« 「べき」にもいろいろあるはず | トップページ | 中東停戦合意 »

「正しい日本語」は手段にすぎない

 いつの時代もそうなのかも知れませんが、最近また、「日本語の乱れ」が少し話題になっているようですね。

 言葉にはもともと、進化が必要という面と、共有が大事だという面の両面があって、言葉の問題というのは結局、この両面に向かうベクトルをどうバランスするかという問題だと思うのです。

 もちろん、言葉と言うのは、世の中の現象を記述する道具ですから、世の中の変化に合わせて変化させる必要があるのは当然です。その一方で、いまさらソシュールとかをひっぱり出すまでもなく、言葉というのは恣意的な名前にすぎないので、それが通じるのは、多くの人が言葉と意味の結びつきを共有しているということだけにかかっているわけです。したがって、共有を図る努力を継続しなければ、道具としての有効性も薄れてしまうんですよね。

 これは、ソフトウェアにも似たところがあって、機能はバージョンアップの度に増やしたいのですが、そのせいで以前のバージョンとの互換性がなくなってしまうと、既存のユーザーから見ればかえって不便になってしまうという問題があります。

 ソフトウェアの場合には、この問題を通常、上位互換性の維持という形で解決します。つまり、既存のユーザーに対して、新しい機能の恩恵を受けられない可能性はあるが、少なくとも、これまで使っていた機能が使えなくなることはない、ということを保証するわけです。そうすると、既存のユーザーから見ても、バージョンアップしても(料金以外に)損をする心配はなくなるので、後は、新機能がバージョンアップ料金に見合うかどうかだけで購入を判断できる。そうやって、ユーザーにできるだけスムーズに自分の意思でバージョンアップしてもらい、大部分のユーザーがついてきたことを見計らって、旧バージョンを廃止する、というやりかたをするわけですね。

 「どうせ言葉は変わっていくものだから」というような意見にやや不足していると思われるのは、このような共有を大事にする方のベクトルだと思うのです。

 ぼくが以前に紹介した「女子高生」というマンガを初めて読んだときにも、中に出てくる言葉がさっぱりわからなくて、インターネット上のコギャル用語集みたいなものを調べながら読まなければならなかったのですが、自分の若い頃の経験からしても、おそらく、喋っている方は、自分の言葉がそのように一部の人にしか通じないものである、ということをあまり意識していないと思うのです。

 実は、本当に問題なのは、「何が正しい日本語か」ということよりも、この一種の排他性というか、自分の言葉をより多くの人に正しく伝えたい、という意識の欠如だと思うんですね。

 もし、そういう意識があれば、自分の仲間内以外の人や、不特定多数の人に向かって話をするときには、より多くの人が理解できる言葉で話そうとするはずで、その結果、必然的に「正しい日本語」とされる表現を参照する必要もでてくるはずです。また、新しい言葉を導入しようと思ったときにも、性急に一人よがりでやらずに、多くの人がついてこれるかどうかを確認しながら、少しづつ導入しようとするはずです。また、そういう意識があれば、過去の言葉も、それぞれ時代の要求にこたえて登場し、歴史の淘汰を受けつつ生き残ってきたものなのだ、という事実を正当に受け止めることができるでしょう。

 逆に、日本語の乱れを批判する側にも、そういう意識があれば、仲間内の他愛ないバカ話にまでいちいちケチをつけて煙たがられるというようなこともなくなるでしょう。

 結局、進化と共有のバランスをとるために必要なのは、そういう意識なのであって、「正しい日本語」はそのための手段に過ぎません。その点を押さえておかないと、言葉の議論は不毛な議論になってしまうと思うのです。

|

« 「べき」にもいろいろあるはず | トップページ | 中東停戦合意 »

哲学」カテゴリの記事

文化・芸術」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/67762/2848272

この記事へのトラックバック一覧です: 「正しい日本語」は手段にすぎない:

« 「べき」にもいろいろあるはず | トップページ | 中東停戦合意 »