。

 ぼくはもともと、放送業界とインターネット業界の利害は完全には一致しないのだから、旧 NTT に対する NTT DoCoMo みたいなのができないと、インフラの移行はスムーズに進まないんじゃないかと思っていたのですが、今回の事件は、結果としてそういう想像を裏付ける方向に進んでいるように見えます。つまり、フジの社長は、金づくでない話し合いには応じるようなことを言っていますが、堀江氏から見れば、これは最初から仁義なき闘いだったのではないか、という気がしてくるのです。

 まあ、ぼくもこういう愉快でない想像が当ってほしいと思っているわけではないので、フジさんが自分で言うほど「公益性」を考えているならば、たとえば、「トレソーラ」を通じてのコンテンツ供給などを、もっと積極的に進めてほしいと思います。今後も、どちらが正しいと簡単に決めずに、じっと見守っていますので(^^)。

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